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月に叢雲、花に風
 

※狐一



「銀次殿!」 

湯屋から戻ると丁度戸口に銀次の姿が見え、パッと表情を明るくした一進は一も二もなく走って行った。隣を歩く狐太郎なんか視界にも入っていないような行動に僅か眉を顰める。 

「お、一進、狐太郎と湯屋行ってきたのか?」 

「はいっ次は銀次殿も一緒に参りましょう!」 

「そうだな、誘ってくれ」 

「!はいっ!」 

銀次に頭を撫でられてかわいらしく頬を染める一進の顔を見ているとどうも凶暴な気持ちが湧いてきてどうしようもない。 
銀次は狐太郎にとっても尊敬できる人であるし、優しい銀次に一進が懐くのも理解できるのだが自分よりも優先されるのは相手がいくら銀次であろうと許せなかった。 

「おら湯冷めすんぞ、早く入れ」 

「あ、すみませぬ…それでは銀次殿、お気をつけて」 

「ああ。…狐太郎、ほどほどにな?」 

「!っ、何の話っすか…」 

狐太郎の不機嫌の理由が銀次にはわかっているのだろう、心持ち低くなった声音にも気付いていないような一進を慰めるみたいに、まだ湿った髪をわしゃわしゃと掻き混ぜながら苦笑されてしまった。 
案の定なにもわかっていない一進は不思議そうに狐太郎と銀次の顔を見上げて交互に見比べる。 

「…首痛めんぞ」 

「わっ」 

真っすぐに見つめてくる一進の視線にいたたまれなくなって、見上げる頭を乱暴にぐいっと押し下げた。 





「…狐太郎殿、何か怒っておられますか…?」 

「別に」 

「しかし、先程から…」 

「何でもねえっつってんだろ!」 

「!っ、すみませぬ…あの、でしたら私は、別の部屋におりますゆえ、…」 

誰が見ても不機嫌な狐太郎に、一進は目を泳がせながら今さっき戻ってきたばかりの部屋を出て行こうとする。 
焦ってその腕を掴むが、瞬間びくりと震えた一進に引き止める力が意図せず緩んだ。 

「!…っ、悪りぃ…別にお前に怒ってんじゃねえんだ…」 

「狐太郎殿?」 

「俺が、年上のくせに余裕ねえから…」 

一進にも銀次にもその気なんてないとわかっていながら堪えられない己の器量の狭さにほとほと呆れる。まだ十やそこらの一進の方がよっぽど余裕があるのだろうにと思うと情けなくて仕方がなかった。 
一進が悪いのではないことだけは伝えられたのと、あまりに情けない自分をこれ以上恋人の前に晒したくはなくて一進の細腕から手を離す。 

「狐太郎殿…、」 

「いいよ、行けよ」 

「…何処へですか?」 

「どこへでも」 

すきな所へ行けばいい。 
銀次の所でも、または狗吉の所でも、一進のしたいようにしてくれて構わない。
狐太郎の元に居てほしいと願えばきっと一進には「お願い」ではなく「制約」となってしまうから。 
そんなことはしたくない。 

―まさか、自分がこんなにも独占欲が強いなんて思ってもみなかった。 

「…っいやです」 

「?…チビ?」 

「嫌っ、です!何故ですか、狐太郎殿は私を、すき、だと…言ってくださったのに…!何故そのようなことを申されますか…!」 

「!…は?」 

「何か、私が相応しくないことをしたなら言ってくださればいいのに…っ、何も言わずに突き放されてはどうすればいいのかわからぬではないですか…!」 

まくし立てる一進の大きな瞳には今にもこぼれ落ちそうな涙が一杯に溜まっていて、それを見ただけで狐太郎はどうすればいいのかわからなくなる。 
泣かせたいわけじゃないのに、今この一番大事にしたいはずの少年を泣かせているのは明らかに狐太郎の態度だ。 

「っ、何故…何も言ってくださらないのですか…」 

「!」 

ぼろっ、と玉になって頬を滑り落ちた涙。 
それを見た瞬間、何を言うより先に身体が一進を抱きしめていた。 
まるで反射だ。 
こんな風に泣かれてしまったら狐太郎には抱きしめる他にない。それが何より雄弁だと、狐太郎も一進もすでに知っているからこそ。 

