食育・下 | ナノ



窓辺は白み始めてゐた。芥川は自失した様に、だらりと椅子に掛けてゐた。煙草を呑む気力さえ残っておらぬ。大量に掻いた汗は寝間着に吸い尽され乾き切って仕舞った。

芥川が見事一刀両断を成功させた為もあってか、島崎は悲鳴を上げなかった。目を瞑りもしなかった。芥川は――あれから数時間経つが、右手に残った感触を忘れられずに居る。暫く、両の手は勿論身体の震えが止まらなかった。

芥川が切断した島崎の指一本は、机の上に転がって中から流れた洋墨のどろりとした小さな水溜りに浸ってゐる。持ち帰れば良いものを、此れが消えたら多分僕の指が直ったって合図に成ると思う、君は今冷静ぢゃないから、消えるのを見れば屹度少しは落ち着くよ、等と余計な心遣いと共に置いて去って行った。大分時間は経ったが、指が消える気配はない。指環の構造か何かゝ、補修に相当時間が掛ってゐるとみえる。又自分の補修は先延ばしか――そう思った瞬間、島崎の指が、全く違う物に見えた。見えて、仕舞った。

心身の侵蝕は洋墨で直る。転生した身体は血液の代わりに洋墨が流れ、生命活動が成されてゐる。自分は未だ、侵蝕を完治してゐない。――目の前に、侵蝕を直す為の洋墨が在る。

「吸血鬼……食人鬼の空腹は、こんな心持ち、なのだろうか。」

物騒な独白を零してさえ、芥川は自分の奇行を理解出来ずに居た。其れでも身体は椅子から持ち上がり、ふらりふらりと、吸い寄せられるように机へと歩んで行く。如何かしてゐる――然し其れも此れも島崎の所為だ。島崎が自分を択んだ所為なのだ、自分は決して悪くないのだ、仕様のないことなのだと、脚を一歩進める毎に、狂った自己を都合良く歪めて改竄していった。

乾いた喉の目の前に水が在って、如何して呑み干さずに我慢出来ようか。

島崎の指を拾い上げた芥川の手からは、震えは去ってゐた。まじまじと見詰め、眼前に煮干をちらつかされた猫のように、見上げる格好を取って、開いた口に放り込んだ。歯を立てようとすれば瞬時にどろ、と融けて形を失くし、芥川の咥内に洋墨が充満した。

優しく甘い、柔らかな味が舌に染みた。書道の墨を磨るに於いて舐めて濃度を確認したことはあったが洋墨は如何なものか、脳裡のほんの片隅で警戒してゐた芥川だったが、余りの意外さに驚愕し、安堵し、歓喜し、狂気の沙汰に及んでゐる僅かな自覚さえ完膚なき迄粉砕させた。一気に嚥下するのも忍びなく、然し一刻も早く味わい尽くして仕舞いたいとも思い、結果後者を堪えに堪え、少しずつ咥内の洋墨――其れが自身で切断した島崎の指だということも忘れ、こくり、こくりと時間と回数とを掛けて喉仏を上下させていった。

「……呑むほうが、何時もの補修方法より断然楽ぢゃないか。」

総てを呑み下し舌で咥内を舐め尽くし、侵蝕のすっかり消えた芥川は恍惚とゝもに呟いた――。

「御疲れ様。」

途端、扉が開いた。島崎であった。其処で漸く正気を取り戻した芥川だが、完全に侵蝕が快復出来て仕舞った手前、余り悪い顔は出来なかった。然し、矢張り人の指を呑み込んだ旨は話すわけにはゆかぬと、手は直ったかい、とだけ島崎に訊く。

「御蔭様で奇麗に生えたよ。心配した?」
「するとでも?」
「うゝん、別に。僕の指、消えたみたいだね。」
「……あゝ。」
「君の、身体の中に。」

芥川の顔は強張り、島崎の顔は薄く笑った。

「責める気も嘲る気もないよ。傷は癒しを欲するものだし、目の前に髪切虫を置かれた志賀直哉が其れを食べない筈がないだろう。」

島崎は珍しく愉快そうに――或いは幸福そうに芥川へ歩み寄り、僕は今はどの辺だろう、此処等かな、指で芥川の喉仏から胃の少し上辺り迄ゆっくりと、真っ直ぐ下へ身体をなぞった。

「ねえ、僕はどんな味がした? 見たところ美味しそうな顔をしてゐたけど、嗚呼君は甘い物が好きだったよね、ぢゃあ僕は甘い味がしたのかな?」
「……何、なんだ、君は。」
「取材――否、違うな。個人的興味を向けてゐるんだと思う。君に。」
「僕……だと?」
「嫌いな奴の指を食べる気分はどんなものか、興味を唆られるに決まってるぢゃないか。」

抑も僕は君のことを理解出来ないと云ってるだけで嫌いだとは云ったことはないよ――科白を連ねる島崎が、先程芥川が指を欲した瞬間とは全く別の意味合いで、違うものに見えた。

「若し口に合ったのなら、又あげても構わないよ。怪我なんて幾らでも直せる場所が此処には在るんだからね。何なら指ぢゃなくても、目玉だって臓物だっていゝ。」
「……え、は? 指、は?」
「うん?」
「指環……の、仕組みは、君の云った、だって司書さんを信じる、って――、」

呼吸と鼓動が、恐ろしい行為を強いられると察した先程以上に、荒く速度を増してゆく。発すべき言葉を探し乍ら途切れ途切れに声を零す芥川を島崎は寸時目を円くして見詰め、やがて短く笑った。

「今更になって、僕を失望させる積り? 君は天才小説家芥川龍之介ぢゃないの? 僕が何時、指環の仕組みを司書さんから聞いた話だなんて云った? そんな莫迦げた話、全部嘘に決まってゐるだろう!」

島崎は初めて歓喜から叫んだ。芥川は存外気圧されることはなかった。其れ以上に、島崎が再来して語った総てが、驚愕と絶望であったが故だ。平然と嘘を自白した島崎も、――島崎の指の味を直ぐ様舌が思い出し始めてゐる自分も。

「ねえ芥川、僕の味に惚れた? 其れは大切そうに呑んでいたもの、鍵穴から覗いてゐたんだ。又味わいたいと思う? 僕は君が望んで欲すると確信してゐるよ。此の誓いの指に賭けてもいゝ。」

左手薬指を差し出した島崎を前に、芥川は唯立ち尽して言葉を失した。若草色である筈の島崎の瞳は喜色を浮べてゐるも、同時にどす黒く濁ってゐるようにも感ぢられた。おぞましいと思う一方で、此の目玉は指と同じくあの甘やかなる味がするのだろうかとも考えてゐた。――其れ等芥川の思考を看破するように、島崎は其の目を芥川にぐ、っと近づけた。鼻先が触れる距離で、瞳を真っ直ぐ見詰め乍ら云う。

「ねえ、今、どんな気持ち?」

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