夜の帳が下りた頃だった。 僕は洗い物を終え、今日の晩酌を考えていた。マルとモロは眠り、侑子さんは煙管を呑みながらモコナとともに縁側で随分と旧い漫画本を読んでいた。さて今日はどうしようか、明日は今のところ来客の予定はないそうだから深く呑む腹積もりだろう──取り敢えず酒蔵へ向かおうとした、その時だ。それまで左腕に巻きついて遊んでいた無月が不意に、腕から離れて居間のほうへ身体を泳がせ、尾で襟を引っ張った。呼んでいるのか、割烹着の裾で両手を拭きながら、突然どうしたんだよ、と居間のほうへ倣うと、縁側にいた二人は漫画を読む手を止めていた。侑子さんに至っては、煙管を盆に預けて姿勢を正していた。 その二人の向く、すっかり昏い庭の中。 「あの、大変失礼ですが……気がついたら、ここに」 幾分草臥れたスーツを着た男性だった。闇夜の遠目でも解る白い髪──いや、そんなことはあまりにも、あまりにも瑣末だった。上がって頂戴、おそらく客であるその男性に対して発した侑子さんの声色は、平生とわずかに異なって聴こえた。──それはそうだろう。目眩、吐き気さえ覚え、ふらつきそうになるのを懸命に堪えた。 「四月一日、お茶の用意を。今日のおやつの牡丹餅、まだあるわよね?」 振り返った侑子さんは薄く笑んでいた。モコナがぴょこぴょこと飛んで来る。無月は襟を掴んだ儘、毛並みを逆立てた。僕はその男性からすぐに視線を逸らし、解りました、後ろ背に答えて再び台所に向かい──胃の中身を、吐けるだけ吐いた。 何だ。なんだ、なんなんだ、あれは。 アヤカシなんて遠く及ばない、何かがふたつも憑いている。 昼に作った牡丹餅で申し訳なかったが、とても今から何かを作ることは出来ない。多分侑子さんも僕の状態が解っていて言い添えたのだろうが、偶然にも──これも必然に当たるのか、男性が好物とするものらしかった。侑子さんが一頻りここについて説明する間、男性はこちらが心配して仕舞うほどに恐縮していた。侑子さんに促されてようやく茶と牡丹餅に手を伸ばした男性は、段々と強張った顔を緩めていった。 ──人、である。確かに、あまりにも普通の人間だ。にもかかわらず、ふたつの強烈な気配が纏わりついている。未だに直視が出来ない、吐き気を催しても仕方がないほどの、執着。人が生み出すものとは到底思えないが、他に形容する種を僕は知らない。 「それで──それだけの御二人に守護されている貴方の、願いとはいったい何かしら」 侑子さんの問いに、男性がびくりと肩を震わせた。 「いる、んですか。あいつらは、ここに」 「そのものではないけれど、想いだけは貴方にあるわ」 「……。死んではいないのですか」 「ええ。それぞれ途方もない存在だから、易々と害されたりなんてしないわ。──四月一日」 「あ、はい」 「あなた、この方と面識はあった?」 「は?」 思いがけずの問いに僕は勿論、男性も驚いて侑子さんを見、揃って顔を見合わせた。少なくとも僕は知らない。知っていれば早々に侑子さんに伝えているはずだ。対して男性は首を傾け、じっ、と僕を見てから、解りません、と答えた。 「解らない──」 「私は、もう、誰とどう繋がっているのか解らんのです。人とも、人ならざるものとも」 「見えて仕舞うから?」 「ええ。その上、あいつらはみんな口が軽い」 「随分と気に掛けられているようね」 気に掛けられている、それはこの気配の持ち主のことだろうか。勘繰るも侑子さんは、大丈夫よ、と男性に語り掛ける。 「さっきも言った通り、ここは願いを叶えるミセ。願いがなければ来ることが出来ない。にもかかわらず、貴方を想う御二人の執着は貴方と一緒に来た。実体こそないけれど、これはあり得ないことなのよ」 「はあ──」 「まして、幽霊族はこちらにはいない存在。こちらで気配を目の当たりにするのは初めて」 「幽霊族を御存知なのですか」 「こちらの世界にはいないわ。伝説の存在よ」 「……ここは、別世界なのですか」 「驚かないのね」 「そうですね。……驚くことには慣れたといいますか、もう、疲れた、といいますか」 男性は居心地の悪そうに唇を歪めた。無月は相変わらず、男性を──男性に纏わりつく気配に警戒している。大丈夫だよ、と撫でてやるも一向に落ち着いてくれない。あの気配が男性を守るモノであるのならこちらに危害を加えることはないだろうし、侑子さんが言うにはそもそも実体がない、想いだけのモノだ。侮るわけではないが、敵対する意味はない。 何を、恐れている? 「だから、その御二人以外で貴方を知るモノはここにはいない。……貴方の願いは御二人に知られてはならないことかしら?」 「……。そう、そうか、なら、安心しました。