それは、災いを招く歴史書だった。所持するだけで政府の目にとまり、内容を知ろうとするだけで罪にとわれる、真の歴史の本文について記された書物。
埃くさくて、泥や血でところどころ文字が掠れている。ちぎりとられて読めないページがいくつもある。でも、タイトルと著者、発行年月日、出版地域から彼が切望していた本には違いない。
──難しくてわたしには読めないけど、彼が読みたいと口にするくらいだからきっと価値のある一冊なんだ。
ひとりで船をコソコソ抜け出してあらかじめ調べておいた本の所在を確認し、持っていた人間から盗った。こんなに悪いことをひとりで実行するなんて初めてだ。高揚感と緊張感──それから罪悪感。それ以上に、彼の喜ぶカオをみたくてたまらなかった。
複雑な感情を胸に留めたまま、雑木林の中をまっすぐ駆けた。ファミリーの船ですごしてる彼のところへ帰るんだ。本がなくなっていることに気付いた人たちがわたしを追ってこないうちに、はやく、はやく。
お気に入りだった真っ白なふわふわのワンピースには、血と汗と泥が滲んでた。あちこち裂いてて、もう捨てるしかない。でも無事だ。鼻先を潮の香りがかすめている。もう目と鼻の先に海賊船がみえてる。いまのわたしは情けない顔をしているとおもう。岬に停泊している船へいそぐ。
重量のある足枷がつけられたように重い足を引きずり、本だけは落とさないように両腕で抱える。船上の影はぼんやりとかすんで、輪郭がはっきりしない。甲板からこちらを見下ろす影に向かって腕を大きく振った。身体の節や筋肉がズキズキと痛んだ。
「若様ァー! たいへんたいへん!! ナマエが!!!」
「大怪我だすやん!!!」
甲高い少女の声と慌てる少年の声に、ベビー5とバッファローがいるのだと知る。甲板から降りてきた人影が乱暴にわたしの腕の本を奪い取った。帽子をかぶった少年だ。この本を渡したかった、張本人。
口を開いて喉から出るのは濁った音だけ。『おめでとう』たった5文字なのに、喉が潰れていて音が単語にならない。無意識のうちに喉へ手を触れていた。
言葉を伝えられなくても喜ぶカオはみれるかもしれない。そんな淡い期待は早々に打ち砕かれる。彼の反応は想像とかけ離れていた。本を睨んで、眉間に皺を寄せて、どこからみたっておだやかじゃない。
──どうして怒ってるの? 声が出てこない。
「いらねェ」
きいたことないような低い声できっぱりと受け取ることを拒んだ彼は、本をまっすぐ夜の海へと投げた。
抵抗も障害もなく、死に物狂いで盗ってきた本が海へ飛び込んでく信じられない光景を、ただ何もできずに目で追っていた。足はうまく動かないし、手をのばしても届かない。ボチャンと海に本が沈んだ。
ローは唇を結んで、わたしを正面から睨んだ。いたずらしても勉強の邪魔をしてもたいていのことはなんとなく許してくれてた彼が誰が見てもわかるくらいに怒ってる。読みたいって言った本を海に投げ捨てて。
ショックと疲労で意識を失う寸前、ローの言葉がきこえたけど、何と言ったか憶えてない。
◇
「ナマエ、オマエ今年も宴に参加しないのか?」
釣り糸を海に垂らして機を待つシャチ帽子をかぶった青年はふと口を開いた。青年の隣で夕焼け色に染まり始めた水平線を眺めていた女が「んー」という意味のない間延びした音で返事をする。ふたりの付き合いは、北の海から始まった。十年くらい、共に航海している。
間をおいて、女は答えた。
「うん」
「付き合いわりィぞ」
「二年前は“女が逃げる”、一年前は“酒場の女と過ごす”」
「そうだっけか…?」
「そう」
「…はぁ」
獲物はまったく釣り餌にかからない。軽い糸を手繰りながら、青年は溜息をついた。糸の先に括った餌はまだ食べられてもいない。どうやらこの海域の魚には好まれないらしい。
──どうしてこう、強情なんだ
ふたりで出掛けさせようと計画してもシロクマがいないと出掛けないキャプテンに、みずからキャプテンに話しかけないナマエ。絶対に、ふたりきりにはならない面倒くさい旧知のふたり。こんな状況で十年ちかく続いてると「そろそろいい迷惑だ」と一番に口にしたのが誰だったかさえ忘れる。
「おかまいなく」
「……仲良くしてくれ」
なかば諦めているが、懇願してみた。ナマエは苦笑いして、肩をすくめた。
■
