華ト円舞曲〜宵ノ密約篇〜 | ナノ



#ナンバー043を愛でる企画投稿文





さながら花開くように円く広く模様を描いているエントランスホウルは図書館にしてはいさゝか洒落込みが過ぎまいか、不要とまでは言わないが必要でもなかろう――あまり機嫌の芳しくなかった徳田はそんなことを考えた。常より前向きな性分ではないにしろその時はいやに気に障り、だからこそ――決して似てはいないが前向きな性分ではないとは思われている久米が、後から訊けば酒が入っていたらしく常日頃纏っている陰々滅々とした、咲きばなを俄雨に打たれた藤の一房のような印象、それを微風に撫ぜられふたゝび綻ばせた穏やかたる笑顔で、こんばんは先生、いゝ夜ですねえ、幼子を思わせる舌っ足らずな声とゝもに山高帽を取って一礼したのである。徳田は大層驚いた。今でさえ如何な対応をしたか思い出せぬし訊き出せもせずにいる。そんな徳田を余所に酩酊の渦中を愉しんでいた久米は、ふとエントランスホウルを床から天井までゆっくりと見上げ、寸時あってくるりとその場で回ってみせた。羽織っていた外套が洋舞の女役のようにそれは美しく舞い上がり、徳田がそれまで抱えていた苛立ちの棘をいとも簡単に萎れさせたのであった。司書さんの蓄音機でも置けば立派なダンスホウルになりそうですねえ、久米は改めて高い天井を見上げ、やはり図書館にはあまりに勿体ない瀟洒な灯りに目を細めた。その横顔を見――口を衝いて出た相槌が、本当だね、などという科白であった。我ながら驚いた徳田であったが、久米は久米で徳田の動揺を見て僅かながらもアルコオルが抜けた模様、そ、うでしょう、正気が垣間見える声音で以て応えた。

今、引き留めねば逃げる。――少なくとも、自分が彼ならば。

久米の極めて心地好さそうな高揚を生み出して曝し出せる方法を識りたいと徳田は咄嗟に考えたのだ。考えた結果――脳が捻りだした記憶は箪笥の肥やしと化した服ひと揃え。

――君、あれに袖通した?



必ず夜の十二時を過ぎてから。眠れそうにない時。読書や執筆を含めて他のことひとつも手につかぬ場合。あの衣装の着用は自由だが足音が響く懸念がある為、裸足か靴下、足袋を着けた状態で、靴は決して穿かぬこと。誰かに目撃された際は口止めの上解散――以上が、今回は徳田が酒の力を若干拝借した上で久米に申し出た提案であった。エントランスホウルで久米が見せた穏やかなるも高揚を湛えた笑顔の根源がアルコオルであったと識った時はさすがに落胆があったものゝ、同時に識ったのだ――徳田と久米の性分を構成している芯に、ほんの一欠片でも同じ要素が組み込まれているとしたら、自分も多少の破目を外して肩の力を抜くことが出来るやもしれぬと――単純に言い訳をすれば、久米に倣ったのである。酒に曝け出された徳田の素顔は残念ながら久米とは違い陰気を増したのみであったが、久米は恐縮躊躇しながらも、諾を示した。顧みれば、酔った徳田に気圧された面もあったかもしれぬ。

今日は花の円舞曲にしたよ。あ、りがとうございます……胡桃割り人形ですよね。うん、あんまり詳しくないから有名どころしか用意出来ないのが申し訳ないんだけどね、発条は一杯に巻いてあるから。いつも有難う御座います、譜面を作っていたゞいて。……まさか針仕事が役に立つとはね、僕はこういう地味な作業に甚だ向いているみたいだ。……地道、かと、思いますよ、地味ではなく。

これだ――徳田は我識らず眉根を寄せた。久米は相手を選びこそするが、人の褒め方がそれこそ甚だ巧い。あの夜から幾度か誘い合わせ、次第に日常生活においても会話が増えた。そして情けなくも畢竟、久米と他者との関わり合いにさえ意識を向けるようになって仕舞った。口うるさい輩口さがない輩、口幅ったい輩等々揃い踏みの中、久米は徳田が想像していた以上に人間関係が広く、芥川なぞとはまあ色々あったらしいゆえ口を噤むも、その芥川だけが例外とも思えるほど軽々と口を開く――徳田が苦手とする者などとあっさり軽口を叩き合ったりしている。

悋気なんてものではない、決して。が、己と似通う部分があるはずと思っていた久米の輪郭が日に日に、不思議な、不可解な――もしかすれば不愉快な、咲きばなを俄雨に打たれた藤の花の如く、ある種惨めったらしい姿から日を追う毎に乖離してゆく。

