恋と呼ぶには鮮やかで、愛と呼ぶにはまだ淡い

『荒野の御使い ほめ歌うたう やさしき歌声 山まで響く』

第三土曜日の午前十時、フレバンスの教会からは子供特有の澄んだ美しい歌声が漏れ聞こえていた。
有志で結成された教会の聖歌隊の少女や少年たちが奏でる清らかな歌は、そんじょそこらのアーティストでは叶わない程に素晴らしいものだ。おかげで、教会の前を通る人々は皆うっとりとした顔で聖歌に聞き入っていた。
静かな歌い出しから始まったその歌は、パイプオルガンの調べに乗って少しずつ盛り上がりを見せていく。そして、それが最高潮になった瞬間だった。

『Gloria, In Excelsis Deo』

漏れ聞こえてくる歌声に聞き惚れていた通行人たちは皆、盛大にズッコケた。ソプラノ、メゾソプラノ、アルト。三つのパートが絶妙に混ざり合って調和の取れた世界に、一人だけ突き抜けた少女の声が響いたのだ。少女の歌声は、透き通った水面に落とされた黒いインクのように全てを台無しにした。不協和音とは正にこのことだった。しかも彼女はなまじ声量があるので、余計に悪目立ちしている。そんな有様では次に進める筈もない。パイプオルガンの伴奏も、聖歌隊の歌声もピタリと止まって、先程の美しい調べが嘘のように辺りは静まりかえった。図書館帰りに教会の前を偶々通りかかったローはその一部始終を目の当たりにして、ついついその顔を顰めてしまった。 

ローはこの歌声の持ち主を知っている。
というのも、彼女がローの通うスクールで同じクラスの生徒だからだ。更にいうと隣の席に座っている。件の少女の名前はナマエという。

今年の春、ずっと空き家だった高台の屋敷に買い手が付いた。眺めがよくてフレバンスの景色が一望できる大きな屋敷は、かなりのお高い物件で誰も手を出すことができずに長らく空き家になっていたのだ。
気前よくこの屋敷を買い取ったのは、卸売業で成功して一代で巨額の富を築いた男だ。彼は『白い町』に住むのが幼いころからの夢だったという。というわけで、その男と彼の家族がこのフレバンスに引っ越してきた。その一人娘が同い年の女の子ということを聞きつけたクラスの仲間たちは緊急会議を開いた。フレバンスの人間は皆裕福だが、その中でもナマエは特に裕福だ。どんな鼻持ちならない我儘娘なのかと皆警戒したのである。

しかし、それは杞憂に終わった。転校初日、先生の後ろをちょこちょことカルガモのように歩いてくる少女からは全く邪気を感じなかった。彼女は緊張した面持ちで自己紹介をすると、照れ臭そうにはにかんだのだった。その様子にクラスメイト達は皆、ゆるゆると警戒を解いた。ピリピリした教室の緊迫した空気は、一気に歓迎ムードに変わる。浮足立ってきたクラスメイト達と違って、ローは転校生がどんな少女であろうと興味は無かった。ところが、その興味の無さが逆に作用したのか彼が一番最初に話しかけられたクラスメイトとなった。ローの隣の席が空いていた為にごく自然な流れでナマエがそこに座ったのである。彼女は人好きのする笑みを浮かべて言った。「教科書見せて」と。

そんなこんなで、能天気で憎めない人柄があってかナマエはすぐにクラスの皆に溶け込んだ。『歌が好き』だというナマエはどうやら聖歌隊に参加するようだった。ローはナマエに関心を持っていなかったのだが、彼女がクラスメイトの少女たちとそんな話をしているのが耳に入った。隣の席に座っていれば、嫌でもナマエのことが分かってしまう。計算が苦手。先生に当てられると、教科書をカタコトでたどたどしく読み上げる。字は綺麗。授業中、ノートの隅に猫の絵を描いてるときがある。お弁当で一番好きなおかずは甘い卵焼き。物凄くどうでも良い情報ばかりだ。ローは溜息を吐いた。


聖歌隊が教会で歌うのは第三土曜日だけだ。それ以外は週に二回、放課後にスクールの音楽室で練習している。つまり週に二回、一人だけ調和からはみ出したナマエの歌声が聞こえてくるのだ。だから、クラスの全員はナマエの歌がお世辞にも上手いとは言えないことを知っていた。ナマエが聖歌隊に参加してから一か月程経ったときだった。今日も彼女の奏でる不協和音が聞こえるのだと思っていた。しかし、メロディと歌声が最高潮まで盛り上がっても、その調和は保たれたままだ。

「あれ?今日は上手いな?」

偶々教室に残っていたクラスメイトの一人がそう言った。

「確かに。そうだ、ナマエがいないんじゃないか?」
「あいつ、歌下手だもんな。な、ローもそう思うだろ」
「別にどうとも思わねェよ」

悪気は無いのだと思うが、陰口みたいなものは好きではない。ローは読んでいた本を静かに閉じると荷物をさっとまとめた。彼の脳裏にナマエのひっくり返って突き抜けた歌声が再生される。そういえば。

「ただ、声は悪くないと思う」

唯一褒められるのは声だ。彼女の持つ声は澄んで清らかだ。声ばっかりは変えることができないのだから、ブレまくる音程と裏っ返る歌声を何とかすれば聞けるようにはなるだろうに。高音も低音も出せるのから音域も広い。素材は悪くは無いのに。なんてことを考えながら、教室の扉を開けたローが廊下に出た瞬間だった。彼の視界の隅にパッと見切れた人影が映る。不審に思ってその人影を確認して、ローは猛烈に後悔した。そこにいたのはナマエだった。彼女は立ち竦んだまま、両の拳を握りしめて小さく震えていた。

