壱 | ナノ



 ああもう全く毎日毎日何枚も何枚もホットケーキ焼いて、ちゃんと終わりが来るのか・・・・・・・・・・・・解らなくなるわ──キッチンのほうから店員の愚痴が聞こえた。客に聞かせる言葉では決してないだろうが、それしきのことで憤るほどの子供はここにはおらぬ。むしろホットケーキを焼くことが出来、さらに食すことが出来るだけ僥倖というもの、僻地といえど未だ瓦礫と焼跡が広がっている東京という地で、ホットケーキなどに触れられる程度には心身健康である店員や客は、おそらくだが訳ありの人間ばかりであろう。

 客のうち男が二人、窓を隣に設えたテーブルを挟み向かい合って座っていた。一人は煙草を吸い、もう一人は窓の外を眺めている。方角からして、灰燼と帰した都心のほうである。繰り返すがここは僻地、田舎であり、天災地変から難を逃れた場所である。さりとて東京都内は全域に避難のお達しあり、都民のほとんどは都外へと運ばれていった──頑と譲らず、逃げ隠れた訳ありを除いて。

「そういえばあんた、蛙食ったことあるか?」
「……。亀のほうが旨かったような。基地で偶然獲れまして」
「へえ。まあ、昔は口に入りゃ何でも食ったよな」
「蛙は焼くより煮たほうが旨いと思います。焼き鳥の外れってあんな感じなのかな」
「骨がなあ……魚より太いが鶏より細い。髄も吸えやしねえ」
「備蓄の心配してますね? 疎開先も色々練っているでしょうし、質だってどんどん上がってます。蛙や亀を捕まえるどころか、富士壺を岩から削ぎ落とすことなんてない。きっと」
「痩せ細った芋を、蒸すでもなく生で齧ることもな。今の芋は随分旨く、甘くなった」
「栗金団さえ食わず嫌いでしたよね。お互い何年損したんだろう」
「舟和の芋羊羹どら焼きは本当に旨かった。また食いたいもんだ。……次の機会があればだが」

 男達は双方、三十路の前か後かと考える程度の見た目をしていた。だが一方、煙草を嗜む男は左眼の上に傷を負い、同じく左の耳は欠け、髪はといえば一本残らずと言って誇張なきほどに、白く色が抜けている。今を生きる三十の男にしてはあまりに異様な風貌ゆえに、向かいに座すもう一人の男は瑕疵のない黒髪という極めて普通のなりが殊更際立って見えた。身体に合わぬ大きめの外套を着込んではいるが、対面する男に比べればあまりに瑣末である。──旧時代に取り残された喫茶店にあって、さらに時代錯誤な会話も、そして、それ以上に。

「東京タワーは、また駄目だったみたいですね」

 窓の外を見つめた儘の男はテーブルへ肘を突き、ずるりと姿勢を崩した。対して返答はなく、代わりに煙を吐き捨てるように通路の方へやる。その男が東京タワーに思うところがあるのは明白の態度、しかし訊ねた側は特段気に留めぬ様子で、傍らのお冷やをくいと呷って肘突いた掌に預けていた顎を遂には卓に置いた。

「あなたを怒らせるつもりはありません。でも、あなたの大切に思っている人達に見せられるようなものでは、ずっと前から、ありませんでしたよ」
「……解ってる。俺があんたの恋人の尻尾よろしく、ずるずる引き摺ってるだけだ」
「その言い方はやめろ。──うちの屋根に登って、明子や鬼太君と一緒に見ましたよね」
「ああ、二十年振りくらいの話題だな。あれは──あんたは錆止めを思い出す、ってこっそり言ってた」
「……当時で言うペンキ屋さん達には、本当に酷いことを言いました……」
「あれはあんただけじゃなかっただろ。そうだ、しゃぼん玉やったよな。俺が煙草の煙で白いしゃぼん玉作って──澄子さんに見つかって、烈火のごとく怒られた」
「今思えば、危なっかしいことを子供に強いたもんですよ。鬼太君も明子も喜んではいたようですが。澄子さんには脚向けて眠れません、今も、これからもずっと」
「鬼太郎はあの屋根喜んでたぞ、一応あれで。……まあ、明ちゃんは兎も角、鬼太郎は解ってたのか解ってなかったのか。あの日見た、あの塔が──」

 男達は思い出を懐かしむような会話をする。しかして浸るふうの口調にあらず、淡々と、昨日の夕食の献立を思い出す程度の抑揚のない感情である。そうして白髪の男は、向かいの男と同様に窓の外へ目をやった。

