例えば君が天使だったらの話 「愛してる」 その言葉を聴く度に、胸の内に甘くてほろ苦いものが広がるようになった。  ̄ 「テツヤ」 優しい声に色んな意味でどきりとする。じわ、と傷口から血が滲むみたいに、鈍い軋みを感じた。 リビングにいたはずの氷室さんはいつの間にか背後に立っていて、僕の右手から長い指でマグカップを取り上げた。 「ありがとうね、コーヒー」 「いえ、このくらい」 どうということは、と続けようとした僕の左手からまたカップが奪われる。自分の分と僕の分を両手に、彼は見惚れそうな甘い微笑を携えてリビングのソファーを示した。すぐ前を行く大人びた背中に、手を伸ばしかけて引っ込める。 ――ああ、まただ。 コトリとテーブルにカップを置き、氷室さんはソファーに座るのではなくソファーの前に胡座で腰を落ち着かせる。彼がやるとそれすら様になった。 ソファーに座るか彼の隣を選ぶか迷って、床を選択したら膝を曲げた瞬間腕を引かれて体制を崩した。驚く間もなくすとんと氷室さんの脚の間に収まってしまう。 ゆるりと身体に回る腕がほの温かい。自分の首筋を彼の髪が撫でると、少し緊張した。 「……テツヤは甘い匂いがするね」 甘い声が密着したせいでくぐもって、吐息が肩を掠める。 彼の睦言はすごく心地よくて、だから僕を戸惑わせた。初めて告白を受けた時から、それはもう絶え間なく。その時いつも僕は恥ずかしくてくすぐったくて幸せで。 今だってそうなんだ。甘くてあったかくてふわふわしたものが胸に芽生えて、でももっと重量を持った何かがそれらを押し潰してくる。 ぎゅっと身を縮めて身体を小さくまとめた。彼の手は好きだ。けれど今は、触れてほしくない。これ以上触れ合ったら、幸せが増す分重みも増える。それらすべての圧力に耐えられる自信がなかった。 何より、この抱えた何かを彼に見透かされそうだ。 「……テツヤ? 寒い?」 「………――いいえ」 壊れ物でも扱うみたいに強張った二の腕をさすってくれる右手に触れかけて、やめた。触れた場所から全部が暴かれる気がして。 こんなことがある度に、自分は臆病だとつくづく実感する。 彼は優しくて、格好よくて、賢くて。惚れているという欲目をなしにしても、本当に魅力的なひとだと思う。本人はうまく誤魔化しているけれど、実際女性にもよくもてているし。 そんな素敵なひとが、自分を選んでくれた。 美しい女性でも、可愛い女の子でもない、男の僕を。 夢みたいだと思った。何度も現実を疑って、彼の想いを知って幸福に酔いしれた。彼の傍にいるだけで幸せな僕に、彼はもっとたくさんのものをくれた。 だから怖くなったのだ。 それほどのひとがどうして僕なんかを好きだと言ってくれたのか、わからなくて不安になった。 彼がくれるものに僕は何も返せない。いつだって受け身で待っていることしか出来ない僕に、彼は優しいばかりだ。それに見合う何かを返せるほど、僕は大人じゃない。 彼の隣に見合うのも、本来なら僕みたいなひとじゃない。 細く呼吸を繰り返す。緊張する僕の身体を彼は何も言わず抱き締めてくれていた。 そんな彼にこんな胸の内を知られてしまうことが、僕はいちばん怖いのだ。 自分がたまらなく憎い。彼の想いを疑う自分も、彼に嫌われたくなくて足掻く自分も嫌で嫌で仕方ない。 どうすればいいのかわからないのが、こんなに辛いなんて知らなかった。 「テツヤ」 大好きな声が僕の名前をなぞった。また肩に力が入る。彼の声音はいつもの砂糖みたいな甘さを持っていなくて、どころかこの胸を渦巻くもののような苦さを滲ませていたのだ。 どっと身体が落下していく感じ。彼は気づいてしまったのだろうか。僕が抱えきれなくて持て余している無様なものに。 振り向かなきゃ、と思うのに首がめぐらない。