「……聞いてたのか」

苦々しいローの声に、ナマエはこくりと頷いた。

「楽譜、忘れちゃって。取りに来たの。そしたら」

ナマエは唇をぎゅうっと結んで黙り込み、下を向いた。次に何が起きるかなんて、そんなものは簡単に予想がつく。頼むから、顔を上げないでくれ。ローはそう願ったのだが、残念なことにその願いは叶わない。ナマエはゆっくりと顔を上げた。彼の予想通りにその瞳から大粒の涙を零している。彼女は鼻をすすりながら小さく「知ってるもん……」と呟いた。そんな悲しい自己申告はどうでもいい。今、ここで第三者が通りかかったら十中八九ローがナマエを泣かしたのだと勘違いされる。そんな不名誉極まりないことは絶対に避けたい。ローはぐずぐずと泣いているナマエの腕を引っ張った。とりあえず、場所を変えるべきだ。


ローがナマエの腕を引いて、退避してきたのは校舎の裏庭だった。裏庭といっても、大きな木が一本生えて芝生が茂っているだけだ。遊べるような広さは無いので生徒は殆ど来ない。今の状況に丁度良い場所だ。芝生の上にナマエを座らせると、ローもその隣に座った。

「別にあいつらに悪気があったわけじゃない」

何故自分がクラスメイトのフォローをしなければいけないのだ。ローはこの世の不条理を噛みしめていたのだが、対するナマエは素直に頷いた。

「聖歌隊のやつらも先生もシスターも、皆お前のことを馬鹿にするような人間じゃない」
「……知ってる。だから、」

そう言ってナマエは不自然に黙り込んだ。だから、何だ。その先を言え。ローは「だから?」と話の先を促した。そして、やはりそれも後悔することになる。

「逆にそれが辛くてぇぇぇ」

第二波がきたのである。しかも今度は小さな子供のようにわんわんと泣き出しやがった。ナマエは声量があるので、いくら人がいない裏庭といえども人を呼び寄せてしまうかもしれない。ローは慌ててナマエの口を塞いだ。彼女は暫くモゴモゴと言っていたが、急に口を塞がれたことに吃驚したらしく涙は引っ込んだようだった。ようやっと静かになると、ローはそっと手を離す。そうすれば、訪れるのは気まずい沈黙だ。
辺りが静かになったことで、遠くの音楽室から聖歌隊が練習しているクリスマス・キャロルが微かに聞こえてくる。丁度盛り上がりを見せているところだ。ナマエがいつも盛大にはみ出す箇所まであとちょっとというところで、隣に座っていたナマエは小さな声で歌い出した。メロディを聞くと条件反射で歌うようになっているのだろうか。ところが不思議なことが起きた。ナマエが不協和音を奏でなかったのである。

「お前、普通に歌えるじゃねェか」

今までのはなんだったのだ、というくらいに完璧に音程が取れていた。そして、当の本人も吃驚している。「ほんとだ……なんでだろ」と呟いているが、そんなものは本人が分からないのにローが分かるはずがない。

「あ」
「何だよ」
「今ね、頑張らなくていいやって思いながら歌ったの」

意味が解らない。訝し気な顔で目を細めるローに、ナマエは慌てたように付け足した。

「普段は頑張らなきゃ、失敗しないようにしなきゃって思うと頭が真っ白になるの。でも、今はそう思わなくても良かった」
「何でだ」

純粋に不思議に思ったローがナマエに尋ねると、少女は目を泳がせた。こいつは一体何を考えているのだ。言えないというということは何か失礼なことではなかろうか。ローがじっとりと睨みつけると、観念したようにナマエは口を開く。

「だって、ロー君はきっと私がどんな風に歌っても気にしないんだろうなって思ったから」

やはりナマエの言いたいことはよく解らない。視線の刃を更に研いで疑問を突き付けると、彼女は眉尻を下げる。

「下手でも馬鹿にしないから、力を抜いて歌えたの」
「お前、緊張しすぎと考えすぎだろ」

ローは先生にあてられた時のナマエを思い出していた。そういえば、彼女はいつもロボットもかくやといったぎこちない声で教科書を読み上げていた。彼は賢いので、彼女の歌が下手な原因に辿り着きたくないのに辿り着いてしまった。気付いてしまえば、ローの性格上それを無かったことにはできなかった。

「Gloriaって歌う時、お前、何考えてる?」
「え。……頑張らなきゃ!一番大事なところだから綺麗に歌わなきゃ!って思ってる」
「それだろ」

そもそも、ナマエは最初の方は普通に歌えているのである。ということは、力み過ぎているのではなかろうか。

「深く考えるな。考えるから失敗する。誰もお前のことなんかそこまで注目してない」

そこまで言ってローはハッとした。事実だが、言い方が少しきつすぎたかもしれない。ローの喋り方はぶっきらぼうだ。優しく喋るクラスメイトと同じことを言っても、自分の方が格段に印象が悪いという自覚がローにはあった。きっと彼女はショックを受けているだろう。ちらりと横目でナマエを見る。そしてやはり、見なければ良かったと思った。ナマエは目を見開いていた。きっとまた彼女はその瞳から大粒の涙をボロボロと零すのだ。第三波だ。今度こそナマエを泣かした戦犯はローになる。ローは身構えた、のだが。