「あれが、何で出来ていたかなんて。……今やもう、屋根の上から見た時の姿の欠片さえ、もう、一つ残らず挿げ替えられているかもしれない」
「……十二階の存在さえ知られない時代です、何遍も壊されては造られの東京タワーは、タワー自身も本来の姿を覚えてないかもしれませんね。賽の河原の石積みだ」
「あれが鬼で人間が幼子か。まあ、人間が罪を背負ってるのは明白だ。……最初の螺子の一つでも埋め込まれてたらいいんだが、無理な注文かな」 男達は、少しだけ笑いを含んでいた。よろしくない、笑いである。東京タワー、正式名称を日本電波塔。この国の象徴的建造物のひとつであるそれは、パリのエッフェル塔をフランスの威信としていた当時、高さを追い抜いただけだとあちらの民衆からは嘲奔もあったと聞く。しかし、東京タワーにはパリの塔と決定的な違いがあったのだ。──かつての塔には確実に、あったのだ。

「未来の為に。未来に、誰が覚えているかも解らねえのに。少なくとも俺は、鬼太郎に言ったよ。国中に電波を送る塔が、戦車を溶かして建てられたものだと」

 白髪の男が言う、今や真実知らぬ者の多かろう日本電波塔を成していたもの──戦争にて、何人を殺したかも殺されたかも解らぬ兵器。それを溶かして形にし、二つの色を塗られて建った高さ三百三十三メートルの電波塔は、初代東京オリンピックを国中のテレビに映す為に電波を送った。これを知らぬ者は今この現代において、ほとんどが占めていると思われる。調べるにかの塔は、壊されすぎてしまったという。幾多数多と、世界に誇る三百三十三メートルは灰燼の一部となり、地に落ち続けて来たのである。

「忘れたくないもの、忘れてはならないもの、そんなものでさえ、記憶は失くしたり捨てていたりする。そんなものです。自分の都合好く曲げて、曲がるのが難しくなったら、どこかへぽいと放ってしまう」
「うっかり獏が夢と間違えて腹壊さなきゃいいが。のうのうと生きちまっている俺は、知らない間に幾つもの思い出を手放してるんだろうな。……あんたに出会えなければ、どうなっていたか」
「……鬼太君。鬼太君が、明子と仲好くなってくれて、本当に、良かった。鬼太君は、何にも囚われない子だったから」
「そりゃそうだ。育ての親がこんなの・・・・だぞ?」

 意地の悪そうな笑みを作って自身を指差す白髪の男を見、相対する男は応えるように自嘲した。

「こっちこそ、明ちゃんには世話になった。鬼太郎の友達になってくれて、その上こんな父親にも臆さず接してくれた」
「明子は──僕や典子が、あれの肉で身体の絡繰りが変わった所為で、本質を理解してしまう子に育ったから。僕の場合は自分からあれに突っ込んだのが原因ですが」
「あんたがああしてくれなきゃ俺達は、前の比にならん焼け野原に埋め尽くされたこの国を、見ることも出来ず死んでただろう」
「……怪物にとどめを刺した英雄は特攻逃がれの恥知らず、なんて誹りを受ける父親を、鬼太君は少しも気にせずに、色々を知ってしまった明子と友達になってくれた」
「良い子だろ、明ちゃんに負けず劣らず」
「良い子です、鬼太君に負けず劣らず」
「俺達が悪い大人になっちまったお蔭だ」
「……。でしょうね」

 煙草を灰皿に潰した男は、さらに今一本吸おうかとスーツの内ポケットを探り、しかし止めたのか、汗を掻いて久しいお冷やを取って一気に飲み干した。──やはり、と得心する。顔の左側の欠損に白髪、身体に合わない丈の外套、時代錯誤の会話。そんなものより、二人は普通の人間とは明らかに違うものとともに在る。

 煙草の白煙など及びもつかぬ、禍々しい、繭玉のような球体を成した巨大な靄が──男二人の周りを包み外から守り、害成すものなど一分の隙もなく介入を拒み排さんと蠢いている。黒と青を縒り合わせた靄──他の人間には視認が出来ていないのだろうそれは、この店に入って来て以降何よりも異質であり、それを気に留めずに在る二者はきっと、人間の形をしただけの、異形であった。当事者が言うところの、悪い大人、とやらに収まるような存在ではなかろう。

