最後の告解 | ナノ



食事を終えて席を立とうとするや、太宰に右手を押さえつけられることで留められた。

当然のこと、小林の力量であれば払い退けるなど造作もない。然し乍無理強いを無理強いで返すは小林の性分に些か悖る。少し浮せた腰を下ろし、多少の抵抗として、食器下げたいんだけど、と太宰に云うも、どうせ直ぐ誰かゞ勝手にやるよ、と返された。事実、徳永が太宰と小林の皿をさっさと持って行って仕舞った――ホラ二人共早よ行かんね、太宰が仄めかしてゐることゝは全く反対の意味合いの科白を残して――然り、小林は食事を終えたら向おうと思ってゐた処があった。察するに、太宰は其れを識ってゐる。

「急ぎの用でもあるのかよ。」
「……まあ、約束はしてないけど。」
「つまり、潜書ぢゃないんだ。個人的な訪問ってこと?」
「……。」
「仕事ぢゃないんなら、俺も着いてって良いよな?」
「――其れは、」
「解り易いな御大。其れでもお前――、」

否何でもない、不自然に言葉を切った太宰は太宰で、小林の返答なぞほゞ聞き流し乍、押えたの手をぢ、っと見詰めてゐた。背丈からして二寸程劣ってゐるのだ、成程手も大きい。注視に依って会話を放棄した太宰に辟易したのだろう小林は逃るゝを諦め、然し居心地の悪さは隠し切れぬ儘、沈黙の中で右手を太宰に委ねた。太宰は押えてゐた左手で小林の右手を持ち上げ、空いた右手で小林の右手指を抓んだり折り曲げたりなどする。まるで初めて手にした玩具の使い方を探しあぐねる童を彷彿とさせた。

「そんなに――珍しいか。」
「そうだな。使徒の手なんて滅多と触れやしないし。」
「……皮肉か、」
「譲歩だよ。」

使徒とは飽く迄である。畢竟、小林を使徒と喩うならば彼の師は神などで
はないと――小林が抱く敬意は蔑ろにはしないが認めるつもりもないといった処か、解り易いようで解り難い。否定を徹底しないのか、出来ないのか、するのが怖いのか。

己を否定されるのは怖い。自分が如何なるかではなく、否定をするが為徹底的に研ぎ澄まされ冴え尖った殺意を何の躊躇もなく振り翳す人間達が。

「此の手はさ、」
「何だ。」
「師を裏切ることも、師に裏切られることもないんだろ。」
「神か如何かは置いておいて?」
「意外だな。言葉遊びとか水掛け論に乗っかる奴なんだ、お前。」
「そうでもしないと解放して呉れないだろ。」
「……。――『選ばれてあることの恍惚と不安』。流石に識ってるよな、ヴェルレーヌの方は。」

太宰の言に小林は僅か目を細めた。太宰が諳んじたものは、ポール・ヴェルレーヌが詠った詩の一部であり乍、太宰が作品に引用したものでもある。試してゐるのか、自身の作品を識ってゐるのか如何かを――其れだけで自身を理解される度合いを量る肚か。何れにせよ阿る必要などないのに、小林は双方を識ってはいたが、何方とも取れ、何方とも取れぬよう努めて顔に表情を乗せず浅く肯いた。太宰は心の裡を読まれたことに気づいたのだろう、まあどっちだって良いけど、棄て鉢に呟いた。

「選ばれた此の手は、何処迄識ってるんだ?」
「何を、何の。」
「お前が愛する、俺が憎む奴のことだよ。お前を選んで、お前を棄てなかった奴。」
「其れは――、」
「……。まあ、爪はこまめに切っといたほうが好いぜ。」

唐突に妙なことを云う、疑問を抱いたのはほんの寸時、意味を理解した小林はばっ、と勢い強く顔を上げた。己がどのような表情をしてゐたかは想像も出来ぬ。其れ程に太宰の宣った科白は師にも自身にも余りに屈辱であったが為――其れでも怒号が口から飛び出さずに済んだのは、ずっと手に注がれてゐた太宰の視線が小林を真正面から捉えてゐた御蔭と云えよう――嫉妬と悲愴に暮れ、砕けんばかりの力で歯を噛み締める太宰が其処に在った。らしからず竦んで息と声とを呑んだ小林だが、対し同時に太宰の苛烈を極めた表情は憑き物でも落ちたかのようにふ、っと掻き消える。