「そっか。確かにそうだね?!」

この世の真理に気付いたような顔をして、ナマエは口元に手を当てたのである。こいつが単純なやつで良かった。ローは内心安堵した。ところが、安心するのはまだ早かった。単純なやつは単純故に突拍子も無いことを言い出すのである。

「ロー君、付き合って」
「はぁ?!」

今までの話の流れなどを一切無視をしたナマエの大暴投に、ローは素っ頓狂な声を上げた。同年代の子供と比べて冷静で静かなローのその姿に、もしクラスメイトが今の彼を見たら二度見、三度見くらいするだろう。それぐらいの衝撃が彼を襲ったのである。

「お前……何言ってるんだ」

信じられないようなものを見る瞳で少し距離を取るローに、自分がやらかした失態に気付いたナマエは顔を真っ赤にして両腕をぶんぶんと振った。

「ごめんなさい、違うの、そういう意味じゃなくて!!」
「じゃあどういう意味だよ」
「歌の練習に付き合って!」
「何でおれが」
「さっき上手く歌えたから!上手く歌えた経験が積み重なったら、なんかいける気がする」

根拠も理屈も無い彼女の発言にローはすかさず、どういけるんだよ、と思った。当然断ろうとした。したのだが。じっと見てくる少女の視線は真っ直ぐで、純粋で、無邪気だった。ナマエは根拠も何もへったくれもないそれを完全に信じており、輝く瞳には期待が宿っている。ローは思わず目を逸らした。見なかったことにしたい。しかし、ナマエの視線をひしひしと感じてしまう。

「歌、絶対に上手くなりたいの」

何でだよ、とローが視線で問えばナマエは鼻息を荒くしてローににじり寄ってきた。

「私、将来は歌手になりたいんだ!辛いときとか悲しいときに元気をあげられるような歌を歌いたい!」
「近い!」

一体どこまで近づいてくるのだ。眼前に迫ってきた少女のかんばせにローの心臓が大きく跳ねた。その勢いのままにナマエを押しのける。彼女は「へぶッ」と間抜けな声を上げたが、まだ諦めないようだった。

「お願い、週に一回でもいいから!」

両手を合わせて頼み込んでくるナマエは、頼んでいる立場なのにめちゃくちゃ押しが強い。それでもそんなものローには効果が無い。簡単に突っぱねることができる……筈だった。現にローの口から否定の言葉が出かかった。その時だ。ぎゅうっと両目を瞑っていたナマエがぱっと瞼を開いたのである。彼女の瞳は下手な言葉よりも説得力があった。彼女の瞳は言っていた。ローだけが頼りだと。それを見てしまえば、もう駄目だった。ローはギリギリとナマエの思い通りにさせられてしまう屈辱を噛みしめながら、渋い声で返事をした。

「……少しだけだからな」

彼女はぱっと顔を輝かせて大きく頷いた。それから「ありがとう!!」と向日葵のように明るい笑顔を浮かべたのだった。



とはいえ、予想外の予定ができたものの、ローの学校生活は大きくは変わらない。ナマエには仲の良い友達がいるので、放課後まで特に喋るわけでもない。今まで通りだ。ただ、週に一度だけ校舎の裏庭でナマエの歌を聞く。それもごくごく短い時間だ。二人が裏庭で会うのは、合唱の練習の無い三日間のうちの一日である金曜日だ。授業が終わって少し経ってから、ふらりと裏庭に行くとナマエがニコニコしながらローを待っている。それを見たローは、何故かむず痒い気持ちになるのだ。

とある日、本当に気まぐれでローは裏庭に行った。それはいつもとは違う曜日だった。本を持ちこんだローは裏庭の芝生の上に座ると、本を膝の上に乗せてそのページを捲った。数頁捲ったところで、ふと人の気配がしたのと同時に視線を感じる。その視線の発信源を辿ると、案の定ナマエが校舎の壁からひょっこりと顔を覗かせた。ばっちりと視線が合うと、彼女は嬉しそうな顔をして駆け寄ってきたのである。その勢いのまま彼女はローの隣にぼすんと座った。

「何読んでるの?」
「父様が貸してくれた本」
「ふーん」

ローが呼んでいる本を覗き込み、書かれていることを数行黙読したナマエは言った。「全然わかんない」「だろうな」ローは頷いた。暫しお互い無言だったが、ナマエは余計なことに気付いたようだった。

「ロー君、どうして今日はいるの?」

小首を傾げるナマエにローは眉間に皺を寄せる。 

「ここで本を読むのも悪くないと思ったからだ」

ほんの気紛れだが、ナマエが来るのではないかと思ったことなどは絶対に知られたくない。ローは話題をすり替えた。

「お前は?」
「私?私はね、ロー君がいたらいいな!って思って来てみたの」

即答だった。意地を張った自分が馬鹿らしくなるほどにナマエは素直だった。客観的に見ればナマエはとっても恥ずかしいことを言っているのだが、不思議なことに悪い気はしない。

「……そうかよ」

そんな自分に戸惑いながらローがやっとのことで相槌を打ってやれば、生意気にもしたり顔をした彼女は大きく頷く。それを横目に、ローは言った。

「歌、聞いてやってもいい」
「ありがとう!」

小さく歓声を上げながら喜びを全身で表現したナマエは、至極嬉しそうに歌い出した。それを聞きながら、ローは本の頁を捲る。だって、彼はあくまで本を読みに来たのだ。そのついでにナマエの歌を聞いてやってるだけ。本の内容がちっとも頭に入って来ないのは、ちょっと疲れていて集中力が切れているからに違いないのだ。