「俺は子供を捨てた。人でなしだ。……それに、もうほとんど人でもない」
「僕だって、明子の祝言を見てから行方を眩ました人でなしです」
「……明ちゃんはきっと、幸せだったろうさ。亡くなるまで、手紙のやり取りはしてたんだろう?」
「あなたが舅姑の質が悪いなら乗り込んで説教してやる、との科白が実行されなくてつくづく良かった。何だかんだ暴力や今で云う凶器に頼るあなたですから。明子が白い目で見られずに済んで」
「そうだな、明ちゃんはな」
「……おい、何十年振りに聞き捨てならないこと言うな。良かれと思って鬼太君を苦しめるようなことやらかしていないでしょうね」
「……こ、この国これでもまだ法治国家だぞ? 暴力はいけない。暴力は。仕事以外でも交渉が先じゃなきゃならん、そうだろう」
「成程、それは覚えていてくれたんですね。良かった良かった」

 比較すれば白髪の男よりもずっと貧弱な優男にみえるその男の笑顔には時折、純然ゆえに研ぎ澄まされた細い刃のような憎悪と殺意が抜き身で現れるようだ、と考える。相対している男はその刃がいかに鋭いか、理解しているのだろう。白髪の男は苦笑いを零して、今度こそ煙草の箱を取り出して一振り、正面の男に向ける。箱から覗いた一本に狐疑逡巡の男であったが、まあ久し振りだし彼もいるし、と呟き、頂戴します、一礼して言い、右手の指で受け取った。差し出した男もまた一本手に取り──そこで。

「悪いな、釣瓶火」

 ──いったい。いったい、どうしたことか。全くもって理解が出来なかった。しかしながら、二人揃って銜えた煙草は、そこに火元もない、一方が燃して火を移すわけでもない二者の距離が保たれた儘に、突然、同時に火が灯ったのである。さらに双方何かに向けて、助かる、ありがとうございます、などと礼を述べたのだ。テーブルを挟んだ二人の間に何かがあった──のだろうか。目視は出来なかったが確かに、ライターもマッチも何もないところに、突然火が煙草の先を燃やし、あまつさえ白髪の男は、確実に中空の何もない一点に視線を揺らすことなく向けていた。いったい何を、なにゆえに見ている?

「義理堅いと言うかお人好しと言うか。お前も人間じゃないからって留まらずに逃げていいんだぞ」
「……善くも悪くも、あなたの性分が呼んじゃってるんでしょう。まあ本人の言う通りに、あなたも逃げて良いんですよ、釣瓶火さん。あれは──かつてあなた達の仲間を殺した人間を、人間的な怒りを持って殺しています。僕はそれを、誰より解っている」
「……。人間か、今回は」
「人間ですよ。いつだって」

 白髪の男が煙草の吸い口を噛んだ。ほろりと落ちる灰も構わずに、正面の男を見据える。解ります、誰よりも解るからです、同じく煙草をひと吸いした男は煙の苦みにか少し眉を寄せ、煙草を指に挟んだ儘に自身の両手で首を絞めるような所作をしてみせた。白髪の男の顔が険しさを増す。

「僕の中の肉が、ここ何年か動かずにいたあれの細胞が、僕を殺そうとしている。震電とともに突っ込んだ、あの時に身体に入り込んで来た黒い肉片と放射能が、僕の神経と精神に爪を立てているのが解る。解るんです──」
「……昨日よりもか」
「昨日よりも、もしかしたら今までで一番。身体が、欠けて裂かれてゆきそうで……望むところではありますが」
「戦う術はとっくにないだろう」
「それでも僕は憎みます。僕は……典子の為にも、あれを憎み、憎まれなければならない。僕があれを憎むのをやめたら、あれは別の人間を憎んでしまうから」
「典子さんが望んでいなかったとしてもか?」
「それは、あなたがあの東京タワーを懐かしむのと同じ理由では?」

 白髪の男は言葉に窮したようであった。咄嗟に頭を抱え、低く唸って頭をかくりと垂らした──見間違いでなければ、テーブルの上にぼたぼたと血が落ちた。相対している男は狼狽するでもなく淡々と、灰落ちますよ、と備え付けの紙ナプキンを何枚かもぎ取るように引き抜いて血溜まりを覆うように置き、その上数枚を手に取ったほうはすまない、と言いながらおそらく鼻から落ちた血を拭い、落ちた赤い染みを片付けた。

