参 | ナノ



「……随分、遅かったですね」

 喫茶の席に座っていた男性が、遅れて来たおそらく連れである男性をあからさまに睨み上げた。対して謝る気があるのかないのか、すまんすまん、と繰り返して向かいの席に座る。見た感じは、仲が好さそうにみえる。旧知の仲なのだろうか。

「これでも走って来たんだよ。思った以上に長い演目だった。走った所為で暑いのなんの」
「観光地を走らないでください。暑いならクリームソーダが丁度好いんじゃないですか? メロンソーダで、さくらんぼも載ってますよ」
「ああ──確かにいいかもな。あんたは? 何頼んだんだ」
「今は珈琲を。僕も観光してたんで結構歩いたから暑くて、入店した時はところ天を戴いてました」
「砂糖醤油一択だよな?」
「ふざけないでください。酢醤油以外あり得ませんよ」
「五十年以上つるんでても解り合えねえもんは解り合えねえなあ」

 メニューを開き目を通しながら笑う男性に、向かいの男性も少し表情を和らげた。気の置けない間柄だということがよく解る。思わずかつての友や教え子達が心によみがえり、酷く懐かしく感じた。

 もしかしたら私も、こんな風に彼女達とお茶を楽しむことが出来たかもしれない。

 白い髪を掻いて注文に悩んでいた男性は、やがて店員さんを呼んで粒餡の餡蜜を、合わせて向かいの男性は追加で抹茶を注文した。奢ってもらいますよ散々待たされたんですから、と言う男性に、解ってる解ってる、と白髪の男性が応えた。

「ところで、どうでした? 久し振りの落語」
「ああ、それなんだがなあ」
「え、外れでした? 昔から好きだったでしょう、あの落語家さん」
「あんたは嫌いだったよな。何でだか」
「こればっかりは解らないんですよ。どうして嫌いなのか未だにさっぱり」
「別にいいじゃねえか。一目見て嫌いだと解るだけ、人間性がイカれちゃいないってことだ」
「そうでしょうかねえ……」
「あるいはあんたの一部が拒絶した、のかもな。だったら長生きするぞ、あの人」

 もう七十超えてるからな、と我がことのように白髪の男性は嬉しそうに笑った。
 
 七十歳を過ぎた噺家を好み、五十年ともにいる、見た目は三十ほどの二人。彼らは今、何歳なのだろう。彼らにとっての昔というものは、もしかしたら本当に『昔』なのかもしれない。見た目は確かに人間だけれど、密かに人間という枠から外れている可能性はなくはない。

 ──『昔』。私はかれこれ九十年以上もこのあたりにいる。彼らはいったい、『昔』から何年存在しているのだろう。

「実は今日、演目が急遽変わったんだよ」

 お冷やで喉を潤した白髪の男性が、そう切り出した。

「珍しいんですか、それ」
「珍しいよ。今やネットで演目を調べてわざわざ足を運ぶ客が多いんだぞ」
「お客さんや偉い人が怒るんじゃないですか」
「そう思うだろ? だが、これがびっくりするほど大丈夫だった。俺もネットで調べた口で、まあ『富久』を聴きたかったんだが」
「それが変更されたけどあなたは満足した、と」
「大満足だ」
「なるほど。だから僕はここで長々と粘らなきゃならなかったんですねえ」

 にこりと笑う男性はあからさまに作られたものだ。旧知の仲ならよりいっそうそれが伝わったのだろう、手を合わせてすまない、と真っ白な頭を深々と下げる。奢りで手打ちにしませんか、との提案はすぐに呑まれたようだった。

「ところで、あんたはどこに行ってたんだ?」

 注文の品が届いて幾らか経った頃、粒餡を掬いながら白髪の男性が訊ねた。抹茶を味わっていた男性はふと正面を見、茶碗をテーブルに置いてから、観光を思い返すにしては険しい顔をする。

