命はあげない

 黄色い潜水艇が到着したとき、その島はすでに内乱状態にあった。

 大太刀の妖刀を片手に偵察へ向かおうとしたローは、甲板で運悪くシャチに捕まった。
「ちょっと、また独りで行くんすか!?」
 ぐっとフードを掴まれて足止めされ、ローは短く舌打ちする。だがその程度でひるむシャチではない。離すどころか、掴んだままぐいぐい引っ張って駄々をこねてきた。
「おれらも連れてってくださいよー!」
「お前らは例の船を制圧しろ。さっきも言っただろ」
「言いましたけど! 当然船長も一緒に闘うんだと思ってアイアイっつったんすよ?」
 フードを引っ張られて息苦しい。ローはぞんざいにシャチの手を振り払った。
「おれが出るまでもない。ほかに用もあるしな」
「え〜、最近そんなんばっかりじゃないすか! つまんね〜! やる気出ね〜!」
 ばたばたと騒ぐシャチはうるさいことこの上ない。黙って従えと一喝してもいいのだが、若干の後ろめたさがローをためらわせた。
「シャチ」
 向き直って改めて名を呼ぶと、シャチがばっと身構えた。
「な、何すか。真面目な顔して」
「例の船をくまなく潰して、情報を獲るのが当面の重要課題だ。おれの目的にとって不可欠でもある」
「あー、うん、それはもちろんわかってるんすけど」
「任せられるのはお前らしかいない」
 嘘でも方便でもなく事実を告げる。虚を突かれて黙ったままのシャチに重ねて訊いた。
「他に理由が要るか」
「…イイエ」
「それならいい。任せた」
 背を向けて歩き出した瞬間、再びフードを掴まれた。ローはため息を飲み込んで声を絞り出す。
「何だよ。まだ不満か」
「いやー、正直めっちゃテンション上がってますけど」
「じゃあいいだろ、離せ」
「でも、そこまで言ってくれるんなら尚更、おれらを同行させてくれてもいいんじゃないすか? おれら全力で頑張るんで、絶対役に立ちますよ!」
 身を乗り出して言い募ってくる。かすかな焦りを隠し、ローは抑揚のない声で却下した。
「…今回はただの偵察だ。独りのほうが動きやすい」
 反論が来る前に身をひるがえし、甲板から島へと飛び降りる。
「あっ、船長! ちくしょー、行ってらっしゃーい!」
 悪態をつきつつ送り出してくれるシャチに、ローは振り返らず片手だけを挙げて応じた。
 足を速めるローに驚くように、鳩の群れが一斉に飛び立つ。せわしない羽ばたきの中、シャチの明るい声が彼の背に降ってきた。
「今度こそおれらも連れてってくださいよ!」
 何気ないシャチのその言葉は、今のローにとって最大の悩みの種だった。



 首都は四方を城壁で囲まれた城郭都市だった。ローは城壁の上に一足で飛び乗り、ざっと全景を目視する。
 中心地では民衆が王城を取り囲み、王制廃止を求めて声を合わせていた。武力衝突らしき事態は見当たらず、内乱は内戦にまでは至っていない。
 理由は明らかに国王軍の兵站不足だ。武器も兵士も圧倒的に足りず、丸腰の多数の民衆を前に膠着状態に陥っている。
「…………」
 ローは先月の新聞記事を思い出す。確かこの国の王と近衛兵は数カ月前に外征に失敗し、命からがら逃げ帰っていた。おそらく外征に先立つ重税もあっただろう。不相応な賭けに負けたのみならず、膨大な他者を巻き込んで犠牲にした者の、当然の帰結ではあった。
 暗君の玉座は自壊する。
「何の参考にもならねぇな」
 滅びゆく王国の騒乱を観察しながら、まだ見ぬ強国ドレスローザに君臨する仇敵にローの意識は向かっていく。
 暗愚とは程遠い絶対的支配者をいかにして倒すか。この十二年間、そればかりを考え続けてきた。成長し強くなれば超えられると信じていた頃もあった。だが強くなればなるほど、あの男との歴然たる実力の差を正確に認識させられる。海を進めば進むほど、背後に巨大な闇を擁する天夜叉≠フ強大な影響力を思い知らされる。
 それでも命がけでやり遂げる。その誓いは揺るがない。
 ただ、その命は一人分で足りるのか?
「おい! 止まれ!」
 不意に野太い怒声が飛ぶ。
 声の方向を見ると、城門のあたりに人だかりがあった。百人ほどの集団が門の外へ出ようとしている。女や子ども、年寄りが多い。内乱から避難する市民の集団らしい。
 ローは音もなく城壁から降り、それとなく状況を見守る。
 国王軍の兵士は五名ほどだ。二十倍以上の人数の集団に対し、ろくに武器もないのに居丈高に命令する。
「お前らは我々が保護する。この場を動くな」
 保護を名目とした都合の良い人質だ。非力な集団の中で動揺のさざめきが起きた。
 それを引き締めるように、澄んだ声があたりに響く。
「私たちは自力で避難できます」
 聞き覚えのある声と背格好だ。目を凝らすと正体はすぐにわかった。
「そこを通していただけますか」
 白い手で民衆を庇い、国王軍に対峙する若い女。
 ローの眉間に思わず皺が寄る。
 ――またあいつか…
 革命軍のナマエは、この島でも一市民を装って潜入しているらしい。
「怪我人や妊婦さんもいます。一刻も早く安全な場所に避難したいんです」
 兵士たちは胡乱げにナマエを見下ろし、顔を見合わせた。やがて隊長らしき兵がナマエに向き直り、威圧を込めて告げる。
「我々が保護すると言っとるんだから、ここが一番安全だ」
「差し出がましいようですが、兵隊さんは陛下をお守りすることが最優先の任務ですし、今朝の勅令でも王城の絶対死守が命じられていたのを聞きました。そんなときに私たちの保護などお願いできません」
 淀みなく言い返すナマエに、案の定、兵士は鼻白んだ。
「女、でしゃばるな」
「でしゃばっていません、逆です。みなさんの手を煩わすことのないよう、自分たちの身は自分たちで守ります。ですから早く通してください」
「黙れ! おい、この女を捕らえろ」
 一触即発の空気にローはため息をつく。
 愚かな女だと思う。従順な振りでやり過ごせばいいのに、無駄に気が強い。正直、諜報員としての資質を疑う。
 なのにローは、そんな蛮勇じみた反骨精神を嗤えない。
 子どもたちだけは逃がしてくれる兵士さんたちが現れたの――そう言って「救いの手」を純粋に信じたために、騙され殺された人を知っているからか。
「ROOM=v
 右手をかざして能力を発動する。
「シャンブルズ=v
 兵士たち全員と位置を入れ替わると、目を大きく見開いたナマエと視線が間近で交わった。
「目立ってどうする。バカか」
 罵られたというのに、ぱっとナマエは顔を輝かせた。
「トラファルガー・ロー! いつからこの島に?」
「一時間前だ」
「最高のタイミング…! ね、今回もお願い」
 両手を組み合わせて見上げてくるナマエに、ローはあからさまに渋面をつくる。
「何度目だ。おれを利用するな」
「ここにいるだけでいいの。いるだけで敵を足止めできる」
 ちらりとローは周囲を一瞥する。さっき入れ替わった兵士たちは、警戒して遠巻きにこちらを窺っている。さらに港の方角から土埃が上がり、ざっと数十人の部隊が駆けてきていた。
「援軍まで来てんじゃねぇか」
「きっとすぐ終わる。ベティさんが街に入ったから」
 それを証明するように、噴火のような咆哮が都市を揺るがした。
 自由への旗手<xロ・ベティに鼓舞された、群衆の鬨の声だ。
「やっぱり…! みんな鼓舞されてる」
 決着は近い。そう確信させる気迫と高揚に満ちている。
「じゃあ、どうもありがとう!」
 爽やかに礼を言い、ナマエは市民を誘導して逃げていく。
「お前…!」
 追う前にローめがけて銃弾が飛ぶ。瞬時に能力でかわし、迫ってくる援軍へと向き直った。
「あの男、トラファルガー・ローです!」
 兵士の一人が指をさして叫ぶ。
「ハートの海賊団の船長です! さっき、輸送船が襲われたと伝令が…、」
 シャチたちは武器商船をうまく制圧したらしい。これで補給線は断たれた。
 それはどうでもいいが、またしてもあの女に使われるとは…
 苛立ちのままに地面を蹴り、敵のリーダーめがけて先手を打つ。
「カウンターショック=v
 一気に片をつける合間にも、民衆の凱歌の声が風に運ばれてローの耳に届いてきた。