結局、本からは何の知識も得ることができないうちにナマエは歌うのを止めてしまった。どうやら満足したらしい。ナマエが歌うのを止めれば、裏庭はあっという間に静寂に包まれる。時折聞こえるのは優しい風がそよぐ音だ。歌い終わったのなら、いつも通りさっさといなくなればいいのに。ところが、ナマエは今日に限って動こうとしない。ローの隣で膝を抱え、時折芝生を毟るという何も生産性のない行動をしている。いや、芝生を毟るのはただの迷惑行為だ。

「毟るな」

呆れた顔でそう注意すれば、ナマエはぴたりとそれを止めた。それから、へらりと笑う。注意されたのに何故喜ぶ。意味が解らずにローは眉を顰めた。まだ幼い彼は、ナマエがローの気を引きたくて奇行をしていたということに気付けなかったのだ。こてん、と自身の膝に顎を乗せて丸まったナマエはぽつりと呟いた。

「今日はロー君が来てくれたから嬉しい」

待て、今ナマエは今日“は”と言わなかったか。その口ぶりはまるで。

「お前、ひょっとして練習が無い日はいつもここに来てるのか」

きょとんとした後にナマエは頷いた。こいつ、馬鹿にも程があるだろう。大変遺憾なことにローはナマエが心配になってしまった。ローが裏庭に行くのは週に一回から二回に、そしてとうとう三回になった。ナマエはローの言った「ここだと集中して本が読める」といった話を信じ込んでいる。ローとナマエが座る場所が涼しい木陰になった頃には聖歌隊は不協和音を奏でなくなった。ナマエ曰く、自信がついたらしい。それでも、ナマエもローも裏庭に行くことを止めなかった。







「ロー、お前もうすぐ誕生日だろー」

九月の末日のことだ。休み時間にローが次の授業の準備をしていると、不意にクラスメイトが声をかけてきた。そのときナマエはローの隣の席で教科書と睨めっこをしていた。次の授業で当てられることを忘れていたらしい。ところが、親の仇を見るような鋭い眼差しを教科書に注いでいたナマエは、何故か顔を勢いよく上げたのである。

「ロー君、お誕生日なの?いつ?!」
「10月6日」
「……そ、そう」

物凄い剣幕で詰め寄られたローは、彼女から距離を取りつつ答えた。それを聞いたナマエは引き攣った笑いを浮かべているが、一体なんだというのだ。何がおかしい。ローにだって当然誕生日くらいある。じっとりとしたローの視線に刺されながらも、あからさまに動揺したナマエは自分の席にすとんと座ると、教科書との睨めっこを再開した。余談だが、せっかく休み時間を使って予習をしたのに、先生に当てられた問題に彼女は答えられなかった。

あれから、どこかナマエの様子がおかしい。今日は裏庭に行く日であるので、そのときに白状させよう。そう思ったのだが、放課後になるとすぐにナマエはローに向かっておずおずと口を開いた。

「あ、あのね、今日はちょっと、ごめんね」

主語が抜けているので傍から聞けば何のことを言っているかわからないだろうが、ローにはしっかりと通じた。ところが、ローが返事をする前にナマエはクラスメイトから呼ばれてしまった。彼女と同じく、聖歌隊に参加している女の子たちだ。

「ナマエ、行くよー」
「じゃあね!」

申し訳無さそうに両手を合わせ去っていくナマエに、ぽつんと取り残されたローは困惑した。ごめん、というのは裏庭にいけないということだろう。別に約束しているわけではないし。そう思いながらローは家に帰った。どうせ今回だけだ。
しかし、それは次の練習の無い日も続いた。授業が終わると、ナマエは聖歌隊の女の子たちとどこかに行ってしまう。今度は断りすら無かった。その次も、裏庭で待ってやってもナマエは来なかった。面白くない。率直に言って、とっても面白くなかった。ちょっと上手く歌えるようになったからって蔑ろにされるのは納得がいかなかった。かといって、ナマエを捕まえて問い詰めるのも何か違う気がする。モヤモヤした気持ちを抱えつつ、一週間が過ぎて行った。

そしてとうとう10月6日。ローの誕生日がやってきた。
朝一番に母親に言われた『おめでとう』でローは初めて今日が自分の誕生日だったことを思い出した。ナマエの所為ですっかり忘れていたのだ。ローの母は「せっかくのローの誕生日なのに」と窓の外を見ながら眉尻を下げた。灰色の曇り空は、今にも雨が振って来そうで不安を覚えるものだ。それもその筈、今日の夕方から明日の朝にかけて台風が来るのだという。スクールに行くローを送り出しながら「学校が終わったら危ないから真っ直ぐに帰ってきてね。今日は父様も一緒に皆でケーキを食べましょう」と母は優しく微笑んだ。
医者であるローの父親は忙しく、夕食のタイミングが合わないことが多いのだ。いつ急患が来るか分からない父の予定に“絶対”は無いが、それでも自分の為に予定を組んでくれといることがローは嬉しかった。

朝は機嫌が良かったローも、教室に入ってナマエの顔を見ると、やはり仄暗い気持ちになるのだ。クラスメイトは口々に「たんじょーびおめでとー!」と笑顔で祝ってくれたのに、ナマエだけはどこか余所余所しく落ち着かない様子だった。それもローの不機嫌な気持ちに油を注いだ。

「あの、ロー君。これから時間あるかな」

放課後、声をかけてきたのはナマエだった。もじもじしているが、今更何だと言うのだ。ローはひくりと形の良い眉を動かした。

「いそがしいから駄目だ」

それからつっけんどんな声で言えば、ナマエが小さく息を飲む音が聞こえる。その小さな音が耳に入って来たローは瞬時に“言い過ぎた”と悟った。苦し紛れに「それに、台風が来るだろ」と付け足せば、力なくナマエは口角を上げる。いつもとは違って、彼女の唇は歪な弧を描いている。

