肆 | ナノ



 京極堂を訪ねるのは久々だった。
 元来の出不精が四十に差し掛かった所為で何度と上り下りをした坂が昔より歩くのが難儀になっている気がする。今日は遂に中腹あたりで転倒して仕舞しまった。両手にめり込んだ砂利を払って、道中幾度か小休憩を挟み、ようやく坂を上り切る頃には、薄く土埃に汚れたシャツは汗でじっとりと背中に貼りついていた。


 暫く歩いて『京極堂』の看板の下から中に入った。店主のしょは相変わらず客を歓待するどころか、どんな肝の据わった客も脱兎の如く逃げ出す兇悪な形相で本を読んでいた。
「邪魔するよ」
 声を掛けると京極堂は表情をその儘に私に向けたかと思いきや、顔を更に歪めて溜息をついた。
「久し振りに顔を出したかと思ったら何だいその成りは。ここはあくまで本を売っているのだよ。その腕白わんぱく小僧も顔負けの砂まみれの服はまさしく邪魔だから外に出て奇麗にして来てくれたまえ」
「ああ、すまない。これでも一応払ったんだが」
「君の一応があてになると僕が思っているというなら、僕は相当安く見られているな。君が払ったという砂をもう一度払ってから奥へ上がって来給え。僕は先に戻って手拭いと着替えを用意しておこう。──どうせ気づいていないのだろうから忠告するが、右の膝をく能く見るが良いぜ」
 云いたいことを云いたいだけ云って、京極堂は私が声を掛ける間もなく奥の座敷に引っ込んで仕舞った。律儀に従う自分が何とも莫迦莫迦ばかばかしいが、客という立場は仮令たとえ腐れ縁であっても弁えるべきだ。私は一旦外に出て、忠告とやらに従って右膝を屈んで見てみると、血が色濃くズボンの外まで滲んでいた。先程転んだ時に擦り剥いて仕舞ったらしい。気分が暗澹あんたんに沈みそうになる。

 玉砕を運良く逃れて十年以上経つが、だからといって体を大切にしようと思えるような真っ当な人間性は持ち合わせてはいない。しかし、無傷で帰還出来た癖に今更傷を負うのかと思う日もある。星の数が多いだけで命の重みを肥やしていた癖に──こんな上官の下で死んでいった部下が幽霊にでもなっていれば、嬉々として取り憑いては厭味いやみを囁くのだろう。残念ながらそれを聞き取ることが出来る程、私は私の人生に余裕を持てないのが申し訳ないところである。


 そろそろ善いだろうと勝手知ったる畳へ上がると、湿った手拭いと軟膏が机の上に用意されていた。すわろうとすると浴衣を携えた京極堂が現れる。
「全く今日はいやというか厄介な日だ。血を拭いてから着替え給えよ」
「子供を扱うような云い様をするなよ。そこらの子供に出来ることが僕には出来ないのは自分でも理解してるつもりさ」
「理解していない奴の常套句じゃないか。僕は茶を持って来る。味は期待するなよ」
「期待したことなんてないよ」
「子供の癖に云うじゃないか」
 彼にしては珍しいみどりと薄青の浴衣を畳に置いた京極堂はにやりと笑って再び引っ込んだ。その間に右足の裾を捲り上げて手拭いで血を拭いた。傷もだが長く痣が残りそうだ。私は溜息を吐き乍のろのろと浴衣に着替えた。やがて京極堂は云った通りに急須と湯呑みを二口を盆に載せて机に置き、部屋を覆う本棚のうちの一台を見て雑誌やら本やらを数冊抜き取ってからいつもの席に着いた。手に残った軟膏を手拭いで落として彼の前に坐り、湯呑みを勝手に取った。ろくに味はしないが、温いのは有難かった。