「明子や鬼太君と見た、あの時もそうだった。あなたはあの塔に拘泥と執着が過ぎる。僕の知らない何かがあなたを、あの塔に憑かせようとしている気がする」
「……憑く、とかそういうんじゃない。が、だが、俺の知るタワーへ連れていかなきゃならん人達がいる、筈だ。それだけは解ってる。鬼太郎や明ちゃんと見た、あの時も」
「もう一人、いたでしょう。あの──眼球に手脚の生えたような、妙な御仁」

 小さい人の形を両手の指で形作るのに対し、結局手の甲で鼻から血を落とした男は、もう片手で頭を押さえながら、ああ、あいつ、と絞り出すように呟いた。

「そうだ、あいつも。俺ほどじゃあないが、あれに思い入れがあった」
「あの……彼は、まだ鬼太君と一緒なんですか? 実の父親なんでしょう。俄かには理解が出来ませんが」
「多分。あいつは俺なんかよりずっと、鬼太郎の父親だった」
「またそんなことを」
「あの怪物が性懲りもなく蘇らなきゃ、別れ別れにはならなかったよ。──ああ待て、あんたを責めるわけじゃない。だが、あれはあの時確かに、俺達にとっては天災だった」
「だとしても人災です。人間が馬鹿にならなければ、あれは僕達を襲うことはなかった。あの島の皆も、橘さんと橘さんの脚も、銀座……典子も、言いたくはないけどあれ自身も、呪われずに済んだ。けど、僕だけはずっとあれに生かされている、あれが僕を殺す為に──そんなことの為に今生きている人達が巻き込まれるのは……いつの時代も、人間は馬鹿で、だからいつだって何よりも怖いのは、人間なんだ」
「……全く、そんな顔しなさんな。釣瓶火も困るだろう。自分が生きてる所為で、なんて口に出さなくなっただけましにはなったが」
「あの、鬼太君達は──」
「さて。俺が逃げてるからか、あいつらが望まないからか、それとも余所に行ってるか。いずれにせよ巧く逃げられてるな、俺は」

 白髪の男は眉尻を下げて笑う。あなたも大概不器用だ、対する男も似たような笑みを浮かべた。そこで、店員が疲弊した顔つきを隠しもせずに注文の品を彼らの卓へ置いた。二人ともに、ホットケーキとクリームソーダ。綺麗、と呟く一方で、食えるうちに頂くか、双方巧く話題を逸らした模様、片やナイフとフォーク、片やパフェスプーンとストローを構え、頂きます、と食事か軽食かを始めた。どちらもなぜ冷めたり溶けたりと厄介なものを、と疑問はあるが、選ぶのは人それぞれである。人間趣味嗜好は十人十色千差万別、興味深くも立ち入るは紳士的とは決して言えぬ。

「昔から好きですね、クリームソーダとホットケーキ。僕も明子も典子も、澄子さんや橘さんでさえ好きになっちゃってましたよ」
「何でだろうなあ、好い思い出が多いからかな。いや、多いっていうよりは強いからか?」
「ホットケーキは一緒に練習しましたよねえ。典子や明子、あなたは本当に上手で……僕は遂に奇麗な円形に焼けなかった」
「あの絵本は偉大だったよなあ。まさか高校生になっても無心されるとは思わなかったが──役には立ったし、未だにあの工程は諳んじられる」
「明子なんて大学生でしたよ。喫茶のアルバイトでだいぶ活躍出来たそうで……水さんならバク宙しながらホットケーキ焼けるよって笑ってました。──まさか、練習しました?」
「……。見た目は三十くらいだからいけると思ったんだよ……」

 青と黒の靄の中、きっと人間ではない男二人は思い出話に花を咲かせ始める──が、幾らか経った頃、唐突に大きな外套の背ががくがくと震えた。衝撃でテーブルが揺れ、クリームソーダの溶けたアイスが、ぼとりとテーブルに落ちた。呼吸が荒れているのは解る、咳き込んだか喉に詰まらせたかと見立てる先、白髪の男が立ち上がって、敷さん、となぜか背をさすらずに面伏せた顔を覗く素振りをする。──そこで、見てしまった。

 外套の背、何かが内側から突き破らんかというふうに、生地が尖った瞬間を。

 大丈夫です、まだ僕は大丈夫・・・・・・・、伝えながらも己に言い聞かせているのは明白である言葉を繰り返す毎に、靄が苦しむその身に絡みついた。さすがに心配したのか忙しいはずの店員が水を湛えたピッチャーを手に駆け寄っていった。平気です、お騒がせしてすみません、店員のみならず様子をそれぞれ遠目に見ていた訳あり達に頭を下げ、座り直した。異変が落ち着いた男は先程正面の男が出血した時と同様に紙ナプキンを引っ手繰り、呼吸によって上下する両肩の速度が徐々に落ち着いてゆく間、額や首のあたりを必死で拭っているようであった。
 
