こどものあそび、卒業するわ。 こうもまた、酒の匂い漂いし嘘を吐く。本心なんてとうに知れていよう、誰よりも死にたくないから死んで仕舞おうとして死んで仕舞った。あれから七十年である。川面から引き摺りだされたわりには奇麗であった身体を、空になった魂の殻を悼む覚悟が出来るまで、どれほど苦しかったか当人は解るまい――正確には、解って貰っては困る、といったところか。まァたお兄サン妙なこと言い出しよるわ、早々に茶化したのは唯一素面の織田で、坂口がそこでやっと、太宰は俺のフアンなんだよなァそうなんだろ、片頬を吊り、もう片方の頬の内側を奥歯で噛み締めながらもどうにか笑ってみせた、ことが出来たようだった。各々、望まない死にざま――だと思う、おそらく――そんな最期を世間と文壇に叩きつけるや否や、まったく別人の姿となって今を生きている。今日も今日とて酒は旨いらしい。織田はひとり珈琲を呑んでいた。 そうかてめえさては不良少年を齧ったな、ちゃんと読んでねえだろう太宰。え、そりゃ内容が内容だしそれにさぁ、あんなに安吾が俺を買ってたとは思わなくって、ついさっき……まあ確かにちょっとだけ読んだだけだけど、つまり俺と芥川先生がお揃いってことでいゝんだよな? え、そうなん、いや何がお揃いなん、あかんやろ尊敬する人と共通項あるなんて……羨ましいわァ。だろだろそうだろ、オダサクは誰かとお揃いってないだろ? まあ探せばあるやろけど、ワシはそんな欲しがりサンやないから。織田は眉尻を下げながらも肩を揺らして笑っている。――この男も読んだな、そして知ったのだ、太宰のおわりを、そのおわりを思った自分を。あゝ、坂口は笑いながらも唸る。丸裸にされている気分なのやもしれぬ。 それで、今生で太宰クンはどうやって死にたいんや? そう――唯一理不尽に、死を受け容れながらも死に方を選べずに赤い海に呑まれた織田の、なんと穏やかな貌よ。対して太宰は笑みながらも両眉を深く寄せた。未だ、前回の生の処分の仕方を悔いている、よりかは、恐れているとみえる。だからこうして自虐へ走っては口先だけの憐憫を欲するのだ、酒という燃料で己を焚きつけて――自身も二人も傷つけるような本音を嘘という形に取り繕って吐き出す。太宰が最も欲している台詞を二人は心得ながら、やはり、本音ではない嘘を贈る。 今回は俺やっちゃうわ、お前らの死に水取っちゃうわ。うッわあ言ったよコイツ、聴いたかよオダサク? 聴いたしッかり聴いてもうたわ、これほど信憑性のない嘘はあかんで太宰クン。二人揃って酷いこと言うよなあ。ほらみろやっぱり嘘じゃねえか、愉快にならねえ嘘は誰かが傷つくように出来てるってことを学べよアンタは。味わうにしては勢いよく坂口が酒を三口ほど呷った。そろそろ機嫌が悪い頃になってきたか、坂口は織田に断りもなく彼の珈琲を奪って一口啜り、織田の手許へ戻してから、珈琲を二つ、と注文を入れる。おっ奢ってくれちゃう? 馬ァ鹿、馬鹿なこと言う奴に奢る珈琲なんかあるかよ、俺とオダサクんだよ。あれ、えらいやっさしいやんお兄サン。俺には優しくないんですけど? 太宰クンは自業自得やからあかん、まァ可哀想やしワシが奢ったろか? ……弟分に奢らせる奴があるかよ、あーもうバーテンさん俺これと同じのおかわり。 わざとだな、坂口と織田が解り易くにやにやしている。話に聞くに、彼らはお揃い、というものがあまりないらしい。見たところ髪の三つ編みは太宰と織田はお揃いで坂口にはなし、上着は坂口と織田がジャンパーで太宰は円外套のような羽織、話し口は織田のみ訛りが強く坂口と太宰は訛りがない。細かく上げれば眼鏡や髪飾り――おそらく大切なのだろう身に着けている本の位置まで、三人一緒、がないのだ。酒が入っている今はともあれ、どうやら進んでお揃いを求めているわけではなさそうだが、太宰は坂口と織田に見透かされると解っていてあえて珈琲を避けた。 「ひとくゝりにされるのはどうやら、嫌とみえる」 ――揃った。