雪がシンシンと降る冬島に辿り着く。静謐な空気に包まれた雪深い森をこえるチームと船で島の裏側まで航行するチームに別れて住民を探す。森は小枝が折れるような小さな音でもよく耳に届くくらい静かだった。動物の気配はない。
別ルートで島を迂回しているポーラータング号の仲間たちからの連絡で、反対側の海岸沿いに港が存在することを知った。しかし島を分断している山脈を越えなければそこに辿り着くのは不可能なので、ローを含む数名のクルーは山の麓を目指す。
山の麓には、洞穴があった。人の手がはいった、石造りの内装。壁に並ぶ象形文字。昔は使われていたらしい松明の名残。
「…遺跡か」
「古いっすね。お宝のひとつやふたつ、あるかもなァ」
「宝!?」
シャチとベポがはしゃいだ。船はいつもどおり赤字で、食費に船の修繕費、いくらあっても困ることはない。ローが釘をさしたところで気にしてないのか、三人は大いにこの状況を楽しんでいる。
「出口のついでだからな」
「手分けする?」
「クジで決めよう。恨みっこなしだぞ」
最初から乗り気らしいペンギンの手に握られた、5つの木。ここにいるメンバーが引けば二グループに分けられた。赤色。同色の人物とばっちり目があい、煩わしそうに目を細められた。
わたしたちをふたりにさせたいらしいシャチとペンギンの「港町で落ち合いましょう」「ごゆっくり」という理解しがたい言葉に頭痛がする。ごゆっくりって、何するのよ。
「ごゆっくりしてどうするんだ」
「……さぁ」
お願いだから口に出さないでほしい。いや出さなくてよかった。胸をなでおろして、ローの後ろをついていく。内部は人工物のようだった。まるで本に載っているような古代都市を想像させるつくりにワクワクしてくる。
そういえば、北の海にも黄金郷の物語が伝わっていたっけ。ノーランドの冒険譚だ。
「ナマエはルブニールの出身だったか?」
「えっ? あ、そう、そうだね、うん」
とつぜん、故郷の話題をふられて声が裏返る。“嘘つきノーランド”は北の海では有名な嘘つきの物語。偉大なる航路のどこかに作中の島が存在しているらしい。『馬鹿げてる』そんなふうに一笑する人は多いけれど、ノーランドの言葉と空島の存在を信じている人もいる。
ローが通路壁面の象形文字を目で追いながら「黄金郷の話でもきかせろ」と続けた。
──自分が知っている『ノーランド』の物語を思い出しながら話してきかせる。黄金郷、ジャヤ、空の島。ご先祖はノーランドの船に乗船してたから、航行の日誌が家に残っていた。はじめて読んだときに、空高くへ消えたジャヤへ行ってみたいと夢を描いたこともある。それをはじめて口にしたとき、周りの大人は笑ったけれどローは笑わなかった。嬉しかった記憶のひとつだからよく覚えてる。
「……居住区だな」
螺旋階段を昇り、斜面の通路を下り、古い木製の扉が並ぶのを目の当たりにする。軽く押し扉に触れればぼろぼろと落ち崩れた。その先に、ベッドやハンモックが並んでいる。布は元の形を忘れてるけど、たしかに誰かが住んでいた証を残している。
「誰が……」
「…歴史を守ってた人間だろうな」
古い居住区を抜ければ、また螺旋階段。山のどこに自分がいるのかわからなくなりそうなくらい複雑かつ、迷路のようだ。彼の背を見失わないように追いかける。
おそらく──深部へ向かっていくにつれて寒さを感じるようになった。水や雪に触れるようなひんやりとした空気じゃなく、何が起こるかわからない緊張した空気。ふたりきりだし、ここは誰にも何もきかれない場所だとついいましがた気付く。
「ロー。ずっと気になってたこときいていい?」
「内容による」
「本を棄てたあの時、なんて言ったの? 気を失ったから、おぼえていなくて」
ふと彼の足が止まる。沈黙とそれから「なんだっていいだろ」とぞんざいな返し。わたしにとってはなんでもよくないので、彼の正面にまわりこんで進行の邪魔をする。
「知りたいから、いま教えて」
「時効だろ」
「女の人を口説くときも、そんなはぐらかし方してるの?」
「…余計な世話だ」
こめかみに青筋を浮かべてローがわたしを見下ろす。威圧感はあるけどすこしも感情をぶつけてこない。本を盗んだあの一度だけ、わたしに対してハッキリと怒りをあらわにした。怒るようなことでもないと思ってたことで、スイッチが入った。いまだにどうしてだったのかわからない。
