淘汰される記憶の矜持 | ナノ



#文豪と甘いもの投稿文





水曜日、森鴎外は至極機嫌が好くなる。

食べ方についてはもはや誰も口を挟むことはなくなった。彼が旨ひと思って食べてゐればそれで好い。彼の所作は普段からもさうであるが、食事を摂る手の動きには無駄がない。誰ぞは美しいと讃へ、誰ぞは手術道具を扱ってゐたからだらうと揶揄し、誰ぞは文筆家なんてだいたいペンやら鉛筆やら使ってゐなければ死んで仕舞うものだらうと的を外れてゐるのか射てゐるのか判別むつかしく評し、それら総て耳に入れることなく饅頭を茶と飯とともに平らげるのが水曜日の不文律となっている。茶を啜る音さえ立てず、綺麗に食べ尽くした彼の咥内にはどんな風味が残ってゐるのか、そこまで考えたい者はさすがとおらぬ。

森鴎外は、二万五千人を超える陸軍兵士を殺した。

厳密には、森鴎外の主張を頑として曲げなかった当時の帝國大学医学部首脳陣の判断である。兵士の食事には白米が適してゐるゆへ配給すべし、これを徹底した代償に、二万五千人超の兵士は栄養失調から脚気を発症し、戦地に立つが為に國を発った兵士は外科医である森鴎外の専門外の病でもって、生命を戦死ではなく、病死で落としていった。

森鴎外の死後、陸軍に支給されてゐた白米は海軍に倣ひ麦飯へと替へられた。この事実を、現在帝國図書館の食堂にて他の文士らと語らってゐる森鴎外本人が知ることはない。帝國大学医学部が森鴎外の死を区切りに、畢竟、陸軍の大量死をすべて森鴎外の責任にすり替えたなどと、幾ら彼に近しい文士どもであらうが、誰ぞも言え得るはずもなからう。帝國陸軍軍医総監というあまりにも大きすぎる肩書きを無視したとしても、彼が独逸で膨大な知識をその身に吸収し、日本陸軍に活かさうと苦心したのは想像に難くない――そして、結果は。

ペンを持たうが剣を構へやうが、権力を殺すことは出来ぬ。出来てせめて、道連れだ。
それでもやはり今生も国家権力に尽くすさまは、善くも悪くも愚直に過ぎる。

森鴎外の前世においてはほゞ対立関係にあったと言へよう海軍の脚気による病死者は、陸軍のそれと比べ物にならぬほど、ごくわずかであった。それでも頑なに麦を認めず白米を食べさせ続けた森鴎外の好物が、件の饅頭である。餡を包む皮はほとんどが麦で出来てゐるのを森鴎外は意識しておらぬであろう。また聞くに前世での森鴎外は、あの茶漬けは葬式で貰うもので作っては葬儀後に家で食してゐたといふ。陸軍に殺された兵士らは、饅頭を振る舞へるほどの葬儀を挙げられなかったらう。
そして今この世界、錬金術を極めんとした結果肉体を亡ぼして仕舞った錬金術師の存在も明るみになった。帝國陸軍、帝國図書館、いづれの集団に属してゐて、顔を合はせたこともない、葬儀に饅頭を出せぬ死者を森鴎外はきっと弔はぬ。それを悪とも非道とも言へまい。誰しも近しき者を悼み、新聞に載る戦争の死者に何の思ひも抱かぬやうに。当然のことなのだ。たゞ、森鴎外が葬式で貰った饅頭を茶漬けにしてゐたのはあくまで前世での話、転生した今は死という理由のない形、好物に成り下がって仕舞っただけのこと――。

一週間後、森鴎外はやはり丁寧に茶碗に盛った白米に、麦で餡を包んだ饅頭を載せ、温かな茶を注いだ。■■にこの旨さは伝はらなかった、珍しくぽつりと呟いた独白に含まれた■■は後から調べたところ、彼の実子の愛称であった。――彼はもしかしたら、知らぬ間に彼岸へと旅立った我が子を水曜日が来る度に弔ってゐるのかもしれない。二万五千の他人よりも、■■を含めた愛する家族への思ひは、森鴎外なりの、他人、それこそ家族にも計り知れぬ、矜持があるのやもしれぬ。だとしたら、毎週水曜の奇行と呼ばれる饅頭茶漬けは、誰も馬鹿にする権利はない。

二万五千の兵と少なくとも一人以上の錬金術師を悼むのは、森鴎外の領分ではない。本来の意味を忘れてゐるとしても、森鴎外は誰かを悼んでゐる――さうでなくとも、森鴎外は今この図書館にて生き、旨いと饅頭を食してゐる。その瞬間のみであっても、森鴎外の記憶にある誰かが祈られてゐるのならば――死者冥利に尽きる、のやもしれぬ。

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