「それにしても随分派手な怪我を負ったものだね。余所見したってああも血が出ることは中々ないだろう」
 心配など微塵もない物云いだが、こういう応対は慣れている。私の話を聞く気もなさそうな素振りで雑誌を一冊開くのを前に、私は坂で転倒した時について思い出す。今回の怪我は、何も私のみの不注意で負ったわけではないのだ。
「僕も転びたくて転んだわけじゃないさ。──坂の中腹あたりで、疲れてふらっとしたのは確かだよ。そこに、男が二人、坂の上から駆け下りて来たんだ。まるで追手を撒こうとでもしているように、鬼気迫った顔をして、その二人のうち一人とぶつかって仕舞った」
 そこで、なぜか京極堂の片眉がぴくりと動いたが、私は構わず続けた。
「二人で転んだ僕に手を貸して立たせてはくれたが、何だか緊迫した様相をしていたよ。僕の無事を確認してからぐ走り去って仕舞ったから、本当に何かから逃げていたのかもしれないな。片方は目を引く髪色だったし、追われてたなら逃げ切れただろうか。万引きか何かでもしてたなら話は変わるが」
「あんなに目立つ総白髪の若者が万引きなんてするものか」
「……どうして知っているんだ?」
「乱歩の『孤島の鬼』の蓑浦みのうらくやという白髪の男が二人のうちの一人だろう」
「ああ、ああ。その通りだ。真逆まさかあの二人が君から逃げて来たとでも云うのかい」
「その真逆さ。僕を見るなり慌てふためいて出ていった。客になるかもしれなかった男達だ」
 そう言って、京極堂は先程選んでいた雑誌を開いた儘私に向けた。
「もう一人はこちらじゃないか? ──戦後に銀座と相模湾に現れた巨大生物にとどめを刺した、特攻逃れの非国民」
 雑誌を見ると、記事には男の顔写真が刷られていた。巨大生物、呉爾羅、水爆、銀座、黒い雨、海神作戦──恥知らずの非国民、いかれる怪物に特攻せり。一通り見出しだけを追って、思い出した。戦後復興の銀座をまさに戦後に引き戻した生物と、それを退治したという話──十年も前だが、戦争で死なずに生きた兵を人でなしと扱う風潮までは終わらず、そしられるのもむ無い頃であった。戦争での特攻で逃げた男が巨大生物に特攻することでつけを払った、とある。その一文が先程よりずっと暗澹たる心持ちを私にもたらした。

「僕は内地の配属だったから外の戦争を体感してはいないが、記事になぞらえれば彼──敷島浩一氏が人間のつけ、、を国民の代わりに払ってくれたようなものなんだろう。特段この記事は、戦争犯罪人よろしく好き勝手書いてはいる。然し、動く災害を止めたうちの一人は彼だ」
「……人間のつけ? どういうことだ」
「例の巨大生物だよ。海神作戦とやらで世間一部が騒がしい頃、高みの見物をしているのも暇だった僕はあの生き物にまつわる話を調べていた。大きな蜥蜴とかげ、恐竜のような生き物が海の下にいる、という話は直ぐに見つかったよ。小笠原諸島の大戸島という辺りだ。この呉爾羅ゴジラだが、蜥蜴や恐竜と伝えられているわりに──銀座に現れた生物はどうだ、恐竜は兎も角大きな蜥蜴という形ではなく、それどころか人間と同様に完全に自立して二足歩行をしていた。恐竜は今のところ二足歩行のものは前傾姿勢で歩行していたと云われているからね。──その呉爾羅と思われる巨大生物だが、破壊した銀座に何を残した?」
「……黒い雨。放射線か」
 そういうことだ、と云って京極堂は卓上の煙草に手をつけた。無心すると箱を差し出したので、有難く頂戴した。煙草を呑むのは久し振りだ。
「大きな蜥蜴が放射能を吐いて銀座を破壊する五十メートルはあろう真っ黒い山のような生物に変化する前に何があったか──放射能が関係することといえば、ビキニ環礁の水爆実験だ。原爆で人がどうなるか僕達は厭という程知らしめられたが、水爆で海中の生物──件の蜥蜴が何の迷惑もこうむらなかったとも限らない。それ以前にあの頃の海は機雷に塗れていただろう。機雷に寝床を起こされ、水爆で体を傷つけられた。人間が呉爾羅にそう、、したんだ。だから原因に復讐をした。体を自分のものとは思えない姿に変質させた、人間というものに復讐したんだ」
「それを──元海軍の有志、そして敷島氏が殺した。つけを払ったとは云えないんじゃないいか?」
「敷島氏はあくまで戦争で死なねばならなかったのだよ。特攻兵がやることは一つだ。そして国民は軍を、兵を信じていた。それなのに、、、、、日本は敗けてしまった。だから敗けたのは兵が生き延びて仕舞った所為だ、という声が上がる。呉爾羅を戦争と見立てて彼が特攻し、勝利することこそが世論の云うつけを払う、ということだ」
「それは……納得は出来ないが、解らなくもないよ」
「現に僕も敷島氏や呉爾羅に関する書籍を何冊か買った口だが、少なくとも僕は敷島氏を責める気は起きないね」
 それは私も同じだ。玉砕せよと通達があったにもかかわらず生き延びている。戦争に行かず搾取だけされ続けていた者達からすれば、軍や兵を信じるしかなかった──生き延びる兵などいてはならなかったのだ。兵にどんな事情があろうと、そんなことはどうでもいいこと、、、、、、、、だったのだ。だから呉爾羅もどうでもよかった、、、、、、、、のだろう。その人間が戦争の被害者だったとしても、加害者と同じ人間なのだから、復讐すれば善いと──。