「悪いことだった? あの本、盗んだの」
「…悪くはねェよ」
「じゃあなんで? 海賊ならそれくらいするでしょ? ローも気に入らない海兵をバラバラにしてるし」
「あの頃はおれもガキで、ナマエに対して勝手に理想を抱いてた。あと海兵は正当防衛だ」
目を逸らして、早口で述べたローの答えは納得できなくて不満足。「どういう意味?」と再度問う。煩わしそうに刻まれた眉間の皺が深まった。
大人になった分だけ目つきはより悪く、態度も大きくなった。たった十年で、体つきに背丈、声の高さや腕力だって変わった。泳げなくなったし、あの頃は振るうことができなかったであろう大きな妖刀を振っている。珀鉛病に侵された少年もここにはいない。わたし自身も変わって、ローを怖がることはなくなったし、彼が活き活きしてる表情を近くでみてたいと思う気持ちは日々膨らんでる。
「女が海賊してるのが、気に入らない?」
「……」
沈黙が空間を支配する。ローは言葉を探しているようにみえた。問いかけに対して腹を立てているわけでもなければ動揺しているわけでもないようで、彼をとりまく空気はおだやかに凪いでいる。
ため息をついてから彼はまた歩き始め、わたしの横を通り過ぎる。先の階段を下りたところでようやく彼は口を開いた。
「それよりアイツらだ」
彼は懐から取り出した電伝虫に呼びかける。「アイアイキャプテン!!」と威勢のいい声がみっつ、きこえてきた。
『順調っすよ!』
『キャプテーン! ナマエ! ここ、トラップがあるからきをつけてね!!』
「……トラップ?」
ここに来るまで罠に引っかかったりはしなかった。電伝虫のむこうから何かがゴロゴロと転がっているような、重い音がきこえてくる。遅れて、遺跡が揺れ地響きがしたので、現在進行形でその“トラップ”を回避中なのだろうと想像がつく。大丈夫なのかな。
「………無事か?」
『いま! 立て込んでるので!! あとで!!!』
切羽詰まった表情の電伝虫が喚く。終話後も、どこからともなく悲鳴が届く。「急ぐぞ」ここへきてはじめて焦りをみせたローとともに次の広間へ足を踏み入れた。ポーラータング号の甲板ほどの広さがある部屋の最奥にそびえる石板が目に飛び込んできた。アレを守るためにいくつものトラップは存在したに違いない。
むかし盗んだ本に書かれていた文字だ。
「歴史の本文だな」
「……」
一歩また一歩。ローが石板に近付くと、かすかな水の流れる音がどこからともなく聞こえてきた。彼が手をのばせばそれに触れられる距離に近付いたとき、ガコンという鈍い音と同時に部屋を形成している岩の隙間から水が溢れてくる。部屋の出入り口は岩の扉に塞がれ、あっという間に密室ができあがった。水がゴポゴポとあっという間に足先から足首へ到達する。
自身の手のひらをみつめ、鬼哭でぐらつく体を支えたローが天井を見上げる。
石板に近付くと発動する仕掛けだったのかもしれない。強行突破して、仲間と合流し、この遺跡を出るのが最も安全かもしれない。出口を塞いだ岩扉の前まで水をかき分けた。
水を吸って重くなり始めた冬物のコートを脱ぎ捨て、コツコツと二回、扉を叩く。硬度がある。ちょっとやそっとでは壊れないだろう。わたしにならできるかもしれない。ローを振り返る。
「頼む」
迷わず頷く。利き腕を武装して拳をかたく握り、勢いよく振り上げた。
「それと、“海賊は向いてないから今すぐやめろ”……って言ったんだ、あの日に」
思いもよらない言葉に、現状を一瞬忘れる。拳を振り上げたまま、彼の言葉の意味をゆっくりとのみこむ。なにそれ。「さっさとやれ」あ、そうだった、突破しなければ。いや、まって。待って。
──じわじわと腹が熱くなる。感情に身を任せて力いっぱい岩の扉を殴りつけたら、鋼鉄のように硬かった扉はあっけなく地を揺るがす轟音と共に砕かれた。
◆
そういえば、別れるときにも同じことを、言われた。わたしの故郷についてから、町外れの岬で。
「ここでお別れだ、ナマエ。オマエの故郷だからな」
「…でもここに家族はいない」
コラさんが、ローの病を治すために連れ出し、数日が経った。偶然、わたしは逃亡しようとしていたふたりをみつけてしまったので一緒にさらわれ、旅をしていた。
