不規則なシラブル

 自室を出てまっさきに気づく。やけに廊下の空気が悪い。換気システムは潜水艇の要。とりわけ現在ポーラータング号は船橋以外を潜水し偉大なる航路を航行していた。モニタリングを怠っているのか、大元のスイッチをいじったのか。どちらにせよ船長室への呼び出しは確定。こんな朝っぱらからトラブル処理とは。
 時刻は午前九時すぎ。朝食後、船員は持ち場に散った時間帯。換気が停止しているため、エンジン音のみが足もとから響き渡る。とにかく廊下の空気を入れ替えたい。自室を開け放ち、この階でもっとも広い船首側の一室へ。廊下の突き当たりにたどり着くと妙な光景に出くわす。ラウンジの扉に一枚、デカデカと。

《午前中 立入禁止》

 誰だ。こんな張り紙を許可した覚えはない。ためしに後方を振り返り、他にも異変がないか廊下を見渡す。換気以外は問題なし。船長に報告しにくい件でもあるのか。ラウンジの備品破損。十分考えられる。念のため、最悪の事態も想定せねば。誰に確認をとるでもなくラウンジの扉を押し開けた。
 天井のファンは稼働中。壁掛けの船内電伝虫も異常なし。滞在者ゼロ。照明はすべて落とされている。妙に静かだ。左から右へ、ぐるりと首をまわして後悔する。天井沿いの壁に、昨日まではなかった布が。横長の二メートル超を巻き上げて吊るしてある。もうそんな日か。航海日誌を開いた時点で気づくべきだった。
 足もとの影が動く。ラウンジの床には青色の楕円形がいくつか点在していた。このゆらめく淡い光源はポーラータングの外から差し込む。楕円の中でまた黒い影が移動する。とっさに後方の窓を振り返った。ポーラータング付近を移動する物体といえば、魚。全長はヒトに近しい。尾びれは見えたが、あれは。ヒトと同じ腕、上体。影が何度か窓を通り過ぎる。無意識のうちに窓辺へ歩み寄り、立ち尽くしていた。影が減速し、こちらへ顔を見せる。いつもなら悠長に手を振ってくるが、今日は目を丸めて急接近する。大きく口を動かした。
うしろ みないで
 声ではなく口の動きで判断する。読唇術と呼ばれる大層な代物でなくとも、この程度なら造作もない。うしろといえば、あの弾幕か。やけに落ち着きがないので素直に首を横に振っておく。
「諦めろ」
 発した声が海中へ届くはずもなく。向こうはしきりに手を動かし、なにかを訴えかけている。
「ナマエ」
 動きが止まった。つまり通じた。本人の名は口の動きだけで認識できたのか。たしかにありえる話ではある。
いま なまえ よんだ?
 しっかりうなずいておく。
ごめんなさい ほかの ことば よく わからなくて
 妙にしょげている。窓ガラスに両手を置き、顔もうつむかせて。なぜ勝手に落ち込む。なぜ悲しむ。
「こんなどうでもいいことでへこむな」
 ナマエの手に自身のそれを合わせる。窓にふれてから気づく。普段ならば絶対にこんなことはしない。ガラスに指紋を付けるほど愚かな行為はないのだ。あとで拭き取っておかねば。一度指紋を付けてしまったからには開きなおる。もう片方の手もナマエに重ねた。ようやく目が合う。
「聞こえるか」
 ためしに声を張ってみる。そもそもポーラータング号の窓は高水圧に耐えるため、普通のガラスではない。こんな窓越しの会話など、設計時に想定できるはずが。
「顔を見せろ。口の動きで読める」
 反応なし。目線が下がっているため、こちらが膝を曲げて下からのぞき込む。ナマエが目を丸めた。いまいち意図が伝わっていないので、こちらもジェスチャーで対応する。まずは自身の唇を指差す。そして口を開閉する。わかりやすい単語といえば、
「もっと、笑え」
 少し待ってみる。目を泳がせたが、ナマエが口を閉じる。わずかに歯を見せたかと思えば、徐々に口角が上がっていった。首も傾げてみせる。
わらって みました
 ようやくまともな顔に。そっと息をついてしまう。そして今さら気づく。顔を近づければ、それなりに声が届くのだ。鼻先がふれないギリギリまで窓に近づく。ジェスチャーで手招きを。
「もっと近づけ。声、聞こえるか」
