罪の函庭 | ナノ



#043を愛でる企画投稿文





最早誰も開くことのない、若しかすれば存在をも忘れられて仕舞ってゐる本が在る。永劫世に出る作品ではないだろうことは解ってゐるが、忘れ去られるは畢竟、目に見えぬ侵蝕の成功であり、其処に無知蒙昧なる文士が一人でも関わってゐるとしたら、自分はとんだ罪人だ。親友のように進んで罪を被る程の度胸も勇気もない自覚は大いに憶えがある。さりとて今は彼に近しい感情を、親友の持つ其れの数百分の一にも満たなかろうが確かに、忘却の運命に晒されてゐる本を皆と同じく必要のない、在るべきではない物として記憶の外に放り出そうとは露程も思えぬのである。面倒見が善い処か面倒を見られないと生きてゆけぬ自分にしては、珍しくも恐らくは好い兆候だと思う。

故に自分は、此の本が齎す物総てを罪の味、匂いと捉え、其の渦中にて珈琲と煙草を呑むのである。

とんだ悪童だ、何処迄振り回す積り? カウンター越しに佇み何かしら作り乍ら恨めし気な嘆息とゝもに露骨な釘を刺す久米は、其の態度と裏腹に微か、ほんの僅か、胸を躍らせてゐるのが感ぢられた。さもあろう、少し笑ってから、読書は悪いことに入るのかな、そう返す。僕は好きだよ、此の作品――此の、君の創った世界の片隅、珈琲と煙草が特段旨く呑めるからね。……珈琲は兎も角煙草迄出した憶え――書いた憶えはないんだけど、持ち込める訳もなし。だったら矢ッ張り君が書いたんだろう、一体誰の為なんだろうね? 其れは……まあ、侵蝕者の為に決ってるだろ。本来は文士しか読めない物だというのに、サテ果して獣が呑んでゐるのか否か実に気になる処だ、此れを悋気と云うのかな? 追い出すよ、たかゞ侵蝕者の撒き餌の残骸だとしても此処の主は僕だ、多少の融通は利くんだからね。御免御免、もう少し居させて呉れよ。……何も、こんな処で息抜きしなくても。

中々如何して居心地が好いのは、女ッ気が排除されてゐるからだろうか、そんな邪推が頭を掠める。思い返せば知己の全員が全員女関係で揉めてゐたのだから、若気の、否、人間とは斯くも愚かなるかな――なれば今の生はおまけのようなものか、気紛れに地獄へ蜘蛛の糸を垂れた古の印度の僧が如く――成程罪の味を欲する自分には相応しい。笑って珈琲を啜る。店員の衣装に袖を通してゐる友は気味悪そうに視線を呉れたが、首を振る事で詮索を制した。

潜書には変りないから多少の面倒はあるけれど、本当に僕は此処が好きだ、夜の街の喧騒も好きだけれどね、午下がりの疎らな人通りを眺め乍ら君と他愛もない話を語らえる、或る意味現実よりも生々しい、此処は如何にも愛着が湧くんだよ。時間の概念を書き忘れて悪かったね。君のそういう揚げ脚の取り方も気に入ってゐる、彼等には出来ないだろう、大体が直接的だからね。……あれは頑固って云う質だよ恐らく。久米が云い乍ら笑うので自分も思わず失笑した。自分達が向き合う契機を御膳立てをして呉れたのは正しく山本等なのだが、そんな節介願い下げ、等とは今や口裂けようが云えたものではない。――彼等には其れと識らせず図書館では用済みと相成った書物の中で珈琲を呑む程度には、気を許して仕舞ってゐる。

やゝあって、君には甘味も要るだろ、久米は一皿を眼前の左側へ音も立てず置いた。やおら鼻先に甘い馨が漂う。八等分に切れ目を入れられた、一寸を超えそうな厚さのホットケーキである。次いで、別の小皿に燐寸函の半分程度の大きさに切られたバター二枚と、黄金色をたっぷりと湛えた硝子の蜂蜜瓶が並べられた。表面を奇麗な狐色に焼き上げられたホットケーキに其れは美しく華を添えよう蜂蜜の瓶を取り上げて矯めつ眇めつしてゐる合間に、其れ以上は出せないよ身体に障るだろうからね、幾ら死なゝいって云ったって限度がある、矢継ぎ早に云い乍ら籠に収めたカトラリーが準備された。何だか山本に似て来たねえ君、瓶を卓に戻して云うと、彼や寛に敵う訳がないしこんな噺で争う気にはならないよ、と返される。言外に――否其れこそ直接的にか、御世話係は御免被る、という事だ。

ホットケーキ、僕も半分貰うけど良いよね。良いも何も君が焼いたんだから構わないよ、美味しい珈琲を御馳走して貰った立場――あ。……解ったよ、珈琲のおかわり淹れてからだね、僕も呑もう。久米が自分の使ってゐたカップをソーサー毎受け取り、新たに珈琲を淹れ始める。此の芳しく少し酸味の有る馨さえ彼が原稿用紙に――侵蝕者の撒き餌にされるだけのものだと解ってゐて、久米は原稿用紙に書き記したのかと思うや、其の辛苦は如何ばかりだったろう。自分は慥かに短篇を好んで、或いは長篇を書くのを厭うていたが、だとしても文士は己が生命を削って作品を生み出すのだ。淘汰されるが為に誰が生命を削るなぞするものか。

