君は優しいけれど残酷だから好きだ。 今この時間、午過ぎだというにもかゝわらず――更に菊池にとっては其れ処ではない時であるにもかゝわらず、菊池は久米の部屋にて酒をやってゐる。一献したい気分だと思うけど如何、そう云った久米の淡い笑顔と微かな声音は、菊池にとって余りに狡く、同時に抗えぬいざないであった。事実、思い悩む素振りを数分見せてから厨房へと先に脚を向けたのは菊池、肴を吟味したのも菊池である。酒類に加え洋盃をちょろまかしたのは久米であった。 ミントの葉を一攫み、小振りのライムを一つ。此れ等も又、久米の部屋へゆく道中に庭園にて誰ぞが育てゝゐるものを失敬した。流石に花盗人には数えられないんぢゃないか、既に酔ってゐると思わせる久米の大胆な窃盗に訊いた菊池だが、こういったことに呑む酒は花のようなものだろう、矢張り酔漢の悪巫山戯のような云い分で一蹴された。結局菊池は久米の云うが儘――今回は其れと識っての盗みを働いて目下、黒手袋を脱いだ手でライムの実を半分に切ってゐる。久米も又白い指先を曝して洋盃二杯の中に、こつり、こつりと角砂糖を落としてから、拾い上げたミントを鼻先に近づけては其の馨しさに其れこそ酔い痴れるふうに笑んだ。 ――毒だ。 爪の間に垂れたライムの果汁をぴりぴりと感じながら、菊池は忌々しさに極めて似てゐる苦々しさを敢えて嘆息の形にして吐いた。久米は視線だけ菊池へ持ち上げて笑う。此奴のこういう処が自分にとって時にとんでもない毒になる――前世は何時だって今を嘲笑うかのように四肢に思考に絡みついて離れない。今度は失敗しない、今度は救ってみせる、等と――全うした人生をやり直す其れ即ち、嘗ての生に於ける選択を失敗と認め否定するに等しい。そんな安い人生ではなかった筈、如何に酷な結果であれ、来世があると信じて諦めた人生ではない。総て解ってはゐても、今度は、今度こそ、等と思わせる笑み。下戸なれど心地好き酩酊に突き落とす。アルコール等、話にならぬ毒だ。 一人の女しか愛さない男は屡々最も幸福な生活を送るが――死ぬ時は最も孤独な死に方をする、だったっけ。 ミントを載せた儘の両手を差し出し乍ら久米が何かを諳んぢた。菊池はミントの森の上に涼やかさ馨るライムを置き乍ら少し考え、ヘミングウェーか、訊くと久米は肯き、手を引っ込めて二杯の洋盃の中へ均等に落とした。君の分には酒を入れないけど、僕は戴くよ。成る程今日は甘酸っぱい水を只管啜れって訳か。君が呑めないのがいけないんぢゃないか。強引に誘ったのはアンタだろう。其れは君が 菊池は返す言葉もない。思い返せば菊池からならいざ識らず、久米から菊池へ声を掛けるのは決まって 両方ならば、何と質の悪い。何と欲深い。何と――罪深い。 からころからころ、軽やかな音を立てゝ氷が洋盃の内側を打った。ヘミングウェーは此の酒を好んでゐたそうだよ、ラムと炭酸をやり乍ら旗魚や鮫を老爺に嗾けてゐたと思うと――何だか安堵するよ、まあ僕なんかゞ敵う作家じゃあないから親近感なんて持つのは失礼だろうけど。あのなあ、ヘミングウェーは慥かにアンタより歳下だが、其れを云えば俺だって年長だぞ? ……君のお気に入りの一人もヘミングウェーと同じ賞を貰ってるそうぢゃないか。――全く、此処迄明け透けに妬み嫉みを吐かれるとこっちも安心するぜ、アンタの性根は変わっちゃゐない。過去は最早物語のようなものだからね、根に持てば持つ程記憶は都合好く改竄され肥大するものだよ、嫌な思い出なら尚更だ。 