 微妙な反応。変わらず手招きを続ける。数秒後、さまざまな感情に見切りをつけ、コツンと額を窓に当ててみる。今度は目線が下がってしまうため、わずかに顔を横へ向ける。額ではなくこめかみが接していた。ナマエと目を合わせる。
「おれの声。聞こえるだろ」
 ナマエの目が丸くなり、ぎこちない笑顔から、はじけた。両手を口もとに当てて、体が窓から離れる。すぐに戻ってきた。同じように額を合わせてくる。こちらは右のこめかみを、向こうも右のこめかみを。真正面ではなく、互いに窓を挟んで斜め向かいを見つめ合っていた。屈折率が高いため、目を合わせにくい。位置調整に手こずり、ようやくいまの場所に落ち着く。声さえナマエに届けば問題ないというのに、何をそこまで拘る必要が。
「すごい。ちゃんと聞こえた。うそみたい」
 手放しで喜ぶさまは、いかにもナマエらしい。
「当たり前だ。それで、さっき何か言っただろ。どうした」
「あの、どうしても、うしろは見てほしくなくて」
「ああ。おまえは気にするな。毎年こうだ。あいつらの下準備でおれが先に気づく。そのあと気づかねェフリをするのも毎年だ」
「そう、だったのですか」
 勝手に察して勝手に落ち込んでいるようだが、うまい返しが思いつかない。適当に話題をそらすか。
「窓に張り付いて面倒じゃねェのか。ポーラータング、そこそこスピードが出てるだろ」
「そんなに難しくないですよ。尾びれを軽く動かしておけば付いていけるので」
 なかなか器用な芸当をやってのけているらしい。人魚だから当然といえば当然か。
「あなたの手、こんなに大きかったのですね」
 ナマエがこちらの形に沿って指を開く。右手も、左手も。その動作が妙にむず痒く、左手は窓から離してしまう。瞬間、ナマエの表情がわかりやすく曇った。顔をさらに窓へ寄せて、はなれた左手を目で追う。何をそんな、いちいち。そっと息をついてしまう。ふたたび左手を窓に張り付かせた。ナマエの手と同じ場所へ重ねる。
「これで満足か」
 反応が悪い。たったいま重なった手を、ぼんやりと。
「あ、あの」
 唇を噛みしめたあと、くるしそうに顔を歪ませる。きつく瞳も閉じた。しかし次に目が合ったときには頬がゆるむ。口は弧を描き、心なしか耳が色づいていく。
「せっかくなので、いま、いいですか」
「どうした」
 何をそんな改まって。いまさら。
「お時間は大丈夫ですか」
「おまえより急ぐ用件はない」
 目を丸めた顔がおかしくておかしくて仕方がない。過剰に息を吐き出してしまい、一瞬窓が曇る。すぐに手のひらで打ち消した。やはり海中は室内より冷たいのだ。
「どうした。おまえの用件を待っている」
 静寂。いまこの瞬間、はじめて室内換気が耳ざわりだと感じた。
「この、流れゆく命の水に祈りを」
 ナマエが目を閉じる。
「永遠に光差す場所へ。あなたを導きますように。どうか」
 瞳をとらえる。いま、どうしようもなく視線を絡めとりたい。
「ウィーウァームス、メウスロー」
 なにを、いって、
「アトクウェ、アメームス」
 最後は声がかすれて消失していった。うっすらと開いた瞳は不規則に揺れ動き、自身の右手を口もとにあてがう。左手も右手に重ねた。体が窓から離れていく。ナマエが前進を止めたのだ。考えるよりも先に手が動く。
ROOM
 窓から体の位置は把握できていた。ポケットのメモ用紙を、
シャンブルズ
 室内へ引き込んだ体をしっかり抱きとめる。立っている理由もないため、その場に腰を下ろした。胡座をかき、膝に乗せる。ナマエはいまだ両手で口もとを覆っていた。こちらに身を預け、ぴくりとも動かない。
「いま、何を言った」
 肩がはねる。同時に顔も上げた。ゆっくりと両手が下ろされる。
「ご、ごめんなさい。わたし、その」
「もう一度言ってみろ。今ならはっきり聞こえる」
 また体がはねた。今度は両手をバタつかせる。
「ち、ちがうんです。最後のあれは、言うつもりは」
 顔をしかめてしまう。
「どういう意味だ。おれに伝えるのは不本意なのか、おまえの口癖なのか、単なるかけ声か何かなのか」