あの二人には、関係のないことなので。知られたとしても、何も言わんでしょう。もう会うことはないでしょうし」 「──本題に入りましょうか。貴方の願い、聞かせて頂戴」 侑子さんの問いに男性は、牡丹餅を目にする前の萎縮した態度に戻りかけ、しかしすぐ居住まいをきりっと正して深々と頭を下げた。 「私の知人の娘の記憶を──少しだけ、消してほしいのです」 無月が吠えた。その先、伏せた顔──傷を負った左目のあたりから、青黒い煙のようなものがずるりと漂うのが見えた。 「人だ」 思わず、呟いて仕舞った。男性を守るように在るふたつの想いとはまるっきり、まったく違う。人の、怨嗟──これこそ、吐き気を催すほどの。侑子さんは僕をちらりと見、モコナはまさに僕の一言を反芻したが、男性は動かない儘に頭を下げ続けた。 「そのお嬢さんは──誰の為に消したいの?」 「……人を、呪うひとの為です。あの家族は壊れちゃならない。俺、みたいに」 「本人の意思ではないのね。貴方にそんなことをする意味は?」 「それは多分──僕の記憶の中にあると思います。忘れて仕舞ったものですが、ですから」 侑子さんは静かに男性を見つめている。左目から這い出た青黒い煙は、蛇──いや、何かの尾のようだ。こんな禍々しい尾など、見たことはない、が──。 ああ、そうか。 僕自身がさっき、口を滑らせたんじゃないか。 「あなたは『ソレ』に、何を差し出せる?」 「──きっと眠っている、俺の記憶を。癲狂院さえ奨められた、俺をいかれと言わせる原因の三日間の記憶のすべてを」 「……それで、幽霊族二人の守りを喪うことになっても?」 男性は顔を重そうに上げた。その顔つきは、すでに答えを決めているようだった。青黒い尾のような影が蠢き、男性の首にゆるゆると絡みついた。それは無月の動きに似て、しかし、無月とは──まるで、違った。 ※ ※ ※ 希望だった。 希望を背負わせるにはあまりにも小さく、か弱かった。 あの子は何も知らないのだ。何も、知らなかったのだ。 だからこそ、解らなくなって仕舞った。 責める気はない。愛するには理由など要らなかったから──希望を義務づけるという重罪を背負わせたのだから。 けれど──忌避され、恐怖される為に、あの子を託されたわけでもない。 解ってはいたのだ。とにかく遠くへ、地下も防空壕もないだろう都会の道を、どこでもいいから少しでも遠くへ走り逃げてゆく中、私はひたひたと、ふらふらと、どこも目指さない儘に歩いていた。彼が手を取ってくれるまで、忘れていたのだ。 私が人間だったことを。 中空の電車から落ちる時に降って来た、黒い大小の塊。あれが、水面に向かい落ちてゆく間、私にぶつかり、貼りつき、ずるり、ずるりと、傷から出た血が固まるように、或いは岩にしがみつく藤壺のように皮膚に根づいて身体に侵入し、じくじくともぐもぐと、侵食していったのだ。聞くに百六十尺を超えるばけものが混ざり、私は銀座の只中で、只ひとり、ひとではなかった。もうひとつの希望であった、彼が私を見つけてくれるまでは。 爆風に吹っ飛ばされた四肢は、吹っ飛ばされてしかるべき四肢だったのだ。それを──余計な手を回した人間というものどもが、掻き集めてさらに黒の塊を幾つも幾つも投与した結果──私は生まれ変わって仕舞った。生き永らえたのではない。生まれ変わったのだ。だからこそあの子は、娘はずっと、私を私と思わなかった。母と見なかった。忌避させ、恐怖させたのだ。父に懐き母を恐れるあの子は正しい。解っている。私は人として生まれ変わったわけではないのだから。 ただ──なら、どうして棄て置いてくれなかったの。 母のいない家は多い。けれど、いないよりはずっといいかもしれない。少なくとも、その日その日を生き抜く為には。この国は戦後に戻ったのだから。そうだとしても、いのちは多いほうがいい? それがたとえ人でなくなるとしても? 国は、いのちに値段と重さと、意味をつけたとでもいうの? 私は人間の儘、浩一さんに明子に、人間として在りたかったのに! あなた──あなたはこれが、解るの? 解る世界があるの? 人間を憎むことを許される世界が? ええそうね、明子はまだ解らないのだから。だから浩さんを除いて、私は世界に棄てられたんだわ。 迎えてくれるというのなら、典子だなんて呼ばないで。浩一さんと明子を苦しめた私は典子なんかじゃないわ。ひとではないいきもの、あのばけものの名をあなた知っている? 私のほとんどを侵したもの、を植えつけた、にんげんとかいうばけものを憎むだけのいきものなんだから。 た知か、呉爾羅 と言ッたかしら。典子よりはまシよ、そウ呼ムデチヤウダイ、EASY。 | |