#043を幸せにしょう企画投稿文 云えるうちに云っておきたいことが僕には屹度幾らかあるんだ。……僕なんか何時死ぬか解らないだろう。 そう云って引き留めたのは芥川は久米ということにしてゐるし、久米は久米で芥川ということにしてゐる。云うも云われるも面映いが故、いさゝか揉めた末に双方のみ識る秘め事とした。墓の中へ持ってゆこう、入れるか否か解らぬが――其処で漸うふたり、酷く不格好でなれど、何にも縛られず笑い合えたのであった。 云っておきたいことを見つけられたのも、伝えたいと思えたのも、いざ伝える勇気を持てたのも、互い以外の誰かの手が背を押さねば成されなかったろう。にも拘わらず今やふたり、一歩を踏み出す為に述べられた手の存在など余りに些末――喉に刺さるも無事呑み込んで仕舞った魚の骨、或いはかつての今わの際に唱えた独白程度に其の価値を量る意味なきものとしてゐた。君が恩着せがましくない証左だろう、などと既に都合の好い云い訳を用意して。 「……柘榴、」 「そう。」 「また何処でこんな――売り物にしては云い方が悪くなるけど、」 「構わないさ。午過ぎに一服しに庭園に出たのだけどね、もう穫らない事には冷えて来たし傷んで仕舞うって騒ぎだったからぢゃあ僕が、と一つ引き受けたんだよ。犀星……嗚呼後高村さんに会ったら御礼云っておいて、」 「そうやって君は人を巻き込んで僕の退路を断ち切って……君は趣味が悪い、」 「そんな顔しないで欲しいなあ、識らないかも解らないけど僕はね、司書さんの値踏みでは君より精神状態の落ち着きがないんだよ、落ち込んだら相当面倒臭いよ。」 「君の生命を以て充分に思い識らされてるよ……君こそ、僕がどんな顔してるかなんて解らない癖に。」 然り、ふたりは揃って椅子に掛けるも毎度、隣り合わせに席を取る。臆病者が同士――或いは臆病者の同志、真正面に相対するは中々に難い。其々懸命に掘り進めた溝はふたりぶんとあって、底が解らぬ程に其れは広く深く出来上がって仕舞ってゐた。肩が触れようかという距離まで隙間を埋めるにも結構な時間が掛かって今に至る。距離が詰められゝば詰められるほど、双方態度が軟化したかといえば――そうでもあり、其れだけに収まらず、或る意味で一時期の蟠りに雁字搦めにされ合っていた頃より、妙な具合に縺れて仕舞った。 「ふたりきりで君に逢うには、まだまだ口実が必要だろう、」 「……まあ、其れは、そうだね。」 「『今日は偶然果物を手に入れたから誰かと馳走になろう。』――、」 「『嗚呼丁度久米が暇そうぢゃあないか、』という寸法かい、」 「君が其れで善いなら其れが好いよ。」 「嗚呼狡い君は狡いよ、本当だ全く何て狡い、」 芝居掛かった云い回しを交わして後、久米は帽子を外して天井を仰いで声を笑みで震わせた。芥川もまた肩を揺らす。――少し現実味を削ぐだけで斯くや、残存、時には増殖する気不味さは砕かれる。暫時笑い合い、余韻引き摺り長き嘆息を吐いた久米は芥川が卓上に置いた柘榴を手に取った。成る程時季、余命幾許という色味、宝石にも譬えられる濃紅の皮膚は錆びたように煤け、深く大きく裂けた罅からみっしりと詰まった果実が剥き出しになってゐる。――ふたりを裂いた溝は上述が通り深い。久米は柘榴の皮をじ、っと見詰め、若し此の実が芥川と共に掘った溝を埋めるとしたら如何だろうと考え、思い浮かんだおぞましさに緩く首を振った。芥川が横目に窺う気配を感じたが久米は無視を決め込み、柘榴を両手に載せて馨を吸い込むも、芳香は直ぐさま芥川の呑んでゐる煙草の匂いに鼻腔を乗っ取られるに終わる。二つの意味で鼻についた久米は思わず顔を顰めた――が、ふと脳裡に妙案が閃いた。柘榴を卓に戻し、勿体つけて手袋を外す。指先に芥川の視線を意識し乍ら、再度柘榴を拾い上げて指を皮の裂け目に掛けた。 「あれ、其の儘食べるのなら僕も半分貰いたいんだけど。折角貰って来たんだ、」 「……そうだね、僕も其れが好いと思うよ。だけど、」 「何だい、」 「君、何時死ぬか解らないんだろ、」 「……嗚呼、まあ、そんなことを云ったことにしてゐたね、君は。」 「若し――僕が先に死んでゐたら、君は如何するんだろうね、」 芥川が久米の目論見に辿り着くより先に、急く思いと勿体つけたい思いとが久米の脳内にて交錯した。結果、遂に堪え切れず口端から笑い声が零れ落ちた。応酬の流れからして芥川は嘲笑と捉えたやも解らぬ。然し――。 「如何なんだ、『ソドムの娘』。」 其れが、好いのだ。 ごとん、鳴った音は芥川が卓に肘を突いた為のもの、久米が視線をやると、芥川は肘突いた右手の平で額を抑えてゐた。