#ぶんごうと楽器企画_小説投稿文 こちらの続編 雨音をさめざめと聴いていたというのに無粋なピアノは邪魔だ今すぐ辞めたまえ。 「……あ。ごめん北原、うるさかったよね? 司書さんに出して貰ったんだ、このピアノ。あゝ秋声、久米も。今日はお休みにしよう。また明日」 ――よくもまあ、自分が卒倒しなかったと思う。 「白秋さん、司書さんに何か言いました?」 訊いて来たのは本日助手を仰せつかったらしい高村であった。窓の外、空はからりと冴え渡った青色に染まっている――高村の言を無視して窓の外へ視線を向け、煙草の端が膝へ落ちるのを気づかぬ程度には、北原は動揺していた。つまるところ心当たりはあった。庭園にて煙草を拝借に来ていた石川がやおら、何の話だよ、身を乗り出す。君は聞かなくてもいゝいや聞かないでくれたまえ聞いたとしてもすぐさま忘れて欲しいのだよ、といった具合のことは口走ったと思う、そう、その程度には、動揺の速度を増して狼狽していた。――昨晩のことだ。北原は尊敬する者へ対し、失態を犯した。 「司書くんは――君に何を話した?」 「え? あゝ、特段怒ってはいませんでしたけど……まあ、言い掛かりだ、みたいなことを」 「おいおい北原先生、司書を脅したのか? 金と酒をたかる日々の俺様もそんなとこにまでは脚を踏み入れちゃねえよ?」 「……高村くんはともかく、君にまでは知られたくなかった……あゝもう、僕としたことが」 ――これもまた、石川に対する八つ当たりであることは自身解っている。そう、偶然とはいえ昨晩の雨の中、ひとり煙草を味わいながら耳にこぼれおつる雨音を何となく聴き入っていたのだった。そこへ突如聴こえたピアノの音、世辞にも巧いと言えぬ音色、そこまではよかった。それが夜半にまで及ぶなりいてもたってもいられなくなり、煙草をらしからず文机にぎゅう、と潰して司書室へ赴き、扉を開けながら言い放ったのだ――雨音をさめざめと聴いていたというのに無粋なピアノは邪魔だ今すぐ辞めたまえ、などと。 「あのピアノ、確かに美しい旋律ではなかったのだけれどね……相手が悪かったのだよ……いや、全面的に僕が悪かった……誰しも完成に至るには練習という過程を通って当たり前だというのは身をもって知っていたはず……」 「オイ大丈夫か北原」 「結局何があったんですか?」 「……あゝ、高村くんには話してもいゝとは思うんだけど――」 「おいちょっと待て俺様は無視か?」 「司書さんに何を言ったんです」 「……。やたらとピアノを司書室に置くんじゃない、と」 「あゝ……もしかして」 「北原の尊敬する島崎藤村が弾いてたとか?」 「な、……っんで解ったんだい」 「えっ本当なんですか!?」 「えゝ、それはねえわ……適当に言った俺様もさすがに引くわ……」 「――言葉の暴力とはこういうことをいうのだね……反論が一切出来ない所業を僕は犯して仕舞ったよ……」 がくり、こうべを垂れた。同時、煙草も口から離れて床へと落ちた、幸いにと石川がオイもったいねえことすんじゃねえ、拾い上げて己が唇に挟み、代わりにかこれまで味わっていた自身の煙草を差し出して来る。当然ながら遠慮という名の拒否をした。なんだよせっかくの親切心を、高村喫う? あゝ頂こうかな久し振りの煙草は。当事者ではないものどもは、どうも自分を揶揄っているようだ、やっと察した北原が恨めしく睨み上げるとやはり二人、それぞれ趣は違えど考えていることは同じとみえる。 「尊敬する人に対してたゞ謝るだけで謝罪と誠意が伝わると思うかね高村くん?」 「礼を失したことそのものに気落ちする精神は素晴らしいとは思うけど、この場合は方法が問われるだろうね石川くん」 「……君達」 「おや僕達はもしかして似たようなことを言われるかもしれないよ高村くん」 「無粋な物真似は今すぐ辞めたまえ、が妥当なところだろうね石川くん。国民詩人の言霊はいったい僕達にどう響くのだろうねえ」 「……。解った、解ったよ。素直になってやるさ。――……どうしたらいゝ、僕は」 「こんなに殊勝な白秋はなかなか拝めねえ、が。そろそろ打ち止めにしてやるか」 石川が珍しくも苦笑いをみせた。