 闘え、決して振り返るな
 立ち上がる者だけに勝利の道は拓かれる
 隷従の鎖から己を解き放て
 闘え――自由のために




 ナマエは夕暮れに潜水艇の甲板にやってきた。ハートの海賊団が強奪した武器類を引き取るためだ。
「積み荷は確かに一つ残らず預かりました。では取引成立ということで、搬出の手配が終わったら船長さんのところに伺いますね」
 革命軍の仲間をてきぱきと指揮し、甲板から武器を運び出させていくナマエを見ながら、シャチがしみじみとつぶやいた。
「いつ見ても美人だなぁ〜。前から思ってたんですけど、武器商船つぶすのって、実はあの子のためでもあるんすか?」
「ねぇよ。徹頭徹尾、ドフラミンゴの力を削ぐためだ」
「でも、何だかんだで船長といい雰囲気じゃないすか? 会うたび実は嬉しそうだし」
「単なる取引相手だ。それ以上の関係はない」
「えー、もったいない!」
 くだらぬ話題を無視し、彼は甲板の隅に移動して腰を下ろす。
 黄昏ゆく空を仰ぐと、かすかな焦りが日に日に増していくのを感じた。
 ――まだ情報が足りない。
 ここしばらく、ドフラミンゴの息のかかった船をしらみつぶしに襲ってきた。目的は積み荷の強奪ではなく情報だった。敵の弱点につながりうる情報。切り札として利用できる「何か」を欲していた。
 力の差を補えるだけの「何か」があれば、独りでも闘える。
 だが堅気と違い、闇の中のビジネスでは物証が極めて限定される。航海日誌も最低限の記録しかない。船を奪ったはいいものの、ろくな収穫もなく、欲しくもない積み荷ばかりを得ても無意味だ。今はまだ反撃は無いが、度を超すと早晩ドフラミンゴに察知されるだろう。それは現時点では避けたかった。
 そんなとき、人間屋≠ヨの輸送船で、潜入中のナマエと出会った。革命軍の諜報員である彼女は闇市場の隠語や暗号に詳しく、限られた証跡から情報を引き出すのに長けていた。
 ローは瞑目し、しばし時間を取って考えをめぐらす。
 ふと珈琲の香りがしたかと思うと、女の声が近づいてきた。
「はい、お土産」
 ナマエは右手でローのカップを差し出してくる。ただよう香りは慣れ親しんだものだった。
「土産も何も、おれの船のもんじゃねぇか」
「さっきペンギンさんから託されたの。差し入れですって」
 ローに珈琲を手渡してから、ナマエは客用のカップを両手に持って隣に座り込んできた。
 一口飲んでから、ローを見ないまま告げる。
「革命はほぼ平和裏に成し遂げられた。ご協力に感謝します」
 嫌味でも返したいところだが、遠くを見つめるようなナマエの横顔に、何となくその気が削がれた。
「対価を寄こせ」
 単刀直入に求めると、相手もすんなりと応じた。
「一番の収穫はこれ」
 シャツの内ポケットから透明な袋を取り出す。
 中には壊れたエターナルポースが入っていた。ローは目を凝らしたが、目的地の地名は念入りに消されている。
「行き先はわかるのか?」
「これ自体は復元できない。ただ、そこへ運ぶはずだった物から一定の推測はできるかもしれない」
「その積み荷は何だ」
「化学実験用の器具や薬品、資材、消耗品。劇薬もある」
 淡々とこたえつつも、ナマエの表情は静かに張りつめている。ローは一つの単語を連想していた。
 ――「スマイル」と関係があるのか?
 武具や銃火器にとどまらない新たな「商品」が生産され、すでに流通していること自体は掴んでいたが、その正体はいまだ知れずにいた。毒ガスなどの化学兵器か、あるいは生物兵器か。いずれにしても殺傷能力は従来の比ではないだろう。ブローカーとしてのドフラミンゴの力と権威も否応なく高まる。
 ローが壊れたエターナルポースに手を伸ばすと、ナマエはそっと手を離して明け渡した。
「製造拠点に心当たりはあるか」
「心当たり程度なら、まったく無いわけじゃないけど…、」
 珍しく歯切れ悪く言う相手に、ローは思わず身を乗り出した。
「あるのか。早く言えよ」
「いっ、痛い! ちょっと、いきなり触らないで!」
 無意識に肩を強く掴んでいた。妙に痛そうなナマエの顔と右肩を一瞥してから、ローは渋々ながらも相手を解放する。
「言え。何か手がかりがあるんだろ」
「でも確証はないのよ。大はずれの可能性もあるから、つつくと藪蛇になるかも」
「いいから言えっつってんだろ。こっちはどんな些細な情報でも欲しいくらいなんだ」
 焦りでつい押しが強くなるが、それは逆効果となった。
 ナマエは意味深な眼差しをローに向けた後、すっと立ち上がって口を開いた。
「だったら余計に、憶測だけであなたに話すべきではないと思う。いま玉石混交の情報なんか渡しても、いらぬ混乱を招くだけでしょ。あなたがやるべきことの、邪魔になるようなことはしたくない」
 目を見ればその結論は覆りそうにないとわかった。それでもローは食い下がる。
「…おれに憶測を話す程度のことが、革命軍にとって不都合になるのか」
「組織はまったく関係ない。私個人にとって気が進まないの。デマかもしれない情報で誰かの人生を左右するなんて、心の底から絶対嫌」
 きっぱりと宣言して、相手はすたすたと歩き出す。立ち去っていく背中をなすすべもなく見送りながら、彼は聞こえよがしに嘆息した。
 相変わらず面倒な女だ。妙なところでこだわって、肝心なときに話が進まない。
 ただ、その情報網は侮れないし、何よりその頑固な気質ゆえに一定の信用が置けることは確かだった。
 ――やはり自力で探すか。
 気を取り直しかけたとき、ナマエがぴたりと立ち止まった。
 顔だけこちらを振り向き、ためらいがちに訊いてくる。
「…この程度では今回の対価として不当だというなら、出直してくる。きちんと調べて追加情報を渡すけど、そうしたほうがいい?」
 願ってもない申し出だった。存分に利用すればいい。そう思うのにローは頷かなかった。
 ナマエの顔には躊躇が見える。おそらく、革命軍の任務を果たしながらまったく別の調査を独自に行うのは、そう簡単なことではないだろう。ここで無理をさせては取引関係そのものが破綻しかねない。今後を思えば、ナマエとは今の状態を維持しておくのがベターだ。
 それに、もし本当に「スマイル」の謎に迫れるのなら、他者を巻き込むより極力自分だけで動きたかった。
 ローはおもむろに立ち上がり、ナマエの近くまで寄ってからこたえる。
「対価としては期待以上だった。それを超える要求に、お前が応じる義務はない」
 ナマエはわずかに目を見開く。やがて小さく微笑んでから、半ば呆れるようにぼやいた。
「……まったく、人の厚意を無碍にしてくれちゃって。失礼な人」
「あ?」
 さすがに癇に障って睨みつけるが、相手はもうこちらを見ていなかった。ローに背中を向けたまま、抑揚のない声で告げる。
「でもあなたのそういうところ、好いなって思う」
 その捨て台詞を彼女がどんな顔で言ったのか、ローの位置からは見えなかった。
 彼女は何も知らない。ローの過去も、恩人への想いも、仲間たちに関する迷いも知るはずがない。
 だからローを肯定するさっきの言葉に、深い意味なんかあるはずがない。
「おい、待て」
「まだ何かあるの?」
「肩を診せろ。右肩だ」
 ナマエは一瞬ぴくりと反応したが、振り向きもせず速足で遠ざかっていく。ローは苛立ちを隠さずに再度求めた。
「お前、待て。無視してんじゃねぇよ」
「聞く義務ありません」
「船に入れ。手当くらいしてやる」
 追いついてナマエの隣に並んだが、相手は頑なに首を横に振るばかりだった。
「理由なく海賊船には入らない。潜水艇なら尚のこと、逃げ場がないじゃない」
「医療船として入れ」
「無理でしょ、こんなに立派な海賊旗があるんだから。じゃあ、さよなら」
 話は終わりとばかりに駆けだす。なかなか俊足だ。
 言いたいことだけ言って、都合が悪くなったらさっさと逃げていく。城門での一件といい、この女ときたら毎回こうだ。
「…ROOM=v
 問答無用となれば、有利なのは圧倒的にローのほうだ。
 能力を発動してナマエを確保し、船内に強制連行した。