「あ、そうだよね……」

果たして、彼女の目尻が光っていたのはローの気のせいだろうか。いや、絶対に気の所為ではない。「待て」と引き止める前にナマエは走り去ってしまった。彼女の運動神経はあまり良くないが、こういう時だけ俊敏な動きだった。一体どうしたというのだ。ローが困惑していると、どこか刺々しい視線を感じる。その視線の持ち主は、ナマエと一緒に放課後を過ごしていた聖歌隊の少女達だった。ナマエならともかく、何故第三者から睨まれなければいけない。居心地が悪くなったローは、荷物をまとめると教室を出た。まるで逃げるように教室を出てきた自分に嫌気がさした。今日は最悪の誕生日だ。ローが校舎を出ると、生温かく不快な風が彼の頬を撫でた。空を見上げると、雲の灰色は朝よりも格段に暗い色になっている。いつ雨が振ってきてもおかしくない空模様だった。やっぱり、今日は早く帰った方が良かったのだ。ローは自身にそう言い聞かせると、家路についた。

ローが家に帰ると、キッチンからはお腹をくすぐるような良い香りがする。ローの母親は身内の贔屓目を取っ払っても料理が上手だ。そんな彼女が腕によりをかけて作っているのだから、今日の晩御飯はきっと豪華で素晴らしいものだ。そう考えれば、沈んでいた気分が少しだけ浮き上がるような気がした。

その日の夜は、中々眠れなかった。窓を叩く風や雨音がうるさい所為だ。ローは布団を目深に被って丸くなって目を瞑った。



その翌朝。台風が呼び込んだ風は大変強かったようで、病院の看板が飛ばされていたり、至るところで色々な物が散乱していた。
登校してきたクラスメイト達の話題は昨日の台風の話で持ちきりだった。自転車が倒れて転がっていた、鉢植えが割れた、庭の柵が折れた、皆身振り手振りで台風の凄さを語る。賑やかなその様子をローは自分の席に座ったまま眺めていた。殆どの生徒が集まったときに誰かがポツリ、と言った。

「あれ、ナマエちゃんは」

ついに言ったな。ローは苦い顔をした。気にしないようにしてたのに。
そう、ナマエだけがいないのだ。皆口々に「ナマエちゃん家、大きいから色々大変なのかも」「確かに」等と頷き合っていた。とはいえ、いくら台風被害が凄かろうとナマエの家には使用人が何人もいる筈だ。彼らが片づけをするのだから子供であるナマエは普通に登校できるだろう。嫌な予感がローの胸の内で燻った。彼の脳裏に昨日のナマエの顔が思い浮かぶ。登校拒否をする程、自分はナマエを傷付けてしまったのだろうか。何でもいい。どんな表情でもいいから、ローはナマエの顔が見たかった。

ところが、ナマエは次の日も休んだ。更に、その次の日も。そのまた次の日も。
とうとう我慢がならず、ローはナマエの家に行ってみることにした。別に遊びに行くわけでも、会いに行くつもりでも無い。遠くからチラッと見たら帰るつもりだ。
授業が終わると、ローはナマエの家である高台の屋敷に向かった。近付きはしない。遠くから眺めるだけだ。かなり離れたところからローがこっそりと屋敷の様子を伺うと、屋敷の中は静まり返っていた。誰もいないのだろうか。不審な点は他にもある。庭は台風の影響で荒れたままだった。一体庭師は何をしていたのだろう。ローは子供ながらに、何かが起きているのだろうと悟った。ナマエが学校に来ないのは、多分家の事情だ。ローの所為ではない。それについては安心したものの、今度はナマエの家に何があったのかという疑問が頭から離れなくなってしまったローだった。

ポストに入っていた郵便物を取りながら、ローは帰宅すると居間のテーブルにそれらを置いた。夕刊では今日も海賊たちが暴れ回っている。その新聞が何故かやけに気になった。ローは新聞を手にすると一番後ろのページを捲る。それから、ローは目を見開いて息を飲んだ。

「嘘だろ」

ページの右下、隅の方にある記事だった。そこには、大手の卸会社が倒産寸前まで傾いている、と書いてあった。その原因は台風だった。フレバンスは比較的被害は少なかったが、あの台風は各地でとてつもない被害を起こしていた。その卸会社は各地に商品を保管するための倉庫を持っていたが、その倉庫のほとんどが悪意を感じる程に台風の被害にあったという。そして、その卸会社の名前はナマエの父親が経営している会社の名前だった。
そんな状況になれば、あの大きな屋敷も維持できないし、使用人たちも雇うことができないだろう。翌日学校に行くと、教室はざわついていた。新聞を見た、もしくは大人たちの話を聞いたに違いない。がらりと入って来た担任教師に生徒たちの視線が集まる。先生は至極痛ましい顔をして辛そうに言った。

「ナマエさんは、お家の都合で転校することになりました」

クラスメイトは皆騒いだが、ローは何も言わなかった。いや、言えなかった。だって、もうナマエと会えないのなら。あの少女と話した最後の会話があんなものになるのか。ローはギリッと歯を擦り合わせた。その日の授業は何も頭の中に入ってこなかった。放課後、ローはぼんやりと誰も座っていない隣の席を横目で見た。そして溜息を吐いた。音楽室からは歌声が聞こえてくるので、嫌でもナマエのことを思い出してしまう。ローは彼女の面影を振り切るようにして教室を出て行った。すると、教室を出たローの視界の隅に、いる筈のない人物が映ったのだ。パーカーのフードを目深に被ったナマエだった。まさか、そのお粗末な姿で変装したつもりなのだろうか。いや、それよりも。

