幸運と呼ぶのなら

 その日、夜が明けるより早く彼は起きていた。
 物音一つしない暗い部屋の中、上裸のままベッドに座っていた。
「…ロー…?」
 遅れて目覚めたナマエは、彼の後ろ姿を見て心臓が止まるかと思った。

 そんなことあるはずないのに、泣いているように見えた。
 
 背中の刺青のマークが顔を歪め、歯を食いしばっているように。
「起こしたか」
 振り向いた彼の目には、当然ながら涙など無い。ただ、声がわずかに掠れていた。
「いいえ。いつから起きてたの?」
「一時間くらい前か」
 昨夜は日付が変わった瞬間におめでとうを伝えた。頷いた彼の腕にいだかれて、歓びを分かち合ってから眠りについた。
 それから数時間しか経っていない。
「…何かあったの?」
 彼が再び前を向いたために、その表情は背後にいるナマエには窺い知れない。
 静かな一言だけが返された。
「コラさんの夢を見た」
 今の彼の状況を推しはかるには、その名を聞けば十分だった。



 黄色い潜水艇の中は、船長の三十四歳の誕生日を祝う準備で大わらわだ。
「当日にこんなわがままを言って本当に申し訳ないんですが…、お昼まで二人で出かけてきてもいいでしょうか」
 平身低頭のナマエに、ペンギンはこだわりなく快諾した。
「どうぞ行ってきてください。むしろ助かります。船長を連れ出してくれるほうがサプライズが仕掛けやすいんで」
 罪悪感まで減らしてくれるペンギンに感謝し、ナマエは深々と頭を下げて礼を言う。
「本当にありがとうございます。その分、帰ってきたら馬車馬のように働きます。夜の片付けも頑張るので」
「いやいやいや、そこは船長の相手をしてあげてください。せっかくの誕生日に、奥さんが船長そっちのけで片付けしてたら多分拗ねますよ」
 すかさず却下されてしまった。ナマエはそれでも食い下がってみる。
「でも午前いっぱいデートの時間をもらう上に、夜も私が独占するなんてあまりに贅沢で理不尽だし…」
「全然理不尽じゃないです。ていうか、奥さんを夜遅くまで足止めしたらおれらが理不尽な目に遭うんで、片付けはおれらに任せてください。船内平和のために」
「船内平和」
 そう言われるとナマエには太刀打ちできない。
「じゃあ、二人きりでゆっくり楽しんできてください」
 二人きり。その言葉にすんなり頷けなくて、ナマエは曖昧に微笑んだ。
 こうやってデートに快く送り出してくれる彼の仲間には、少し後ろめたい。
 けれど今朝の彼の背中を見たからには、ナマエにはこうする他なかった。
 二人きりになるのは、二人で楽しむためではない。
 彼を独りにするためだ。