洋盃一方に炭酸水がたっぷりと、一方にはラム酒を半分程注がれてから同じく炭酸水が加えられ、ラムのない洋盃が菊池の前に差し出された。細かな泡がしゅわしゅわと、酸素を求める金魚が如く水面に上っては口を開くや否や跡形もなく消え去ってゆく。死骸の残った旗魚より酷な結末が矢継ぎ早だ、そう思った菊池は既に酔ってゐるのかもしれぬ。ラムの醸す匂いにか久米という存在にか――或いは。 乾杯なんてする気分でもない。互い、無言でライムとミントの効いた甘い冷水を嚥下する。菊池は久米に了解を取らず煙草に火を点けた。じきに久米が一口無心に来るだろう。其の程度には時間を共有して来てゐた。酒は兎も角君もチーズは食べるよね、こんなの何処にあったの? あー、厨房覗いて肴って云えそうなのが其れ位しかなかったからな。下戸なら肴択びも迷うだろうね――……あのさあ寛、包みに「坂口」って書いてあるんだけど。先に盗みを働いたのはアンタだろ、追及するなら俺は戻るからな。戻れないだろう、君は優しいけれど残酷だからね、だから僕は君が好きだ。久米は少しの躊躇もなくそんなことを云い乍ら少しの躊躇もなくチーズにナイフを入れた。坂口には追々埋め合わせと詫びを渡そう、頭の片隅で考えて菊池は早速一切れを煙が残存する口に運ぶ。塩辛い。少なくとも菊池の呑むものとは相性が宜しくないようであった。久米も同様か顔を顰め、反りが合わないものは其処彼処に在るよね、苦笑いで呟いた。視線で灰皿の煙草を示すと、頂戴するよ、矢張り一口だけ喫って元の場所に戻した。 君はつくづく孤独にはならないね、反りが合おうが合わなかろうが。 心外である。菊池は珍しく久米を睨み据えた。久米は寸時困惑の色を顔に載せたが、菊池の視線を受けた儘、そうなんだよ、君はそうなんだ、諦念を滲ませた笑みを見せる。 寛は其の廻り合わせに身を委ねてゐるぢゃないか、抗おうと思えば生き方なんて変わる、僕が自分を棚上げして云ってゐるのは解ってるよ、たゞ君は――見棄てゝも、いゝんだ。云って久米は洋盃を傾け、浮いて来た一葉をぺり、と齧った。菊池は先程よりずっと大きな溜息を吐いて髪を掻き毟る。見棄てられる訳がないだろ、酒がなきゃ忽ち後ろ向きになるアンタから目を離せる訳が――。 其れぢゃあ如何して今、補修室にゐる芥川くんに付き添ってゐないんだよ。 菊池の洋盃が机に倒れた。炭酸の泡がぱちりぱちりと音を立て、次々中空に向け死んで逝く。灰皿も引っ繰り返って煙草の火は呆気なく消え、二人の間には本能に酷く蠱惑的な匂いが溢れた。其の只中、久米の胸倉を攫み上げた菊池は漸く、人の見棄て方を忘れてゐることを――若しかすれば前世の折から忘れる処かそもそも識らなかったのかもしれぬ、怖気を伴って思い至った。久米はスカーフを握り締められた儘、苦しかろうにたゞ、痛ましいものを見るような目を菊池へ向けてゐた。 君は――例えば僕が注いだラムに毒が入ってゐたとしたら、酒が呑めないにもかゝわらず僕の代わりに呑み干すんだろう、其れでも今わの際の走馬灯には芥川くんが映るんだ――君が僕を抱くのも、芥川くんにそんなことが出来ないからぢゃないか、本当に一等大切なものには何が何でも瑕一つつけられないから、芥川くんがゐないと解ってゐる時にだけ、僕を。 当然反駁に掛かろうとする菊池だが、久米の追撃が其れを許さない。