煙草を持った儘狼狽するとは自分と比べて矢張り器用な男、内心感嘆する久米だが、当の芥川は羞恥に心身掻き乱されてゐる。面を伏せた、或いは隠した芥川は二言三言唸り、やがて自棄を起こしたか勢い良く起き上がったかと思えば、其の勢いを利用したか、肘は突いた儘に初めて顔を久米へ向けた。――視線の鋭さが違う。屹度恨みがましい眼差しをしてゐるのだろう、久米は久米でやおら訪れた表現に難しい緊張感に当惑し乍らも平静を努め、少し顎を上げて笑んでみせる。 「……君が『預言者』だとでも、」 「君が其れで善いなら其れが好い、んだろ。」 「嗚呼、あゝもう……そうだよ観に行ったよね二十歳か其処等の頃一緒に横濱へ、」 「更に追い打ち掛けてあげようか。君、あれを元に作品書いてゐただろう。原稿見つかってるよ、」 「……――。いっそ一思いに、」 「其れは駄目だろう、君の云いたい事を僕は未だ聞いてゐない。」 血の繋がらぬ父王が向ける異常な迄の執着と寵愛を煩わしく疎む日々を暮らしてゐた王女は、一目で惚れた預言者に接吻を迫るも拒まれ、父王が為に踊った褒美として預言者の首を所望する。斬り落とさせて迄欲した預言者との接吻、其の唇の色を王女は譬えた――柘榴のよう、と。 聖書にも載る話である。絵画になれば音楽にもなり、小説にもなれば異国語で訳されもした。そして――舞台にもなり、日本でも御披露目があった。横濱であった。当時の友人達と連れ立って五人、口づけをする為に男の首を欲し、結局自らも父王に首を落とされた姫を目の当たりにしたのは、大人に成り立ての時季。 「僕が『預言者』なら――僕は殺されなければならないね。」 「そういう、そういう意味ぢゃなくて、本当に偶然貰ったんだよ……犀星が……、」 「今更人の所為にするなよ。偶然なら偶然で好いぢゃないか。こうしてまた出会えたのだって偶然なのかも解らないんだから。」 「……随分悪辣になったものだね、」 「――そうだね。悪人は、何だって出来るものさ。此れが林檎ぢゃなくて幸運と思えば好い。」 割った柘榴を其々両の手に携え、漸く、漸く久米は、芥川と向き合った。顔に好き放題刺させてゐた芥川の視線を眼にて直接受け止めるや、ちりちりと網膜が燃されるような痛みを久米に齎した。眼鏡を掛けてゐる癖に――恨むというよりは不貞腐れた面差しで睨み上げる芥川を眺め乍ら、久米は右手に持つ柘榴へ其れは勿体つけて、緩慢と、歯を立てる。芥川が思わず目を逸らそうとして――結局出来ずに、久米の白い手と赤い柘榴の蔭に隠れてゐる唇が露わになるをぢ、っと待ってゐるようであった。ならば存分御覧ぢろとばかりに久米は、齧りついた前歯から更に犬歯迄も深く実に埋め込んだ。視界の下に赤い色が差す。潰れた実の汁が撥ねたのだろう。旬の終わりも近しといった其の果汁はとろりと甘く、噎せ返る程の芳香を吐き出してゐる。 淫奔の処女が双方の生命を犠牲にして迄求めた物を、こんな男が斯くも簡単に欲するとは。 「……此れほど、此れほど――僕は、君を憎んだことはないよ。」 久米に見下されるが儘の芥川が、恍惚とゝもに目を瞠り乍ら口端を吊り上げた。其の癖頭の中は、何処ぞの誰かが都合好く神聖なる愛の誓いを示す行いなどとした、只の卑俗な欲求に掻き立てられてゐるのがまるで隠せてゐないのだから笑わせる。久米は初めて見る芥川の表情に鳥肌さえ感ぢ乍ら、態と下品な音を立てゝ汁を吸い肉を咀嚼する事で返答とした――漸う唇を離すと、右手から幾本もの筋が血のように流れ、舌を噛み切ったかのように唇はおろか顎の下迄赤く滴り乍ら甘く馨ってゐた。 「君は柘榴を食べたいのだったね。」 笑って久米は、敢えて手つかずに在る左手の実半分を芥川に差し出した。芥川の吊り上がっていた口端が一瞬痙攣し、我に返ったかのように元の位置へ下げられた。見開かれた儘であった双眸もゆっくりと細められる。然して正気に戻った訳では決してない。久米は笑みを収め、対し芥川は再び笑んだが、双方まともな脳内ではない。 ――云えるうちに云っておきたいことが僕には屹度幾らかあるんだ。 其れは殆どが無駄なことゝなるのだろう。ふたりにだけ解れば善いのだから。 「僕達は舞台の登場人物なんかぢゃない。生命を賭した不義理はもう二度と働きはしないだろう、」 「成る程今度は君が退路を断つか。」 「嬉しい癖に。」 「如何かな。君よりはましかも識れないよ、」 久米の左手にあった柘榴と芥川が指に挟んでゐた煙草はふたりの脚で踏みつけられて形を失くした。然し乍ら此れ等は恐らく、深い深い溝を如何してか殆ど埋めて仕舞ったことだろう。結局、芥川の唇は久米と同様に赤く染まった。残った柘榴を食べたか或いは――此れ以上は、余計なことだ。 | |