「ロー君」
「お前!だ……」

大丈夫なのか、と言いかけてローは口を噤んだ。大丈夫な訳がないのだ。でも、聞けばナマエは大丈夫だと言うのだろう。辛い彼女に嘘を吐かせるのは酷い仕打ちだ。急に黙ってしまったローを見つめていたナマエは首を傾げた。そのとき、遠くから廊下を歩いてくる足音がする。その音にナマエはハッと我に返る。

「ちょっといいかな」

いいに決まってる。だからローは無言で頷いた。それだけのことでナマエは凄く喜ぶのだ。だったら、あのときも頷いてやれば良かった。それから、ナマエはローの腕を引いて歩き出す。行先は簡単に予想がついた。

ローの予想通り辿り着いたのは裏庭だった。ナマエと話をして、彼女の歌を聞いた思い出の場所だ。ナマエはいつもローが座っていた定位置に彼を座らせた。いつものようにナマエも隣に座るのだと思った。ところが、彼女は座ろうとしない。それどころか、ローの目の前に立ったのである。ローがナマエを見上げるという珍しい図だ。ナマエが何をしたいか見当がつかない。単純な思考をしている人間は、突発的によく分からない行動をするのだ。訝し気に目を細めていると、ナマエはローに深くお辞儀をした。まるでそれは、何かの始まりのようだった。ローとばっちりと目が合ったナマエは、その瞳を和らげた。

「それでは、聞いてください」

相変わらず、ナマエの歌声は綺麗だった。しかし、歌い出しがいつものクリスマスキャロルとは違う。歌詞も神様を称えるものでは無かった。厳かな旋律でも無く、優しく素朴な旋律だった。何度も繰り返される『HAPPY BIRTHDAY』に、この歌は誕生日を祝う為のものだと知る。微笑みながら歌う彼女の雰囲気はどこかいつもと違って、大人びて見える。ローはナマエから目が離せなかった。

一曲歌い終えると、ナマエはまた深々とお辞儀をした。そして顔を上げれば、先程歌を歌っていた彼女とは別人だ。眩しさを覚える程に明るく笑う、本来の彼女の姿だった。

「ロー君お誕生日でしょ?練習したから上手く歌えたと思うの」
「練習?」

ナマエの“練習”とは、ローの隣で歌うことだった筈だ。

「いざロー君の前でロー君の為に歌うぞ!ってなると緊張しちゃうから、お友達に付き合ってもらったの」

そこでローの中で全てが繋がった。ナマエは聖歌隊の女の子達に歌の練習に付き合って貰っていたのだ。そしてあの日、彼女達が冷たい目でローのことを見たのはその事情を知っていたから。そう気付いてしまえば、胸の奥がざわざわして落ち着かない。そんなローに構うことなく、今度こそナマエはいつも通りローの隣にちょこんと座った。そうしてローの顔を覗き込んで悪戯っぽく言うのだ。

「ありがとう」
「何が」

ナマエにお礼を言われる意味が解らない。

「ロー君、あのとき、私の声を褒めてくれたでしょ」

そういえば、そんなことがあった。クラスメイトがナマエの歌が下手だと言っていて同意を求められたが、彼女の歌が上手かろうが下手だろうがローにとってはどうでも良かった。ただ、声だけは綺麗だと思ったのだ。

「ロー君は嘘を言うような人じゃないと思ったから、嬉しかったの」

ナマエは大きく伸びをした後に立ち上がる。本当に忙しなく落ち着きのないやつだ。それから彼女は、くるりとローに背を向けた。

「私、引っ越すの」
「……知ってる」
「お家無くなっちゃった。でもね、お母さんもお父さんもいるからね、きっと大丈夫だと思う」

先程ローが言いかけたことをしれっと本人が言う。そんな嘘は自分から吐かなくても良いのに。ローがそう思ったときだ。ナマエがちらりとこちらを振り返った。彼女の目はあのときと同じで真っ直ぐで、本気のものだ。ナマエは心からそう思っているのだとローは知る。ならば、ローが言うことは何もない。ローは彼女の描く未来像に横やりを入れて揺さぶるような不躾で無粋な人間ではない。

「私、歌手になりたいの。だから歌えればどこだっていいの。絶対に諦めない」

ナマエは歯を見せて笑う。ところがその笑顔も束の間で、彼女は何かを思い出したように目を見開いた。いつも思うが、くるくる表情の変わる少女だ。

「そういえばロー君、さっきの歌どうだった?」
「……下手くそ」

ローの誕生日を祝う為の歌は、練習したというだけあって文句なしに上手だった。あの不協和音はどこにいったのだ、と問いただしたくなるくらい。彼女の歌を聞くと、くすぐったいような落ち着かない気分になる。それでも、心の奥がじんわりと温かくなる。不思議な感覚だった。けれども、それを悟られるのが嫌だったローはぶっきらぼうに答えた。なのに、それを聞いたナマエは何故か吹き出したのである。ナマエに笑われるのは初めてだ。ローはムッとして彼女を睨みつけた。