 既知の言語ではなかった。唄のような独特の長音が聞こえたはず。
「不本意で、よく口ずさむし、最初のワンフレーズでもあって」
 全部拾われるのは想定外。ワンフレーズ、ということは音楽か。
「耳なじみのねェ音だったが? 知らねェ単語が並ぶと、理解不能であるがゆえのストレスも感じやすい。言ってること、わかるな」
「ごめんなさい! 知らない単語、というのは、まさに、おっしゃるとおりで。嫌ですよね、変な音を聞かされるの」
 ああ、イラつく。まわりくどい。
「いちいち謝るな。これ以上の謝罪は不要。不快なのは事実だが、理解できれば問題ない。つまり、そのフレーズが何なのか。説明しろ」
 おずおずと背も顔もそらされる。すかさず右手をつかみ、軽く引っ張る。目が合うよう、こちらを向かせる。
「謝らないよう、努力、します。説明もできるかぎり、できるかぎりは」
 頬に手を当てがい、そっと息をついている。こちらは待機。
「お祝いの言葉を、伝えたくて。記憶の中にある、最初のフレーズが、その、すこし、お祝いっぽかったので」
 肩の力が抜ける。
「何を聞かされてもおれは腹を立てねェ。言ってみろ。そのフレーズ」
 ナマエが鱗のうえで拳をつくる。か細い声が続いた。
「生きて、いきましょう」
 沈黙。仕方がないので催促を。
「それで。次は」
「お祝いの言葉はこれでおしまいです。あとは、詩の続きを、いつもの癖で」
 ほう。
「詩か。誰の詩だ」
「私の故郷の、魚人島に伝わる、昔の有名な詩人で。古い言葉なので、耳慣れない感じだったかも」
 それなら納得できる。
「せっかくだ。もう一度言ってみろ。おれを祝うつもりなんだろ」
「ええっと、それは。だめ、です」
 そっと息をついてしまう。
「理由は」
「どうがんばっても、お祝いの意味にはならない、ので。途中でやめるつもりだったのに」
「よくわからねェで済まされるのが一番不快だ。正しい意味さえ理解できれば、今日という一日を気分良く過ごせる」
 ナマエの手をとり、真剣なまなざしを心がける。何をそんなムキになっているのか。己を嘲笑してやりたい。知らぬ単語というだけで、ここまで苛立つとは。
「わかりました。字は教えます。詩集は魚人島で簡単に手に入りますので。文字を頼りにすれば、絶対に意味は調べられます」
 まわりくどい。まわりくどいが、
「そこまでおまえにとって不本意で、この場に相応しくないフレーズだってことだな?」
「少なくとも、いまここで言うべきではありませんでした。ごめんなさ──あっ」
 口に手を添えて目を丸める。
「謝るなら、その度にフレーズの意味を教えてもらおうか」
「い、言わないと、だめですか」
 ここまで落ち込まれると叱るに叱れない。本人に悪意はなかった。それが判明しただけで十分ではないか。何をそこまで自分は。
「最低限、約束は守ってもらおうか。紙を用意する」
 手もとのメモ用紙は先ほどのシャンブルズで海へ。ラウンジの本棚には筆記具が常備されていたはず。とりあえずナマエを抱えたまま腰を上げる。
「あの、待って」
「どうした」
「そのまま、少しだけ。ここに」
 ナマエが手をのばした先は窓。左の手のひらをひたりとガラスに張り付かせる。右手も懸命にのばすので、さらに窓へ近づいてやる。両手を張り付かせたあとは、上体を起こして顔も窓へ近づける。こちらの左の二の腕を窓に押し当てる体勢になった。対するナマエも右頬を窓へ。
「これが、あなたの見ていた景色」
 ぞわりと胸がざわつく。得体の知れぬ反応。とにかく気を紛らわせたい。なにか、なにか言ってやらねば。
「こんなの、いつもの風景だ」
「そうですね、いつもの。でも、『いつもの』は、私にとって、すごく。まぶしい」
 妙な胸騒ぎは止むどころか悪化。ただちにナマエの言葉を変えさせなければ。
「その窓、汚ねェぞ。さっさと離れたほうがいい。おれの手でベタベタさわった」
 目を丸めて全身が固まる。静かに肩を上下させて口もとに手を添えた。こいつ、笑っていやがる。
「あなたが汚かったら、私はどうなってしまうの。海のいろんな場所を知っているのに」
