食育・上 | ナノ



※独自解釈(文豪の血液が洋墨等)有





夜も更けようかという昏き時間、芥川の部屋に訪問者があった。

「一寸いゝかな。」

戸を叩く音に起された上、負傷が軽度だといって補修を先延ばしにされた御蔭で、唯でさえ虫の居所悪しかった芥川はあからさまに顔を怒気と侮蔑に歪めて睨み下した。依りに依っての来客が島崎だ。道理でノックの際に名乗らなかった訳だ、解ってゐたら扉を開ける訳がない――芥川は奥歯をぎり、と噛み、閉めるよ、ノブに手を掛けた。其れを島崎は、存外強い力で引き留めた。膠着十数秒、無理矢理に閉扉して指でも挟まれて負傷されたら後味が悪い、芥川は渋々折れた。招き入れる言葉も発さずに踵を返した芥川の背に、ごめんね、珍しく殊勝な声が追って来た。――其処を強く疑問に思わずに部屋へ通した芥川は、後々に此れを悔やむことゝなる。

「何の用だい、其れもこんな時間に。時計が読めないのかな。」
「慥かに僕は君の親友みたいに腕時計を両手に着ける程時間に執着してゐる訳ぢゃあないけど、時計は読めるし、其れなりの時間感覚は持合せてる積りだよ。」
「其れで此の時間とは畏れ入った。……早く帰って呉れよ。」
「うぅん、其れは、君次第かも……、」

許可も取らず煙草を銜えて燐寸で火を点ける芥川を見乍ら、島崎は数歩入室してからぽつねんと立ち止った。苛立たしく横目で睨むも、其れより島崎が意味深に云い淀んだことが引っ掛った。煙を吹かし乍ら振り返ると、島崎は感情の読めぬ顔で唯ぢ、っと芥川を見上げてゐた。芥川も暫し睨む体で見詰め返し、やがて、君、と問い掛ける。

「如何して先刻から、右手を隠してゐるんだい。」

ドアを開けた時から島崎はそうであった。思い返せば開扉の瞬間さえ、左手を少し挙げてゐた。ノックも左手で鳴したのだろう。右手はずっと背後の外套の中へ隠す様に仕舞ってゐたし、今尚佇んだ儘に右手を見せてゐない。芥川は其れが酷く気に掛り、気に障った。

「どんな心算があるか識らないが、強盗か殺人鬼が凶器を隠し持ってゐる様相だ。僕はいけ好かない輩に殺されでもするのかい、転生を望んだ訳ぢゃなかったけど、そんな死に方は生き返った甲斐がないというものだ。」
「其処迄云われると、一寸出し辛いかな。」
「え、」
「君の予想、否、妄言かな、其処は外れてゐる。本質だけなら逆だと云えるかも。」
「……まさか、つまり君、」
「うん。持ち物は中り。」

島崎はゆっくりと、背から右手を抜き出した。其の手には――正に、抜身の包丁一振り。

芥川は流石に狼狽した。島崎の表情は相変らず察することが出来ぬ。刃はぽろりと指から落ちた芥川の煙草の脆い灯りをちか、と反射し、いやに芥川の網膜を刺した。島崎は幾らも意に介さず、包丁を自身の顔の辺り迄掲げた。

「君に頼みがあって。」
「……君の手で殺されろとでも。」
「煙草、消したほうが好いと思うけど。」
「僕に通ぢるように話をしろ。」

語気を荒らげ乍らも芥川は煙草を拾い上げて灰皿に潰す。其の間も島崎への警戒を怠らない。島崎は芥川の手の動きを唯眺めてゐた。改めて芥川が向き直ると、島崎は包丁へ視線を遣り、口を開く。

「君、司書さんから指環を貰った?」
「だから話を――、」
「大事なことなんだ。横槍入れずに聞いて呉れるかな。」
「……。未だ、貰えてない。其れが何? 自慢の積りかい。」
「指環がどんな仕組みなのかは識ってる?」
「……仕組み、」

そう、島崎は云って、ふと左手を少し挙げて掌を見下ろす様な動作を見せた。

「……僕等此処に喚ばれた者は、見えこそしないけど、予め指環が嵌められてゐるんだよ。相手が人ぢゃないとはいえ、生命有する物と戦って殺すだなんて技術は、前世ではなかっただろう。」
「まあ、其れは……慥かに。」
「其れで一寸、又横槍入れたく成ると思うだろうけど聞いて。左手の薬指に籠められた意味を識ってる?」
「……。」

芥川は諦めた。此れは島崎に喋らせておくのが適解と仕方なく判断し、結婚指環かい、低い声音で答える。島崎は肯いたが、其れだけぢゃないんだよ、と付加した。

「慥かに其れもあるけど。結婚指環を嵌める指に成った理由だ。神話でね、左手の薬指には心臓に続く一等太い血管が在って、繋がってるって話があったんだって。心の位置は今になっても解ってゐないみたいだけど、そんな話があった時代は、心は心臓に在ると思われてたんだ。心と繋がってゐる大切な指だから、誓いの指として選ばれて、結婚指環が嵌められるに至ったんだよ。」
「――。其れで?」
「誓いの指は何も結婚だけを差す訳ぢゃない。僕等の場合は戦いに参加することを誓うっていう意味合いで、指の肉の中に既に嵌められてゐるんだよ。」
「唯の強制と拘束ぢゃないか。」