高村は普段通りの微笑みを取り戻して、うん、おそらくは石川が続ける言葉を促す。双方を見、さすがに迷惑を掛けているな――北原は嘆息、一度きりだ、双方に、特に石川へ言う。 「本当に一度だ。酒代を持とうじゃないか」 「解るじゃねえか北原」 「えゝ、僕出来れば石川くんと一緒に飲みたくないんだけど」 「北原の矜持を守ってやる為だろうが。そこだけは折れろ」 「結果が裏切る形になったら覚えておきたまえよ石川くん」 「まあまあ。借りた金は返さねえ俺だが謝り方に関してはプロだ。――司書室行くぞ」 え、高村はわずか驚き、北原はいかにも嫌そうな顔をした。そういうとこがお前の脚を泥濘に沈めてんだぞ恥を棄てろ、立ち上がった石川が北原の腕を掴む。ようやく煙草を返して来たが随分と短くなって仕舞っていた。仕方なく灰皿へ潰すと高村も倣うので、これは結局司書室へゆくを得まい。あゝ、未だ肚を括れぬ儘連れてゆかれる司書室にはきっと、あのピアノは出した儘放ってあろう。ちなみに腕はいつの間にか高村に引っ張られていた。――生命はさすがに、今生は、惜しい。 「いゝか、お前ら。……すげえなこりゃ」 「すごいのは君の所業だよ。何やってるの、いゝのそんなことして?」 「開けなきゃ始まんねえだろ。高村お前解んねえの?」 「専門分野じゃないからね。えっこゝも開けていゝの? 元に戻せるよね? ……部品ごとに分けて売り捌きに出ないよね?」 「その発想はさすがになかったわ。いくらなんでもやらねえよ」 「……夢野くんとやらの真似事かい」 司書室の中、出しっ放しのアップライトピアノを認めた石川がまずしたことゝいえば、鍵盤の蓋を開ける――よりも前に、ピアノの天辺の蓋を開けるという予想外の行動だった。そこを開けるという考えを持つ者はそうそういないのではなかろうか、と高村が驚きながらも考えている間に石川は譜面を置く台の付いた正面の板をよっこらしょ、と外し、傍観者二人をさらに驚かせた。外された板の向こう側からは整然とそしておそらく寸分の緩みもなく、何十本あるか解らぬ弦や細かな金具、初めて見る道具などが現れ、さらには鍵盤の蓋は開けぬ儘に持ち上げてピアノ本体から外したかと思えば、鍵盤の下部の板までも取り外した。――石川は、ピアノを分解しているのだ。 「これが彼の、もしくは、彼女の骨かなあ」 「呑気なことを言っている場合かい」 「素手で出来るのはこゝまでだな。まあ確かに人間の肉取っ払って骨見せてるようなもんだよな、これ」 「悪趣味だよ石川くん。君はいったい何を突然」 「いゝか北原。これは、お前の作ったものを進化させるとんでもねえ代物だ」 意味が解らない、北原が訊くより先に、そういえば石川くんオルガンやってたんだっけ、と、きっと石川に詰め寄る北原を制する為に横槍を入れた。ピアノから外した肉を部位ごとに丁寧に床に並べ終えた石川はピアノ用の椅子に掛け、いつからか浮いていた額の汗を手の甲で拭ってから、おう、応えた。 「北原の書いた詩が歌になって、教師が伴奏弾いて生徒が歌う。そんなのどこの小学校でも必ずと言っていゝほどあっただろうな。なんせ国民詩人様だ」 「石川くん、言い方」 「が。そんな国民詩人様は先程仰った――誰しも完成に至るには練習という過程を通って当たり前だ、ってな。北原隆吉は北原白秋に至るまでにも同じ経過を通ったことを北原白秋は知ってるわけだ」 「……まあ、言ったけれどね。さっきは」 「俺様やお前らが生まれてそこらの頃にもそんな奴はいた。その一人は、それまで海外でしか造られてなかったオルガンを自力で造った。遂にはこの国で初のピアノ製造までしちまったらしい。聞いた話じゃ今の世でも小学校じゃオルガンやピアノを伴奏にお前の詩の童謡を習うそうじゃねえか。この中身見りゃ解るだろ、より好い音を鳴らす為にこいつはこんなに複雑なんだ。もっと言やあ、音だってこの弦の緩み一ミリで狂う。お前の詩を歌う子供だって――」 「もういゝ。解ったよ」 北原が言葉を遮った。緩く首を振り、浅はかだった、呟いた。 「島崎先生相手だけじゃない。