 どう反応すべきか考えあぐねていると、笑い声がやむ。ふたたび窓ガラスに頬を押し付けた。
「変なことを言いすぎました。もうやめます。今度は絶対に口を滑らせませんから」
 いまのむず痒い言葉に対してか、さきほどのフレーズに対してか。これ以上突っ込むのも気分ではない。ひとまず筆記具を探さなくては。
「気は済んだか。さっきの約束くらいは果たしてもらうぞ」
「やっぱりちゃんと覚えていたのですね。せっかくがんばって話題をそらしたのに」
 この程度で騙せると思われていたのか。気に食わない。
「おれに勝てるとでも?」
「か、勝とうとまでは思ってません。ほんのすこし背伸びしてみただけで」
「ほう。向上心はあるのか。感心だ」
「なんだか、ちょっとだけいじわるですね、今日」
「そろそろ動いてもいい頃合いだと思っているだけだ」
「だって、窓から顔をはなせば、その。やらないといけないのですよね」
「そうだな。約束は約束だ」
 頬が膨らみそうな勢いで口を固く結ぶ。その顔がおかしくて仕方がない。
「書ける範囲でいい。これは、おれの探究心を満たすための、ただの趣味だ。妙な意味だろうが、悪口だろうが、おれが真に受けるわけねェだろ」
 返答を待ってもキリがない。即座に歩きだす。案の定、壁沿いの本棚にペンとノートが。ナマエに持たせてさらに移動する。どこで書かせるか。ラウンジはミーティングルームも兼ねているため、テーブルと椅子はそこらじゅうに散らばっている。何を懸念しているのか。ナマエの下半身へ視線を落とす。虹色に光り輝く鱗。ナマエを最初に処置した際に十一枚、海獣狩り後の甲板で七枚。合計十八枚の鱗が剥がれ落ちた。いまも十八枚をシャーレで保管している。なぜ剥がれたのか原因は掴めていない。そのため、彼女が腰を下ろす場所は細心の注意を払っていた。海水で濡らしたバスタオルを用意し、車椅子に敷く。ナマエ専用車椅子を常備し、船内の移動に使用していた。あいにく車椅子はラウンジにない。ミーティング用の椅子は固い。ナマエの下半身が安定するほどサイズに余裕もない。椅子は諦めて、さきほどの窓辺へ戻る。部屋のコーナーに近く、扉を開けた際は死角にもなるため、気分的にも落ち着く。ふたたび腰を下ろし、膝にナマエを乗せた。すでにペンとノートは持たせてある。言葉は不要。じっと待つ。
「ノートの続きでいいですか」
「どこでもいい。好きにしろ」
 表紙から順にページをめくっていく。ミーティング内容の走り書き、航路を割り出す計算式、日常生活のリマインド。ほとんどが一時的なメモばかり。室内が暗いため、ノートをわざわざ顔の位置まで上げている。さきほど筆記具を探すついでに照明をつけるべきだった。
「暗いか」
「いえ、気にしないでください。軽く目を通すだけなので」
 そう言う割には一ページずつ、隅々まで読み込んでいる。こちらは手持ち無沙汰。なんとなく左手で背表紙を支えてやる。
「すみません。甘えてしまってばかりで」
 すとんと胸に落ちる。左手でノートを持ったまま、右手を腰にまわす。そっと引き寄せた。倒れる背中を受け止める。
「あ、あの」
 すかさず言葉をかぶせる。
「こうすれば少しは読みやすいだろ。おれは椅子の背だと思えばいい」
 体が硬直している。これ以上の言い訳や補足も適当ではない。右手は腰から外し、静かに待つ。
「しゃべる、椅子」
 ぼそりと単語が。思わず片眉を上げてしまう。となりを盗み見れば、口もとが笑っているではないか。頬を引っ張ってやりたい衝動をぐっと抑える。反応すれば、その時点で負けが確定する。
「アームが伸縮して、可動式で。本の解説もしてもらえるなんて。私にはぜいたくな椅子です」
「口を動かす暇があるなら手を動かせ」
 結局右手は腰へ逆戻り。もう一度引き寄せれば、徐々に背中から体重がかかる。望んだはずの体勢だが、今度は笑いを堪える横顔が余計にチラつき、まるで落ち着かない。
「椅子に怒られてしまいました。反省します」
 ようやくページめくりが再開。数ページ読み込んで動きが止まる。視線の先には箇条書きが。