「さて関口君。どうせ憶えていないだろうが敢えて訊いてやろう。敷島氏を見て、どう思った?」
「どう? どう、とは」
 私が鸚鵡おうむよりも下手糞な反芻をすると、京極堂は一冊の書籍を手に取って開いた。背表紙に野田何某との名前が見て取れたが、私の記憶の中にそのような名の作家はない。
「例の呉爾羅だが。あの生物の皮膚は途方もない再生力を持つらしい。呉爾羅は一度機雷を口内で爆発させられたことで負傷したそうだが、裂傷はあっという間に回復した、と居合わせた人物が語っている。銀座ではビル群に皮膚組織を削り落とされながら練り歩いていた。そして──この再生力の強い皮膚組織、これを政府が回収していた。何の為だと思う?」
「何の為──」
「地面に落ちて数日経った皮膚だ。研究するにしても全て掻き集める必要はない。一部を拝借したら残りは除染して瓦礫と一緒に処分して仕舞えばいいだろう。組織細胞はうに死滅していたかもしれないしね。銀座を立ち入り禁止にしてまで採取していたのはなぜか。──さて関口君、呉爾羅が来る数年前、東京の人口は何人減った、、、、、?」


「まさか!」


 気づけば私は声を上げ、あまつさえ身を乗り上げていた。この男の仄めかした可能性はあまりにも、あまりにも──恐ろしい。

「当時、三百十万人の生活を捨てさせられ、そのうち十一万人を焼き殺されて仕舞った東京だ。からくも生き残った人口を呉爾羅によって更に減らされれば東京が、ひいては国が立ち行かなくなる状態だった。日本には人間が必要だった、、、、、、、、、、、、のだよ。そして残念乍、呉爾羅の細胞は人間に適合して仕舞った。銀座で負傷、しくは死亡まで間もない者を一か所に集めて投与し、人間として再生させる──後遺症の可能性があったとしても、その時どんな傷もたちどころに再生させる魔法のような物体が目の前にあるなら、なさ有馬ありま水天宮すいてんぐうとばかりに使いたくなるだろうよ」
「そんな、そんなことが許されるわけが」
「人道的に? 倫理にもとる? 原爆を作って使った人間なら口が裂けても云えたことではないよ」
 ──たしかに、その通りである。部下に死ねと云ったのは、命令とはいえ、隊長の私である。働き蟻を潰したのは私であった。あの中にあって、若しも何もかも復活させられるものがそこにあったなら──坐り直してすまない、と謝るが、京極堂は返事をしない。京極堂は私に謝られるいわれなどないからだ。
「然し──だとしたら、呉爾羅に生かされている人間が、東京都内に何人もいることになる。人が足りないとはいえ、後先考えない見切り発車じゃないか。あの──あの時の銀座は」
「多くて三万人が呉爾羅によって生かされていることになるな。だがこの国の見切り発車なんて明治からのお家芸だよ。流石に除染はしただろうが──知っての通り僕は戦時中に陸軍の研究所にいたが、呉爾羅の皮膚組織のようにえげつない薬品の話、、、、、、、、、をよく聞いた。不老不死の兵を造る薬だなんて話は、日清日露の頃からあったらしい。兵隊の命は粗末に扱って当然、使えなくなれば切り捨てる──その辺りは南方帰りの君のほうが、よく理解出来るんじゃないか」
「……僕なんかより、君のいつかの客人のほうが詳しそうな気がするよ。僕なんかよりずっと話のうまそうな人だったじゃないか」
「何?」
 煙草を呑み乍ぼそぼそと呟く私に、京極堂は珍しくも心底驚いたというふうの声で訊き返した。これもまた十年程前のことだが、朧気に思い出したのだ。私がここで眠っていた時、なぜか私の話をしていた客がいた──。