肉を支える骨を作る過程は誰相手であっても、それを見聞きした時には決して軽んじたり怒鳴り込んだりしてはならない。その骨が自分にとって何の関係がなくとも。そういうことだろう?」 「ま、そういうことだ。理詰めで挑むと確実に負けるって解ってたからよ、島崎藤村が弾いてたピアノを保険にしちまった」 「あっそうだよ石川くん先生が弾いたピアノに何をしてくれてるんだい」 「まあまあ白秋さん、ピアノはどれも必ず調律師が触るものだし、そもそもこれは司書さんのものですから」 「……。こんなもの、どれほどの血肉を斬って造り上げたのだろうね」 北原が中身剥き出しのピアノに歩み寄り、鍵盤を一つ、慎重に押した。ぽおぉん――偶然にもそこは、八十八ある鍵盤のちょうど真ん中、すべての音の基礎になる箇所だった。 「さて北原先生、お歌の時間だぞ」 「――。は?」 「高村、お前島崎先生呼んで来い」 「解った。見つからなかったらごめんね、なるべく時間を掛けてゆっくり捜すから」 「……つまり何だい、僕がピアノの練習してるところを島崎先生に見せるつもりかい!?」 「は? 違えよ」 「そうですよ。白秋さんは歌うほうでしょう?」 当たり前とばかりに言う二人に北原はたゞ絶句する。それを良しと高村はさっさと司書室を辞して仕舞うし、石川は立ち上がってピアノを先程とは逆の順序で組み立て直し始めた。部品は寸分狂わず嵌り、元の形を、あるべき形を取り戻してゆく。そのあるべき形とやらになるまでにいったい何人が魂を込めたのかは解らない。途中、志半ばであるべき形を見ることなく此岸を去った者も何人といよう。 「最近よお、俺、足掻いてねえ気がすんだわ。……お前はどうよ?」 ――石川とて、血反吐を作品に変えて変えて、変え切れなかったと思われる。しかし、遺った石川の血反吐の産物を愛する者が少なくともこの図書館に二人いる。北原もおそらく高村も例外ではない、が。 自分は、島崎藤村の作品という名の血涙のかたまりを愛している。 そして、自分の心血を愛する者が今もこの世にいるというのなら。 「足掻きが過ぎてくたばるんじゃないよ」 「馬鹿にすんな、俺様だってな」 「僕も。……くたばる寸前まで、この心身削った滓を集めて組み立てゝやろうじゃないか」 「――。言葉が悪いぜ? 国民詩人」 終いに椅子を元の場所へ戻した石川は机へ向かい、さてこゝになぜか童謡集の楽譜があります、机上から大判の冊子を拾い上げて掲げてみせた。いつの間に、問うより先に石川はその楽譜を北原に押しつけ、ピアノの前へ腰を据えた。滑らかとは言えぬ指運びで一音ずつ鳴らされた一オクターヴ八音は、にわか雨の先触れに似ているように思えなくもなかった。 「雨、雨、降れ、降れ。か。何だかおかしいね。いや、面映ゆいというやつかな」 「ん、それ載ってたな。楽譜こゝ置いてくれ」 「あゝ、何頁だったかな。目次は――」 ぱらぱらりと捲る紙にくっきりと刻まれた、悪足掻きに身を投じた者どもの第二の血糊。確かにこれは忘れられては悔しいし哀しいし憤ろしい。そう思うのが自分だけではないらしいこの世界も、まあ、最善ではないが、悪くはないかもしれぬ。 愛される喜びと愛す誇りはまだ、忘れてはならないのだ。 「今どんな気持ちですか? って訊いてもいゝですか?」 「うゝん……僕の詩を好きだって言ってくれてるんだよね? だったら嬉しいよ」 「この歌、彼が書いたんですよ。それを彼本人が歌ってる。いつかあなたに披露することになるでしょうね、石川くんのことだから。だから窓から司書室に侵入して取材するのはやめてあげてください」 「それは残念だけど。でもどうして僕に披露するの? 北原が」 「――先生を叱責したことゝ逃げたこと、謝っていないこと全部清算させるつもりなんでしょう。あとは僕ら根幹の部分で色々。しかし、白秋さんが石川くんに矜持を折られてることに気づいていないのは珍しい」 「僕は別に怒ってないんだけどな……でも」 「でも?」 「この歌は――巧くはないけど、とっても、好いね」 「いつか、そう言ってあげてくださいね。――この世に僕らが在る限り」 | |