貴女に捧ぐ花

 ナマエにとって忘れられない誕生日は血塗れであり、死に彩られていた。当時四歳であった彼女は虫の息の唯一の存在の横で、泣きじゃくる生まれたばかりの子どもを血に染まった手で抱き、彼らを呪う世界に取り残された。聡明なナマエは、記憶に蓋をした。そして、無邪気な子どもとなり、笑顔で過ごした。
 血塗れの誕生日の記憶を持ったまま生きることはできなかった。



 ローは酒場で本日の主役として、いつもよりも多くの仲間や女に囲まれて酒を飲んでいた。店の女たちは一応ローの近くには控えているが、隣に座るベポとの会話を邪魔しないようにしている。口には出さないものの、このような見ず知らずの女たちよりは気の許せる仲間たちと酒を飲む方が好きなローと、ローがそんなことを思っているなんてことは知らず、女に飢えた仲間たち。その両方の考えを理解した人間が下準備をしたのだろう。仲間が増えてからというもの、毎年、島や店は違うものの、そういった手配がなされている。負けず嫌いなローはそれを考えると、屈辱感に近いものを感じたため、手配した人間のことを考えないことにした。
「面倒ではないよ。ベポに頼まれたことだし、みんな喜ぶだろう」
 嘗てその人物に問うたところ、そのような答えが返ってきた。その目はいつも通り凪いでいて、湛える笑みは穏やかで、不気味なほどに静かだった。
 その人間は手配しただけで、手配をさせたのはローを囲むベポやペンギン、シャチたちだ。この面倒を引き受けた人間は、ローのために引き受けたわけではない。単純な話で、仲間から依頼されたから応じただけなのだ。その人物はお人好しの仲間たちの中では異端で、冷徹な仲間だった。
 わざわざ航路の調整をして、狭い船内ではなく島で店を貸し切れるように手配して。航海についてはベポが航海士のため、ローは基本的にベポの矜持のためにも余程彼が焦らない限りはあまり手を出さない。操舵についても気分の良いときは舵を取るが、他の仲間に任せていることが多い。それでも、ローは仲間の動きを把握している。しかしながら、連れて行かれているという感覚があまりしないのは、尤もらしい航路と理由があるからだ。
 航海について尤もらしい理由をつけて、島につけるようにするとか、それなりに発展している島になるようにするといった計算はベポにはできない。
 ハートの海賊団の仲間たちの中で唯一それが可能なのは、酒場でローに近づく勇気がないような女性やローに必要以上に絡みそうな女たちに囲まれ、「相手をしてもらう」相手をしているナマエだ。着岸して三日目に誕生日となったのも、露払いや店の選定などをしていたからだろう。全くもって無駄な優男風の見た目と背の高さはここで遺憾無く発揮されていて、女の目を引き、囲まれる。
 この、可愛げの欠片もない仲間の名前はナマエ。北の海の航海中の最初の仲間。ローと同じく卓越した戦闘力を誇り、大概無駄なことにしか使われない頭脳を持っている。北の島で気まぐれで瀕死のローを治療し、仲間になった元海兵の軍医。海軍本部で育てられた恵まれた境遇、そして、何処までも冷徹な精神。それでも、ローは仲間にした。来たるべきとき、己の仲間を預けられる船長代理として、それに見合う能力があったから。
 海軍本部で大人に囲まれて育ち、同じ年頃の人間のいなかったナマエは、北の海にいた十代の頃はよくはしゃいでいた。性格的には明るく無邪気であり、それゆえにローにとっては厄介そのものだったが、ハートの海賊団には馴染んでいた。だからこそだろう。
「ナマエはキャプテンの誕生日大人しいよな」
「そうかな。自分も祝ってもらわない派だからかな」
 ナマエがハートの海賊団に加入したのはローが海に出た歳の頃。その頃はお互いに二十歳にもなっていなかった。北の海で医者としてローの命を救い、このたび二十六歳になるまでの敬愛するキャプテンの誕生日を悉く無視してきたわけではない。むしろ目に見えない手配だけはしっかりとこなしてしたが、他の仲間たちと共に祝いの酒を飲み、いつも通り食事をとるだけだった。ただ、ナマエはただの仲間ではない。ハートの海賊団の創設時の仲間の次に入ってきた医者は海兵上がりで腕が立ち、今やすっかりローの片腕だ。そのくせ、ローはあまりナマエに誕生日を祝われた実感がない。
 しかし、ハートの海賊団はワケありの仲間も多く、全員の誕生日を祝っているわけではない。たとえば目の前のナマエも、誕生日を祝われない側の人間だった。
 正確な年齢を把握しているナマエは誕生日を知らないわけではないし、決して何もないわけではなかったが、特段暗い過去があるわけではないはずだった。北の海でナマエを拾った年に、ナマエの誕生日を知りたい仲間たち、主に仲の良かったベポがそれを聞き出せずにへこんでいるのを見たため、ローは不本意ながらそれとなくナマエに誕生日を尋ねた。
 真っ当な家庭で育っていたローは考え方自体は他の仲間たちに近かった。
「誕生日って何を祝うのかよくわからないから」
 当時、冷徹なだけであったナマエは、凪いだ眼をローに向けてそう答えた。