「名前は知らないが、僕の脳がなんだと君と話し込んでいた、いかにもという風体の眼鏡の傷痍軍人、、、、、、、がいただろう。慥か、左手をラバウルで失くしたと後から聞いたよ」
「君は──本当にどうでもいいことばかり憶えているな。彼は僕などよりずっと妖怪の話に明るくてね。今は神戸にいる筈だ。つまり彼は僕と戦争について語らうべき相手ではない。あくまで妖怪について語らう相手なんだ」
 私の話はしてもいいということか──別段構いはしないが、その云い分だと私が妖怪だなんて高尚なものの仲間入りをしていることにならないか。揚げ足を取ろうとも思ったが、話が脱線する上やり込められるのが目に見えたので、今のところは黙することにする。

「さて、呉爾羅に突っ込んだ敷島氏だが、海神作戦では誰よりも呉爾羅に接近している。銀座の呉爾羅襲撃にも居合わせたそうだし、その前にも──四度も呉爾羅と邂逅したのは彼だけだ。彼は人為的にではなく不本意に、呉爾羅の皮膚を吸収している可能性が極めて高い」
「珍しく曖昧なことを云うじゃないか。そうだとして、敷島氏は皮膚に助けられる怪我は負っていないんじゃなかったか? なら皮膚の再生能力は彼にとってどうなる?」
「それが先程の質問だ。敷島氏の顔を見て、どう思った?」
 相槌を打つより早く、京極堂は雑誌を掲げるように見せてきた。
「十年前の写真だ。そして僕が見た限り、敷島氏は十年の時を経ても全くと云って良い程、顔つきが変わっていない。少しも老けていないんだ」
「それが、皮膚の再生能力の所為──ということか?」
「銀座で死にかけた人間達を復活させた皮膚組織を五体満足の敷島氏が摂取して仕舞った場合、何を回復させるのか。考えられるのは時が経る毎に増える傷、老化だ」
「そんなことが──いや、倫理がどうのなんて今更云わないさ。ただそれは、敷島氏は文字通り身を挺して殺した筈の呉爾羅と共に生き続けることにならないか? 黄泉返よみがえらされた銀座の被害者や……犠牲者とは違って、特攻という殺意をもって倒した呉爾羅と──」
「呉爾羅があれ一体と断定する根拠もない。また原爆だの水爆だのを爆発させようものなら、大戸島の蜥蜴の二の舞が起こる可能性だってある。抑々そもそもあの生物はいつから海底にいたのか? もしかしたら僕等人間よりずっと前から、云わばこの世界の原住民が呉爾羅なのかもしれないぜ」
「なら人間は、呉爾羅にとって途方もなく邪魔じゃないか」
「現に邪魔をしたから、呉爾羅は長い尾で銀座を拭き掃除したのだろう。そして少なくとも地上に一個体を増やすことが出来た。敷島氏という呉爾羅を」
「敷島氏が──」
 あの青年が。私に手を貸して声を掛けてくれた彼が、一体何をしたというのか。彼は私と同じく戦争に駆り出され、辛くも生きて帰って来たのだ。だからこそ生きていけばならないのに──人として。