・ケーキ→甘さひかえめ、ビターチョコに金箔
・ろうそく→「2」と「3」、予備も確保
・プレート→「ロ…
・デコレーション…

 反射的に右手をのばす。ナマエの右手に自身の手を重ねて次のページを催促。
「まって。まだ最後まで読めて」
「ただの無意味な落書きだ。わざわざ確認する必要もない」
「あの。もしかして、これって。今日の」
 重ねた手を大きく広げたため、箇条書きの後半は隠れていた。チョコレートは加熱すると香りが拡散しやすい。厨房と廊下は隣接している。換気を止めた理由。
「そうですね。そうですよね。わかりました。私も見なかったことにします」
 肩をふるわせ、笑い声が小さくもれる。真横から顔を見るかぎり、相当機嫌を良くしている。こちらにとっては非常におもしろくない。
「このノート、いろんな方が書かれていますよね。字の大きさも形もバラバラで。書いたとき、何があったのか。想像できるのが、なんだかたのしくて」
 ページをめくりながら声を弾ませる。ここまで上機嫌なのも珍しい。本来の目的ではないが、しばらくは好きにさせるか。
「あなたの字もありますか」
「いや、おれは自分のノートで完結させている」
 背を起こし、こちらを振り返る。近い。後ろから抱き込む体勢なのだから当然といえば当然。
「すこし書いてみませんか」
 目を合わせたうえで頼んできた、その中身がこれ、か。
「うちは互いの筆跡を大方把握している。つまり、ここに書けばおれのメモだとあいつらにバレる」
「誰に読まれてもいい、ただの試し書きでいいですから。あいうえお、かきくけこ、とか」
 なぜ。そこまでして。
「理由くらいは言えるな?」
「あの、それは、ですね。率直に、正直に打ち明けてしまうと」
 視線はそれて、顔もノートを見下ろす。声のトーンが落ちた。
「私の字、汚かったらどうしよう、って」
 呆れるほどの。杞憂を。
「字の良し悪しがそんなに気になるか」
「気にしますよ。だって本当は、この詩集──」
 途中で口を閉じる。目だけをこちらと合わせてきた。己の失態を自覚している様子。
「書きます。書きますから。お願いします。これ以上、詩のことは」
「わかったから、そろそろ観念しろ」
 唇を噛みしめて、きつく目も閉じる。何をそこまで緊張することがあるのか。やっとペン先をノートに走らせた。