 島の外れの森に出かける間も、清い泉のほとりに腰を下ろしてからも、彼は一言も話さなかった。
 ――あまり良い夢では無かったんだろうか…
 そう思うものの、ナマエは口をつぐんでいた。彼の心の最も奥深く、最も大切な処にいるその人のことは、彼から話さない限り決して訊かないようにしている。
 特に今は、彼があの人と対話するための時間だ。邪魔をするわけにはいかない。
 静かな水面を眺めている彼の隣で、ナマエは誕生日プレゼントの仕上げに取り掛かる。
 今年は珍しく、本人から前もってリクエストがあった。
 これの続きが欲しい。
 そう言って彼が手にしたのは、四年前に贈った刺繍入りのテーブルクロスだった。ペンギンから航海日誌を借りて、黄色い潜水艇が辿ってきた航路の島々を縫い取った、ささやかな布切れ。子どもだましのようなそれでも、彼は突き返さずに受け取ってくれた。
 そしてごく自然に言った。
 自分の航路が一目でわかるってのも、悪くない。コラさんにやれるなら、喜ぶだろうな。
 その言葉はナマエにとって、どんな称賛よりも嬉しかった。
「おれは何歳いくつになっても、成長しねぇな」
 彼の穏やかな声に、はっとナマエは顔を上げる。
「お前の気遣いに甘えてる」
 ナマエは間髪入れずに否定した。
「そんなこと絶対にない」
 連れ添うようになって以来、彼はいつもナマエとの時間を大事にしてくれた。仲間たちからも麦わらの一味からも、意外に愛妻家だと定評を得ている。
 特に付き合いの長いシャチやペンギンはよく口にしていた。船長はあんなに独りでしょっちゅう放浪してたのに、結婚してから随分落ち着きましたねと。
 それが嬉しい半面、ときどき不安にもなる。
「甘えてるのは、たぶん私のほうだから…」
 自分は彼の独りの時間を、少なからず奪っているかもしれない。彼が亡き恩人と過ごす、かけがえのない独りの時間を。
 けれど彼は、本気で嫌ならそう伝えてくれる人だ。もしくは黙って離れてくれる人だ。どこへでも行ける能力を持っているのだから。
 なのに隣に置いてくれる。たとえ風けのような役割に過ぎなくてもいい。
 彼をそばで見ていたかった。
「あなたの変わらない想いが私は何よりも好き。だから、あなたが大切な人を想うとき、邪魔でなければそばにいさせてほしいと思ってる」
 ありのままに心を伝えると、彼は考えの読めない目でしばらくこちらを見つめていた。
 やがて長い息をついて、おもむろに語り始める。
「ドレスローザでドフラミンゴと闘ったとき」
 予想外の話に、ナマエは軽く息を呑んだ。一言も聞き漏らすまいと、彼に向けて意識を集中させる。
「奴はおれのことを、つくづく不憫だと言った。白い町に生まれたことも、コラさんの復讐のために生きてきたことも」
 冷たく整った彼の横顔は、表面上は波立たず静かに見えた。
「…ドレスローザでそんなことがあったの?」
「ああ」
 事も無げに彼は頷く。ナマエは相槌さえ打てなかった。
「…………」
 不憫な奴だと、そう言ったのか。
 彼の大好きな人の命を奪った張本人が。
 息苦しい沈黙の後で、ナマエはため息とともに声を絞り出す。
「……そんなことがあったなんて、思いもよらなかった」
 ドレスローザでの彼の様子は、ニコ・ロビンから部分的に聞いたことがある。だがドフラミンゴとの死闘は、誰にも割って入れるものではなかったはずだ。彼の大事な仲間たちでさえ、別行動を余儀なくされていたのだから。
「まぁ、誰にも言ったこと無かったからな」
 その闘いからすでに八年が経っている。
 こんなに強い人にとっても、時を経てようやく語り得ることなのかと思うと、ナマエの胸はひどく軋んだ。
 彼は泉に目を向けて話を続ける。
「奴の真意は知らない。そもそも挑発と駆け引きに長けた男だ。あのあとも殊更コラさんを悪しざまに言っておれの動揺を誘ってた。それは一定の効果もあったが…、おれのことを不憫と言われても、それには大して腹も立たなかった」
 ふと変わった声音に、ナマエはやや首を傾げる。
「他人事みてぇに聞こえた。あまりにおれの実感と乖離していた」
 一度言葉を切ってから、彼は空を見上げて言った。

「おれは幸運だった」

 薄い青空に向けてその一言が放たれる。
「フレバンスで生き残ったことでもなく、珀鉛病を克服したことでもなく、コラさんの存在がおれの幸運だった。たとえあの島で死んでいたとしても、あるいは、悪魔の実を使いこなせずに珀鉛病で息絶えていたとしても」
 誰もいない、鳥も通らない高い空へ、彼の静かな声だけが吸い込まれていく。
「たとえそれでも、おれは幸運だった。コラさんに会えて、心を救ってもらえた。――それがすべてだ」
 
 語り終えた彼は、ゆっくりとこちらに体を寄せてくる。
 そのまま何も言わずに、ナマエの膝に頭を載せて寝転がった。
「…………」
 おずおずと指の先だけで彼の髪を撫で、ナマエはささやくように言った。
「…あなたは本当に揺るがない。そういうところ、心から尊敬してる」
「買い被られても困る。朝はそれなりに沈んでた」
「……そ、そうなのね。ごめんなさい」
 律儀に正され、ナマエはひとまず謝る。彼は気にも留めず、珍しく饒舌に続けた。
「しばらく存分に沈潜できたおかげかもな。考え尽くして、さっきの結論に還ってきた」
「…それなら良かった。せっかくのお誕生日だものね」
「ああ。夢でもコラさんに会えるのは稀だからな。沈んだままで終わるのはもったいねぇ」
 正直に吐露したかと思うと、すっとその手が伸びてきた。
「お前に感謝してる」
 刺青の入った指がナマエの頬を撫でる。
 その手があまりに優しくて、いとしくて、ナマエは何も言えなくなった。
「…泣くなよ」
 ナマエは唇を噛んで首を縦に振る。
 頷いたそばから涙がこぼれて、彼の指を熱く濡らしていった。


 彼の数奇な半生は、そして恩人との出会いと別れは、不憫や悲運といった言葉で語られることが多いのかもしれない。

 けれどあなたが幸運と呼ぶのなら、その軌跡を私は最も美しい糸で彩ろう。


 その想いを込めて、彼女は彼の手をそっと握り返した。



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