「さて、もう一人の白髪の男だが」


 灰皿に煙草を預けた京極堂は、もう一冊の雑誌を手に取った。表紙に[[rb:確 > しっか]]りと見間違いもなく『月刊實録犯罪』とある。私は──酷く厭な予感がした。
「数年前、戦前から続くかの大企業、龍賀製薬が前触れもなく倒産した。龍賀社長は行方不明、捜索したところ、龍賀の本家がある村が村民まるごと滅んでいた。当時逝去した龍賀時貞の遺産や相続で揉めた結果の殺し合いか集団ヒステリーの成れの果てか──村一つが滅び、犠牲者の中に社長も含まれていたのはなぜか、警察が何の発表もしないのはなぜか。調べると一人だけ生存者がいた。然しそれは村とは関係のない外部の人間──」
 
 京極堂が開いた頁を卓の真ん中に置いた。ご丁寧に付箋まで貼ってある。


「これを書いたのは、君だったね?」


 筆者はいつである。紛れもなく、私であった。


「思い起こせば、現地まで取材に足を運んだが途中までしか入れなかっただの幻聴が酷かっただの散々だったと鳥口君と揃って愚痴を吐いていたな。正にこの場所で。哭倉村では転ばなかっただろうね」
「転んで悪かったな。あそこは──踏み込めば踏み込むほど足がもつれて、それになぜだか酷く厭な予感がしてね」
「白髪の御仁も同じことを云っていたな。僕を見て、なぜだか酷く厭な予感がするので失礼、と、本当に失礼なことを云って、敷島氏を引っ張って走って行って仕舞った」
「そこから坂を下って、僕とぶつかったのか──嗚呼、そうか」
「君、自分の書いたものは糞だなんだと云ったらしいが、成程慥かに人間は自分の糞になど興味はない。あの白髪の御仁が生存者М氏であるということも忘れ去ったようだ」
「……僕は、М氏と実際に会ったことはなかったんだ。更に云い訳をすると、さっきの敷島氏もそうだが、僕が赤の他人をそうそう憶えていられる性分じゃないことは君も知ってるだろう」
「開き直るんじゃない。どれ過去の楚木先生の記事を君にも解りやすく読み上げてやろう──龍賀時貞の葬儀に帝国血液銀行の社員が一名参列、その数日で村は滅んだ。唯一の生存者がその社員で、葬儀から村の壊滅までの数日の記憶を喪っている。柳原白蓮やなぎわらびゃくれん女史のように髪の色が抜けて仕舞ったのは、記憶障碍しょうがいを負ってなお精神に負荷が掛かった為と思われる」
 事実を誇張して書いた所為でどこからが私の妄想なのか解らないものを読み上げられるのは居心地が悪い。抑々過去に書き散らしたものになど愛着はないのだし──数年前の金稼ぎを掘り起こされているのが、質の悪い教師に懇懇と詰められる子供のような心地にさせられる。
「哭倉村の顛末はМ氏本人にしか知り得ない、そしてМ氏によって忘れられたことである。住民全員の死亡と村の惨憺たる有様から生還したМ氏は、戦争と遜色ない人間の醜悪なものを目撃していたのかもしれない。然しそれが何だったのか解明されるのはМ氏の快復があってこそだろう──」
 京極堂は一通り読み上げて満足したのか、『實録犯罪』を閉じた。取材が空振りだったとはいえ、何とも無責任なことをつらつらと書いたものである。その結果、帝国血液銀行から赤井書房にこっぴどくお叱りを受けた、と担当編集の鳥口がこの居間、そして我が家で幾度かぼやいていた。そもそも哭倉村の記事を依頼してきたのは鳥口本人なのだが、お叱りの詳細までは一切話さなかったのは私への気遣いだったのかもしれない。
「君──楚木先生の文体について云いたいことはあるが、それは置いておこう。村の一件から数年経つが、見たところ矢張りМ氏は快復していないようだ。老衰ではなく精神的負荷によって白髪が増えるのはよくあることだ。凡て真っ白になるのは余り例を見ないが──負荷から開放されれば白髪は色を戻す。だがМ氏はわざと脱色でもしているのかと疑うくらいの見事な白髪の儘だ」
「記憶は取り戻せていないんだろうな。彼にまだ必要ではない、思い出したら負荷が増えるぶん耐えられなくなるのかもしれない」
「そこが好い塩梅あんばいの落としどころだろうね」
 京極堂は一旦そう結び、煙を深く吸って吐いた。

