女郎花の受難

ああ、なんてこった。

このセリフは、今日で何回目になるだろうか。
こんな特別な日にやらかしたとんでもなく大きな失敗は、時間がたつごとに自身の気持ちを蝕んでいく。まるで遅効性の毒である。
その毒が体にまで回ってきたのか、この数時間、ずっと動かしていた足が止まった。
そうすると、身体全体が鉛になったように重くなり、俺はその場に座り込んでしまった。
そして、顔に伝った冷や汗のような汗をぬぐいつつ、ズボンのポケットから子電伝虫を取り出して見つめた。
これにかければ、すぐさま自分は地獄を見る羽目になる。
けれども、どの組織に置いても“報・連・相”は重要だ。
とはいっても、その失敗が起きてからすでに数時間が経っていることを考えると、アウトである。

「はああああ。もう、どうすりゃいい…。」

空いている手で自分の頭をかきむしって、天に向かって叫んだ。

「どこにいるんだよ、お嬢―!」



『いいか。分かっているとは思うが、目を離すなよ。』

朝方、尊敬してやまないキャプテンから彼女を預かった時は天にも昇る喜びだった。
彼女は今年で17歳になったキャプテンの一人娘だ。
ハートの海賊団の神であるキャプテンの娘、所謂、うちの海賊団の天使、秘宝である。
宝である彼女はいつも、キャプテンの右腕集に預けられているのだが、今日は特別な日。キャプテンの誕生日だ。
それゆえ、右腕集は宴の準備で忙しく、キャプテン自身も行くところがあるので、一人になってしまう彼女は“彼女の指名”で俺に預けられた。
冷たい地面に座り込み、いくらか冷静になって考えてみると、その時点で怪しいと思わなければならなかった。
彼女が右腕集の次に仲がいいのは同じ女同士のイッカクだ。
普通だったらイッカクを指名するはずだし、今までもそうだった気がする。

なぜ、自分だったのだろう…?

少し考えれば答えは簡単だ。俺が撒きやすいからだ。
彼女はとても動きが素早い。
小柄な体と素早さを生かして、相手の懐にすぐに入り込んで急所を一撃必殺するのが彼女の戦闘スタイルである。この素早さは母親譲り。
そして、頭もいい。僅か、5歳でベポに航海術を教わって、それをまるっと飲み込んでいる。これはキャプテン譲りだと思う。
その策略と素早さを用いて、数時間前、彼女は客がごった返すシャボンディの遊園地で俺の前からいなくなった。
すぐに園内中を探したけれど見当たらず、出口のところで係員に念のために確認すれば、彼女が着ていたジョリーロジャーが入った黄色のブルゾンが印象に残っていたようで、数刻前に一人で出ていったという。
俺も急いで施設の外へ出たが、数刻前の痕跡を見ることなんてできなかった。
とりあえず、黄色のブルゾンを手掛かりに聞き込みをしていき、何とかこの森までは来られたのだけれど、森で人に会うはずもなく、ぷっつりと彼女の足取りは途切れた。

彼女が無事であるならいい。
もっというなら、自分で船に戻っているなら、もっといい。
しかし、俺の子電伝虫が鳴らない時点で、船に帰っている可能性はゼロ。
クルーのみんなが彼女から逸れて彷徨う俺を放り出すということは、絶対にない。それぐらいの絆があるとは信じている。
ならば、彼女は現在、恐らく一人で行動していることになる。

彼女に何かあったらどうしよう。

大事なキャプテンの娘であり、俺たちの宝。失うなんて考えたくもない。
もしも、彼女まで失ったら、キャプテンはどうなってしまうのか。
考えただけでぞっとする。
俺は無駄なあがきと思いながら、腹の底から声を出した。

「おじょぉぉぉぉぉ!!」

「うるさいよ。クリオネ。」

後ろから聞こえた優しい声に、俺は目を見開いた。
すぐさま振り向けば、そこには探し続けていた彼女がいた。

「お嬢!」

俺はがばりと起き上がり、驚いている彼女の両肩をがっしりと掴むと、四方八方から彼女に傷などがないかを確認する。
五体満足。変わったところは、…ない?