 時を数刻ばかり遡り、未だ陽の光が落ちぬ頃、ナマエは店に立ち寄った。生きていれば一度くらいは立ち寄ることもある店だが、ナマエにとっては初めてだった。知識として知らないわけではなかったが、意味もない行動として無意識に切り捨てていた。そのため、ナマエ自身は珍しく決断することができず、店員の初老の女性に声をかけることになった。
 ナマエは思い出す。そもそも、海軍の船医であったナマエが仲間になった際にローに頼まれたことは、「仇敵を倒す間の船長代行」。気の良い仲間たちとは異なり冷徹だったナマエ。当時のナマエは、それを受けた際には何も思わなかったが、ローの主治医として、仲間としてその悪魔の実の力に関わる中で、それがどれだけ重く、そして、命を削り、最悪の場合失う可能性があることに気づいた。そもそも当時は人の死について無頓着だったこともあり、気がついたときには何も思っていなかったが。
 それが変わったのはマリンフォード頂上戦争。ナマエが全ての記憶と失っていた心を取り戻した事件。嘗てその心を失ってまで生きていてほしいと願った人間が死んだときだった。救えなかった後悔に苛まれて、再び心を捨ててしまおうとしたナマエを救ったのは、北の海で気まぐれで命を救った青年。
 気まぐれに助けた大怪我をした青年は、ナマエにとってただの青年ではなくなっていた。
 それから、ナマエは心という厄介なものと共に生きることになる。四歳で失い、二十年間失っていた心。流石に直後は混乱していたものの、落ち着きを取り戻すのにそう時間はかからなかった。
 ただ、頂上戦争の後、虎視眈々と機を窺いながら、準備を重ねていた時期。
「俺は長生きする気はないからな。ドフラミンゴとやり合って無事で済むはずがねぇ。寿命も間違いなく縮む。問題ないだろ」
 ナマエが気がついたときにはその頬を思いっきり張っていた。海兵上がりのハートの海賊団一の戦闘員の平手打ちは実に景気の良い音をならした。ローが間違ったことを言っていないことはナマエも知っていたが手が出た。自由奔放、人当たりの良い性格をしているが、その実冷静かつ冷徹なナマエは、怒ったことがないため、咄嗟に手が出るなどということは経験したことがなかった。そのため、その痛みに顔を歪めるロー以上にナマエは狼狽した。頭が真っ白になり、何をしているのかを理解できず、自分勝手な振る舞いをしても悪びれないナマエは混乱のあまり、悪かった、と何度も謝った。ただ、事情をナマエ以上に理解しているローはナマエを許した。ローは震えるその腕を鷲掴みにして、ゆっくりと下におろした。



「二十ヶ月も、二十ヶ月も子どもをお腹に入れて、世界から守り抜いて、私の前で冷たくなっていって。それなのに、生まれた子どもは二十年しか世界に生きることを許されなかった」
 時代の終わりを彩った死を、四歳の小さな体で取り上げた子どもは、その重圧に耐えきれず、代償に人を想う心を失う。四歳の子どもが心と引き換えに救い出した命。その死とともに、それを取り戻し、人を救う知識と大切な人を守る強さを得て、当時の無力さに苛まれる。
 医者として信頼をおいているローにしか言わない。ナマエはそういう人間だ。自分の言葉が伝わらないとわかれば、口を開くことはない。特に、大切にしていた姉代わりの最期となれば尚更のことで、他の仲間たちはナマエがポートガス・D・エースの親戚であることしか知らない。
 南の海のバテリラでたった四歳で医者にならざるを得ず、心を失った子どもの真実を、ナマエはローにしか語らない。子どもはその後、海軍本部で育てられる。無邪気な笑顔を振り撒き、殺されないように、十年以上の時を過ごす。ナマエは、幸せを壊した世界に対する憎しみも苦しさも、その感情ごと失わなければ、生き残ることができなかった子どもだった。