 
 そういえば──あの幻聴は何だったのだろう。

 今の今まで忘れていたことにも驚きだが、当時の私はどうしてあの声を深く気に留めなかったのか。私よりはずっとお人好しで人間性もまあまあ確りしている鳥口でさえ、なンだか煩瑣うるさいですねえ、と珍しく虫の居所が悪そうにそう云い捨てただけであった。
 不思議な声だった。孤独を嘆いているような、絶望に喘いでいるような──それでいて、何かしら己に妙な自信を持っているような、頭の中にまで響く老爺の声。

 ──たすけて、助けて、救けて、援けて。


 お前ならば、たすけてくれるに決まっているだろう──屹度きっと私達には、そう聴こえていた。だから、聴こえなかったことにしたのか。それとも、たすけるに値しないものだと捉えたのだろうか。──そんなことが、ともしばし考えたが、目の前の男が遣う常套句に則れば、私のような人間にもそうした理由があの時にはあったのだろう。


「ところでセンセイ。一つ訊きたいことがあるんだがね」
「……何だよ、厭味ったらしい」
「君はどうして、哭倉村が滅んだ様子を戦争に喩えたんだ?」
「……人の糞に興味があるのかい。昔の、それも楚木逸巳が書き殴ったものなんて──強いて云えば読者に生々しさを大仰に伝える為と、僕が倒壊した村の様子を見てそう、、感じたんだ。そう思って仕舞ったからだよ。死体こそなかったが──人が大勢死んだ痕跡は、流石に解るよ」
 あの幻聴を聴き流し、昼にも拘らずくら隧道トンネルを抜けた先には、数多の黒焦げの瓦礫がれきが見渡す限り、からりと晴れた陽射しの許に広がっていた。そうだ、あれは──南方から戻った時に見た東京をその儘持って来たような、命が幾つも死んだと厭でも解る光景だった。日常に馴染んでいる筈の田畑や家や車、幼子の持つ人形までもが、生活を奪われた屍として蒼天に晒されていた。そして私は、それ以上歩を進めることがどうしても出来なかった──。
「成程。戦争に見えた原因こそ解らないが、君はそこで慥かに戦争を見たわけだ。──ならば関口君」


「敷島氏とМ氏が出会った切欠きっかけは──君だ」


 私は声を上げることも出来ず、空の湯呑みを取り落とした。

「ど、どうしてそうなるんだい。真逆──敷島氏が僕の記事を読んで、М氏に連絡を取ったとでも云わないだろうな」
「その真逆だ。関口君、僕も君も、戦争が終わった後何をしていた? ただその日その日を生き抜くだけだっただろう。だが海神作戦の面子はどうだ? 特に敷島氏だ。世間がつけを払ったと云ったように呉爾羅へ特攻した。彼は二度目の戦争を体験したんだ。そして呉爾羅という後遺症を患った。対してМ氏は? 何も憶えていないと本人が申告したのだろうが、村一つの壊滅を見た、或いは巻き込まれた結果、見れば解る重度の精神障碍を負っている。君が云うところの戦争によって──彼も、、ラバウル帰りだったね」
「ああ──玉砕命令を受けて、生き残ったんだ」
 私と同じである。
「そこまでなら彼等が知り合うことはなかっただろう。──どこかの誰かが、、、、、、、、哭倉村の一件を、戦争と喩えなければ、、、、、、、、、


 ぐらり、と視界が回りそうになる。引いたはずの汗が乾いた浴衣に染みるのが解った。


「──なぜあの二人が連れ立ってこんな古本屋を訪れたのか、すなわ
ちなぜ敷島氏とМ氏が旧友のように振る舞っていたのか──少なくとも敷島氏は、帝国血液銀行に拘りはない。海神作戦参加者はほぼ全員が被爆している。日本人は戦争で放射能に対して強く忌避感を持ったから、除染が終わった健康体だとしても被爆者の血を扱うのは躊躇われるだろう。解っていようが、無理もないことだ。──もし呉爾羅の一件以前からの知り合いだったとしたら、М氏も海神作戦に参加していたんじゃないか?」
「……М氏は参加してない。敷島氏は大戸島から先の海に進んではいない」
「つまりМ氏は呉爾羅と繋がりのある大戸島とは何ら無関係、敷島氏は敷島氏でラバウルとは何の縁もなかったわけだ。М氏が銀座の件に関わっていたら解らないが、血液銀行に勤めているなら人体に関わることには敏感だろう。どんなに事が妙な方向に転がろうが、М氏から敷島氏に接触を試みることに旨味うまみはない」