きつく硬く、その小さな身体が軋むほどに抱きすくめる狐太郎の腕の中で一進はひとつしゃくり上げるとそろそろと背中に腕を回した。 

「っひ、く…」 

「…悪かった、ちょっと、反省してたんだよ…」 

「?」 

「自分の心の狭さを…、自覚したっつうか…」 

「?…狐太郎殿は、心が狭くなどないです」 

「狭いの、お前に関してはものすげえ狭いの、嫉妬深いの、女々しいの!」 

女と付き合っていたころ、どうも嫉妬深い女というのは面倒臭いと思っていたのに今の自分はまさにそれだ。 
面倒な男、と言わない思わないでいてくれるのは相手が一進だからであって、他の奴なら十中八九面倒だと溜め息をこぼすに違いない。 

―そもそも狐太郎がこんな風になるのは一進に関してだけなのだけれど。 
そういう問題でもない。 

「…それは、いけないことですか?」 

「!あ?そりゃあ…まあ、お前だって嫌だろう…?」 

恋人の心が狭くて誰が喜ぼうか。 

「私はうれしいです。いつも余裕があって格好よく振る舞われる狐太郎殿が私の前でだけそうでないというなら、それはうれしいことではございませんか?」 

「!…」 

嗚呼、やっぱり一進の方がよっぽど大人じゃあないか。 
狐太郎が格好いいなんて言うのも、余裕があるなんて言うのも一進だけだ。それは狐太郎が意識して一進の前では格好よくあろうとしているからで、万人からそう思われようだなんて端から思ってはいない。 
一進にさえ情けない所を見られなければそれでいいと思っていた。 

「……そうか」 

「はい、だから、嫉妬してください。私ばかり嫉妬するのは…いやです」 

「………あ?…何だって?」 

嫉妬?一進が? 

―――いつ?どこで? 

今まで一度だってそんなことはない。 

問い詰めるように顔を覗き込めばぷいっと顔を逸らされてしまった。 

「…」 

「おい、チビ。お前いつそんな…」 

「狐太郎殿は御自分のことをわかっていないのです。町に出れば私はいつも…、狐太郎殿を見つめる女子に、嫉妬ばかり…しておりますのに…」 

眦を下げてどこか悲しそうにも見える表情の一進。しかし狐太郎はそれとはまったく対照的に無意識に顔が緩んでしまうのを堪えきれなかった。 
それを見て馬鹿にされているとでも思ったのか一進は狐太郎の腕の中から逃げ出そうとがむしゃらに腕を振り回す。

「っ離してください!もう良いです、馬鹿にし…っ」 

「してねえって。お前も言ったじゃねえか、…うれしいんだよ。」 

「!…うそ、です」 

「はあ?」 

「鬱陶しいって思ってるっ、私みたいなちんちくりんに狐太郎殿はつりあわな…っ」 

「終いにゃ怒るぞ。俺を信じらんねえってのか」 

だいたいちんちくりんってのは何だ。 
チビだバカだあんぽんたんだ散々言ってはいるがちんちくりんなんて言った覚えはない。 

そんなことより、 

「だいたいな、つりあわねえのは俺だろ。」 

狐太郎はただの町人で、火消で、口も悪けりゃ手も早い。対して一進は今こそ町人の形をしているが正真正銘の武家の子で、それなのに性根は真っ直ぐで、心優しい――…。 

「そんなことはありませぬ!…つりあわないなんて、言わないで下さい…」 

「…わかったろ?俺だって同じだ、お前が俺につりあわないなんて言われて悲しかったんだよ」 

「!すみませぬ…もう、言いません」 

こういう所が、愛しくて仕方ないのだ。狐太郎の言うことにいちいち一喜一憂して、素直に反省できるこの正直さが眩しくて愛しい。そしてそんな子供が自分のものなのだと思うとこれでいいのかと思いつつも悦びは隠せなくて、手放すことなんて一生できないのではないかとすら思う。 
しゅんとしょげてしまった一進をまた腕の中に囲い込めばうっすらと色付く頬に、はにかんだ表情に、柄にもなく胸の奥が音を立てる。 