「お嬢、ジャケットが変わっていませんか?」
「…これ、リバーシブルなのよ。表と裏でデザインが違うの。昼間は黄色の方を着てて、今は裏側で真っ黒なの。」
「へぇ!…って、違う!!
急にいなくなったちゃダメでしょ!!どこ行ってたんですか!?」

俺は眉を吊り上げて、怒鳴った。
しかし、彼女はそれをどこ吹く風、というように受け流す。
やっぱり、彼女をきちんとしかりつけられるのは、キャプテンと母親とペンギンだけのようだ。育てる際、俺を含め、ほかのクルーは彼女を甘やかすことが担当だったことは、今更だがとても後悔している。

「心配したんですよ!お嬢に何かあったら、俺、俺…。」
「大げさよ。クリオネだって知っているでしょう?
ここはお母さんの故郷で、小さい頃よく来ていた場所なんだから。」
「だとしても、いや、だからこそ、シャボンディは人攫いが横行する危険な島だって分かっているでしょう…。」

そうだね。と、悪びれず頷く彼女にこれ以上何を言っても無駄だと分かった俺は、諦めた様に大きく息を吐いた。

「とりあえず、帰りましょう。
今日は大事な日だって、あなたが一番よく分かっているでしょう?」
「わかってるわ。だからこそ、行きましょう、クリオネ。」
「へ?」

彼女は俺の袖を掴んで森の奥へと向かう。
俺はたたらを踏んで立ち止まると、彼女を逆に引き留める。

「待ってください!そっちは明らかに船とは逆でしょう?どこに行くつもりですか?」
「…買いに行くのよ。パパへのプレゼント。」

俺はハッとした。そういえば、出かける前にコックから日々のお手伝いの報奨としてお小遣いをもらっていた。
それを使ってキャプテンに誕生日プレゼントを買おうだなんて!
俺は感激で言葉を詰まらせた。

思春期になり、お嬢は最近キャプテンとよく意見をぶつけるようになった。
もともと、お嬢は母親似で気が強く、その意志を曲げないことも多い。
以前はキャプテンも、彼女の母親とよくそれで夫婦喧嘩をしていたことを思い出す。(すぐ仲直りをするけれど。)
昨日もお出かけする服について、かわいいスカートを選んだお嬢と、危ないからとズボンを履かせようとするキャプテンでちょっと激しい言い合いをしていた。
結局、ベポの仲裁の下、スカートの下にスパッツを履くことでまとまった。(二人とも納得してはいないが、ベポに弱いのだ。)
なので、最近のハートの海賊団のもっぱらの悩みはこの親子の関係なのである。
とりあえず、彼女とキャプテンの間を取り持つことに協力できるならと、俺は笑みを浮かべた。

「そういうことなら、お供します。」
「うん!いざとなったらお願いね!」

…いざとなったら?

不穏な言葉遣いに不安を覚えつつ、俺は彼女に引かれるまま歩いた。
空いた片手をズボンのポケットに突っ込んで。



俺は彼女が「着いた。」と、立ち止まった建物を見上げて固まった。
それはどっからどう見てもオークション会場だった。
口を半開きにして動けない俺の傍らで、彼女は銃のセーフティを外しているのに気が付いて、俺は慌てて彼女に縋る。

「お嬢!待ってください!まっとうな店で、まっとうな売買で、キャプテンへのプレゼントを買いましょうよ!っていうかすでに”買う”じゃなくて”奪う”ですよね!?」
「そうよ。だって、私に買える代物じゃないし。それに、私は海賊よ?奪ったっていいじゃない。むしろ、本業。」
「うっ…。でもっ、キャプテンはお嬢を海賊にするつもりはないことをしっているでしょう!」