 私が繋げて仕舞ったというのか──夫々それぞれ違う災禍せんそうを見た罪なき青年二人を。


「敷島氏には、旨味とやらがあるとでも云うのかい」
 ようやく絞り出した声は、我乍酷く情けなかった。京極堂は私を暫し睨むようにじっと見、やがて煙草を潰してから──君が巻き込まれず繋いだだけで善かったよ、と呟いた。
「鳥口君に口止めされてはいたが、あの二人と会って仕舞ったんだ、話しても善いだろう。──君も鳥口君が余計なこと、、、、、
は黙っていることに気づいていたんじゃないか」
「……ああ。気を遣われていたことくらいは解っていたさ」
 私が応えると、なら善い、と京極堂は肯いて『實録犯罪』を厭でも私の視界に入るように眼前に置いた。

「楚木センセイのこの記事が出て間もなくのことだ。М氏の勤める帝国血液銀行へ、極めて悪質な嫌がらせがあった。何通もの手紙が──その内容すべ
てが、М氏を陥れる誹謗中傷だった。曰く、М氏は凡てを憶えている、記憶障碍は虚偽報告、御社を損失たらしむ事実を知り箝口令を遵守しているに過ぎない──」
「どこにそんな話が? 幾ら何でも僕はそこまで書いてはいないし、聞いたこともないぞ」
「それはそうだ。これらは敷島氏の考えたペテンだったからね」
「何だって?」
「敷島氏の目論見はこうだ。敷島氏はМ氏と接触を試みた。しかしМ氏の住所までは流石に出回ってはいない。ここでМ氏に関わる記事を掲載した出版社に訊ねるという手段を取らなかったのが彼の巧いところだ。のらりくらり暖簾に腕押しの儘とんずらは目に見えている。鳥口君なんか得意そうじゃないか」
 京極堂は誌面をとんとんと叩いて少し笑った。
「だから敷島氏は先ず、М氏の立場と面目を潰すことにした、、、、、、、、、、、、。より一層効果を期待するなら彼の職場が打ってつけだ。何たって未だ社名に帝国を冠する大企業だしね。吹き込んだ内容もМ氏が社内の裏切者と言っているようなものだから、上は直ぐさま対応する。一方М氏にしてみれば本当に身に覚えのない濡れ衣だ。戦後十年、折角坐ることが出来ている大企業の椅子から突然下ろされるなど堪ったものじゃないだろう。当然謂れのない冤罪は晴らそうとする。М氏は律儀にも差出元の書かれた手紙から、敷島浩一という人物がが自分を陥れようとしていると知った。だがこのМ氏も何が待っているか解らない顔も知らぬ相手の土俵に乗り込む程短絡的ではなく、先ずは自身の取り上げられた雑誌を刊行した出版社に連絡を取った。──その対応に駆り出されたのが、鳥口君というわけさ」
「つまりは──僕を引き摺り出そうとしたわけだ。ごうぱらなんてものではなかっただろうな、М氏は」
「何、結果的に二人連れ立ってこんな古本屋に立ち寄るような仲になったんだ、天の配剤とでも思い給え。僕はすこぶる厭な思いをしたがね」
 厭な思い──反芻した私に古書肆はまあ後で話すさ、とはぐらかした。

「ここからは鳥口君からの伝聞だが。当然の如く雑誌には凡て出版社の住所が記してある。М氏は雑誌の出版社──赤井書房に乗り込み、この記事の所為で敷島何某から迷惑を被っているとそれは笑顔で丁寧に、絵本を読み聞かせるように解り易く、脅して来た、、、、、そうだ。愛想笑いを強調されるのは僕とは違う恐ろしさがあるそうだよ。まあそれは兎も角、М氏が脅しついでに云ったことには、赤井書房を介して敷島氏に連絡を取り、М氏の実家の住所を敷島氏に教えろとのことだった。態々わざわざ敵地に乗り込むような莫迦ではない上、自分の陣地で態勢を整える算段まで考えて対峙しようという[[rb:肚 > はら]]だったのだろう」
「待ってくれよ。М氏は赤井書房だけ──『實録犯罪』だけに連絡を入れたのか? 僕以外にも取り上げた雑誌は大御所からカストリまで幾らもあっただろう」
「……これは、面倒になりそうだからあまり云いたくはないんだが」
 ふと京極堂は顔を顰め、卓に片肘を突いて長く嘆息した。