――君には大切なものが、大切にすべきものが幾らでもある、幾らでも作れる、其れで善いんだ、其れでこその菊池寛なんだよ、だから僕みたいな劣等の塊で出来てゐる輩でも素面で相対することが出来る――ヘミングウェーの云ったように君は孤独に死ねないよ、自ら毒を啜ってさえ屹度多くの人間に罵倒され乍らも見送られるんだ、そして、たった一人飛び抜けて君が恋慕以上に想ってゐた男には誰も敵わないと君を偲ぶ皆が識ってゐるのさ、勿論僕も其の一人に過ぎないんだよ。 菊池は暫時久米を睨み、やがて目蓋を閉じて俯き、攫んだスカーフから手を緩め、力なく首を数度振った。否定する巧い言葉――云い訳がいっかな見つからない。否定も肯定も、己を貶めることになって仕舞うような、歯痒い焦燥が暗澹と心の裡に漂った。若し自分が変わってゐたら、変わるという選択を採れる人間であったなら。久米と芥川の間に横たわる深く幅広の昏い溝等均して仕舞えたかもしれない。山本以上の立ち回りを、否、山本の出る幕など与えずに丸く収めて仕舞えたかもしれない。然し菊池はあくまで、菊池であった。仲を取り持つ等、早々に手を引いたのだ。 人は屹度変われるんだろう、其れまでの自分を見棄てる勇気があれば。 自分には見合う勇気がない、と迄は言葉にせずとも久米には伝わったようだった。下卑た話、久米とそういった最中にあって芥川の危機の報が入ったとしたら、久米が仮令泣いて縋ろうが突き放して彼の許へ走るだろう。前世で間に合わなかったことも相俟って――実際、芥川が補修室へ向かった旨を聞いた際にも反射的にソファーから腰を浮かせた。説明を追えば芥川の侵蝕は彼の熟練度から鑑みれば然程の手負いではない上、暫し眠りたいと芥川が調速機を断ったとのことで、菊池は胸を撫で下ろし、ソファーに座り直そうとした――其処に現れたのが久米で今に至る。午から一時間と経たぬうち、一体幾つの罪を犯したろう。法に触れるもの触れぬもの、久米へ向けたもの。 寛、今の君には何が要る? 久米の問いは優しくもあり小賢しかった。解り切ってゐる癖に――其れでも、今の菊池には誘い水が欲しかった。こゝまで心の内側を容赦なく引っ掻かれたのは久し振りだった。悪いが酷くなるぞ、攫んだ儘のスカーフを解いて云うと、構わないよ大切にされる謂れはないから、そんな狡い科白を返す。 菊池が久米を芥川の代わりとして抱いたこと等一度とてない。たゞ、芥川という或る種の呪縛から逃れんが為に抱いたことはあったかも解らぬ。何方を、乃至何れも、久米に白状したとて屹度哀しく笑い乍ら、嘘でも嬉しいよ、等と応えるに相違ない。机に突いた片手が遅々と乾くライムやミントをぐちゃりと潰した。久米の咥内は当たり前と酒臭い。舌から舌へとアルコールが染み込んで来る。下戸には其れだけで立ち処に意識がくらりと曲がった。――酔いは人の本性を現す。眼鏡が机に放り出され、泡の殆どが消えた淀みの溜まりがぱしゃりと音を立てた。唇を食み合い舌を絡ませ乍ら、菊池は濡れた机に脚を載せ踏み越える。目蓋を開けば久米の愉しそうな眼の中に愉しそうな菊池の貌が映ってゐた。そもそも此の為に久米は菊池を誘い、菊池は久米の部屋を訪うたのだ。白昼の窓は既にカーテンを閉め切り、寝台も起き抜けとは異なって誰かを待つように整えられてゐる。 昔がある以上今は変わらない。菊池は久米より芥川を択び、芥川には出来ぬことを望む久米に其れを与える。お互い損はない。身体を重ねる毎に罪悪感が薄らぎ麻痺する以外は。故に、菊池が久米の部屋に赴くようになってから芥川が調速機を拒み始めたこと等、二人の与り識らぬ話でしかない。 | |