彼女は俺の言葉に悔しそうに唇を噛みしめた。
確かに、彼女は俺たちの船に乗っているし、彼女の父親は、今やこの海で知らないものはいない海賊、トラファルガー・ローである。
けれども、キャプテンは彼女を頑なに海賊として認めようとしない。
あくまで身を守る術としてだけだが、どんなに俺達から戦闘術や航海術等を教えてもらったとしても、キャプテンは彼女を戦闘に立たせることも、航路の話し合いの場に呼ぶことはしない。
加えて、彼女は知らないことだけれど、キャプテンは彼女をこの地にいる、孤児だった母親の育ての親に預けようとしている。
今日のキャプテンの誕生日の宴は、彼女とのお別れ会でもある。
だからこそ、今頃キャプテンは育ての親の元へ話をつけに。
右腕集はいつもより大きな宴の準備の総指揮を。
イッカクはこっそり、彼女の荷造りをしている。
彼女は肩を震わせ、両手で持っている小銃、彼女の母親の形見、を強く握りしめた。

「わかってるわよっ。でも!どうしても手に入れて、パパにプレゼントしたいの!ママだって言ってたのよ!これをいつか、パパにあげたいって!」
「それって何なんですか…?」
「それは…。」

彼女はちょっと言いよどんだけれど、すぐに覚悟を決めた顔で俺を見上げた。

「ナギナギの実。」
「!」
「パパの恩人の形見になるものよ。」

俺は唾を飲み込んだ。
酒の席で、シャチから少しだけ聞いたことがある。
子供の頃、絶望の中にいたキャプテンを救った恩人はナギナギの実の能力者だったということを。

「その実が今夜、このオークションで出品されるって教えてもらったの。どこぞの輩にそれが買われる前に、私が手に入れて、パパにプレゼントするの。
それで、証明するの。私が海賊になれるって。」

俺は額を抑えた。
確かに、プレゼントとしては良いチョイスである。
が、入手方法としては最悪。
万が一、失敗して取り返しのつかないことになったら…。

普段は大人しいのに突発的な行動をするところも、変なところが頑なところも、本当に彼女は母親にそっくりだ。
だからこそ、キャプテンは余計に彼女を海賊にしたくないのだろう。
彼女の母親は海賊同士の喧嘩に巻き込まれて亡くなったのだから。

何でもないよくある島に上陸し、一人で買い物に行った先で海賊同士が喧嘩をしていて、その中の一人が撃った流れ弾が彼女の心臓を貫いた。即死だった。
彼女が帰ってこないことを心配したキャプテンが捜しに行き、彼女の死体を発見した。
それからのキャプテンはしばらく見ていられなかった。
あのキャプテンが人目をはばからず、彼女の死体を抱きしめて泣いていた姿を俺は一生忘れることは無いだろう。

『パパ。泣かないで。私がいるよ。
見えなくなっちゃうけど、ママもいるよ。
絶対に、ずっとパパと私と一緒にいるよ。
パパなら、わかるでしょ。ママがここにいること。』

彼を救ったのは、母親の忘れ形見である当時7歳だった彼女である。
彼女はキャプテンが底から戻って来るまで、その小さな手を必死に伸ばして、彼の悲しみと闘っていた。
彼女がいたから、キャプテンは自分を見失わずに生きてこられたのだ。
そして、ハートの海賊団には穏やかな日々か続いていた。
が、半年前の春、彼女の17歳の誕生日に、彼女が「ハートの海賊団のクルーになりたい。」と言い、「だめだ。」とキャプテンが即座に返答した瞬間から、彼女の反抗期が始まり、海賊団には暗雲が立ち込めるようにった。
キャプテンは只々彼女が大切なだけで、頭のいい彼女もそれが分かっているはずなのだけれど、どうしても納得がいかないようだ。

「…お嬢の気持ちはよくわかりますが、俺はキャプテンの気持ちもよくわかります。
貴女に何かあったら、キャプテンはあの時と同じように泣くでしょう。
そして、俺はキャプテンのクルーですから、協力は出来ません。」