    Vivamus,

 ここで手が止まる。ノートを見下ろしたまま。
「これの発音は」
「これだけだと『ウィーウァームス』という、感じでして」
 いまいち歯切れが悪い。横から見ていても目を泳がせている。
「このカンマは」
「もちろん続きを書きます。でも。どうしよう、かな」
 扉が開く音。入室したペンギンは右手へ進み、横弾幕そばに荷物を下ろす。大きく伸びをしたあと、こちらへ振り向いた、そのとき。素っ頓狂な悲鳴。体が後方へ吹き飛び、後頭部を壁に強打。野太い唸り声が続く。数秒後には複数の足音が。ぞろぞろとラウンジに入ってきては、こちらを見るや否や、揃いも揃って悲鳴を上げる。対するナマエはペンを持ったまま、呆然と前方の騒ぎを見つめていた。
「あの。みなさん、大丈夫ですか」
「大丈夫なわけ」
 頭をさすりながらペンギンがナマエに応答するが、途中で言葉が切れる。口をひん曲げて右手を帽子に乗せる。深く被りなおした。目もとはすべて隠れる。
「いや、もう。夢だ。これは夢。まじで見なかったことになんねェか、これ」
 ペンギンの周りでは着々と荷物が積まれていく。不意に部屋が明るくなり、反射的に目を細める。さきほどの薄暗さに慣れきったせいで、白いラウンジに不快感さえ覚えてしまう。はじめの騒ぎもなくなり、入室しては軽くこちらに手を振る者も現れる。ナマエは呑気に手を振りかえしていた。
「とにかく。船長はそのまま待機。ナマエも、そうだな。そこで問題なけりゃ、そこで。まあ、そうだな。そう、そうそう」
 何が言いたいのか。しきりに目もとを隠し、軽く首を横に振る動作も釈然としない。
「なにかお手伝いしましょうか」
「あー、いや、いい。ナマエはそのまま船長を見張っといて。船長、たぶんひとりだと逃げちまうから」
 ひとを小動物扱いしやがって。
「船長を見張ります。見張りますから、あの。すこしだけ助けてもらえませんか」
 この場の全員がナマエを振り返った。半数が駆け寄ってくる。
「やっぱり、助け、いる?」
「必要なら用意はできている」
 ナマエへ手を差し伸べる者がひとり、ふたり。四人、五人。腰へまわした右手にだんだんと力が入る。左手のノートを床に置き、ナマエからペンを抜きとる。その動作で数人は後退した。さらに何人かは手を引っ込める。
「おかしいと思ったんだよなあ。車椅子持ってこればいいか?」
 ペンギンは微妙に顔をそらしながら、誰よりも最前列の真正面でしゃがみこんだ。どれだけ睨みつけても一向に目は合わない。
「すみません、みなさんをお邪魔するわけには。どなたか、おひとりでいいので。そう、ペンギンさん。お願いします」
「よしきた。とりあえずこっち、ってことでいいな?」
 ペンギンが両腕を広げると、ナマエが前のめりに両手をのばす。これから何が始まるのか察した。
「おい。この続きは」
「続きを書くために、すこしペンギンさんをお借りしてもいいですか」
 何を言っているのか微塵も理解できない。すでにペンギン以外はナマエの前から散り散りに去っていた。
「続きって?」
「いまから詳しくお話しします。ここではちょっと、言いにくいので。向こうまで連れて行っていただけませんか」
 さらに理解できない言葉が。これ以上問い詰めるのも無粋な気がし、無言で訴えかけるにとどめる。予想どおりナマエがこちらを振り向いた。ぎこちない笑顔を貼りつける。
「すぐ戻ります」
 ペンギンがようやくこちらと目を合わせた。軽妙に歯を見せる。
「まあ、ナマエがすぐ戻るんならすぐ戻るから。ちゃんと留守番しといてくださいよ」
 ペンギンがナマエを抱え上げる。その際、ナマエの手がペンギンの首へまわされた。何の光景を見せられているのか。ふたりはラウンジの最奥で立ちどまる。いつのまにか床に敷かれたバスタオルのうえにナマエを下ろした。となりにペンギンが腰を下ろす。ナマエが手招きし、ペンギンが顔を近づける。そして耳打ちが。なんだ、あれは。ペンギンの口が軽く開く。ナマエの耳打ちが終わり、今度はペンギンがナマエに近づき、耳打ちを。ナマエが軽くうなずく。ペンギンが顔をはなすと、ナマエが深く頭を下げた。かけ声を発しながらペンギンが立ち上がる。ラウンジを飛び出していった。数分でペンギンが戻ってくる。右手には四角い薄手の紙切れが。ナマエに受け渡し、抱え上げる。まっすぐこちらに歩いてきた。近づいてくるナマエの表情はどことなく強ばっている。
「船長、いますっげェ機嫌悪そう。当たり?」
 座ったままナマエを受け取り、元どおり膝に乗せる。ペンギンの煽りを受け流さなくては。
「運搬方法に不備があったくらいだ」
「運搬って、ナマエの運び方? 不備?」
 ペンギンだけでなく、ナマエも首を傾げるとは。
「おれのときと違っただろ。腕の位置」
 顎に手を当てていたペンギンが指を鳴らす。そして豪快に腹を抱えて笑いはじめた。何人かがこちらを振り向いたが、また作業に戻る。すでにラウンジの光景は一変していた。何をそこまで飾りつける必要があるのか。
「こりゃ大問題、大事件だ。どこから説明すりゃいいんだか」
「私、なにか失礼なことを。ご迷惑をおかけしたのでは」
 ペンギンは勝手に納得し、ナマエは勝手に罪を被ろうとしている。どこから手をつければよいのやら。
「ナマエ、船長に抱えてもらうとき、腕は首じゃねェのか」
「え?」
「ああ、悪い悪い。ちゃんと説明するか。要は、船長のほうが器用で力持ちってことだ。そんで、おれらは不器用で非力ってこと。ナマエの体、濡れてると滑りやすいからな。安定して運ぶには首に腕は必須ってわけ。船長は濡れてるナマエをラクラク運べるから、首の腕は必須じゃねェ。格の違いってとこ?」
 ペンギンの説明ですべてを理解する。対するナマエはペンギンとこちらの顔を交互に見つめてくる。顔も暗いためフォローも兼ねた声掛けならば、
「おまえに非はない。こっちの認識不足が原因だ」
 そして、これからは必ずナマエ専用車椅子を使用させる。周知せねば。
「じゃ、おれはこれで。がんばれよ、ナマエ。船長の見張り、よろしく」
 ペンギンはこちらも見ずに去っていく。遠ざかる背中を見ていたナマエだが、わずかに目を細めて固く口を結んだ。
「続き、書きますから。ペンをお借りしても?」
 さきほどと同じペンを手渡す。ナマエは床のノートを拾い、表紙のうえにカードを重ねた。本格的に書きはじめる前に確認を。カードの表面を指でなでてみる。真っ白な厚紙。手のひらに収まるサイズ。この手ざわり、標本台紙をカットしたものか。あのペンギンが小洒落たメッセージカードを所持していたら。多少は感心するところだった。