久米は撒き餌と云った。果して本当にそうなのかさえ解ってゐない。もう必要がないと判断されて書庫の奥へ仕舞われた――果して何を根拠に、誰の判断で? 此の本が世に生れたことで、新たな侵蝕者をも生み出した可能性だって無くもない。其れとも何某かゞ敢えて望んだ選択なのか。
薄ら寒い。文学の奴隷である文士、サテ侵蝕者の奴隷でもあるのか、或いは錬金術の奴隷でもあるのか。

考え込む内、珈琲が新しく用意された。久米の分は己が手前に置いてゐるのだろう。其処で漸う偽りの現実に舞い戻った意識で礼を云うと、蜂蜜の瓶を此方へ押し出された。掛けろというなら遠慮なくいこうと蓋を開け、差してあった硝子の棒で蜂蜜を巻き取ってはホットケーキに掛けを繰り返す。その間久米は、狐色のスポンジに流れ落ち染みてゆく蜂蜜を眺め乍ら――随分脆弱で粘着質な糸だ、と呟いた。

思わず久米へ視線を上げるも、久米は向いに両肘を突き、垂れ落ち続ける蜂蜜の先を眺めているのみであった。とっくに解ってるんだよ、如何褒めそやしても君が此処を、此の本の中を、地獄に類してゐるのを。云われて漸く、前世の通り又しても、自分がうつゝから隠遁めいたことに脚を取られて仕舞ってゐるのを自覚した。言葉を失う間に、掬った蜂蜜は途切れ、雫が重そうに三粒程柔らかな地獄の底へと墜ちた。久米はかの有名な微苦笑ともいえる顔を披露しつゝも溜息を吐き、順番が逆になっちゃったな、と切り置いてあったバターをホットケーキの真ん中に載せた。もどかしそうに遅々と融けゆく脂が白々しい。混ざる気なんて端からないとばかりに――君が助けるなと云うなら助けないけど、久米が其の表面をフォークの先で混ぜ乍ら云う。

少し前の僕なら君の為に動く気等起きなかっただろう、会うことさえ避けてたんだからね、でも今は……永遠の午下りに珈琲を共にする間柄にあって、如何して斬り棄てる事に躊躇わずに居られると云うんだ、嗚呼、君の所為だよ芥川君、僕は此処を地獄にしたって良いと迄考えてゐる……君がそう在って欲しいと思う限り、僕は此処の住人になろう、読者の君が択んで呉れたんだから、其れが作者の責任と矜持だ。久米は激情溢るゝ科白を然し実に淡々と語った。此方が面映くなる程に実に淡々と――久米のフォークは地獄の欠片を刺して掬い上げ、ぼたぼた滴る白く濁った蜜を構わず、大口を開け喰らい付くように口に含んだ。今度は勿体つけた咀嚼、やがて嚥下のゝち唇を舌で一舐めしてから片手の甲で拭い取り、此方を見た。失笑のふうに、なんて貌してるんだよ、等と宣った。余りの勝手に――己が考えてゐたこと、久米が見透かしてゐたこと双方が、心底莫迦らしくなって仕舞った。

其れなりに恥しかったんだけど、如何だった? 食事を始めるに当って云うことでも云わされることでもないけど、自慰行為を見せつけられた気分だよ――全く白昼堂々と。本の外は流石に夜も深まってる頃だと思うけど、其れに作品を書くのだって或る意味自慰と変らない、誰かが読むと解ってゐてなら尚更だ。……卑陋且つ驕傲になったものだ、僕も君も。笑って珈琲を一啜りすると、否違う、そんな大それたものぢゃないよ、久米が云って手にした儘のフォークでもう一切れを刺して持上げた。

如何あったって結局僕等は、文学の奴隷でしかないさ。だから君は此処を地獄と見て自ら墜ちるんだろう。

濁った糸の残滓はぼたぼたと地獄の底を汚す。屹度久米は自分を受け容れはしないだろう。たゞ、此処が地獄で閻魔様が文学だとしたら、共に隷属し、側に居る、其れだけだ。だが、其れだけ、が、どれ程心強いか――救済となるか。事実、たった今、久米の淹れて呉れた珈琲の馨が咥内でより芳しさを増した。弱れば弱るだけ、人は心を護る為、何かに麻痺して仕舞う。自分の場合其の最たるものが死であった。更に其れに依って久米も又、何かに麻痺して苦しんだのだろう。自分とは異なる彼が為の地獄の渦中で。

では、今は。

此れ等を貰ってから、君の部屋へ行っても? 訊くと久米は歯を見せて笑い、又だよ君、夜を共にする前に珈琲を呑んで仕舞った、朝焼けを観乍ら呑むのが相場だろう煙草だってそうだ、等と云う。地獄は決まりごとに手厳しいな、同じく笑んで珈琲に口をつけた。矢張り先程来よりずっと旨い。サテでは差し出されてゐる地獄の片鱗は如何程か。手掛けた者の味・・・・・・・は、果して。

カップをソーサーに置き、身を乗り出して顔を傾ける。彼の眼鏡の奥の色味が変わるのを真っ直ぐ見詰め乍ら、緩慢に口を開けて舌を出した。

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