「……あちこちふらふら行きました。アイスキャンデー売りのおじさんが一人もいないのが印象的でしたね。店も増えていたり減っていたり──仲見世通りに舟和の支店があって。どら焼きに芋羊羹と粒餡が挟んであるんですよ。あれは美味しかった」
「最近は贅沢なもん売ってるんだなあ。芋羊羹か、一度芋焼酎と一緒にやりたい」
「……あなたは下戸なのに呑むから質が悪い。そろそろ節度を持ってください、僕が苦労するんですよ?」
「性分なんでね」
「開き直るな」
「……で。問題は」

 軽妙な応酬を続けていたかと思いきや、ふと息を吐いた白髪の男性が、極めて深刻な眼差しで向かいの男性を刺すように見た。意を汲んだらしい向かいの男性は視線の鋭さに臆することなく、ズボンのポケットにごそごそと手を突っ込んで、紙切れを一枚取り出してテーブルの真ん中に示すように置いた。

「待ち人来る、連絡なし。これで凶です。──来るかもしれない。僕は待っていたつもりはありませんけど」
「ああ──嫌な感じだな。結んで来なかったのか? 凶だろう」
「神仏の類にあれを預けたくなかったんですよ。あれが来たら、僕が殺す」
「周りに迷惑が掛かってもか?」
「申し訳ありませんが、僕の戦争なので。一度目だって何人も巻き込んだし巻き込まれた。……あなただって、そうじゃなかったとは言わせませんよ」

 脅すような強い声音だからか、白髪の男性がスプーンをテーブルに取り落とした。店内に音が響き渡ったにもかかわらず、気にする様子、というよりは、気にしている余裕さえなさそうに、頭を抱えた儘項垂れた。しばらく黙した後、そうだよな、と小さく呟いた。向かいの男性はテーブルの上のお御籤と思われるものを再びポケットにしまい込んだ。それにしたって、随分物騒な会話を聞いてしまった。殺す、戦争、巻き込んだ巻き込まれた──戦争では私も、直接会ったことはないけれど、大切な子を亡くした。亡骸のもとにさえ辿り着けなかった。この二人も、何かを喪ったのだろう。そして今なお彼らは戦っている。きっとそれは、亡くした者達の為だ。

「一応連絡……するかどうか悩むな。まったく、嫌な話を聞いちまった。さっきまでは胸を熱くして多少の楽しみを未来に見出そうとしてたってのに」
「落語の話ですか? にしても本当に長かったですね」
「ものによっては一時間超えは余裕だし、噺家が代わるがわる演じたりもするからな。ほらあの、十年くらい前か? 朝のドラマでもあっただろ」
「ああ、そういえばあったような。僕あんまりドラマ観ないもので」
「あんたにとっちゃテレビは情報収集の為だけの道具だもんな。……で、俺がこれから話すことも一時期は戦争の道具だったりしたものなんだが」

 訝る視線を浴びながら、白髪の男性は荷物の中からチラシか何か、少なくともお御籤よりは大きな紙を一枚差し出した。今日の演目だ、と言う。紙を手に取った男性は、目を瞬かせた。

「え、あなたこれ聴いたんですか? 何ですか呼んでくださいよ」
「あの落語家嫌いっつってただろ」
「いや、だってあの噺はさすがに知ってますし、生で聴けるものなら聴きたいですよ。そもそも何で突然? 昭和四十年だかに通して一回演じたきりだったじゃないですか」
「意外と詳しいな」
「仕方ないでしょう。娯楽に興じる暇がなかった期間が長すぎたんです。あなただってGHQが将棋を盤上の戦争だからと取り上げようとしていた時代を知ってるはずだ。それから、僕はあの落語家さんが何となく嫌いなだけで、落語そのものは嫌っちゃいません」
「だったら演目変更を知った時に連絡入れればよかったな。さすがに一日じゃ収まり切らん長さだから、明日も続きがあるそうだ。勿論途中からになるが聴きに行くか? 件の落語家だけじゃない、お弟子さんも総出だ」
「行きます」
「掌返しの巧いこって」