……何を勝手に、都合の好い偶像を押しつけて。惨めったらしいのは誰だ。

あの、先生。声を掛けられて徳田はようやく自分が頭を掻き毟りながら溜息まで吐いていたことに思い至る。ごめん、大丈夫、ちょっと考えごとを……あゝ、次の曲は如何しようかなってね、まあ次があればだけど。――懊悩はすぐさま頭の中から去ってくれることなく、言葉尻に御得意の棘まで生やす始末。久米はやはり困惑したか寸時、えゝと、話題を転換させようと試みたようだった。気を遣わせるつもりはないこれは自分の性分だ、君にはない性分なんだ気に病まないでくれ――しかし言うより先に久米は、徳田が階段の手摺りの上に置いたオルゴオルを手に取り、次も胡桃割り人形が好いんじゃないでしょうか、などと言う。続けて、僕なんてあの王子みたいなものですよ、と口にした。

胡桃割り人形にされて仕舞った王子は、そもそも生命を奪った所為なんですよね――誰かが。科白は進むにつれ尻すぼみになり、誰かが、という一言は慌てゝ付加したように聞こえた。あゝ、そうだね、そうだった。徳田は応えながらも内心にて、今度こそ悋気を孕んで巡り廻る感情が言葉に出ぬよう堪えていた。久米は今、揉めに揉めて死んだ旧友たゞひとりを思い、あるいは悼んでいる(その者は自分達と同じく現実を確かに生きているというのに!)。もう時代は変わったんだそれぞれの蟠りや凝りは多少なりとも解れたろう、胡桃割り人形にされた王子も鼠の群れも助太刀に入った娘でさえ、その娘の夢物語でしかなかったのだ、君達の、僕などでは計り知れず計りかねる過去もいっそ、とは勿論、徳田に言う権利などない。自分とて兄弟子との間に蟠り凝りの類が痣や瘡蓋のように残っている。たかゞ少し早く生まれ先に死んだゝけで――。

すみません、眠れない時に、ってことだったのに、明るくない話をして仕舞って。久米が我に返ったか慌てゝ頭を下げる。今日は――今日も、彼は帽子を被っていない。不定期にこっそり開催されるたったふたりの舞踏会に久米は必ず、外套を纏った出で立ちの儘帽子だけ外して訪れる。訊ねれど邪魔なので、の一言――兎も角も、謝られるのは如何も居心地が好くない。ともあれ――いや僕の言い様が悪かった、徳田が諸悪の根源を主張するも、こういうところは厄介ながら久米は頑迷と来ている。いえ僕こそ、となれば待ち構えているのは自明、水掛け論だ。如何にか堪えた徳田は、謝り合っていても仕方ない、始めよう、言って草履を脱いで階段一段目の下に揃える。倣って久米も脱いだ洋靴を、草履の横にちょこんと並べた。ふたりともどこにお出掛けするんだろうね、そう言って階段の踊り場を見上げた徳田に、久米は静かながらも珍しく声を上げて笑った。

掌に載るほどの木函である。蓋の蝶番の後ろにある細い溝に同じ幅の長い紙を差し込み、蓋を開けると中の歯車が回り、函の中へと巻き取られてゆく。紙に開いている夥しい数の穴は徳田が目打ちを刺して開けた音符、胡桃割り人形が率いた玩具の歩兵団がごとく整然と並んでいる銀色の櫛歯に穴が引っ掛かることで音が鳴り、曲を奏でてゆく。紙巻オルゴオルというらしい。

ふたりは花の円舞曲が始まる前に小走りでホールの中心に立ち、向き合って一礼、徳田の右手は久米の背へ、久米の左手は徳田の右肩の裏へ、空いた二本の手は腕を伸ばして握り合う。前世では交流はありこそすれダンスを共にしたことは、ましてどちらかを女役にするなど考えもつかなかった。――あゝ、こうして人は、人を識ってゆくのだろうか。

序盤を大幅に削ったほゞ単旋律の円舞曲が始まる。この曲に乗せて踊るのは初めてだが、さすがに双方ぶれや躓きあれど派手に転ぶことはなくなっていた。床の円い模様に沿ってステップしてみるのは如何でしょう、一度目の舞踏会にて満身創痍の果てに久米が挙げた意見が功を奏したのだろう。僕ら随分上達しちゃったよね。ごめんなさい、あの、嬉しくて、誘っていたゞいたのが。いや僕は構わないんだけど、ねえ何度も言うけどさ、僕より背丈あるのに女役でいゝの? あ、あゝはい構いません、だって――あ、ごめんなさい脚を。この程度痛くもないさ、それにしても身体が若くて良かった、僕の始めたのは所謂六十の手習いみたいなものだったからね、君は若い頃からやっていたんだろ? えゝ、三十年少し前……じゃなかった、三十歳くらいの頃です。うん言いたいことすごく解る、死んだと思ったら別人の若者になって生き返ってるんだもんね、僕なら十年と少し前だ――ダンスに関しては君のほうがずっと先輩だね、道理で女役もこなせるわけだ。あ、それ、は――!。