「狐太郎殿…、すきです、狐太郎殿が好…っ、」 

自分の腕の中で小さくそんな告白を呟く一進に噛み付くような口づけをする。
一瞬驚いた表情を見せたけれどすぐに頬を染めながら瞼を下ろし必死に首に腕を回してくれた一進がいじらしくて、つい口づけは深くなる。 

「っぅ、ん…ふぁ」 

「っは…、っ」 

自分に縋り付く一進が苦しそうに見えて唇を離すと、熱に浮かされたような表情の一進は狐太郎の口の端を伝う唾液をペロリと舐めた。 
一瞬で顔が熱くなる。 

「!…っ、の…バカ…!」 

「ぇ、あ…んっ…!」 

煽るんじゃねえ、と吐き捨てるように呟きながら再び唇を交わすと、すぐに歯止めはきかなくなった。無防備に開いた唇から舌を差し込み、縮こまった舌をつつけば恐る恐るといったように差し出されたそれを自分のものと強引に絡める。
歯列をなぞるように口内を味わって時折思い出したように上あごをざり、と舐めると、首に掛かった一進の腕が快感に震えるのを横目で見ては抱きしめる腕に自然と力が篭る。 
不慣れな一進はただされるがまま、酸素を求めて喘ぐ度に遠慮もなにもなく口腔を掻き回した。 

「っふ…ぅ、んんっ…」 

「は…っ、」 

飲み込みきれずに零れた唾液を、頬に添えた手で拭う。 
暫く好き勝手に一進の唇を貪った後、ゆっくりと口を離すと長く唾液を交えていた名残の銀糸が間を繋いだ。 
とろんとした目で狐太郎を見上げる一進に身体が熱くなったのもつかの間、首に掛かったままだった一進の腕がするりと解け、畳の上にへたり込んでしまった。 

「!っと…、大丈夫か?」 

「はっ…は…っ、こたろ…どの…っ」 

「!」 

着物の前を掻き抱くように握りしめ、まるで何かを隠すように背を丸める姿にすぐ理由は察せられた。 
反応してしまったものを、正しく隠しているのだろう。 
隠す必要などないのに。 
一進には狐太郎がどんな風になっているか見えていないのだろうか。 

「隠すなって、当たり前だろ?男なんだから」 

「っでも、…こんな」 

恥ずかしいというならそれこそ狐太郎の方が恥ずかしい。一進のようなまだ何も知らない子供なら与えられた快感に反応するのは当然だ。しかし狐太郎ほどの歳になるとそういうわけでもない、少なからず経験があるというのに接吻くらいで勃つなんて一般に考えて恥以外の何物でもない。 

「…俺だって同じだよ、だから隠すな」 

「!」 

額に口づけながら、固く握りこんだ一進の指を一本一本解いていく。 
狐太郎の言葉を受けて、視線を下肢に向けた一進が状態を把握したらしくかあっと耳朶までを朱に染め、おずおずと狐太郎の顔を見上げると唇を震わせた。 

「ほら。みっともねえだろう、いい大人のくせして…」 

お前と接吻しただけでこれだ、と困ったように笑えば、狐太郎の着物の裾を小さな手がきゅっと掴む。 

「狐太郎、殿…っ」 

「っ…あーっ、もう…どうすんだ…」 

「?狐太郎殿…?」 

「…組じゃできねえだろ」 

いつ誰が入ってくるかもわからないこの場所でまさか本番に突入するわけにもいかない。 
狐太郎の言うところを理解したのか裾を掴んでいた手がぱっと離れる。 

「あー…、…なあ」 

「?はい」 

「出る、か…」 

「!………っ、……っ、ぅ…」 

赤い顔のまま何度かぱくぱくと口を開閉させた後、俯きがちに小さく落とされたはい、という返事を聞いて即刻、一進を抱いて組を出た。 

余裕なんて一寸もない、外であることも構わず視線が交わっては慰めみたいな接吻を繰り返しながら宿屋を探して走った。