 白髪の男性が笑って、ようやくスプーンを手に取った。向かいの男性は早くも明日を待ち切れないと顔に書いてあるように、笑みを隠し切れない様子だった。

「ああ、そうだ。──おまじないのお手伝い、らしい。今回の演目変更」

 しばらくあって、白髪の男性がそう言った。おまじない、唐突に胡散臭そうな顔に切り替わった男性だが、白髪の男性は意にも介さずに肯いた。

「今日の午前に、オリンピックが終わったろ」
「ああ、今日でしたっけ」
「で、次──四年後がうちの国だろ? 引き継ぎ式とやらがあるわけだ。オリンピック旗を渡したり国旗掲揚したり国歌流したり、あとは自国アピールだな。その中で『ちちんぷいぷい』っていう歌のアレンジが流れたらしい」
「はあ」
「それを知った師匠が、無事開催される祈願を込めて、かつてのあの噺を始めようってなったわけだ。どうやら師匠、前に聖火リレーの付き添いをやったそうだ」
「それはまた凄いですね。思い入れあっての、おまじないのお手伝いですか。確か江戸時代にはすでにありましたよね、ちちんぷいぷい」
「それは俺には解らんが。歌についても俺は知らなかったし、そもそも引き継ぎ式をしてる間は俺達は移動していて観ちゃいない。高座で知った時は何だか目頭が熱くなったな。──あの呪文、我が子に何度も唱えたろ?」
「……。ええ、そうですね。痛いの飛んでけの次くらいには」

 二人には子供があるようだ。私も親となった身、子を想う表情はすぐに解る。愛おしくて仕方ない喜びと苦しみは抑えようとも滲み出てしまうのだ。夫もそうだった。娘の顔を覗くとすぐに泣きそうになっていた。私も彼らと同様、唱えたことがある。

 長く在ると、思い出に強くしがみついてしまう。
 よくないことだと解っている。こう在るようになって、最近では友達も出来たけれど、娘や夫、この目で見ることのかなわなかった孫や曾孫──家族を想うことは止められない。

 ──仕方ないわよ、私達には未来を生きられないんだから。見守るのが今の役目。

 友の一人はさっぱりとした笑顔で私にそう言った。

「奴のことが気に掛からないわけじゃありませんが。かつての未来を思い出す日があっても悪くない──です、よね」
「あの人がこの程度で怒るわけねえだろ。俺は、俺のからっぽの部分に、たった三日の中で出会っていたかもしれない人達に、あの未来を伝えたい」
「……いいと思います。すごく」

 ──そう、それでいい。それがいいんです、あなたは。
 ──忘れたのに、それでもずっと私達に与えるんだから。

 彼岸の者は見つめるのみ。歯痒く思わないわけではないけれど、私達は、幸せを願う。愛おしい人が生きているのなら。

「……というわけで、金策を練らにゃならん。晩飯は節約するぞ」
「お任せします。僕は食べなくても生きていられるので」
「馬鹿を言うな。飯が人間を作るんだぞ。軽率に人をやめようとするな」
「……。はい。すみません」
「万策尽きた時にやれ。俺も付き合う」
「結局やるのかあ……」

 ……違う。目が離せない。

 自分を大事にしなさいよと友人二人が騒ぐのは無理もない。──まあ人間、生きている時だけ無茶が出来る。だから私は、当時女の癖にはしたないという風潮の中、裾を捲って走り出すことが出来たのだ。そして娘の夫も、私が世話になった人に師事して走り、孫もオリンピックのほんの隅っこで走り──とことん走る家系になってしまった。私が走り始めてしまった所為なのは確かだし、いつか立ち止まる子が現れるだろう。だとしても私は、子供達を見守るのをやめることはない。

 さて、そろそろ隣の二人に教えてみよう。あなた達の大切な人達が明日揃って聴く落語を演じるのが、今年七十六になる私の自慢の孫と、そのお弟子さん達だということを。

 演目名、『東京オリムピック噺』。

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