「何で笑うんだよ」
「下手くそって顔してないから」
「どんな顔だよ」
「内緒!」

ふふん、と得意げに言うナマエはいたく眩しい。ローは目を細めた。

「私、毎年10月6日にこの歌を歌うね。遠くに行っても、ロー君の誕生日お祝いしたい」
「……勝手にしろ」
「うん!するね」

あれだけ練習したクリスマスキャロルはとうとう披露する機会が無かった。ナマエが歌ったのは、ローの誕生日を祝う歌、一曲だけ。それもミサに来る大勢の人々の前ではなく、お客様はローだけだ。それでもナマエは幸せだった。どんな大きな会場よりも、今、この場で歌うことの方が誇りに思えた。

「ロー君。ちゃんと言ってなかったね。九歳のお誕生日おめでとう」
「……ありがとう」

こんなに落ち着かない気持ちでお礼を言ったのは生まれて初めてだった。この感情を、ローはなんと呼べばいいのか分からない。

「今は下手かもしれないけど、いつか絶対上手いって褒めて貰えるように頑張るね」

白い歯を見せて、ナマエは無邪気に笑う。その“いつか”が実現するのは限りなくゼロに近い。でも、彼女はきっとそれを信じている。ナマエはローに手を振ると、裏庭から走り去った。その小さな背中が、ローが彼女を見た最後の姿だった。







穏やかな春島の海岸をローは一人で歩いていた。

自由を好む彼が一人で歩いているのはそう珍しくはないが、今日は自由気ままな一人歩きとは少し違った。彼は自身の船から逃げてきたのである。と、言ってしまえば彼の名誉に関わる問題に発展するので、正確に言うとローは“船で馬鹿騒ぎをしているクルー達”から逃げてきたのだ。

今日はローの二十七回目の誕生日だ。それにかこつけて、クルー達は当然のように飲めや歌えや、ついでに踊れやの大騒ぎをした。勿論、名目はローの誕生日を祝う会である。
フレバンスにいた頃は家族で祝ってもらうささやかな誕生日会に照れ臭くも嬉しいものを感じていたが、流石に成人して云年経てば誕生日会などはどうでも良くなる。しかも、船の連中は加減というものを知らない。今年はとくに酷く、前夜祭から始まりなんと後夜祭まであるらしい。意味が解らない。クリスマスでもないのに前夜を祝うとは一体どういう了見だ。

昨日、船の連中は島に停泊したのを良いことに、酒やら最上級の食材を買い込んでその夜から宴会を始めた。仕様がなくローも適度に付き合い、酒で潰れた面々を食堂に置き去りにして自室に戻った。その翌朝、良い年した大人がみっともなく地べたに転がっている地獄絵図は変わっていないのだろう、と溜息を吐きながら食堂に足を踏み入れた彼はその動きをぴたりと止めた。

「キャプテン!誕生日おめっとーございます!」

出迎えてくれたのは野郎どもの野太い声の大合唱だ。燦々たる有様だった食堂は綺麗になっており、机の上には昨日の夕飯と大差ないご馳走が並んでいる。朝からこんなものを食べれば胸焼けをしそうだ。というか、こいつらは皆酒でダウンしていたのではなかったのか。眉を顰めるローに、横一列に整列した船の面々は得意げな顔をしてみせた。どうやら彼らは『地獄絵図かと思いきや誕生日会場になってました!』ドッキリを仕掛けたつもりらしい。代表者のシャチが静々と一歩前に出て盛大なドヤ顔をかましてきた。

「おれたちも上手くなったでしょう。酔っぱらったフリ」
「いや、キャプテン。こいつマジで酔っぱらってましたよ。ぶっちゃけさっき起きました」

シャチの後ろに立っていたペンギンが両手でメガホンを作って内部告発をするので、シャチは両手を振り回して言い訳をし始めたが、可哀想なことに全員からスルーされていた。
ともあれ、こうしてローの誕生日を祝う会の二ラウンド目、もとい本番が騒がしくスタートしたのである。そして羽目を外しすぎた彼らは、一人、また一人と地に沈んでいく。流石のローも疲れた。というか、主役がこんなに辟易する誕生日会があっていいのか。船の仲間たちの善意を十分に受け取った故に我慢の限界が来たローは、最後まで沈まないであろうジャンバールとペンギンに目配せをすると能力を使って外に出た。ここ最近で一番馬鹿馬鹿しい使い方をしてしまった気がしないでもない。

見上げた茜色の空は、紫がかっており日没も近い。ローは自分が歩いてきた道のりを振り返る。砂浜に転々とした足跡を辿って遥か遠くを見ると、豆粒くらいになっているポーラータング号が見える。きっと今頃、仲間たちが主役のいない終わらない宴を開いているのだろう。まぁ、悪くはない一日だった。


ローがこの島のメインストリートに辿り着くと、催し物があるのか人通りがとても多い。掲示板や街灯にはポスターが貼ってあるので、どうやら今日はコンサートがあるようだった。会場が近くにあるのだろう、女の美しい歌声が漏れ聞こえている。その歌のワンフレーズを耳に入れたローは立ち止まる。どこかで聞いた声だ。ローは視線をポスターに向けた。そして、アーティストの名前と顔を確認すると、彼はその琥珀の瞳を瞬いた。

「あいつ」

ローの脳裏に幼少期が蘇る。白い町が人々の憧れだったころのことだ。春に引っ越してきて、一年と経たずにいなくなってしまったクラスメイト。美しい歌声を有効活用できなかった彼女は、歌手になりたいのだと言っていた。父親の事業が失敗してフレバンスを引っ越すとき、彼女は「夢を諦めない」と笑っていた。少女のその夢が叶ったと知って、少しだけローの口角が上がる。そして、彼の激動の人生で色々なものに埋もれていた、淡い気持ちを思い出した。そんなことを思い出す余裕も無かった。彼女も元気そうで何よりだ。再びポスターに目を映すと、確かにあのころの面影みたいなものは残っている。