困った顔でコラさんが頭をかいた。しゃがんで幼いわたしと目線を合わせるコラさんに何度も「一緒に行く」とお願いしても許してくれない。
涙腺がゆるむ。ここで別れるのは嫌だ。放っていかれたくない、またひとりになってしまう。そんな気持ちでいっぱいだった。
あの日、家族とさよならをした日を思い出してしまう。あのあと、ひとりぼっちで何日も何日も過ごした。悔しかった、寂しかった。
……ひとりはもういやだ。海賊でもいい、ひとりじゃないなら。
「海賊なんてもうやるなよ」
「いやだ」
ローは左手をまっすぐわたしの頭に落とした。痛さに頭を押さえて俯く。涙を隠すようにしばらくそうしていた。すると、そのまま左手でグシャグシャと頭を撫でられたことに気付く。たったそれだけの行動がなんとなく恥ずかしく思えたっけ。誤魔化すように、その時、彼にはじめて話したんだ。──夢を。
「大人になったら、海に出て“黄金郷”を探すの。仲間といっしょに」
「…そんなもん信じてるのか」
「……ローの病気が治るのと同じくらい、夢のまた夢だとおもうよ」
頭を撫でていたローの手が止まる。顔を上げたら、目を丸くして彼はわたしをまじまじとみてた。ぽかんと半開きの口から「そうか」とすなおに驚く声が零れる。
「なに?」
「……いや…正直おれは、ナマエをただのバカだと思ってた」
思考が止まる。最後までけなすなんてひどい。むっとしたので拳を握りしめればすかさず「いい女になる」とどう考えてもこの場に不適切なフォローをされた。
そもそも、その言葉はあの人がセクシーな女の人を口説くときによく使っている言葉だ。ジョーラやベビー5は「言われて悪い気はしない」と頬を染めていたけど、初めて言われた感想は「恥ずかしいしこわい」だ。ローの趣味は解剖だし、そういう対象としての『いい女』にちがいない。怖すぎる。
隣のコラさんの顔はもうビックリしているどころじゃなく、感動で涙を流していた。「大人になったなァロー!!」なんなんだ。コラさんはローが解剖したカエルやらウサギをみたことがないのだろうか。いや、見たことないだろうな。ここは感動するとこじゃなく、恐怖に慄くとこだここは。ローは、ローらしく「気持ち悪いな」って心底嫌そうな顔をしてコラソンを見上げていた。
「……ローのビョーキが治ったら、会いに来てくれる?」
黄金郷の存在と同じくらい夢のような約束を口にしてみた。
ローの目が逸れ、ちょっと時間をおいてから「治ったら」と雑に返される。そんな奇跡は起こらないとしても、その言葉が嬉しかった。安心して、この先も穏やかに生きていけると思えた。
二人を乗せた小舟は海の彼方へ消えていく。もうひとりでも怖くない、きっと。
◇
「ここにナマエがいたら、おれたち溺れなくてすんだかな」
「だろうな」
「キャプテンだったら?」
「こういうトコだとキャプテンは無力だ」
プカプカと部屋に満ちる水に浮かぶ三人は、うっかりトラップにかかってしまった。岩扉の硬度は鋼のようで、素手で殴りつけても武器で殴りつけても蹴りつけてもびくともしない。電伝虫は繋がらず、出口も見当たらないのでこのままだとここで海賊人生が終了してしまうだろう。
「悪あがきするか?」
「もうしただろ。ベポをみてみろ」
「おれに力がないばかりに…」
「満月は昨日終わったか?」
「そもそもここは屋内だから、意味ないぞ」
落ち込むベポはさておき、
──神様が助けてくれたりしねェかなァ
そんなどうでもいい期待をしつつ、切り抜ける方法を探す。さっきから電伝虫は繋がらない。どこかの壁が破壊されるような凄まじい音が聞こえ、揺れとともにゆらゆらと水面に波が立つ。きっとナマエだという確信があった。腕力でローの上をいく彼女なら、岩扉も粉砕する。
「ナマエの身体のどこにあんな力があると思う?」
「さぁな。武装色は鍛えたって言ってたけど…」
「なんかこっちに近付いてきてる…キャプテンとナマエだよ」
びくともしなかった岩扉にひびが入る。ミシミシとある一点から広がってくひび割れや穴に水が吸い込まれていく。もう一発。地響きとともに扉が崩れ落ち、そのガレキの向こうには半身が水に浸かったナマエが仁王立ちしていた。「助かったァ」誰かの気が抜けた声が響く。
「ロー! あとはよろしく!!」彼女はこの状況を楽しむように、昔馴染みの名前を叫んだ。
四人の姿がそこから消えた代わりに四つの石ころが水中に沈んだ。