「……何を、勘違いしてゐるか識らないが――俺とあの人は、あの……そう云う、」
「そう成りたいとは?」
「俺は、……俺の此の手は、銀貨三十枚を貰う為にある訳ぢゃない。俺は、敬意と羨望を、愚直に注ぐことしかしない。弟子の域から飛び出すなんて裏切りは、絶対にない……俺の、人生に於いて。」
「随分歯切れ悪い云い訳だな。」

鼻で笑う太宰を見た小林は、何処か彼の其の態度と心胆とが喰い違ってゐるように感ぢられた。先程ほんの一瞬見せたあの顔を作った感情、其れが肚の底で今にも煮え滾り焼け焦げようとするのを懸命に冷してゐるような――其処で小林は思い出す、引き合いに出した一節を。

「……だったら、アンタは俺の手に、如何在って欲しいんだ?」
「別に。」
「先刻の引用は何だ。」
「あれは、」
「誰とは訊かない。だが、選ばれたいんだろ? 其れ、を思って、恐れてる。アンタ自身の為ぢゃない、アンタの思う誰かの為に。」

太宰は黙した。悪手、愚策、何たる短慮――己が声をした罵声と嘲笑が脳内に響き渡る。此処迄小林に明かす必要はなかった。去ろうとする手を引き留めたのは、嘗て其の指総てを権力に折られ、其れを原因に数多の文士の筆と心をも折り、今尚戦い続け書き続ける勁さが理解に及ばない、良くも悪くも如何云う積りだ、と思った所為だった。太宰が触れた小林の手は当然のこと、人の、文士の手であった。ペン胼胝を除いて、誰にも何にも侵されてゐない手だ。其の手に――前の生にて小林を殺した人為的災禍が残ってゐないことに、心底安堵して仕舞ったのだ。あの時代に生きた文士で彼の死に衝撃を受けなかった者は居らぬ。幾度と自ら死に呑まれそうになった自分とて例外ではなかった。

彼の手が、在る。安堵して仕舞った。喜んで仕舞った。――識ろうとして仕舞った。其の結果、此のざまだ。

「……若し俺が、お前の云う選ばれたい誰かに選ばれたとしたら。お前は俺を如何思う?」

僅か憔悴が滲む太宰の声音を聴き、小林は考えた。如何でもいゝ、とは何故か思えなかった。特段親しい間柄とは云い難い相手だ。更には我が師と極めて反りが悪い。にも拘らず――矢張り、あの表情が脳裡に焼きついてゐるからだろうか。だとしたら、何なのだ。鍋底を焦がす程に煮詰まらんとしてゐる妬み哀しみ怒りを彼に負わせた根源は。

或いは既に、焼け焦げ炭と堕して仕舞ったと思い込んでゐる?

「――。宥めるくらいはするさ。」

小林の言に太宰は眉根を寄せ、眉尻を下げた。

「浮れ切ったアンタも、怯えて竦むアンタも。程々にしろって云うことは出来る。」
「……どうせ、」
「どうせ口先だけだと思われようと。……出来るさ。」

小林はずっと空いてゐた左手を漸く持上げ、子をあやすように赤い髪を撫で、右手を握る其の手を包んだ。太宰は極り悪そうに顔を背ける。若しかしたら落涙を予想して隠そうとしたのかも識れない。先に掴んでおきながら、離せ、藻掻いて小林の両手から自らの手を解放した。

「手間も手も取って悪かった。鳥渡頭冷やすわ。」

顔を背けた儘太宰は立ち上る。互いの手には互いの体温と、薄い汗が残ってゐた。手を握り合い会話をする二人、とだけ俯瞰すれば其処に発生するのは愛とか云うものを連想するだろう。会話の内容も曖昧乍、愛、に就いてゞあった。只、双方何方からも甘やかなる科白は一切囁かれることはなかった。
其れでも小林は、憶測の域を出ぬにせよ太宰の望む、心身諸共圧し潰す程に恍惚と不安を与えられたいと願ってゐる人間の心当りを、生れ直してからの記憶に加え、先程の希望一欠片もない愛に就いての語らいの中から、捜し出して仕舞った。

気づけば小林も立上り、去ろうとする太宰の左手を――食後よりずっと握り続けてゐた手の一方を、握られ続けてゐた右手を伸べて掴み、歩の進みを阻ませた。僅か振り向いた太宰に、小林は心中に重く漂う正体解らぬ感情に蓋をし乍、声を低め、然し太宰には声も意図も伝わるよう慎重に口を開く。

