#文アル星空ノ浪漫企画投稿文 墨色に暮れた空は厚い雲でほとんど蓋をされて仕舞っている。降雨の予報は聴かなかったが、天泣程近しといったところ、湿った生温い風が気まぐれに吹いては窓硝子をかたかたと揺らし続ける。曇天の宵は晴天のそれとは別物のような重苦しさ、見上げるや、地上はおろかこの心身をも圧し潰さんと鬱屈が襲い掛かって来た。雨があるほうがまだ気が紛れる――陰鬱な夜覗く窓辺に設えた文机に向かい、転がらぬよう本やら万年筆やらで囲っておいた球体をそっと手に取った。調度、片手の平に載る程度の大きさである。時の流れとは恐ろしい、同時、もう乾いたな、まったく違うことを考え、球体の表面をゆっくりと見つめた。 この時代、地球儀はおろか月球儀などというものさえ紙一枚の印刷物から造り上げられて仕舞うらしい。らしい、というのは、折れ線と糊代に従い組み上げることは出来たものゝ、この目で正しい完成品を見たことがないからだ。何であれ、こんな分野でも器用貧乏は発揮されるのか、溜息のみで自嘲する。 月は綺麗ではない。 師に反目する気は全くない。たゞ、この月球儀を見てしみじみ思ったことだ。晴れの海、嵐の大洋、虹の入り江――隙間を許さぬ勢いで書かれている、月上の地名。 月が如何にして生まれたか、地上に生きる者どもほとんどが識らぬことだろう。そして地上に生きる者どもほとんどが無条件に月を美しいと思っている。例に漏れず師も自分も存在の起源を識らず語らず、夜の灯りを讃美し言葉あるいは作品にその姿を垣間見せていた。師であれ誰であれ――彼、であれ、誰と絞らずとも毎夜のように中空に浮かぶ象牙色の存在を、美しい、と貴ぶのであろう。しかし今では、あまりにも哀れに思える。 晴れの海、嵐の大洋、虹の入り江。どれもこれも――石くれ投げられ刻まれた傷だ。 こんな自分に哀れまれるのも噴飯に過ぎようが、たとえば長髪の女、兎の餅搗き、蟇蛙――月の窪みを当て嵌めた枚挙暇なき絵、それらがいったい幾千幾万数え切れぬ石や星やの激突で抉られた傷痕にて描かれたのかと考えるや、あの灯りは何と満身創痍の痛々しい姿だろう。組み上げた月球儀は所詮折り紙を複雑化しただけのもの、完璧な球体になるはずもなく折れ線の凹凸が均等に在る。これを不服と思うならば、月を美しく見せている傷痕をも悪と思わねばならぬであろう。やれ山やれ海、なかなかに洒落た名をつけられて球形の地に散りばめられている太古の貰い事故。手放しに讃美するにはあまりに哀しいではないか――そう、目を伏せようとした刹那。 ……ぞ、ぞぞぞぞ、ずずず、ず。 は、ッと、息を呑み、手中の月を取り落としそうになり、寸でで留める。数え切れぬ傷の名が、なぜか一斉に動き出した、ように思えた――いつの間にか鼓動は逸り、呼吸も乱れている。片手の袖口にて眼鏡を拭えど視界は現在の精神状態にしては明瞭、息遣いが収まろうが月球儀の文字達は混沌の儘、さりとて動きもしておらぬ。錯覚か、安堵の嘆息のゝち、冷静に近づきつゝある頭はしかし、やはりとも言うべきか、善くない可能性について考える。 名前が文字で羅列されている以上、これもまた、読み物か。 ならば――先程の錯覚は。 初めて象牙色の地に足を踏み出した宇宙飛行士は自分とは違い常に冷静で、いざ降り立たんと相成ったその時起きた非常事態にも最良の手で対応し、人類最初の一歩の足跡を残したという。のちに結婚指環を嵌めた指を吹っ飛ばされた時でさえ、狼狽なく指を拾い上げ病院へ持ってゆき事なきを得たそうだ。そんな男がもし、これもあるいは傷と言えよう二センチメートル以上五・五センチメートル未満に窪んだ足跡を含めた月の地が突如歪んだらさて、どう出よう。自分より未来に死んだ男に訊ねる術はあるはずもなく、万にひとつあの錯覚が真実であった場合、対峙出来るのは今自分以外おらぬ。気の所為と一笑に付すには恐ろしさに過ぎる一瞬であった。しかしなぜ――真実であるにしろないにしろ、こんな自分がこんな大役を仰せつかって仕舞ったのか。 「……傷を治すでもなく、元の位置に戻せ、かな」 自分らしいといえばそうか、ようやく、ようやく、少しだけ笑えることが出来た――さりとて手中の不安の拭い方まではすぐさま思いつくなど無理な話、自分への慰めにしかならぬが、球体を毀さぬよう、そしてそこにあるべき傷を思い出させるよう、黒手袋を外して表面を撫ぜた――護るように、抉るように。 ふと、窓が風でがたりと大きく鳴った。同時、頭上が酷く頼りなくだが僅か、明るくなった。思わず見上げると、立ち込めていたはずの重く厚い曇天にぽかり、穴が開いている。その只中、円い象牙色が滲むように浮いている。何と都合の好い慰め方をしてくれる、暫時見つめ、較べるように掌の球体を掲げた。 「……美醜はもういゝ。あなたはどれほど――痛かったんだ」 ぼろぼろの姿を、貴きものなどとされて。 またしても風が窓を叩く。雲が流れ、元通りとばかりに灯りは失われた。しかしもはや自分は識っている。隠れた傷だらけの身体も毀れた刃も。――傷に囚われている『僕』自身も。 堪えた痛みの証は魂あるいは空に文字に。どこにでもあるのは確かなのだ。――これを果たして特務司書は、理解してくれるだろうか。 | |