毒と祝福

 その少年がドンキホーテ・ファミリーに加入してから一度目の十月六日。ミョウジ・ナマエはトラファルガー・ローの部屋に勝手にケーキを運んできて、トラファルガー・ローの目の前で勝手に転び、トラファルガー・ローのためのケーキをぐしゃぐしゃに押し潰した。
 そのときトラファルガー・ローはまだ齢にして十一歳(それも成り立てほやほやだ!)であったけれど、そこいらの大人よりは余程博識かつ聡明で、すばらしい記憶力を持っていた。したがって、つい今しがたやってきた今日が自分の誕生日であることは当然ながらしっかり憶えていたし、日付が変わった瞬間に扉を蹴破るようにして部屋へ踏み入ってきたナマエが、自分を祝うためにやってきたのだろうこともその利発な脳でもって瞬時に理解していた。扉が開けられたそのとき、ああ来たのか、程度の浅い感慨とともに入口を振り向いた少年を、しかし彼と違って十一歳らしい精神性を持ったナマエは意にも解さず、祝われる本人よりも嬉しそうににこにことしていた。
 そうしてナマエは、歓喜をまとわせて呼んだ少年の名前に続き、誕生日おめでとう、の、おめで、まで言ったところで、石床に足を蹴躓かせて盛大にこけた。そういう一部始終であった。
「……何してんだ、お前」
 正面から勢いよく床へぶつかっていった彼女が数秒待っても動かないので、トラファルガー・ローは少しだけ可哀想になってそう尋ねてやった。よくよく見れば、少女の体は小刻みに震えていた。床の上で万歳をするように頭上、あるいは前方へと伸ばされた両手の先には、石床の上で見るも無惨な姿と化したケーキがとうに息絶えている。
 膝の上に広げていた本を閉じて、ベッドからぴょんと飛び降りた。二段ベッドの上ではバッファローが、反対側の壁に沿ったもうひとつのベッドにはベビー5が眠っているけれど、これだけの物音が立っても起きてくる気配はない。のんきなやつら、と内心でけなしながら、少年はケーキと一緒に死にかけている少女のそばへ歩み寄った。
「おい」
 返事はない。
 少女はどうやら引きつるようにすすり泣いている。
「おいってば」
 二度目の声掛けで、少女のつるりとした頭がやっと震えた。世話係の手によって毎朝丁寧にブラシングされている彼女の髪は、今ばかりは転倒によって嵐の後のようにあちらこちらへ乱れている。
 少女があまりにみじめで可哀想なので、トラファルガー・ローはとうとう彼女の傍らにしゃがみ込んで、小さな背中をとんとんと叩いた。眠っている仲間を揺り起こすように、なるべくそっと触れるように、した。
 結果としてナマエがゆっくりと起き上がったところを見ると、そのこころがけは正解だったということになるのだろう。
「大丈夫か」
「……けーき……」
 平気、と言ったのかと思ったが、違った。両手をついてやっと持ち上げられた顔の、そこに浮かんだ二つのまなこは大きくうるんで、ケーキの変わり果てた姿を見つめている。ナマエも天井の灯りも動いてなどいないのに、瞳に宿った光の反射ばかりが揺らめいている。
「せっかく、つくったのに……」
 ぼたぼたと、しゃぼん玉のようにまんまるな涙の粒がナマエの目尻から落ちていって、ああ、と思った。頭を抱え、肩をすくめ、溜息を吐いた。面倒なので、できればこのまま部屋の電気を消して、ベッドに潜って眠りたかった。
 それをしなかったのは、トラファルガー・ローの中にわずかばかり残っていた、自身さえ知らぬ他者への同情心ゆえである。悲しいことに、少年の根本にはどうしたって自分以外へのやさしさが深く根を張っていた。いつまでも。
「がんばってつくったの……」
「ああ」
「ジョーラさんに、おしえてもらって……ローによろこんでほしくて……」
 少年は答える代わりに少女の背中をさすり続けた。
 冷たい床に叩きつけられた生クリームとスポンジはいっそグロテスクなほどぐちゃぐちゃだった。完璧でなくたって、曲がりなりとも元はケーキらしく整形されていたのだろうそれを、きっと浮き立つ気持ちとともにここまで運んできた、幼いナマエ。少女の心境は慮るに余りある。
「また作ればいいだろ」
「……だけど、ローに……誕生日だから……」
「だから、また作れば……」
 そこまで口にして、はっとした。少女が唇を結んでローを見遣るより先、少女の背を撫でていた手が止まった。
 また? 自分には未来などないのに?
 少女に伸ばした自身の手のひらは今こ一秒一秒にも白くなっている。このファミリーの戸を叩いた日から、この少女と出会った日から、少しずつ少しずつ、それでも確かに這い寄るように、しらしらと浸食されている。
 死ぬことに対して今更恐怖はないけれど、それより今、ひらめくように気が付いた。偽りの伝染病ではなく、正義を掲げた人間の手によって少年以外の国民全員が命を奪われたあの日から、トラファルガー・ローは自分の命というものをとうに見捨てている。
 未来を見据えた言葉を口にしてしまうことはおぞましい。そうであってはならないのだ。だって自分は。
 おれは。
 トラファルガー・ローは唇を噛み締める。


 出会った当初から、十一歳を迎えためでたくも何ともない今日この日に至るまで、この少女のことを一度として疑うことなく馬鹿だと思っていた。
 馬鹿なほど真面目で、馬鹿なほど信じやすくて、馬鹿なほどによく笑う。なんだって。少年が少女をいくら悪意持って詰ったり貶したりしても、まるで理解できないという様子で笑うので。
 気に喰わないやつだと前から思ってはいたけれど、今、目の前で泣きながら笑っているナマエはやはり思った以上に気に喰わないやつだった。そうね、と、すばらしい答えを見つけたかのように口を開いて、少女は少年の心をますます平然と逆撫でる。
「またつくる。またつくるわ。ロー、あなたの言う通り」
 黙った少年の苦々しい心中などつゆ知らず、ナマエはいっそ呆れるほどいとけない笑みを浮かべている。
「来年もつくるわ。再来年も、その次も、ローが大人になっても、いつまでだって。だから、ずっと一緒にいてね。バッファローも、ベビー5も、みんなで」
 飛び散った生クリームに汚れた手で、奪うように少年の手を取る。両手を包み込むように握って、ぶんぶんと上下に振り回す。
「誕生日おめでとう、ロー!」

 ケーキのしかばね。きらめく光。祝福。未来への約束。悪意などかけらもない。
 ちくしょう、と、トラファルガー・ローは舌打ちする。
 最悪の誕生日だ。



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