    Vivamus, meuslaw

 一文字ずつ丁寧に記す。カンマまで来たところでペンを上げて深呼吸。m、e、u、s、l、a、w。二単語を綴ったカードをこちらに差し出す。
「長く手間取って申し訳ありませんでした」
 おとなしくカードを受け取る。まずは率直な疑問を。
「『ウィーウァームス』の次は。どう発音すればいい」
「『メウスロー』。つまり、『ウィーウァームス、メウスロー』になります」
 何度か舌のうえで転がしてみる。収まりが良いような、悪いような。vaが「ウァー」ならば、laは「ラー」と読みたくなる。シラブルに規則性も見いだせない。残りの単語の綴りもわかれば、言語として読み解けるはずだが。
「この二単語で『生きていこう』になるのか」
「大まかには、それで伝わります」
 歯切れが悪い。真横から見つめているが、こちらと目を合わせようともしない。もう一歩踏み込んでみる。
「この続きは不本意で不適切なフレーズということだな? だからここに書けない」
 ナマエが息をつく。目も伏せた。
「これは、きっと。覚悟も決心も、強い思いも。あなたに聞かせるつもりは。手をとるとさえ決めていないのに」
 曖昧、抽象。ごまかし、はぐらかし。そして遠慮、躊躇、迷い。ならば、なぜ窓越しに口を滑らせたのか。
「もういい。残りの音は覚えた。この二単語があれば辿れるだろ」
「ま、まって。いま、なんて」
「アトクウェ、アメームス」
 それなりに再現したつもりだ。あのとき窓越しで声はかすれていたが、口はしっかり動いていた。その動きを模倣したまで。
「だ、め」
 こちらと目を合わせ、ひたすら首を振る。なぜそこまで顔を歪める。何がナマエを苦しめているのだ。
「おねがい。どうか忘れて。私も聞かなかったことにしますから」
 ナマエの瞳に水滴を認めた瞬間、何かがはじけた。
「おい、いい加減にしろ」
 可能なかぎり声から力を抜く。責めるのではない、問い詰めるのではない。すべてはナマエを受け入れるため。
「おまえを傷つける言葉なら二度と使わねェ。言語には歴史がある。単語そのものの語源だけでも膨大な情報が詰め込まれている。おまえが知っていて、おれが知らねェ言葉があるのは別に構わねェ。ただ、約束しろ。少なくともいま、こうして伝えている言語は信念を曲げずに紡いでいるのだ、と」
 半端な覚悟で表明したのではない。ナマエに届くよう、しっかりと顔を振り向かせる。手首もつかんだ。まだナマエはいびつに目を細めている。あいた手は口もとを覆い隠す。
「私こそ、浅はかでした。あなたを傷つけたくない。後悔してほしくない。だからこそ伝えておきます。この書き記したふたつは、けっしてあなたを傷つける言葉ではない、から」
 音色が続く。
「ウィーウァームス、メウスロー」
 わずかにナマエの頬がゆるむ。
「メウスロー、メウスロー」
 歯も見せた。ゆるやかに口は弧を描き、声ものびのびと、晴れやかに。
「メウスロー」
 長いため息が続き、そうっと瞳を閉じる。両手を自身の胸もとに添えた。息を整えている。
「めうす、ろー」
 声がかすれ、途切れがちに。不思議と音が耳に馴染んで溶けていく。胸の奥底へ沁み入り、絡み合い、浸り、吐息が自然ともれて、意識もどこか、おぼろげで、
「ナマエ」
 顎に手をかけて瞳をのぞく。特に抵抗もされず、目が合うだけの時間が過ぎていく。勝手に体がゆれて、顔が近づき、
「あー! できたー! みんなー! おつかれ! いやー、たいへんだったなー!」
 耳鳴りがするほどの騒音。この叫び、船尾まで貫通したのでは。まっさきに犯人を睨みつけた。帽子のつばを持ち上げ、わざと目を合わせてくる奴の気がしれない。
「び、びっくり、した」
 目の前のナマエも固まっているではないか。今の今までトーンダウンしていたこともあり、ペンギンを怒鳴りつける気分になれず。
「みんなー、定位置につけー。船長はこっちー」
 どうせ今日は逃げられない。一度目を閉じて深呼吸。気を取りなおしてナマエを抱えたまま立ち上がった。
「あの、私はこれで。すこし散歩してきます」
 思考が停止する。どう答えるのが最適か。引き止めれば、この後の時間を保証せねばならない。どうする。
「なあ、やっぱりこのまま参加すればいいじゃねェか。せっかくだからよ。ほら、船長の顔も見てみろよ。嫌そうにしてるか?」
 ペンギンの様子を見るに、ナマエは何度か誘いを断っているのだろう。
「いえ、やっぱり今日は。私はハートの船員ではないので」
 ナマエは船員ではない。部外者。何も矛盾していない。ここでようやく気づく。