心底呆れて云う芥川に、結婚だって互いの拘束だよ、と島崎が一縷の感慨なしに応えた。其れにしても――芥川は我が左手の薬指をまじまじと見る。此処に指環が嵌ってゐるのか、能力を享受し、戦闘へ参加する誓いの指環。俄かには信じられぬ、しかも島崎の云う話だ。然し乍ら、芥川は剣道の心得が多少あったものゝ、軍人として戦地に立ったこともまして人を殺したこともない。自死に際してさえ刃物は使わなかった。戦い方は転生にあたって自動的に備わった能力か何か、そもそも碌に考えた試しもなかったが、指環を嵌めることで使う獲物を替えられるように成ったということは、裏を返せば指環を嵌めなければ戦闘能力の変更が出来ない、と成るのか――詭弁だと思ってる、心を読んだかのように島崎が云った。

「でも、そういうことなんだ。君は司書さんを疑うの?」
「……又狡い云い方をする。」
「そうかな。――其れで、僕が包丁を持って君の処へ来た。此の意味はもう解るよね。」
「――。は、」
「仲好い人に僕は頼めないんだよ。特に秋声なんか、泣き出してずっとずっと引き摺りそうだもの。」
「待て、……待って呉れ。其の――指環、っていう、のは、」

うん、島崎が右の手首を捻り、包丁の柄を芥川へ向ける。そして、左手を差し出した。

「身体の一部に成っちゃってる指環の外し方は、一つしかない。」

――怖気が、走った。此れから自分がやらされること、其れに対して島崎は何の躊躇もないこと、――自分達の身体の仕組みと指環の絡繰りと。呼吸と鼓動が乱れた。心身に残った侵蝕が嵩を増やした感ぢがする。識ってか識らずか島崎は、柄と左手を差し出した儘に芥川に近づいて来る。

「何を躊躇うの。君は僕が嫌いだし、僕だって君を理解出来ない。御互い、言葉と態度で充分に傷つけ合って来たぢゃないか。其れが肉体に関わっても何の問題もないと思うけど。」
「然し――否、そんなことを、」
「僕だって困るんだ。新しい指環を着けて新しい戦い方を望まれてる。誓いを二重にすることは出来ないんだよ。重婚が禁忌とされてるのと一緒だ。」
「生々しいことを云う……、」
「そうだよ。詩であれ小説であれ、書き手は必ず生命を削る。だから時に創作物は現実を凌駕する。事実は小説より、って奴だよ。」
「だからって……君、痛い、だろう。」
「其れは何れ君も通る道だ。斬り落し方は自由だし、誰に任せても自分でやっても構わないそうだけど、君がやるなら僕に対する煩わしさが多少は晴れるんぢゃないかな。」

とんでもなく余計な御世話だ、如何な形であれ関わり合いたくないんだよ――其れを、芥川は云えなかった。島崎の云う通り、何時かは自分にも指環の支給が来るだろう。其の時自分は誰に頼めるというのか。自分自身でやる勇気は、少なくとも今はない。さりとて此れ以上親友等に、気を揉ませる訳にもゆかぬ。頼むとしたら――厭うてゐる相手が相応だ。そう考えると芥川が頼む相手は――島崎以外、思いつかぬ。

「……わ、解っ、た。」

声が上擦った。額と背には既に冷や汗が浮いてゐる。我乍ら惨めな醜態だが、島崎は矢張り意に介さぬ風に、有難う助かるよ、云って机に近づき、机上に包丁を置いてから淵の処に左手の薬指のみを引っ掛けた。他の指を切らない為の配慮か、芥川を信用していない為の自衛か。何方にせよ、芥川の退路は完全に断たれて仕舞った。

「料理、したことあるかな。振り被るより、刃を当ててから、包丁の背を力一杯叩くと良いらしいよ、文句を云える立場ぢゃないけど、出来れば一回で斬り落して呉れると嬉しいな。」
「好き勝手を……取り敢えず、黙って呉れないか。」
「夜だしね。なるべく叫ばないように袖を噛んでおこう。」

芥川は震える手を如何にか力を籠めて操り、包丁を手に取った。握った柄に汗が染む。――作られた役目違えど、普段容赦なく敵を斬り刻んでゐる刃と此れの何処が違うというのだろう。前世と今生の差異程度のものかも識れない。島崎は言通り右手の袖を噛み、更に歯を食い縛ってゐるようだ――覚悟を、決めたようだ。

「やって……やってみる、けど。……恨まないで呉れ、よ。」
「僕から頼んだんだ。そんな権利はある筈ないよ。其れに――恨むなんてとっくにしてゐることぢゃないのかな?」

たかゞ包丁一振り、其れが常日頃振り回してゐる剣よりもずっと重く感ぢられた。呼吸は益々乱れてゆく。何故こんな残酷な身体を、生命を、誓わせたのだ。慥かに書き物に関しては、人生を幾度も叩きつけて来た。芥川に至っては生命迄もを捧げて仕舞ったとも云えるかも識れぬ。護れというなら護る、滅ぼされるべき作品等在りはしない。然し――此の指は何の為に在る。万年筆を握るのが右手であるとしても、書く為に原稿用紙を支える役目を担う手は何だ。其の内の指一本でも欠けさせる等、どうせ補修で直るにせよ、何という、業だ。

其れでも、矢張り、文学は。

島崎の唯一本机に引っ掛けられた指の根元に、包丁の刃を当てた。柄を強く強く握り、左手で拳を作って包丁の背に載せた。

――そして。




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