 白髪の男は心底案ずる表情で様子を窺っていたが、ふと、振り返るように窓辺へと目をやった。男は窓の桟をじ、っと見つめ、何かをぼそりと呟いた。症状の収まった男はその様子を眺めるに留めている。もう二、三と何かを桟に呟いた男は、やおらホットケーキをひと口ぶんほどちぎって桟の上に置いた──すぐさま、それは手品のように一瞬で掻き消えた。先程の正体知れぬ火種といい、あの靄の中のものたちは何なのか。考え込みながら一連をいつからか見入ってしまっていたのが、らしからず隙を作ってしまった──そう思い至ったのは、ふと掛けられた声によってのことだった。
 
「あの、そこの黒スーツの方。失礼ですが」

 投げられた堅い声がこちらの方角かと我に返るや、かの靄に包まれた二人が揃ってこちらを見ている。赤色の残る人中を親指の付け根で拭う男、そこらの病人よりも顔色悪しくも眼だけは爛爛と見開かれている男。いずれも、こちらへの警戒心に加えて今にも溢れそうな敵意を堪えているような様相であった。黒と青の靄が膨らんで伸び、大蛇のように徐々にこちらへ這い寄って来る。──言い訳は必要だ。彼らと彼らの周りのものらが納得するだけの言い訳が。

「……失礼。盗み聞きは大変不作法だったと自省しております。ですが貴方がたの仰るように、人間を脅かすのが人間であるならば──」

 立ち上がって二人のテーブルに近寄り一礼するや、靄が身体に巻きついて来る。人の声ならざる呻き声が耳の近くに渦巻いた。男らは視覚と聴覚でそれを認識しているのだろう、さらに警戒を強めたようであった。気を許すには笑顔が肝要、にこりと笑って双方に向けた。

「証明します。この通り、私は人ではありません。あれのように人間に危害を加えるなど、野蛮なことはしませんよ」

 両の掌を二人に見えるように、他者には見えぬように掲げ、指二十本を開いてみせた。二人は揃って瞠目したが、こちらの首の周りから左顔半分へ擦り寄って来ていた靄が細波のごとく引くのを見たか、失礼な物言いを、申し訳ありません、それぞれ頭を下げて座り直し、冷めたホットケーキと溶けたクリームソーダに向き直った。敵ではないと判断した為、深入りはしないようだった。実に弁えている──先程苦しんでいた男は人並みの顔色に戻り、店員さんがあなたの席に来てます、とまで教えてくれる。これは礼を失した上御丁寧に、謝意を伝えて席へと戻った。無難に頼んだコーヒーはなかなかに旨かったが、どうにも触発されたらしく追加でクリームソーダとホットケーキを注文した。未だ食したことはない。店員はまたか、というふうに顔を顰めながらもキッチンへ戻っていった。

「はあ……一万二千十六年も終盤だってのに、平和に締められないもんかねえ」
「人も人でないものも、滅んでないのが良くも悪くも奇跡ですよ」
「さて、俺らはどっちだろうな。……どっちでもねえのか」

 靄に包まれた人であり人でない男達、それを見ることが出来たのはこちらとしては奇跡である──このようなことは本人達に伝えられなどしない、そんなことよりも、追々こういった者どもを管理下に置けるか否かを模索するが先決である。だが今はさらに、先に終わらせねばならぬことがある。

「あ、スマホ見てください。鼠さんから新情報です。国連の核より先に、あれの血を凍らせる目処が立ちそうだそうですよ。頼れる国から支援を受けて」
「行動力が凄まじいな、今回の対策班は。あの先生もわざわざ関わらんでいいだろうに──待て、そこに鬼太郎いないだろうな」
「これ食べ終わったら場所変えます? 僕は都内に残りますが」
「……。あんたに付き合うよ。記憶はともあれ、恩人を捨てるほど俺は人間やめちゃいない」
「そういうのは鬼太君や目玉さんに言えばいいのに……」

 現在とは未来の為にある、ゆえに人間も人間でないものも──人間をやめたものも、藻掻くのだろう。さて、未来の未来、己はこの手でどう藻掻くのか。彼らはその目で何を見るのか。今のところは考えもつかぬ盤根錯節にあり、知識と理解はまだまだ足りぬようである。


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