俺はしゃがみこんで、彼女の目をしっかり見上げながら言った。
彼女は顔をくしゃりと歪ませて睨むけれど、俺は眉をハの字にして笑うだけだった。

「さあ、帰りましょう。」

彼女の方へと手をのばすと、彼女はその華奢な手で










俺の手を払いのけた。

「クリオネのばかっ!!」
「お嬢!」

お嬢は叫んだと思ったら、一目散にオークションハウスへ飛び込んで行ってしまう。
しかも、やっぱり早い…。

「あー!もうっ!どうにでもなれっ!」

俺は天を仰いで叫ぶと、すぐさま自らの得物を持って彼女を追いかけつつ、後ろに向かって叫んだ。

「そこにいるんだろ!来い!ウニっ!!」

後方の少し離れた大木の影から、大きな影が姿を現す。
先程、彼女に腕を引かれて歩き出した時にこっそりズボンのポケットに入った子電伝虫でウニに電話をかけていた。
彼ならば、何も喋らない子電伝虫に何かを察してくれると思ったのだ。
案の定、先程から彼の気配が後ろでしていた。
彼も得物をもって俺に続き、オークションハウスへ飛び込んだ。



彼女の奮闘はすさまじく、いつかの彼女の母親を思い出した。
昔、素早い動きと小銃の身軽さで敵陣に突っ込んでいくスタイルで、シャチとベポと特攻隊長をしていたあの人の後ろを、今の様に追いかけていた。
それを懐かしいと思ってしまったのは内緒である。

主催者の組織は思っていたより骨のない奴らばかりで、襲撃はものの10分ほどで終わった。
当然、俺とウニはかすり傷一つないが、お嬢は擦り傷やら切り傷やら、髪の毛も洋服もよれよれである。
けれども、目当てのナギナギの実を抱えたその顔はとても達成感にあふれていた。
そんな顔をされては、説教しようと思っていた気持ちもしぼんでしまう。

「…実を包むラッピングを買って、風呂屋に寄って、船に戻りましょう。」
「うんっ!」

お嬢の輝く笑顔に俺も笑えば、ウニから少し刺すような視線を感じたが、気づかないふりをした。



船に戻ると、宴の準備が整い、キャプテンも帰って来ていた。

「パパ―!」

お嬢はキャプテンの姿を見とめると、一目散にそちらにかけていく。
反抗期になってからは一度も見なかった光景だ。
けれども、それは決して微笑ましいものではないと、俺は知っていた。
なぜなら、お嬢の行動は、とっくにキャプテンに報告済みだからだ。

「ばかやろうっ!!」

キャプテンはお嬢を怒鳴りつけた。
お嬢の足がキャプテンまであと数歩というところで止まる。
キャプテンの顔は彼が本気でキレたときの顔だった。

「なんてことしてやがるっ!命を粗末にするなっ!!」

それだけ言うと、キャプテンは放心しているお嬢を残して自室の方へと踵をかえす。
そして、一度だけ足を止めた。

「クリオネ、お前への罰はまた今度だ。ペンギン、宴は勝手にやってろ。」
「アイアイ、キャプテン。」

バタンっ、と強めに船内への扉が閉じられ、その場の空気が弛緩する。
誰ともなく詰めていた息を吐いた。

「お嬢!」

立ち尽くしている彼女の元へベポが走る。
すぐに抱き上げてあやすように背中を叩いていれば、彼女は震える腕を伸ばしてベポの首に腕を回してしがみついた。
ベポの頭に顔を埋めながら声を漏らさずに泣く彼女に手を伸ばそうとして止めた。
今回のことは、仕方がないとはいえ彼女が悪いのだから、これ以上は慰めてはいけない。
俺らは目配せあい、ここはベポに任せることにした。

「お嬢…。自分がしちゃいけないことをしちゃったこと、わかる…?」

彼女はびくりと肩を震わせながらも頷いた。
ベポは彼女の頭を撫でながら、ゆっくり話す。

「キャプテン、お嬢がしたことを聞いた途端、顔が真っ蒼になって、今にも倒れそうだった。無事だってわかってても、飛び出していこうとしたから、必死に止めたんだ。
そんな状態のキャプテンを外に出したら、何するかわからないからね。」

ベポは一度、彼女の顔を上げさせるとその頬をやわらかい肉球でなでる。
涙でぐちゃぐちゃになった彼女の顔は、幼い時から変わらない。
必死に眉根を寄せて唇を噛みしめてはいるが、大きな目から流れ続ける涙はまだ止まりそうにない。