「アンタが思う人は、アンタにあんな顔させないよ。」
「……あんな顔、」
「地獄の淵を覗いたような、あんな顔――自覚がなくても、俺が云いたいことは解るだろ。」

あの人は、どんな人間も排したりはしない。

小林の科白に太宰は暫時微動だにせず黙してゐた。矢張り小林の読み通り、太宰の思う者はあの人なのだろう。確信を持った小林は自信を得、或いは驕り――俺が保証する、本当だ、どんな結果になってもアンタを追い詰めることはない、小林にしては珍しく矢継ぎ早に畳み掛けた。一頻り考えつく太宰の識らぬだろう師の一面を吐き切った処で、太宰は小林へ向けて振り返る。穏やかな笑顔をしてゐた。

「其れ全部、本当?」
「……其れは勿論、」



造られた仮面を着けてゐるような笑顔であった。

言葉を失った小林から太宰はいとも簡単に手を解き、予定がある筈だったんだろ、ぢゃあな罪な男、そう云い残して悠々と食堂を去って行った。小林は呆然と赤い後ろ背を見送った。

自分の神と太宰の神は違う。小林が誓った処で、太宰にしてみれば何の意味もない。
荒ぶる岩漿を閉じ込め乍平生通りに在ろうと努める、其の苦痛は如何ばかりか――右手をまじまじと眺め、小林は一人思いを馳せる。屹度、此の生涯に於いて永劫忘られぬ面差しを、一人の顔に二つ見た。喜と楽を削ぎ落して凝縮させた、人が疎む感情を全力で露わにした、そして其れに蓋する硬く不自然な笑顔。――何方が太宰の本心かは明白、更に本心を隠したいという意思も又。

「不憫だ。」

太宰の跫が遠く遠く、どんなに耳を欹てゝも聴えなくなったと確認して漸く小林は、溜息とゝもに小さく呟いた。握り合ってゐた右手の汗はとうに乾き切ってゐたが、妙に熱が籠って去ろうとしない。其の時の小林は、自身が何を考え感ぢたのか理解出来なかった。出来ぬ儘にゆっくりと、捕われてゐた右手を握り込んだ。然るに――小林の、そして太宰の体温を無意識下で心身に取り込んだのである。

只人である小林が只人の太宰に抱くことになる、例えば愛とか云う感情の一片が心の裡に零れ落ちたのが、此の時であった。

愛でも恋でも何でも好い。選ばれてありたい、と。











太宰は脇目も振らずに小林の師の居場所を目指して廊下を歩いてゐた。喧嘩を売りに行く訳ではない。質したいことが一つ発生した故だ。
太宰は小林が信ずる神を崇めることは出来ない。此ればかりは如何しようもないのだ。
だが、小林が信ずる、という事実其の物を否定する権利などある筈がないことだけは、弁えてゐた。

――選ばれるか否か以前に、識らなければならぬことがある。

小林の師は司書室に居た。特務司書が又気紛れに模様替えをしたのか、部屋は洋装に設えられ、煉瓦の壁に嵌められたステンド・グラスが陽光を透かして其の色を床に落してゐる。オルガンがないのは残念だが、代わりをアップライト・ピアノが補ってゐると思えば益々此の一室、神が只人の声に耳を傾ける場に見えて来る。

小林の神は太宰の登場にあからさまに厄介だ、と云わんばかりに顔を顰めたが、怒鳴り込むでも掴み掛るでもなく、恐らく初めて真摯な眼差しを向け静かに歩み寄る様子を見、心身共姿勢を改めた。如何した、居心地の悪さと云い様のない胸騒ぎに背筋をぞわりと襲われるのを自覚しつゝ声を掛ると、太宰はゆるりと目蓋を下ろし、胸の前で両手の指を組んだ。

「自分を含めて三人も人を殺した俺に――人どころか世界に殺されたあいつを、愛する権利はあるだろうか。」

祈りを模した告解に、神は屹度、祝福を与えられない。目の前の男が一等、其れを識ってゐる。――神と呼ばれし男も所詮、愛の欠片を抱き締めた只人であった。


×
BLコンテスト・グランプリ作品
「見えない臓器の名前は」
- ナノ -