   せっかくなので、いま、いいですか

 海中から窓越しで。ナマエは今日という日の意味を船員から聞かされていた。はじめから船に上がるつもりはなかったからこそ、あんな形で言葉を残そうと、
「車椅子、ありがとうございます。それでは」
 目の前に車椅子が用意される。あとはナマエを下ろすのみ。だが、いまいち腕がいうことをきかない。
「車椅子に下ろしていただけますか」
 見つめられる。何を言ってやればいいか。時間だけが過ぎていく。
「どうか素敵な一日を」
 顔が近づく。頬同士がかすれて首に抱きつかれ、耳に吐息が、
“Vivamus, meuslaw.”
 顔がはなれて笑顔を見せる。なにか、なにかを。そう考えているはずが、車椅子に下ろしてしまう。ひとりが駆けつけてナマエを引いていく。ひらり、ひらりと船員へ手を振り、ラウンジを出ていった。
「船長、引き留めなくていいのか」
 手もとにはナマエ手書きのメッセージカードが。シャチに答える気分ではない。いまから何をするか考えれば、不在で好都合かもしれない。予期せぬ醜態を晒すくらいならば。
「今日は元から全部諦めている。おまえらの好きにしろ」
 歓声、雄叫び。呼ばれた位置へ移動しながらカードを懐にしまいこんだ。
「よーし、準備はいいなー。せーの!」
 船長 誕生日おめでとうございます

「どうした。わざわざこんなに離れて。船長に言えねェやつか」
「すみません。口の動きで読まれてしまうので。耳打ちでお願いします」
「いいけどよ、できるだけ巻きでな? いまの船長、目がやっべェから」
「い、急ぎます。ひとつだけ教えてください。あのひとの、船長、ロー船長の名前の、スペルを」

Vivamus, meuslaw,
ウィーウァームス メウスロー
Vivamus, meus Law,
ウィーウァームス メウス ロー
生きていきましょう 私のロー

atque amemus,
アトクウェ アメームス
そして 愛し合いましょう

「そばにいてくれ、おれのナマエ。二度と離さない」
「このままおまえを、一滴も余すことなく」
「分かち合えばいい。なにもかも。自我さえも」


poem: Catullus 5


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