「お嬢にもし何かあったら、キャプテンがどうなっちゃうか、お嬢はわかるよね?
だって、ママが死んじゃった時、キャプテンの一番近くにいたのはお嬢だもん。」

お嬢は何度も頷いた。
俺がオークションハウスの前でも同じことを言ったけれど、きっと真には届いていなくて、手に入れたいものが目の前にあったために、意識がそちらにいったのだろう。
けれども、キャプテンの本当の怒りを目の前にして、お嬢は暴走していた自分を取り戻したようだ。

「キャプテンに謝ろう?」

ベポがゆっくりと彼女を床に降ろせば、彼女は脱兎のごとく、船内へと走っていった。



自室に戻って、乱暴に帽子をソファへ投げ捨てた。
消化しきれない思いも同じように捨てられればいいが、そんなことは出来るわけはなくて、久しぶりに感じる大きな苛立ちを持て余していた。
義理の両親にあたる夫婦に娘の、彼女たちにとっては孫にあたる彼女を預かってもらう話をつけて船に戻ってくれば、ベポが慌てて駆け寄ってきて、彼女がオークションハウスを襲撃したという話を聞いた。
心臓が握りつぶされるような衝撃を受け、一瞬、らしくもない立ち眩みがした。
すぐに彼女の元へ行こうとした。
無事だと言われたって、この目で見ないと信じることなんて、安心なんて出来やしない。
けれども、それは止められた。
確かに、あの状態で行ったら、彼女に、クリオネに、ウニに、何をしたかわからない。

彼女の帰りを待つ間もずっと生きた心地がしなかった。
そして、頭の中ではずっと、あいつの遺体を見つけた時の記憶がよみがえっていた。
砂埃が舞う道の端に、人形の様に捨て置かれていたあいつの身体。
触れた時に感じた、この世のモノとは思えないくらい冷たい体温。
もう二度と、声を聞くことが出来ない。笑顔を見ることが出来ない。
様々な絶望が一気に押し寄せてきた。
あんなことはもう二度とごめんだ。考えたくもない。
だから、彼女はこの地に、俺といるよりかは安全に暮らすことが出来る環境に置いていかなくてはならない。
昼間のうちに相手方との話はついた。
今日、彼女が眠りに着いたら、こっそり移動させる手立てだ。
今夜が彼女と過ごす最後の夜なのに。
いつもより華やかな宴を用意していたあいつらに、明日は小言をもらうだろうが、これでいい。嫌われた方が、離れるには丁度いい。
深いため息を零して、目頭を押さえた。
きっとその内、ペンギンが彼女が寝たことを報告に来るだろうから、それまでは仮眠をとろうと、ソファに身を横たえた。



ドンッ、ドンッ!

「ぱぱぁ!」

壊しそうな勢いで叩かれる扉の音と共に、叫ぶように俺を呼ぶ声が聞こえて、ふわりとしていた意識が引き戻される。
先程のこともあり、無視してやろうと考え、再び目を瞑ればひどくなる打撃音と、涙声。

「…チッ」

結局、俺も彼女には甘いのだ。
ソファから起き上がり、ゆっくりと扉へ移動し、鍵を開錠した。
そのまま扉を開けようとするその前に、それがはじかれたようにこちら側に開いてきた。
間一髪、ぶつかりそうだった扉を避けたが、次に飛び込んできたものは避けられずに背中から床に倒れこんだ

「いっつ…。」

打ち付けた背中の痛みをこらえて、原因となった彼女を見れば、俺のお腹に顔を埋めて泣いている。

「ぱぱっ!ごめんっ、ごめんなさいっ!」

春に17になったというのに、クルーたちが甘やかした所為だろうか、少し泣き虫に育った彼女の涙は俺をひどく弱くする。
逆に、頑なに泣こうとしなかった彼女の母親がたまに見せる涙にも俺は弱かった。