 医務室のベッドにナマエをうつ伏せに寝かせてから、ローは白い右肩をあらわにして傷の状態を確かめた。市民の集団を避難させる途中、子どもを庇って負った傷らしい。
 応急処置だけはしているようだが、これではローが掴んだとき相当痛かったに違いない。
「お前、少しは気をつけろよ」
「そんなこと言われる筋合いありましたっけ?」
「大ありだ。おれを巻き込んだこと、もう忘れたのか」
「あれは敵の足止めを頼んだのであって、私の保護をお願いしたわけじゃないんですけど」
 可愛くねえ。
 こんな女とどうやって良い雰囲気になれと? シャチの冷やかしを思い出し、ローはますます苛々した。
 それでも医者としてのプライドで丁寧に処置していると、ナマエの体からだんだん力が抜けていくのがわかった。
 柔らかくほぐれ始めると、気の強い女の体がいつになく華奢に見えて、ローはつい小言を重ねてしまう。
「あんな喧嘩腰の交渉するくらいなら、最初から力ずくで突破すりゃいいじゃねぇか」
「交渉も無しにすぐ暴力でごり押しするなんて、子どもたちに見せるわけにいかないもの。精神面の発達に悪い影響が出ちゃう」
 大真面目に主張するナマエに、ローはつくづく呆れた。
「それなら尚更、自重しろ」
「なぜ?」
「ガキの身にもなれ。自分を守ろうとした大人が目の前で殺されるほうが、余程ショックに決まってる」
 がばっと顔を上げたナマエは、目を丸くしてローをまじまじと見上げてくる。
「勝手に動くな」
「…目から鱗」
「遅ぇよ。もっと早く気づけ」
「ええ、おっしゃる通りで、何というか…返す言葉もありません。私、間違ってた」
 潔く誤りを認めるナマエに、ローは少し印象を改めた。やや扱いづらい女ではあるが、性根が真っ直ぐな分、納得すれば軌道修正は早いタイプらしい。
「今度から、敵は迷わず実力で排除する」
 そっちじゃねぇよと思ったが、つっこむ義理もないので無視することにした。
 黙々と治療を終えると、深い吐息がナマエの口からゆっくりと零れた。
「…すごく楽になってく気がする。ありがとう」
 常より柔らかな声、白い滑らかな肌は、外でのやや硬質な印象とは違う彼女の姿をローに教えた。
 身を起こして居住まいを正し、衣服を整えていくにつれて、普段のナマエに戻ってしまうのが何となく惜しい。ローは手を伸ばして相手のシャツの襟を引っ張り、邪魔をした。
 釦を留める白い指が止まり、訝し気な目で問うてくる。
「何?」
「お前、変な癖でもついてんのか」
「癖? 何のこと?」
「似たような傷が背面に多い」
「ああ、それね。総長にもよく注意される」
 部外者に言われるまでもない。言外の棘を感じて、ローは殊更ぞんざいに相手の襟を放した。
「無茶して怪我するのはお前の勝手だが、庇った相手にトラウマ植えつけるなよ」
「ほんっとに失礼な人ね」
「お互い様だ。指摘されるのが嫌なら、行動療法でも試して改めるんだな」
 半ば投げやりに勧めただけなのに、ナマエは真剣な顔で食いついてきた。
「死の外科医≠ヘ精神科医でもあるの? 行動療法できる?」
「いや、専門外だ」
「…じゃあカウンセリングとかは? しないの?」
「しねぇよ」
「意外と需要ありそうなのに…」
「あってたまるか。海賊だぞ」
 バカバカしくなって話を打ち切り、ローは一人で片付けを始める。背中に視線を感じつつも無反応を貫いていると、しびれを切らしたのか今度はナマエのほうから新たな話題を振ってきた。
「ねえ、あなたって、もうすぐ二十五歳なんでしょ」
「何で知ってる」
「さっき、ペンギンさんたちが宴の準備をしてるって言ってた。お誕生日のお祝いするって」
「だったらどうした」
「私の兄と同じ歳。…お兄様が亡くなったときの歳、だけど」
 お兄様。
 フレバンスが滅んだあの日以来、その呼称を身近に聞くことは久しく無かった。
 ――こいつは「妹」なのか。
 死んだ誰かの妹である女。革命軍の諜報員として、情報提供者としてしか知らなかった彼女は、新たな存在と質量を以て立ち現れつつある。
 ローは背を向けたままナマエに再度言った。
「おれはカウンセリングは受け付けない」
「存じ上げてます。さっき聞いた」
「だからおれから話せとは言わない。話したいなら勝手にしゃべってろ」
 背後の空気が揺れる。
「…聞いてくれるってこと?」
 きっと彼女の目には今、戸惑いの色が浮かんでいるだろう。
 ローも自身の言動に逡巡を覚えていた。
 船に招き入れるべきではなかったのかもしれない。
 いや、まだ十分引き返せる。
「話半分で良ければな」
 あしらうつもりでそんな返事をしたのに、ローの期待に反して、その声は言葉ほどには冷たく響かなかった。


 星が明るい夜だった。
 海賊船に長居はできないと言い張るナマエに連れられて、ローは島の外れの灯台にいた。
 シードルを片手に語る声は淀みなく、静かだった。
「私の故郷は豊かな商業国家だった。でも災害と不況が続いて、規定の天上金を納められなくなった。上納の猶予を求めたら叛意ありと見なされて、世界政府と海軍に潰された」
 隣に立つローは夜の海に目を向ける。波も空も穏やかなままそこに在った。
 故郷の滅亡など、この時代にはさほど珍しくもない。世界にとってはありふれていて、そして個人にとってはありふれない体験だ。
「私は十二歳だった。燃える街から焼け出されて、大人たちと一緒にしばらく森に隠れてた。でも一人の兵士に見つかって、女性と子どもを先に保護すると言われて、何の疑いもなく信じて、みんなのところに案内した」
 ざらりと声が濁った。ローは思わずナマエを見る。
「天竜人への奴隷を補給する部隊だった」
 表情は静かだが、手すりを握る手に力がこもっていた。ローは唐突に理解した。デマを渡すわけにはいかないと彼女が頑なに拒んだ理由を。
 そしておそらく、革命軍にいる動機も。
「私は混乱して、騙した兵士に食い掛った。めちゃくちゃに暴れたの。あのまま殺されるはずだった。お兄様が私を守って、逃がしてくれなかったら」
 噛みしめた薄い唇が震える。それでも泣くことなく彼女は続けた。
「みんなを助けろと…、それが最期の言葉だった」
 不意に潮風が強く吹き、彼女の髪を乱す。
「逃げられなかった人たちはマリージョアに連行された。当時はフィッシャー・タイガーの奴隷解放≠フ余波がまだあった頃で、新たな奴隷がかき集められていたから、富裕な国出身の奴隷は『良質』として重宝されてたと、後で知った」
「何年前の話だ」
「もうすぐ十二年が経つ。…みんなは必ず助け出す」
 奴隷にされた者の末路は知れている。しかも十二年も経っていれば、生存者がいても極めて少ないだろう。彼が黙っていると、ふと林檎の香りがした。
 ナマエがシードルを差し出し、彼をじっと見上げている。
「去年のシャボンディでの、ロズワード家の件。あのときから、私はあなたが気になっていた」
 瓶を受け取りつつも、ローは相手の意図をはかりかねて次の言葉を待つ。
「トラファルガー・ローは天竜人の奴隷を解放し、ハートの海賊団に加えた。報道での扱いは小さかったけど、私にとっては一番知りたいこと。どうしてキャプテン・ジャンバールを解放したの?」
「錠を外して、来るかと訊いたらあいつが頷いた。それだけだ」
 事実をそのまま言うと、ナマエは目を丸くした。
「……錠を外してからスカウトしたの? てっきり、『外して欲しけりゃ仲間になれ』とか、そういう取引したのかと想像してた」
「奴隷が欲しかったわけじゃない。強くて優秀な海賊なら、仲間になれば儲けものだと思った。実際、よくやってくれてる」
「じゃあ、彼はうまく馴染んでるのね?」
「さぁな。嫌なら自分で出ていくだろ」
 適当な返事に相手は不満も見せず、ふわりと淡い微笑みを見せた。
「…やっぱりいいなと思う。あなたのそういうところ」
 また妙なことを言う。
 眉根を寄せるローに構わず、ナマエは真面目な顔で披瀝を続ける。
「私は、誰も奴隷にならない世界が欲しい。それがきっと、お兄様を犠牲にしてまで、あのとき私が生き残った意味だと思うから」
 そのために革命軍に入り、背中に肩に腕に傷をつけてでも誰かを庇って、今日までこの女は生きてきた。
「…無謀だからやめとけって、あなたも言う?」
「そこまでお前に興味ねぇよ」
「それもそうね。良かった」
 くすくすと笑って、ナマエは手すりに両腕を載せる。海の果てを眺めながら、ささやくような声で語った。
「過去は忘れて幸せになろうと、いろんな人が言ってきた。そんなことに命を費やすのは無益で、仮に意義があっても他の人に任せればいいと。でもお兄様がいない世界では、私はこの生き方以外いらない」
 幸せになろうと言うからには、相手は男か。
 何となく面白くなくて、ローは口をつけずにいたシードルを呷る。
 甘いくせに酸味も強く、やけに舌に残る。好みじゃない。なのに渇きを覚えて、一口では終わらない。
「私の命はこのために使う。そうでなければ、お兄様の人生が無益で哀しいだけのものになってしまう」
 ナマエの長い息が、夜の冷たい空気に溶けていく。
「逆よりマシだな」
 短い評言を添えてローはシードルの瓶を相手に戻した。
「逆? …何の話?」
「妹を守れずに生き残った兄より、妹を守って死んだ兄のほうがマシだ」
 ナマエは反発するように顔を歪め、ふいと目を逸らして小声で言った。
「……そんなの、確かめようがない。本人に聞けないもの」
「聞かなくてもわかる。おれが前者だからだ」
 しばしの沈黙が生まれる。
 静寂をこえてナマエの問いが投げられた。
「あなた、妹さんがいたの?」
 ローは無言で頷く。それ以上語る必要は無かった。妹さんがいたの? 過去形での質問は、彼女が正確に察していることを示していた。
 この世のどこにも、もうあの子はいない。
 妹を守りたかった、守れなかった兄がここにいるだけだと。
「…かわりに自分が死ぬべきだったと、思ったことはある?」
 かすかに震えた声。ローは体を相手へと向けた。
 そんなことにまで踏み込んでくる女は、彼女が初めてだった。
 本来なら無視一択の愚問だ。そう思うのに、彼は今回も正直にこたえていた。
「十三歳の頃まではな」
 早く死ね――毎日毎秒そう責め立てられるような、絶望の日々だった。
 刻一刻と体をむしばむ珀鉛病の苦痛も、ホワイトモンスター≠ニ蔑む怒号も憎悪の視線も、ローを取り巻くすべてが彼を罵っていた。
 お前は死すべき人間だ。なぜまだ生きている。
 その冷たい闇を融かしたのは、たった一人の熱い涙だった。
「おれの心を救ってくれた人がいた。そしてその命で、おれの命も救ってくれた」
 あの夜の明るい満月と違って、今夜の月は柔らかい。
 月と星を背にした女は、身じろぎもせずにローの言葉を待っている。
「おれはあの人が救ってくれた自分を、無価値で死すべき命だったとは絶対に言わない」
 そう言い切った瞬間、ナマエの瞳が揺れるのがわかった。ローはそれを見逃さずに指摘する。
「お前も頭ではわかってんだろ」
 自暴自棄になっていたら、とっくの昔にマリージョアに突っ込んでいたに違いない。それをせずに革命軍で己を鍛え、時機を待っている。今のローと同じだ。
 十歳の頃、爆弾を体に巻いてドンキホーテファミリーに押し掛けたときとは違う。敵の強大さは誰よりも知っている。だからといって最初から己の命をむざむざ捨てに行くつもりはない。仲間たちの命はなおさらだ。
 だから時間と労力がかかっても、遠回りに見えても、情報を集め策を練っている。
 こいつは同類だ。だからこそ違いも目に付く。
「さっきの質問は、問いそのものが間違ってる」
 改めて切り出すと、ナマエはぎくりと肩を震わせた。
「死ぬべきだったのはお前を殺そうとした人間だ。お前ら兄妹の二択じゃねぇよ」
 とどめを刺した直後、彼女はずるずるとその場に座り込む。
「――――」
 うずくまったまま何も言わない。かと思ったら突然、シードルの残りを呷った。
 ごくごくごくと良い飲みっぷりを見せた後で、手の甲で無造作に口元を拭う。
 そして長い長い、深いため息を吐いた。
「……十二年もかかった」
 腕と髪に隠れて顔は見えない。声には涙が滲んでいた。
「自分ではわかってても…人に言ってもらうまで、十二年もかかった……」
 丸めた背中の服の下には、傷だらけの白い肌があることをすでにローは知っている。
 ローが体のあちこちに刺青を刻んだように、この女もまた、そうしなければ駆けてこられなかった。
「まだ割り切れねぇなら、刺青でも入れろ。大けがする前にな」
 その提案にがばりとナマエが顔を上げる。そんな反応を見せた割に、出てきた言葉はノーだった。
「…嫌よ。刺青だって、痛いんでしょ」
「一度で済む」
「嫌だってば。似合わないし…」
「それは否定しねぇな」
 あっさり頷くと、隣の女がようやく立ち上がった。
「そこ否定してよ…」
 ぽこりと肩を叩かれる。まったく痛くないが、じゃれあうには相手がしおらしくて気が咎めるので、ローは静観を決め込んだ。

 それから彼女は長いこと独りで泣いていた。
 兄を失った妹。だが彼女はローの妹ではない。
 単なる取引相手だ。それ以上でもそれ以下でもない。
 だから手を握ってやることも、いたわりの言葉をかけることもしなかった。
 ただ隣にいて、冷たい夜風から庇った。



 十月六日、黄色い潜水艇は平穏で豊かな島に停泊していた。
 船長の二十五歳の誕生日祝いを船で盛大に催した後、日が暮れてから街に繰り出すと、繁華街で見知った顔に出会った。
「先日は世話になったね」
 挨拶してきたのはベロ・ベティで、後ろには名前のわからぬ革命軍のメンバーが五人控えている。
 あいつはいないのか。
 ローの内心を読んだようにベロ・ベティがこたえた。
「ナマエなら不在だ。しばらく組織から離れている」
「何かあったのか」
「心配無用だ。一時的に休暇を取っているだけで、終われば戻る」
 負傷かと思いきや休暇と聞いて力が抜けた。だがそれはそれで腑に落ちない。不器用そうな女だと思っていたが、案外公私の切り替えはできるのだろうか。
「お前らにも休暇なんかあるのか」
「ああ。家族や恋人に会うために使う同志もいる。勤勉なあの子がまとまった休みを取るのは初めてだが」
 ナマエにはすでに家族も故郷も無い。それはローも知っている。
 だとすれば恋人とでも過ごしているのか。幸せになろうと言い寄ってくる男がいたらしいことは知っている。特定の交際相手がいるかどうかまで聞いていない。
 知る必要も無かったはずだ。
「では、良い夜を」
 去り際にそう残して、革命軍は雑踏の中に紛れていった。



 何だか面白くない。そしてそんな自分自身にも嫌気がさす。
 だから憂さ晴らしを兼ねて、酒場に移動して飲み直すのはいい。ただ、すでに酔っぱらったシャチが街の女たちをやたらと侍らせようとするのには閉口した。
「ほらほら、おれらの船長かっこいいだろ?」
「ほんとだ! 手配書よりかっこいーい!」 
 黄色い声が複数あがる。女たちも酔った勢いなのか、物珍しそうにハートの海賊団に寄ってきていた。
「だろだろ!? 今日、船長の誕生日なんだよ! みんなでお酌してあげて!」
「喜んでー!」
 一斉にボトルが向けられ、ローはますます辟易する。早めに逃げたほうが良さそうだ。
「あっ、ちょっと船長! どこ行くんすか!」
「うるせえ、一人で飲ませろ」
「誕生日くらい大人しくちやほやされてくださいよ! よし、みんな囲んじゃって!」
「はーい!」
 わらわらと囲まれた挙句、ソファに座らされてしまう。競い合って酌をしてくる白い手の群れも、入り混じる香水の匂いも、すべてが面倒で鬱陶しい。
「いらねぇっつってんだろ」
 再度拒んだその瞬間、急に殺気を感じた。
「―――」
 うなじを刺すような鋭い視線。こちらの肌が粟立つような不穏な気配は、この平和な島にはそぐわない。
「…………?」
 ローは喧騒の中で神経を集中させ、視線の主を探る。
 相手は一人だ。おそらく海軍ではない。海賊か賞金稼ぎか。弱くはないがローにかなうレベルではない。放置しても実害は少ないだろうが、尋常でない圧迫感がある。
 ローだけに絞られた照準。標的が自分だけなら、かえって好都合だ。
 仲間たちはシャチに限らず、多かれ少なかれ酔っている。今日までローの誕生日祝いのために忙しく働いていたことを思えば、今夜くらいは心置きなく楽しんで欲しかった。
 独りで片付けよう。そうと決まれば、ここに長居する理由はさらに無い。
 すっとローは立ち上がり、能力を使って酒場の出口に移動した。シャチがすかさず叫ぶ。
「あっ! 何いきなりシャンブルってんすか!?」
 変な略称はやめろと突っ込むのさえ億劫だ。
「先に帰る」
「えー! せっかくの誕生日なんだから、もっと楽しんでいきましょーよ!」
 仲間たちのブーイングの波をぬって、一人の女がローのもとへと駆けてくる。
「じゃあ私、港まで送ってあげる」
「おっ、気が利くな〜! ありがと! 船長をよろしくねー!」
 勝手によろしくするな。普段なら叱るところだが、この場を早く離れるためならひとまず何でもいい。仲間たちに囃し立てられながら酒場を出た。
 外気の涼しさに安堵するが、視線はまだ絡みついたままだ。ローは早速、女に素気無く言い渡した。
「ついてくるな」
「待ってよ。後ろから見送るだけならいいでしょ?」
 高い靴音を立てて女が追ってくる。それ以上会話する気にもなれず、無視を決め込むことにした。
 港へ向かう間も視線はつかず離れず、ローの後を追ってくる。
 通り道のホテル街にさしかかったとき、女が手近な宿を指して誘ってきた。
「ね、ちょっと休んでいかない?」
 なぜかそのとき、追っ手の気配が急速にしぼんでいくような感覚があった。
 ――諦めたのか?
 そう思った直後、ざわりと背筋が凍った。
 殺気は消えていない。むしろ先刻よりはるかに強まった。
 ローは誘ってくる女に最後通告を出す。
「これ以上おれに構うな。死にたくなければな」
「え…」
「今おれは追われてる。命の保証はできない」
 女はようやく状況を悟ったのか、顔を青くして逃げ去っていった。
 ローは足を速め、ひと気のない路地へと追っ手を誘い込んでいく。
 気配もそれにつられて猛然と追ってくる。
 遠巻きはやめて、正面から勝負を挑みに来るらしい。いい度胸だ。
 路地裏の少し拓けた空き地に着くと、もはや隠す気もないのか、土を踏む足音がローの背中へと近づいてくる。
 ローは妖刀の柄に手をかけ、ゆっくりと引き抜いた。
「えっ」
 背後の声にローは耳を疑った。
 ――まさか…
 振り返って目を凝らすと、そこには――いるはずのないナマエがいた。
 夜に溶けるような濃紺の服を着た彼女が、目を丸くしてローを見つめている。
「……………」
 二人は数秒間、声もなく互いを凝視した。
 先に沈黙を破ったのはナマエのほうだった。
「いきなり抜刀しないでよ。びっくりした」
「こっちの台詞だ!」
 つい頭に血が上り、ローは半ば怒鳴り声で問いただす。
「何でお前がここにいる。何のためにおれを尾行した」
 ナマエはそれにはこたえず、すっと能面のように無表情になった。
「綺麗な女性とお楽しみのところ追跡しまして大変申し訳ございません」
 慇懃無礼を絵に描いた態度に、ローは不覚にもたじろいだ。
 まずい。完全に誤解されている。
「お誕生日のお祝いに、例の情報をお届けにきました」
 ローの動揺をよそに、ナマエは抑揚のない声で話を続ける。しかもその中身は想定外だ。
「…誕生日?」
「ええ。今日のうちにお伝えしたくて」
 近づいてくるナマエは、あたりを憚るように声を低めて切り出してきた。
「スマイルの元となる素材の生産拠点は」
 目を見開いたローの耳元に、ナマエが背伸びして口を寄せてくる。
 ――パンクハザード。
 ローにだけ聞こえる声でその地名が告げられた。
「…………」
 喉から手が出るほど欲しかった情報。
「…なるほどな。最適の島だ」
 確かに盲点だが、なぜ気づかなかったのか。政府が捨てた曰くつきの島。研究所。誰もおいそれとは近づけない。七武海のためにあつらえたように打ってつけの場所だ。正解を知った後だからそう思える。
 ローは改めて目の前のナマエを見た。
 憶測は言わないとあれだけ明言していた彼女が持ってきたのなら、いい加減な情報ではないはずだ。綿密に調査して真偽を確かめたに違いない。
「調べたのか」
 ナマエはこくりと首肯する。そんな素直な仕草は珍しい。
 こいつ、結構可愛かったのか…
 うっかりそう感じた自分に焦り、ローは咳払いで誤魔化して話題を変えた。
「休暇ってのはこれのためか」
「? 何で私がお休み取ってたって知ってるの?」
「今日、お前の仲間に会った」
「…そういえばベティさんたちもこの島にいたわね。何か余計なこと言ってた?」
「勤勉なお前がまとまった休暇を取るのは初めてだと」
 ナマエは目を泳がせた。ローはその隙を逃さず攻める。
「おれのためだとは思わなかった」
 宵の苛立ちも鬱屈も嘘のように消えていた。
 かわりに淡い泡のような、林檎酒のような甘苦しい仄かな酔いがまわっていくのをローは自覚していた。
 こんなのは自分らしくない。好みじゃない。
 なのに喉が渇いて、飲み干したくなる。
「お前、」
 ローが距離を詰めようとしたとき、しばらく大人しくしていたナマエが急に声を上げた。
「さて、一番大事なことは伝えられたから、私はこれでお暇する」
「は」
「じゃあどうも、邪魔して失礼いたしましたっ!」
 勢いよく一礼するや否や、脱兎の如く逃げて行く。
「ちょっ…、待て!」
 初動は遅れたが、本気のローに捕まえられない相手はほぼいない。
 すかさず能力で捕獲し、腕の中に閉じ込める。
「離してー!」
 じたばたと小獣のように暴れる。そんなナマエを見るのは好い気分だ。
「離してってば!」
「離す理由がねぇな」
「あるでしょ! こんな暇あったら、さっきの女の人を追いかけたら?」
 嫉妬が快い。だが堪能するより釈明が先だ。
「誤解だ。その気は一切ない」
「……じゃあ何で二人で歩いてたのよ」
「殺気を感じて、狙われてると思ったからな。仲間を巻き込まないよう独りで帰ろうとしたら、周りが許さなかった。お前だとわかってたら、あんな面倒もなく済んだんだが」
「う…、」
 負い目のせいかナマエは言葉に詰まる。夜目にも赤くなっているのがわかって、ローは攻撃の手をやや緩めた。
「お前こそ、誰かと旅行にでも行ってんのかと思ってた」
「そんな相手いませんから! つくらないし!」
 ふんと肩をそびやかしてナマエが宣言する。
「…何笑ってるの」
 じろりと睨まれて、さっとローは口元を押さえた。
「笑ってねぇよ」
「笑ってました! 何なのよもう、バカにして…!」
 ナマエは憤懣をぶつけるように、ローに何やら投げつけてきた。反射的に受け取とめたそれは一冊のノートだった。
「何だ、これ」
「調べた中身をまとめてあるから、詳細はそれを読んで」
 早速めくってみると、どのページも細やかな字で几帳面に記されている。短期間でよくここまで調べ上げたものだと率直に感心していると、ナマエが口頭で補足してきた。
「スマイルの流通網も一定程度は把握できた。顧客は極めて限られている…というか販路を広げる気がないと思う。リスクが大きすぎるものね。常人の思考と感覚があれば容易に手を出せる代物じゃない」
 読み進めるにつれて、次第にその意味がわかった。ドフラミンゴの得意先は、闇の世界では名だたる大物ばかりだ。その中には世界最強の生物と恐れられる四皇カイドウの名もある。
「当たり前だけど、取り扱いにはくれぐれも注意してね。私が調べた範囲だけでも、かなりの関係者が消えてることがわかった」
「殺されたってことか」
「表向きは変死扱いだけどね。行方不明者も多い」
 ローはノートから顔を上げ、単刀直入に訊いた。
「お前の身も危うかったってことか」
「そういうの訊かないでくれる? こう見えても一応、その道の専門家なんですけど」
「否定しねぇんだな」
 たたみかけるとナマエはそれ以上抵抗しなかった。
「……あなたのそういうところ、嫌い」
 苦笑いでごまかそうとする。その顔を見ると我慢できなかった。
 ローは素早くナマエの腕を掴み、噛みつくように告げた。
「これはおれの獲物だ。お前が命を賭けるべきことじゃない」
 間近で覗き込んだ目は、不安の色を帯びて揺れている。
「…迷惑だったってこと?」
「違う。おれが何より欲しかった情報だ。おれにできることなら何でも報いたいと思う」
「はぁ? 何それ。バカにするのもいい加減にして!」
 平手が繰り出されるが、ローは難なく片手で制止する。
 ナマエは悔しそうに唇を歪め、声を絞り出した。
「…見返りが欲しくてこんなことやるもんですか」
 ローもそれはわかっている。だから危ういのだ。何の見返りも求めず、あまつさえ危険まで冒して、己の最も欲しいものを与えてくれる。そんな存在は嫌でもローの心を揺さぶってしまう。
「約束しろ」
 息のかかる距離まで迫ると、淡く甘い香りが鼻先をかすめた。
「おれのために命は賭けないと。そう言え」
 ローの真意を探るように、ナマエは瞬きもせず見つめてくる。腕を掴む手に力を込めてローは続けた。
「お前にはやるべきことがある。そのために命がけで走ってる」
 コラソンもそうだった。ドフラミンゴを止めるために命がけでファミリーに潜入していた。
 その寄り道で自分を助けた結果、冷たい雪の中たった独りで逝った。
「信念のために生きてる人間を、おれのために道半ばで死なせるのはもう御免だ」
 ローはコラソンのことをナマエに話したことはない。仮にすべてを打ち明けても、ローの心情を完全に理解してもらえるとは思っていない。こんな遠回しな言い方では尚更、ほぼ伝わらないだろう。
 それでも彼女はローの真情を感じ取ったのか、やがて澄んだ声で言った。
「……そんなこと、言われるまでもない」
 ゆっくりと言葉を紡ぎながら、するりとローの手の拘束から逃れていく。
 かと思うとその両手は、そっとローの手の上に重ねられた。
「私はあなたのためには死ねない…あなたに命はあげられない」
 白い指先が優しく手の甲をなぞる。
 言葉とは裏腹に深く慈しむようなそのぬくもりが、静かに、だが確かにローを高揚させていく。
「…だからせめて、私にできる一番良いものを贈りたかった」
 そう言って彼女は、ローの手に額を当てた。
 ローよりも少し体温の高い肌。その熱がゆるやかに伝播し、少しずつ広がっていく。ずぶ濡れの身を柔らかな布で包まれるような、深くあたたかい安堵が全身に満ちていく。
 お前のためには死なない――その言葉を、約束を、自分はこんなにも欲していた。
 ローに命をも捧げる覚悟の仲間たち。彼らにその言葉を求めるのはエゴかもしれない。でも罵られても恨まれても構わない。
 仲間が生きているなら、ローはその事実だけであの強大な敵とも闘える。
 
 心は決まった。

「お前からの祝い、確かに受け取った」
 ローがそう言うと、ナマエはゆっくりと顔を上げ、こちらを見つめて微笑んだ。
 その笑顔にみぞおちが熱くなる。
「―――」
 自然と唇に唇を寄せたが、寸前で避けられた。
「なっ…何?」
「動くなよ」
 ローは舌打ちして唇を追うが、ナマエはますます慌てふためいて顔を背ける。
「ちょっと、な、何なの? 何のつもり?」
「礼をしたい」
「いえいえいえ謹んで辞退します!」
「じゃあ誕生日祝いにくれ」
 ぐぐっと手首を掴んで引き寄せるが、相手はぶんぶんと首を横に振って拒む。
「そんなのプレゼントじゃないから! ただの強奪だから!」
「海賊相手に何言ってる」
「そっちこそ! 革命家がたやすく屈するとでも思ってるの!?」
 強引に攻めても彼女の気質には逆効果らしい。彼は少し考えて、相手に主導権を渡した。
「それならお前からやれ」
「…やるのは既定事項なの? 何で!?」
「命以外なら、くれてもいいんだろ」
 実際にそう言われたわけではないが、都合よく拡大解釈した。
「…………?」
 案の定ナマエは動きを止め、神妙に眉根を寄せて自分の言動を顧みている。
 そこにつけこみ、ローは今度こそ彼女に口づける。
 
 涼しい微風が頬に触れる。それ以外に動くものはない。
 抵抗はなかった。
 彼女はそれを黙って贈ってくれた。
「ん…、」
 互いに抱擁はしない。舌も絡めない。唇だけが触れ合う、児戯のような口づけ。
 なのにひどく甘美で頭の芯が痺れる。何もかも忘れてしまいそうになる。狂おしい快感に身を委ねかけたとき、不意にローの手に痛みが走った。
「っ…」
 彼女が手の甲に爪を立てている。
 忘れるな、逃げるな。そう鋭く叱責するような痛みだ。彼女の内なるせめぎあいが迸るようなその痛みも、今は不思議と愛おしく感じた。
 互いにやるべきことがある。相手に命はあげられない。
 わかっていても、もう抗いようなく惹かれていた。

 永く、それでいて淡い口づけの後、先に口を開いたのは彼女のほうだった。
「…これで満足ですか」
 真っ赤な顔と潤んだ目は、ローのささやかな嗜虐心を刺激する。
「さぁ、どうだかな」
「えっ…」
「一回きりじゃわからねぇ」
 口角を上げてそう誘うと、相手はしばし絶句した。
 やがて悔しそうに頬を赤く染めた彼女が、精一杯恩着せがましく申し出てくる。
「……じゃあ、ついでにもう一回して差し上げましょうか?」
 返事をする時間さえ惜しんで、ローは再び彼女と唇を重ねた。





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