「綺麗な声だよなぁ」

ポスターの前で立ち止まっているので、彼女に興味を持っている人間だと思われたらしい。掲示板の下で座り込んでいる若い男が不意に話しかけてきたのだ。

「直接おれも聞きたかったなぁ。チケットなんか到底取れなかったから、おこぼれに預かってるわけだけど」
「そんなに人気なのか?」

彼女はローが知らない間に大分大成しているようだった。確かに、聞こえる歌声はあの頃とは段違いに上手くなっている。

「生い立ちも応援できるし、何よりあの声だよ。ホラ、周りにもおれと同じような奴沢山いるぜ」

言われてみれば、ここにいる人間は皆立ち止まっている。ここいら一帯がやけに密集している理由はそれか。とはいえ、彼女の現在が知れただけで何よりだ。少し名残惜しいような気もするが、人混みは好きではない。ローが歩き出そうとしたそのときだった。

「この歌」

アカペラで歌い上げられるその歌は、ナマエがローに歌ってくれたものだった。素朴で、優しい、誕生日を祝う歌だ。

「誰かの誕生日を祝う歌だろ。彼女、毎年10月6日に誕生日でも無いのに必ずこの歌を歌うんだよ。ファンの間じゃ“いい人”がいるんじゃないかって皆心配してる。彼女に恋人なんかいた日には何人の男が枕を濡らすか……」

彼女はローと別れるときに言っていた。「毎年この歌を歌って、ロー君の誕生日をお祝いするね」と。その言葉通りに、彼女はそれをずっと馬鹿正直にやっているわけだ。それを知ってしまえば、何だか大分昔に感じたくすぐったくて落ち着かない何かを思い出してしまう。自分はそう単純な人間ではない、と思っていたのだが急に彼女の顔が見たくなった。らしくはないが、今日は特別な日だ。だから、普段と違うことをしてもいい筈。

「コンサート会場はどこだ?」
「あそこの店の屋根越しにデカい建物が見えるだろ。アレ。でも今更行ったって入れないよ。っていうか、お前、まさか……」

青年は勢いよく、自分と会話していた男が立っているであろう場所を振り向いた。自分は今まで“誰”と話していたのだ。しかし、そこには誰もいない。まるで、最初から誰もいなかったかのように。その代わり、カランっと今まで無かった筈の空き缶が彼の目の前を転がった。

「あれ?消えた?そんな馬鹿な……」







アンコールを歌い終わったナマエは、楽屋で一息ついていた。コンサートを終えたときの高揚感や熱はなかなか収まらない。逸る鼓動を押さえながら、ナマエは先程のコンサートの様子を思い浮かべていた。そして確信する。自分の持つ力以上のものを出しきったこのコンサートは成功したのだ、と。


フレバンスから引っ越したナマエは今までとは全く違う暮らしに戸惑い苦労を沢山したが、家族一丸となり励まし合って懸命に生きた。おかげで絶望を抱くことは無かった。彼女は働ける年齢になったら働きながらボーカルスクールに通って歌唱力を磨き、数えきれないくらいのオーディションを受けた。多くの挫折を味わって、それでも夢を諦めずにひた走って、彼女は今ここにいる。

ナマエにとって、今日の10月6日のコンサートは絶対に成功させたいものだった。10月6日は、かの白い町にナマエが住んでいたときの思い出が沢山詰まった素敵な一日だからだ。
彼女とて、フレバンスがどうなったか知っている。もし、父の事業が失敗していなかったら今頃自分は生きていなかっただろう。きっと、ナマエによくしてくれた町の人々は亡くなってしまったに違いない。優しいシスターも、少し厳しい先生も、一緒に歌を歌った聖歌隊の子達も、少し意地悪だった男の子も、遊びに誘ってくれた女の子も、そして、初恋の男の子も。
それでも、ナマエはローの誕生日を勝手に祝い続けた。だってあのとき、ローがナマエの声を褒めてくれたから、彼女の練習に付き合ってくれたから、ナマエは歌うことを諦めずに済んだのだ。
彼のことを思いながら、何度彼の為の歌を歌ったのだろう。

そんな10月6日を幾度と過ごしてきた彼女は、ある日思わぬ形で彼と再会を果たすことになる。手配書だ。
ナマエは単純なので、ローが生きていたことに純粋に喜んだ。海賊なんて褒められたものではないが、ナマエの記憶の中のローは進んで非道な行いをするような少年では無かったので、何か事情があるのだろう。と、彼女は勝手にそう思っている。 

きっとローはナマエのことなんて覚えていない。だから、これは自己満足だ。

今は遠い人に、初恋の男の子に、生まれてきてくれてありがとう、とずっと伝えていきたい。ただ、ほんの一つだけ我儘を言うと、直接聴いて欲しかった。今のナマエだったらきっとローには「下手くそ」なんて言われないだろう。いや、もしかしたら認めるのが嫌で、あのときと同じ顔をして「下手くそ」って言ってくるかも。そう思うと、何だか微笑ましくなってナマエはくすりと笑みを零した。

ちょうどその時、楽屋の扉が静かに三回叩かれる。きっとマネージャーだ。何も考えずにナマエは「どうぞー」と外にいる誰かの入室を許可した。そして扉が開かれたとき、ナマエは息を飲む。

彼女の我儘は、案外すぐに叶うのかもしれない。



引用 聖歌121番「あめのみつかいの」


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