「…もういい。泣くな。そして二度と、こんな真似はしないと誓え。」
「…わからない。」
「あ?」

彼女の答えに目を見開いた。
“わからない”、とはどういうことか。

「だって、私、海賊になるもの。そうしたら、無茶をしなくちゃいけないときだってあるでしょう?」

おもわず、俺はとんでもないことを言うその口をふさぐために顎を掴んだ。

「海賊にはさせねえ。絶対にだ。」
「どうして!?私が弱いから?死んじゃうかもしれないから…?」

俺の手を振り払って彼女は泣くのを忘れて吠えた。
その言葉に、ドキリと心臓が鳴った。
彼女の目はとても真剣で、逸らすことは出来なかった。
アイツと同じ、ダークブラウンの瞳が俺をじりじりと追い詰める。

しばらくそのまま無言で見つめ合っていたが、俺は観念したように息を吐くと口を開いた。

「ああ。俺はお前を絶対に死なせたくない。母親の二の舞はごめんだ。
本当に耐えられねえし、考えたくもない。
だから、お前はこの島に置いていく。
母親の育ての親とお前の面倒をみてもらえるよう話をつけてきた。
明日には、お前をそっちへ連れていく。」
「勝手に決めないでよっ!!」

予想通り、彼女は拒否を示した。
俺の胸のあたりのシャツを掴んで揺さぶられる。

「わかれ。」
「わかんないよっ!パパは私が嫌いなのっ!?私の気持ちも聞いてよっ!」

彼女は俺の上にまたがって、胸を拳で弱々しくも叩いてくる。
その目には再び涙がにじんでいる。

「私はパパと一緒に居たい!どっちかが死ぬまで、一秒でも長く一緒に居たいのっ。
それが、ママの、…ママとの願いだった…。」

俺は彼女の言葉に目を見開いた。

「いつかママは言ってた。パパもママも海賊だから、どちらかが急に死ぬことが無いわけじゃない。もしかしたら、明日にでも、この瞬間だってわからない。
でも、それを、その瞬間を後悔しないように、少しでも長く、私とパパと、この船のみんなと一緒に居たいって。
それで、小さい時からたくさんの大切なものを亡くしてきたパパに、一つでも多く、大切だと思えるものをあげるのが自分の役目だって…。
そう言った時のママは今までで一番きれいだった…。」

彼女は自分の涙を拭い、真っ赤に腫らした目で改めて俺を見つめた

「パパ。私も同じなの。
ママと私の本当の願いを無視しないで。
私の幸せを生きることだと決めつけないで。
確かに、生きていたいわ。
でもそれは、ここじゃないと意味がないの。
パパや他のみんなの傍じゃないと、生きている意味なんて、私にはないんだよ…。」

そう言った彼女が、いつかのあいつと重なった。
強情なあいつをやっとのことで口説き落とした時に、あいつは「俺と一緒に居たい」と泣いていた。
その時、俺も思った。こいつと一緒に、命ある限り、共にいようと。

「…俺の負けだ。」

腹に力を入れて上半身を起こすと、まだ小さい娘の身体を抱きしめる。
俺と同じ藍色交じりの、でも俺とは違ってひどく柔らかな髪を梳くように撫でる。

「一緒にいる。…だから、もう泣くな。悪かった。」

彼女は俺の胸に自身の頭をこすりつけるようにしながら、横にぶんぶん振った。

「私も、ごめんなさい…。パパ、大好きよ。」

その言葉が俺の胸にしみわたる。
返事をする代わりに、その頭に唇を寄せる。
すると、彼女は恥ずかしそうに笑ったが、すぐにハッとした顔をして、傍らに投げ出されていたラッピングされた箱を、今日の襲撃で負ったらしい擦り傷だらけの手で俺に掲げた。

「お誕生日、おめでとう。

産まれてきてくれて、
ママと結婚してくれて、
私を生み出してくれて、
育ててくれて、ありがとう。

私、パパとママの子供に生まれてよかった。」

俺は自分の目の端にジワリと涙が滲んだのを感じた。
それが流れる前に誤魔化そうと、視線を少し上にすれば、机の上にあるアイツの写真が目に入った。
その中であいつが、『ロー、幸せね。』と、言っているような気がした。

「ああ、そうだな…。」

俺はもう一度、腕の中の存在を確かめるように抱きしめた。




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