これから何を告げられるのか想像もつかないけれど、氷室さんが辛抱強く待ってくれていることだけはわかった。その真っ直ぐさに僕は報いなければならないのだ。 何を言われるとしても、だ。 「――…はい」 どもりかけながら振り向くと同時に、彼の指が頬に触れた。 彼は微笑んでいた。 今まで見たことのない、苦しそうな顔をしていた。 「――俺ではだめ?」 「…………え?」 彼の表情に釘付けになったせいで反応が遅れた。いつも凪いだ海みたいな右目がゆらゆら揺れて、僕の心を映しているようだった。 指先で頬に落ちる僕の髪を耳に掛けながら、氷室さんは僕の瞳から目を逸らさなかった。 迷ったみたいに唇を開き、一度閉じて、でもまた開く。 「俺では君を、幸せには出来ないのかな?」 「………氷室さ」 「正直に言ってほしいんだ。俺はもう君の隣にはいられない?」 「待って、待ってください」 切迫した言葉をつっかえながら遮る。意味を理解するのと比例して頭の中が掻き乱された。彼は今、何と言った。 「……ほら」 「え?」 「苦しそうな顔、してるから」 それは貴方の方だ。そう言いたくて言えない。自分が今どんな顔をしてるのかわからない。 「最近俺といる時、いつも無理してる。ちゃんと言ってくれ、テツヤ。逃げずに聴くから」 ――無理。 していました、貴方が好き過ぎて。 「だからテツヤも――」 「違います」 涙声になりそうで、喉に力を入れる。うまくその先が言えなくて、彼のシャツを強く握り込む。 「違います、違うんです」 「……、何が…」 全部だ。全部違ったんだ。僕も、貴方も。 「好きなんです」 全部間違えてしまうくらい。 「好きなんです。貴方が、好きです。貴方にたくさんのものをもらいました。でも僕は何も、返せなくて。それに、男で。貴方に見合うような綺麗な女のひとでもなくて」 何から言えばいいんだろう。何を伝えればいいんだろう。こんなことは初めてなんです。貴方を好きになってから、そんな“初めて”ばかりなんです。 「…………テツヤ」 「ごめんなさい、ごめんなさい氷室さん。でも、好きなんです、好き、なんです」 「……テツヤ………、ああ、もう」 僕に手を伸ばして、しかし結局腕をおろす。こんなに困憊している彼を見るのも、“初めて”。 僕の鎖骨に額を押し付けて、深く息を吐いた。 「……ごめんね、テツヤ」 「氷室さん?」 「好きだよ、好きだ。大好きだ、愛してる。だからいつも余裕がない。テツヤが離れるのが怖いし、君の前では少しでも格好よくありたいよ」 いつもみたいな甘さは欠片もなくて、でも彼の手一杯の告白は、身体中の力が抜けるくらいの幸せの塊だ。 抱き締められたままカーペットの上に転がる。全身が彼と密着して、人の体温を感じた。 「情けなくてごめん。嫉妬深くて格好悪くて。でも、好きだ」 「……氷室さんが好きです」 「うん」 「貴方の全部が、好きで好きでたまらないんです」 「うん」 俺もだよ。 耳に触れる空気の振動まで、すべて愛しくて目を閉じた。 「I love you」 どうすればいいかわからなかったから、ただ自分がしたいように、甘い余韻に浸ることにした。 例えば君が 天使だったらの話 →Thank you! 凍さんからお誕生日のお祝いにと頂きました! な、なんとりきゅ…っ、リクエストさせて頂いちゃいました…!>//<氷黒なんてマイナーリクエストしちゃってすみません… ひ、氷室さんがすごく氷室さんで(?)黒子っちを後ろから抱えるところなんかああ大事そうにふわっと抱くんだろうなあとか想像して一人で身悶えてました…!ひとつひとつの言葉が丁寧で光景が頭に浮かぶんですよね´///` 臆病なふたりの両片思いがもどかしくて、でもとても幸せでした、本当にありがとうございました! |