彼ら三人の視線が、こちらへと、揃って向けられた。 俺らを知ってんのか。さあ、好い人以外は憶えないことにしていますから。えぇバーテンさん何者、俺ら初めてここ来たよね? 然様に、何者でもございませんよゥ、あゝ何かお食事召し上がります、ずうッと飲んでばかりでしょう。そう問うてはみれど、三者は揃って呆然としていた。 「……アンタ、まさか――」 「駄目ですよ」 三人はおそらく、三人別人を思い浮かべている。だから自分は、しがないバーテンに詮索は止してくれ、みたいなことを婉曲に言って笑った――三者それぞれに、違った微笑みを向けることが出来た。 だからまあ、そういうもの、なのだろう。『私』は。 「貴方がそう思うのなら、そうなんでしょう」 『私』は『私』が解らないが、貴方が呼ぶならそう在ります。そう在る資格があるならば。だから他おふたり、他おひとりの為に『私』を譲ってはもらえませんか――なァんて殊勝で豪胆なことは言わない。変に混乱されても困るし、ありはしないが『私』を取り合うなんて修羅場をさせたくはないし見たくもない。本当に自分が誰なのか解っていないのだ。フアンとやらかもしれないし彼らと生をともにした存在かもしれないし彼らを攻撃したものかもしれないし、あるいは何の関わり合いもないなにかかもしれない。男か女か双方かどちらでもないか、そもそも人間かどうかも『私』は知らないが。 『私』は出会ったのだ。己が生命削るを全うして死に、無慈悲に生き返らされた、たましひ、みっつに。 「毎日お疲れさまです。お休みの今日くらいはいろいろなしがらみや、無理矢理に課されたお仕事を忘れてお酒を愉しんで――と思っていたのですが。自分が水を差して仕舞ったようですね」 「待て、いったい――」 「誰でもあり、誰でもないのだと思います。そんな曖昧な、たましひですよ」 「何を言って」 「……そんなもの、に触れてくれて――ありがとう。■■さん」 は、っと三者の顔が強張った。『私』が呼んだ名はおそらく、それぞれに別のものと聴こえたろう。だがそんなことは自分にとってはどうでもいゝ。たゞ――たゞ、誇らしく思う。 またのお越しを。その時の『私』は、『私』ではないかもしれませんが。 「さあ――朝です。……おやすみなさい」 ……ぁあ、おい起きろ。うゝ、え……ぅん、今何時、オダサク起きろ、安吾今何時だ。あゝっと――どこだ時計。おはよォさん……時計、時計あったでこゝ、五時や。えゝ、休みなのに早起きすぎない俺達、どんだけ今日を楽しみにしてたんだよお前らも俺も。……そう寝惚けてたかったぜ、目も頭も醒めちまったよ俺は。うん……これ完全に西日やわ、朝日やのうて夕日やわ。……ッえ嘘お、俺ら昨日の鍋から休み丸々一日惰眠に費やしたの!? 安吾の部屋の所為やぁ、休日という貴重な一日さえも無碍にするほど堕落してもうた。オダサクの意見全面賛成、どうしてくれんだ安吾。清々しい言いがかりをどうも、そんな俺は残り少ない休日を満喫しようと思うんだがどうだ? そっちは安吾に全面賛成、なあ呑み行こうぜ、俺変な夢見たんだよ、その話したい。あっワシも久々に夢見た。本当にアンタ久々に寝たよな。これでしばらく寝なくて済むとか思うなよお前。そんなこと思ってませんー。……愉快にならない嘘は誰かが傷つくように出来てるってことをそろそろ覚えたまえ織田君。そうだそうだー。……ごめんて、で、どこ行く? そうだな、今まで行ったことない――あ、そうだ、この間見かけたとこなんだがな。 彼らはずっと、個の為と嘘を吐きながら二人の為に、結果として彼ら三人の為に戦うのやもしれぬ。随分とキリストは酷いことをするではないか――だからではないが、選ばれないこのたましひは、貴重な休みに酒でも用意してどこかでいつも待っていようではないか。おっと、もう来客かさあさ店を開けよう――選ばれなかったたゞひとつの、選ばれた者らの羽休めとなる為に。 最後の三行を句点で区切って頭文字をひらがなにして並べると | |