「憶えているだろう。楠本頼子と、君の書いた『舞踏仙境』、『目眩』の件」


 ああ──私は今度こそ頭を抱え、遠のきそうな意識をどうにか繋ぎ止めた。
 <黒い服>の、<手袋をした男>。私が書いた糞から生まれて仕舞った存在しない人殺し。

 二度目が起こったというのか。

「僕には理解出来ないが、君の書く文章は一定の人間を引き寄せるのかもしれない。楠本頼子然り、先程君が云った僕の知り合い、今は神戸で紙芝居の絵師をしている筈の水木と言う男なんだが、彼も君に拘泥こうでいしていた。もしかしたらМ氏も同様に、他の雑誌を放り出して君の文章にだけ引っ掛かりを憶えたのかもしれない。失くした記憶を戦争と喩えたこともあって、赤井書房に乗り込んだ──君自身とも会いたかったのかもしれないが、そこは鳥口君の配慮だな」
「僕は……この罪をどうすすげば善いんだろうか」
「重く捉えるのは止せ。二人が初めて出会った際に何があったか解らないが、先刻さっきも云っただろう。連れ立って旧友のように振る舞っていたと──それに君も見たのだろう? 二人揃って転んだ君を態々助け、一緒に走り去っていった姿を」
「それは……そうだったが」
「そんな二人がなぜ僕の店に来たと思う? М氏は敷島氏に云っていたよ──こういったところに絵本が安く売っていたりするんだ、親としては一冊でも多く買ってやりたいだろう、とね。敷島氏も同調していた。──君こそが、彼等を不幸と決めてはならないのだよ。君が繋げた二人なのだから、、、、、、、、、、、、

 そうだ──М氏には子供があった。養子であるそうだが、こんな古本屋に絵本を求めるというのなら、相当大切に育てているのだろう。敷島氏も同じくとなると、今は二人とも、子の幸福をこいねがう為だけに日々を送っているのかもしれない。もう、戦争とは何ら拘り合いのない日々を──。

「君は昔──幸福になるなら、人を辞めて仕舞えばいいと云ったな」
「地獄を地獄と思わなければ、彼等も幸福だろうよ。たった一度の戦争だって、忘れられるものじゃないんだ。彼等がそれで善いのなら──僕等が拘ることではないよ」

 京極堂はそう云って、広げていた雑誌や書籍を凡て閉じた。

 本当の幸福とは──宮沢賢治が銀河を旅する少年に云わせるより前から、人間が問い考え続ける命題である。私などが語るものではないそれは、幸福だと気づかない間こそ幸福なのかもしれない。即ち現実、浮世から離れた遥か遠いそれこそ銀河の彼方をくような者のみが知ることが出来る──。


「ところで君、厭な思いをしたという話はどうしたんだい」
 ふと思い出して訊くと、京極堂は眉根を寄せて二本目の煙草に手をつけた。私は遠慮して勝手に急須から味もしない茶を注ぐ。
「忘れていてくれなかったか。……まあ大したことじゃない。М氏だが──気味が悪い程、君と声が似ていた、、、、、、、、のだよ。僕が聞き違えるとは我乍思いもしなかったが、君の声が快活な喋り様をしたから思わず彼を凝視して仕舞った」
「そんなに──似ていたのか? そんな話、僕こそ吃驚びっくりするよ」
「ああ。その上、僕と目が合った瞬間、М氏はその声で、、、、何て云ったと思う?」

 古書肆はどんな肝の据わった客も脱兎の如く逃げ出す兇悪な形相で、煙草を吸い口を噛んでから云った。

おんみょうじ、、、、、、だ、とね」


×
「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -