「おまえも来いよ」
そう言って振り返った彼は、背中にひろい青空を背負って、額に汗を浮かべながらいつのもように口角を持ち上げて笑うので、私は眩しいなあと、絵の具をこぼしたかのように深い青に浮かぶ真っ白な雲のコントラストに目を細めたのだ。もくもく、ソフトクリームみたいに渦を巻く入道雲。青を切り裂く飛行機雲が、静かにまっすぐ伸びていく。ねえ、どこに行くというの。その先に、なにがあるというの。私は地上からただ見上げて、どこへ向かうのかを眺めているしかできない。せっかく彼が手を伸ばしてくれたのに、私は、彼がひどく遠くに見えてしまって、共に行った先で、私はひとり置いてけぼりにされるんじゃないかと、恐ろしくなって、なにもかも悟った大人のようなふりをして、首を振ったのだ。その時の、まるで分かってたと言わんばかりに笑みを深めた彼の私に向けられた背中の、その寂寥を、私はその日から夢に見ている。後悔でもしているというのだろうか。
青の反対色は、黄色と橙をまぜたような色であるらしい。ローは、黄色と橙の間から助け出された子だった。
※※※
私とローは、いわゆる幼馴染と称する関係であったように思う。
私の肩くらいしかなかったはずの彼の背は、高校に上がると一気に身長が伸び、もともと整っていた顔もあってずいぶん女の子にモテていた。それにモヤモヤとしだした私の胸中は穏やかではなく。それは大好きで一番仲がいいと自負していた相手を奪われそうな危機感からくる独占欲か、それとも、恋慕か。幼い私に確かめる術はなく。ローがなにかをするたびに上がる黄色い悲鳴にむしゃくしゃして、そっけなく接するものだからローは不思議がって、それでも見捨てるでもなく、変わらずに声をかけてくれた。それが、どれだけ嬉しかったことか。
高校一年、二年と経過していくなかで、ある日突然私のなかで心境の変化が起きたのは、ほんとうになんでもないことで、突如、ああ、もうやめよう、と脚を止め、つっけんどんな私を脱ぎ捨て、楽しかったあの頃みたいに、彼と話したい、と思ったのは、高校3年生のこと。吹っ切れた私を象徴するかのように短くバッサリと切り落とした髪を、悪くないなんて、笑いながら毛先をなでた彼の伏し目がちに落とされた視線に、私は恋を自覚した。
転機が起きたのは、東京から転校生が来たときだった。上背のあるすらりとした長い手足にさらりと揺れるなめらかな絹糸のような黒髪。まるで雑誌の表紙で微笑む可憐なモデルのような彼女が、ローに惚れてしまいええい待たれよローは私の好きな人で候!と壮絶な争奪戦を繰り広げ──……ということもなく。私は東京から来た彼女ととても仲良くなった。自分の知らない都会の話が面白かったのだ。そんなある日言われたひとことに、私は衝撃をどかんと受ける。
「このあたりってやることなくない?」
ゲーセンないじゃん、カラオケだって隣町まで行かないとないし、つまらないしやることないよね、と。そして彼女は続けるのである、「それをSNSで呟いたらさ、フォロワーからやることがないから田舎は子沢山が多いし結婚も早いんだよ、って言われたんだよね」と。その場に同席した友達がやだー!と言いながら可笑しそうにバシバシと肩を叩いてくるが、痛い。
確かに、なにもないかもしれない。彼女の話のなかに出てくる東京は、学校が終われば目の前にデパートがあり、駅まで歩く途中に雑貨から生活用品まで揃う店舗が7フロアに軒を連ね、かと思えば何本も走る線路をまたいで掛かる橋を超えれば有名な百貨店が待ち構えている。右を見れば電鉄の本社ビル、通信会社の本社ビル、本社ビル本社ビル……。ファーストフード店は歩けばひいふうみいと入り放題。いざ帰宅するための駅には改札内に連なる店、カフェ、たくさんのロッカー。
「……っていう話があってさ。どう思う?!」
「どう思うもなにも、確かにこっちじゃ“それ”しかやることがないんだろ」
小難しそうな本を片手に人のベッドで寛ぐローに声をかけるが返答はそっけなく。そんなことないよ、と必死にあれこれできる遊びを脳みそから捻り出すもやはりネオンに装飾された如くの都会のイメージには全く勝てるものでもなく、勉強机にうなだれる。いいなあ、と、都会に夢想してシャープペンシルでノートへ無駄にぐりぐりと黒い塊を生成する。確かに、近所のお姉さんも、親戚のお兄さんも、早い人は十代で結婚して二十代で子供が三人ほど居る知り合いだって居る。けどそんなことない、はず。それしかやることがないなんて。ここで生まれてしまったものは仕方がないが、一層都会に描く夢想が強くなる私は、ひどくふてくされて脚を揺らす。大人になったら上京してやろう、と思っても、当然そんな金も具体的な展望もなく。やりたいこともないから志望大学は無難な地元で、大学の四年間でアルバイトを重ね資金を貯めようかな、というのが私の構想だった。
頬杖をついてふてくされる私を見かねてか、それとも気が向いたからなのかは分からないが、ローが本を閉じる音がする。そうして、「こっちへ来い、」とまるで指図するような言い草だが決して粗雑でもなく。私はこうしたローの言い草を偉そう!と憤慨することはなく、むしろそういったところも好きだった。
私がベッドへ腰掛けるとローは上体を起こして出迎えてくれる。なに、と問いかけると、骨ばった手が伸ばされ、春先に切った私の髪が初夏の今、伸びていることを確かめているかのように毛先をなぞる。
「そういや、あのとき髪を切ったのは、失恋でもしたのか」
「そういうわけじゃないけど。吹っ切れたことがあって」
「好きな男でも居たのか」
え?と驚いて彼の瞳を見つめると、冗談でもなんでもなく、そう思っていたのか、違うのか?とばかりに瞳が問いかけてくる。失恋はしてないとはいえ、恋愛がらみには間違いなく、とはいえ髪を切ってからローへの恋心を自覚したから違っているような、あっているような。言いあぐねる私に何を感じ取ったのかはわからないが、ローは小さく息を吐くと私の髪先から肩を撫で、顔を寄せてくる。こつん、と額同士が重なり合って、グレーの瞳がこちらを見た。
「おまえ、高校入ってから急にそっけなくなったろうが。男ができて、男と“それ”とやらはしなかったのか」
「は、」
なんでそうなるの、と驚く暇もなく、ローはやや不満そうに言葉を募らせる。
「で、振られたから髪もばっさり切っておれのところに戻ってきた。違うか」
「全然、違う、……まあ、恋はしてるけどさ、……言っとくけど、ファーストキスすらしてないし……」
私が急に素っ気なくなっても変わらずに彼が接していてくれた理由は、私が恋人ができて幼馴染の男の子と距離を置いたと思われてたからなのか……と思わぬところで納得してしまった。「ローったら、考えすぎじゃない?」なんて可笑しそうに笑う私に対し、片眉を跳ね上げた彼はどこか不満そうで、何を考えているのかわからないでいる私の視界に、突然端正な顔がドアップで現れたと思えば、柔らかく触れ合う唇の感覚に思わず目を見開く。一瞬で離れてしまったが、間違いなく、彼は私にキスをした。その意味が分からないでいるのに、彼は一人なにかを納得して本に手を伸ばしまた読書をはじめてしまった。ほったらかされている当の私は段々と自覚が伴い頬が発熱をして、急に恥ずかしくてたまらないような、キスだけされて涼しい顔をされているのが腹立たしいような、なんとも言い難い心地で思わず軽く肩を叩いてやりこちらを一瞥する憎らしい顔に向かって噛み付くように顔を寄せては、勢い余って押し倒してしまう。そのままの勢いで唇を奪うと、珍しく瞳をまん丸にしたローが間近にあって、にんまりとしたり顔を見せて、そのまま離れるはずだったのに。肩から線に沿って撫でる手のひらが腰を抱き、触れ合う身体の一部が熱を持って私の体内へ伝播していく。
居心地の悪い、ぎこちなさを覚えて離れていきたいのに、そのために身じろぎすること自体が怖かった。私がすこしでも動けば、触れ合う部位が擦れあって熱を一層上げてしまいそうだったのだ。昔からこうしてローは私の部屋によく居座っていたから、好きな男の子とこうして戯れに触れ合っている現状ということに気づくのが遅く、今更焦りと羞恥を覚えて喉が小さく鳴る。
そもそも、キスしあっちゃったよね、……私はローがすきだけど、ローは?私のことは…?ぐるぐる思考が回って、パンクしそうになった時。
「おれは、東京の大学へ行くつもりだ」
「は、」
「コラさんが東京で仕事をすることになるってのも理由ではあるが、行きたい大学があっちにある」
さきほどまであんなに浮ついた気持ちで居たのに、それがまるで嘘のようにすっと体温が引いていく。まさか、ローがこの町を出ていくなんて思ってすらなかった。私が上京したいと思う気持ちはいささか不純で、ただの憧れに他ならなかったし、大人になったら上京するんだ、と漠然と考えた程度のちっぽけなものだった。だが、彼は違う。
ローの両親は、優しくて、幼かった私も覚えている。注射が怖くて泣きじゃくる私に優しく声をかけて、飴までくれたっけ。町一番の医者だった、ってお母さんが言っていた。過去形なのは、ローの家族が彼ひとりを置いて旅立ってしまったから。悲惨な交通事故だったらしく、当時は新聞に大きく載っていたのをうっすら覚えている。そんななか、ローが一人ぼっちにならずに済んだのは彼の言う「コラさん」のおかげだったのだ。燃え盛る炎のなか、おじさんおばさんと妹さんは即死、火に巻かれる幼いローを捨て身で助け出したのが、コラさん。そのひとをすごく慕って、尊敬している姿をずっと見てきた。そのひとと一緒に東京へ行くというのは、ひどく納得ができて、ただそれに感情が追いついておらず、眉根を寄せてただ言葉にできない感情をぐっと堪えるしかなかった。
知ってる、彼は、医者になりたいんだ。あまり多弁ではない彼は、夢なんて語りやしないが、ぽつりと、医者になりたいと言った言葉を確かに覚えている。それを彼は叶えようとしている。それは、素晴らしいことで、夢も目標もない私は返す言葉がなく、黙りこくってしまう。
「そ、っか……ローなら大丈夫。東京でだってうまくやっていけるよ」
「そこはおれも心配してねェが、」
視線が持ち上げられて、跨ったまんまの私を見上げるから、胸板に手をついて身体を退かす。ベッドに腰掛けて、彼へ表情が見えてしまわないように背を向けた。不満げな声がおい、と背中に向けられるが、振り向く気は起きない。行かないでほしい、と、言いたくなってしまう。行かないでほしいの、ロー。私の知らないところに、行ってしまわないでほしい。そうやって、せっかくこれから目指す場所を教えてくれたローの真摯さを裏切るような言葉を投げかけてしまったら、いよいよ私はわたしが許せなくなってしまう。なにが都会はキラキラしてていいんだろうな、だ。ローはしっかりとした志を持ってあの土地を目指そうとしているのに、自分がひどく幼稚で、情けない。
深呼吸を繰り返して、きっとそれすらローにはバレてしまっているだろうが、それでも、なんでもないように、取り繕って振り返る。
「応援してる!私は地元の大学受けるつもり。あっち行っても、連絡途絶えさせるんじゃないわよ」
「ナマエの方が途絶えさせるんじゃねェのか」
筆無精だろ、と呟いた彼は、それから私の背中を軽く指でとん、と突っついた。それはまるで、強がってるんじゃない、と咎めているかのようだったが、それでも私は精一杯の笑顔を浮かべるだけで、寂しいだなんて、言えなかった。
※※※
夏休みはバイト、たまにオープンキャンパス、バイト、バイト三昧でローと全く遊ばなかったけれど、最後の夏だったんだから過ごせばよかったなあ、と思ったのは夏休みが始まってもうしばらく経ってから。ローは、どうやって過ごしたんだろう。いつだって気軽に話しかけて気軽に会って、傍に居たはずなのに、気がついたら、むしろ遠ざかってしまっていて。彼が遠ざかったのではない、私が脚を止めてしまったせいだ。先を進む彼が振り返って来いよ、と言って誘ってくれたのに、それにうんと頷かなかった。結局、お荷物なのは自分自身の重たい速度。田舎から、東京へ出たいなんて憧れているくせに、結局それは憧れにしかすぎず、いざ足を踏み出すことができない。親になんて言おう、とか、そういうことばっかり気にしている。本当に出ていく勇気がある人ならば、親だって説得してみせるという覚悟があるだろうに。私は、私は、どうしたらいいんだろう。離れたくない、ローがどこかに行ってしまうなんていやだ。悲しい。悲しいから、なに?なにもできないし、しないくせに。
高校生のためアルバイトは22時までしかできない、げんなりした心地で仕事着を入れたトートバッグ片手に家のドアを開ける。残暑がいつまで経っても長引いて暑いとはいえ、夜は肌寒く、早く風呂に浸かりたかった。
「ただいま……」
「あら、おかえり。元気がないわね、……まあ、それも仕方ないか、ローくん、東京行っちゃうんだもんね」
「え?お母さん、もう知ってるの」
当たり前でしょ、と驚いた顔をした母が振り返る。
「だって、今週には引っ越すって言ってたわよ?ちゃんと挨拶したの」
手に持っていたバッグを思わずぼとりと落として、私はカレンダーを見る。今日は、10月5日、え?うそでしょ、と曜日を見て、また、今週なんて、あっと言う間に過ぎ去るじゃないか、と。母親の驚いた声を背中に浴びながら私は駆け出す、すぐ戻るから、と掛けた声が届いたのか否かはわからないけれど、私は無我夢中で走り出した。ローが住む家は、我が家からすぐ近くてあっと言う間に着いたけれど、見上げた家に明かりは灯っていない。まさかもう引っ越したとかじゃないだろうな、と思っても、まったく情報が分からなさすぎて途方に暮れる。ポケットにねじ込んだスマートフォンを取り出して、ローにメッセージを送ったが、すぐ既読にはならず、どこで何をしているんだろう、と漠然と考え、しかし彼に会うまで自宅に戻る気にはならず近くの公園へ重たい脚を向ける。街灯にぼんやり照らされた遊具へ誘われるよう、ブランコに腰を下ろした。
それから、どれくらいの時間が経ったろうか、ぼんやりとブランコを前後に揺らす私の前に、人が立ち街灯の光が陰る。はっとして顔を上げれば、どこか焦ったような顔でこちらを見下ろすローが居た。思わず探していたのに、と言おうと腰を浮かせる私に構わず、彼は頭をごちんと拳で軽く殴ってきた。そりゃおもいっきり殴るというよりぶつける程度のものだけど、それでも骨が脳天に響いたため頭を押さえて思わず背中を丸めると、心底呆れたというような深いため息が頭上に降り注がれる。
「てめえ……、こんなところで何やってやがる。バイト終わって家を飛び出してどっか行ったっておばさんから連絡来るわ、電話しても出ねえわ……」
「え?」
スマホならポケットに入れておいたままなのだから、電話に気づかないはずないのに、と咄嗟に画面を見ると、アルバイト帰りのせいでサイレントに切り替わっており、ローからの着信履歴でごっそり液晶が埋まっていて、ぎょっとした。その中には母からの心配を含んだメッセージも混ざっており、思わず頬がひきつるのがわかる。それもそうだ、液晶に浮かぶ時計は、まもなく日付が変わることを示している。そんなにぼんやりしていたのか、よく警察が来ず補導されずに済んだものだと自分で感心してしまった。
しかし一体なぜこんなところで何をしているんだ、と呆れたローは、ずっと探していてくれたらしい。しかし、私がまさか彼の家の目の前とも言える公園に居るとは思わなかった、まさに灯台下暗しと、安堵したような苛立つような顔で私の手を取る。引かれるまま素直に立ち上がるが、脚を動かす気が起きなくて、突っ立ったままの私を彼が不思議そうに振り返った。
「おい、帰るぞ」
「…………ねえ、聞いてないよ、もう東京に引っ越すなんて」
「お前が夏休み、まったく会いやがらねえから言うタイミングがなかった」
「ならメッセージでもいいじゃん」
「口で言いたかった」
そうしたら、こうも直前になってしまったのだと、静かな呟きが聞こえた。そうかもしれない、私は、避けていたんだろうな、ローと離れるのがいやで。子供のような反抗心だった。つくづくどこまでも私という生き物は、幼くていやになる。
動かない私に付き合って、こちらを向いたままのローは無骨な手を、ぎこちなく私の手指に絡ませて握ってくるから、びっくりして顔を上げると視線がかち合う。たくさん勉強して寝ていないのか、目元にくっきり浮かんだ隈にはもう慣れてしまった。格好いいな、とか、端正な顔してるな、とか、いろんな感想が頭のなかにこぼれおちて、それから、一度離れてしまったって、また、会えないわけじゃないよね、と急に心の奥がひとつ納得をして、夢なんてない平凡な田舎娘の私に、夢とも言えぬ目標がひとつぼんやりと浮かんだ。絡む手指を握り返し、それから背伸びをして上背のある彼に飛びつく。そのまま押し倒してしまうくらいのつもりだったのか、華奢なくせに鍛えているローはあっけなく私を受け止め踏ん張って、しかし「危ねェだろ、」と呆れた声を漏らす。それなのに背中に添えられる手は優しい。
「受験、向こうで受けるの?」
「コラさんの仕事があっちになるって話はしたよな、思いの外早く決まって……卒業はこっちでしたかったんだが、向こうへ引っ越すことに決めた。あの人、おれがいねえと、皿割るわ何もねえところで転けるわ、……ほっとけねェ」
そういって笑う表情は優しい。ローは、心底コラさんを慕っていたし、彼の忙しさでまったく遭遇していない私ですら、あの人はとても優しいのだろう、ということがすごくよく分かるようなひと。ほっとけないんじゃなくて、自分が着いていきたいんでしょ、とは言わずに小さく笑うに留める。
公園内に設置された時計の針がかち、かちと刻んでいき、12時を指した瞬間、踵を浮かせながら顔を覗き込み唇をそっと重ねると、ローは唐突なキスにびっくりしたのか目を見開き、私を見下ろしている。心做しか抱きしめてくれる腕の力がほのかに強まった気がして、つい頬が緩んだ。急にどうしたとばかりに、目で饒舌に語るローが応えようと顔を寄せようとしてくるので、手でそっと制する。不満げだが、私はこれを言わねばならなかった。
「誕生日おめでとう、ロー。…………私はこっちの大学を選ぶし、ローについていけない。でも、その間いっぱいお金貯めて、東京で就職してみせる。そうしたら……一緒に居てもいい?」
「……は、答える必要があんのか?当たり前だろ、いつまでもちんたらしていたら、おれが攫う気だった」
この流れでいくと、誕生日プレゼントはまるでお前自身ってことになるが、と至極真面目に宣うので、思わず吹き出してしまう。つないだ手をそのまま、ゆっくり砂利を踏みしめて公園を二人で出ていく。母には、メッセージで心配をかけてごめん、と、それからローの家に泊まってく、と送れば、「ちゃんとお別れを言うのよ」と、まるで私のことなどお見通しな母からのメッセージが来た。
東京という場所は、憧れの詰まった遠い場所で、いつか行ってみたいなどと小娘の稚拙な憧れで描いた都会だったけれど。今は違う、きらめくネオンも、人々の喧騒も、背の高いビルが連なる駅前、ゲームセンター、……そのどれもが私を満足などさせてくれやしないだろう。私の望むものは、少女のいたいけな憧れなどで済まず、愚直に求める好きな男が持っている。大学に行ったら、オシャレも勉強しよう、自分磨きだって、そして、何年か経った私を見たローを、思いっきりびっくりさせてやろう。だって、こいつ絶対東京でもめちゃくちゃモテるもん。単純に大学ぶんの四年後などを想像しても、ますますいい男になっている想像しかつかない。
「なに一人で笑ってんだ」
「いやあ、別に?」
街灯に照らされる横顔をひっそり盗み見て、ひとり笑ってしまう。好きだなあ、などと、たとえ離れることになっても、この気持は褪せることなどないだろう、と。確かな確信を持って、存外悲観などせず、軽い足取りで進んでいく。
──……このときの私は、まだ知らないのである。
必死に勉強をして、自分を磨いて、こまめに連絡を取り合う学生時代。必死に就職活動に駆けずり回り、四年経って東京に住むことが叶ったとあればすぐにローへ会いに行った矢先、結婚しようなどとこの男に指輪を出されるなど。…………それはまた、別のお話。今は、彼の誕生日である今日を、とびっきりに、楽しむつもりだ。