◇
「宝って歴史の本文だったのか……」
「金塊じゃなかった……」
「溺れただけだった……」
遺跡を背に、山をくぐり抜けて雪の中をザクザクと歩く。遺跡の壁を破壊したおかげで長居が難しくなったこと、目当ての財宝はおそらくないことを考えると探索を続ける意味はない。
濡れた体に雪はつらい。呼吸をすれば吐く息が白い。ガチガチと寒さで凍える体を両手で抱きながら、すこしはなれて先を歩く四人の足跡を踏む。
吹雪いていないのは幸いだった。視界も開けているし、町はもうみえている。先に町へ着いた仲間たちが手を振りながら門の前で待っていたので、三人は表情を明るくして駆けだした。わたしよりも水に濡れていた時間は長いのに、全力で走れるほど元気になったらしい。
ローだけが隣に並んだ。クルーが彼を呼ぶ声など聞こえてないふりをして。
「…今夜もひとりで過ごすのか?」
「ええ。海賊だもの、ひとりでも平気」
「へェ」
おもむろにローのコートが肩に掛けられる。ほんのさっきまで彼が着用していたものだ。コートが落ちないように袖を通さず合わせに手をかけるとジンワリと温かさに包まれて、ほっとする。
「……ローの体臭がする」
「表現が他にもあるだろ」
「落ち着くよ」
思いついたことを口にする。隣のローを見上げたら、昔みた表情とそっくりなカオをしてた。まるで、未知の海王類を目の前にしているみたい。ゆっくりとまばたきして、彼は口を開く。
「落ち着くのか」
「こんなに近かったことはないから」
「……」
ふたりきりになることを避け続けていたし、社会的距離は必ず保ってきた。単純に意識してしまい、うまく喋れなくなるからそうしてきた。十年近くの付き合いなのにどうも希薄な関係しか構築できていなかったんだなぁ。のんびりと考察する。
ローの声音がトーンダウンした。
「ナマエ、あとで診てやるから部屋で待ってろ」
「…いいよ、べつに」
「落ち着かれるとつまらねェ。こっちは待つのも飽きてるんだ」
「………?」
…奇妙なことを言っているし苛立ちを隠そうともしてない。落ち着くというのは最上級のアプローチで愛情表現みたいなものだと思ってたし、『家族のような存在』だと伝えるにはぴったりだと思ったのに。
「家族みたいなものでしょう?」
雪を足で踏みながら返答すると、彼は深くため息を吐いた。見上げれば、呆れた顔と珍しく熱がこもる双眸と目が合う。第六感で「まずい」と気付いた次の瞬間には腰が彼の左手で支えられてぐっと引き寄せられる。手を払う間もなく、顔に手を添えて上を向かされた。もはやこの状況が理解できない。目線も外せず、言葉も失い、脈打つ彼の心音を手のひらに感じた。寒いはずなのにあつい。
「……ナマエの心臓を寄越せ」
顔から、首筋。それに胸元へ手が伸ばされる。心臓のあたりに指先がトンと触れた。
…バラされるかもしれない。身の危険を感じ、逃げるべく鍛えられた胸板を力を込めて押し返す。ビクともしない。弧を描いた口元がじつに愉しそうで腹立たしい。
視線をどこに向ければいいのか、所在なく、鎖骨のあたりにのぞく刺青へ視線を落とす。「みるか?」初めて耳にするかすれた低音に背筋が粟立った。
心臓が早鐘を打つ。闘争して逃走したい──拳を武装する。
「セ」
「──“シャンブルズ”!!」
「セクハラ…!!」
拳はローではなく宙を殴りつけただけで、勢い余って前のめりに雪へ顔から突っ込んだ。サイアク。冷たい。本当にサイアクだ。ローはすっ転んだわたしに背を向けてスタスタと歩き始めている。助けるとか、そういうのは一切なしだ。
「あぶねェな」
「当然でしょう! どうして逃げるの!」
すぐさま立ち上がってローの後ろを追いかける。一部始終をみていたクルーたちは大声でローを囃し立て、ひとりまたひとりと酒場の方へ散っていく。
「シャワーでも浴びて部屋で待ってろ。逃げねェからな。ナマエも“海賊なら”逃げるなよ」
「海賊関係ないでしょ!」
「逃げるのか?」
「逃げない! 受けて立つ!!」
言葉を返すと、ローが立ち止まり口元を緩めた。求めていた答えだったらしい。この後のこともこれから先のことも考えたくないけど、すこしだけ心が軽くなる。
船に足を向ける。「がんばれよ」冷やかすクルーの声など聞こえないふりをして、雪が舞い始めた空を仰いだ。