哀れ哉藤一房、手元にて咲き綻び始めていたにもかゝわらず、何に狼狽したか否か唐突にターンのステップを踏み損ねて床を背後に倒れ込む。片手だけ握っていた徳田も勿論上体を如何にか起こした久米に向かって雪崩れ、結局再度久米を床へ戻して仕舞った。久し振りに派手にやったな、内心の自責は後回し、ごめん大丈夫かい、慌てて重心を久米から離す徳田に久米は、普段あまり血色の好いとは言えぬ顔を赤らめたり青褪めたりで、暫しまともな声を発せずにいた。どこぞ打って仕舞ったのだろうか、頭であったなら事だ、森医師を叩き起こすも已む無しか――久米の後頭部に手を回して慎重に身体を起こさせると、久米は消え入るような声で、あの、……目が回って、そう答えた。納得出来る言い分ではあるが徳田には、言外に久米がどこか後ろ暗いものを隠しているように聴こえた。徳田自身なぜそう感じたか自問するほど、少しも引っ掛かりのない一言であった。

どこか痛めたところは? ないです、本当にたゞ目が回って。ならいゝけど……女役なんて無茶なことさせてるんだから、何かあったら僕にちゃんと言ってよ? 互い床に座り込んだ体勢の儘徳田が念押しするように言うと久米は徳田から顔を逸らし、暫時沈黙、やがてやはり蚊の鳴くようなかそけい声で言う――ごめんなさい、あの……女役は、実は――習ってるんです。

エントランスホウルに徳田の驚愕の一声が響き渡った。自ら静謐を久米に課しておいてこのざま、咄嗟に口を覆うもあまりに無意味。久米は久米でそこまで驚かれるとは思っていなかった模様、あからさまに狼狽してごめんなさいすみませんを繰り返す。混乱と動揺入り乱れること暫し、先に平静を取り戻した徳田が転生後の過去をひとつ思い出し、笑い含みに息を吐いた。――成る程、谷崎さんか。

得たり、久米が心底申し訳なさそうに肯いた。一年足らずの昔、徳田がこの姿になって二年が経った頃、久米は一年になろう、毎度誰かしらを標的に行われる図書館職員どもの暴挙、その矛先が二人、そして谷崎に向けられた。新しい衣服の支給は決して迷惑と言い切れぬとはいえ、おゝようやく袖を通したかなどと揶揄されるのは悪目立ちを厭う徳田からすれば堪ったものではない。結局酔漢と化した久米に出会うまで仕舞い込んでいたが、まさか図書館の悪質な気まぐれが活きるとは――撮影の時にも思ったけど谷崎さん当たり前のように女役こなしてたよね、何者なんだい彼は。……とても一言では。まあそうだろうね――それにしたって、谷崎さんに習ってまで僕に付き合うことなんかなかったのに、随分苦労掛けちゃったな。いえ、先生とは前世で色々お世話になりましたし、ダンスの仲間は意外と見つからないものですから、誘ってくださって本当に嬉しかったんです……オルゴオルまで用意していたゞいて。まあ、趣味が広がったからいゝさ――でもそこまで乗ってくれてるのに君、あの衣装を着けて来てくれたのは一度とないじゃないか、入り口とはいえこゝは室内だよ、外套なんて邪魔だろう? 徳田としては珍しく軽口を叩いた。――それがある意味仇となることなど如何して思い当たる、これは久米の応えを聞いたのちに幾度も考える、面映ゆい後悔だ。

初めて僕がこゝで声を掛けさせていたゞいた時――くるっと回ったでしょう、先生あの時、僕なんかを花でも愛でるような目で僕を見ていらした、ので、……あ、すみません、自意識過剰ですよ、ね、ごめんなさい、もし気持ち悪いとお思いでしたらいつでも僕は――。

その後久米が何と続けたかは覚えていない。オルゴオルが止まっていることはとうに気づいていたが、徳田は兎にも角にも逃げ腰に転じようとしている久米を留める科白を、あわよくば階段下に揃えた履き物を着けて一緒に階段を登る方法を必死に考え始めていた。毎度毎度ドレスのように舞う外套の裾を掴んで、それから――あゝそうだ、藤の儚くも美しく映える円舞曲を、探さなければ。

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