 ナマエは赤い秋桜の花束を二つ持っていた。片方をローに押し付ける。
「今はシャボンディ諸島の近くにいるから、フレバンスの方角わかるよ」
 マリンフォードで育ったナマエは、この近辺については詳しい。そして、フレバンスについても知っている。当時海軍本部中枢で育てられていたナマエは聡明で、世界政府の闇、フレバンスの悲劇をその小さな目でしっかりと見ていた。ただ、片方をローに、片方を自分で持っている理由がローにはわからなかった。
「ローは生まれただけだけど、二十六年前、命をかけてローを産んでくれたのはローのお母さんだろ」
 それで全てを理解したローは黙って花を受け取った。ローとナマエ。視線の合う身長に体つき、大太刀。似ているところは数あれど、本質的に全く違う。海賊に育てられたローと海軍に育てられたナマエ。このグランドラインにおいて、秀才の域を出ないローと、望まぬとも天性の才能を持ってしまったナマエ。しかし、医者であることだけは共通している。
 だからこそ、理解できる。ローも幼少期に見たことがないわけではない。
 人が生まれるということ。人を産むということ。病気でもないのに、当然のように全ての人が享受しているというのに、それは命懸けである。
 産んだ母親は何も言わずとも、命を懸けられて人は生まれる。
「ねぇ、ローのお母さん秋桜嫌いじゃなかった? 赤は?」
 ナマエは当然ローの母親と面識がない。嘗てほとんど見ることがなかった僅かな不安が伝わってくる。
「花は好きだった。赤も嫌いではなかったはずだ」
 頭はよかった。ただ目の前にいるナマエには及ばない。明るい色が好きで、花も好きだった母親。
「そう。よかった」
 目の前の女には花は似合わない。花を愛でる時間も心もなかったのだから。
「まだ後悔しているのか。火拳屋と、火拳屋の母親を死なせたこと」
 二十六年前、ローと同じ年に生を受けたナマエ。二歳の頃に母親代わりだった女が妊娠し、二十ヶ月の間、幼い子どもは必死に世話をした。そして、四歳の頃、出産を迎えた女から子どもを取り上げた。その後、女に最期まで付き添い、その体が冷たくなっていくのを許してしまった。それが、ナマエを縛り付ける「誕生日」。
 当時四歳の聡明な子どもは何を思ったのか。その小さな体は世界の支配を望み、不条理な世界に敗北し、心を失った。
 そして、その後、辛い記憶を心とともに失っていたナマエは、救えなかった女が、命を懸けて産み落とした男が死ぬ姿を見ることになる。失ったものを取り返したナマエは、失う恐れを知る。
 心は徹底した冷徹さを損なわせる。そして、心があるからこそ人は苦しむ。
「もう一度心をなくしてしまうことが正しいと分かっていても、私は間違えたカードを引いた。あの子を忘れるのが正しかったとしても、後悔はない」
 水面と同じようにその目が揺れる。ただ、どこを向いているかわからなかった嘗ての目とは違う。ゆらめきながら、それは答えを出す。
「二人にも長生きしてほしかったよ」
 忘れかかっていた頬の痛みをローは思い出した。ナマエが唯一己に怒りを向けた時。誰よりも救いたいと願い、救えなかった命を知った幼い医者からの贈り物。
「来年はロシナンテ兄様の死んだ年。来年からはローの誕生日をお祝いするから」
 慕っていたロシナンテが死んでも、涙一つ流せなかったという。泣くことができず、怒ることも下手くそで。だから、今でも彼女は笑うことしかできない。
「ちゃんと帰ってきなよ、キャプテン」
 だから、それまで亡きものにしてきた痛みを湛え、それでも笑顔を見せる。それを見て、己が死んでもハートの海賊団は終わらないとローは感じる。この命と引き換えたとしても、とそこまで考えた時に背中に嫌な感覚がする。きっとそれを見通されているのだろう。目の前の眼光は落ち着くことなく鋭利に冷めていく。
 ローは話を変えることにした。
「地味な花だな」
 どこの島でも見かける花だった。まるで雑草のように手入れされていない花壇に平気で生えているような、どこにでもある花。
 ローはナマエが自分や自分の母親を馬鹿にしているなどとは思っていない。心を失うほどに人が生まれることに執着している医者なのだ。だからこそ、豪奢な花を選ばなかったことには理由があるはずだとローは思った。
「当たり前のようになればいいと思っている」
 冷めていた眼が凪いでいく。
「当たり前のように子どもが生まれで、当たり前のように母親が笑っていて、当たり前のように誕生日を祝うことができる」
 ローはナマエが誕生日の準備をしているところも、一同で誕生日を祝っている姿も知っているが、個人的に誕生日を祝っている姿を知らない。
 ねぇ、こっちだよ、とナマエが笑う。二人で手向けた花は暗い海に沈んでいった。



 店に来たのは店主が見たこともない人間だった。背は高いが、どこか柔らかい雰囲気があり、黒いタートルネックで首元が隠れているせいか、性別すらわからない。ただ、その白衣から医者だということはわかった。安い秋桜の花の前を見ていたが、すぐに花言葉を尋ねてきた。贈り物を選びに来たらしい。そして、花を買うのが初めてで、と人懐っこい笑顔を浮かべた。
「あんたが見ていたこの花はわかりやすいよ」
 それは赤い秋桜。
「深い愛情」
 その言葉で表情が変わった。どうやら、そのような花言葉の花を探しているらしい。店主はそう考えた。
「似たような花言葉だと、これとかもあるけれど。相手は恋人だったらこれだし、母親だったら……」
 初めての贈り物だ。身なりも良いのでお金にも困っていなさそうである。似たような花言葉で豪奢な花の方が喜ばれるだろう。しかし、店主の気遣いは制される。
「いや、この花がいい。素朴で、見たことがある気がする」
「そりゃ、珍しくない花だからね。雑草のように生えてくる花さ」
 秋桜は繁殖力が強く、痩せた土地でも育つ。
「そういう花がいい。だから、これにするよ」
 その医者は全く同じものを二束買っていった。



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