ao-ex | ナノ
 
魔性の君
 







「……うーー…」 

「…さっきからどうしたの、兄さん」 

這うような低い呻き声を上げると、明日の授業の準備に勤しんでいた雪男が無視するのも我慢の限界だったのか呆れ混じりに振り返った。この母親じみた弟に相談するのは憚られたけれど、実際他に相談できる相手もいないと口を開く。

「どうしよう…」 

「だから何が?」 

「マジで殴っちまった…」 

「!は?誰を?」 

「…しま」 

「?しま…って志摩くん?またどうして?」 

クッションを抱き込みながら恐る恐る答えると、危惧した怒号こそ聞こえてこなかったものの心底呆れた色を隠そうともしない雪男の声が頭上から降ってきた。 

「あいつが悪ぃんだよ、やめろっつってんのに…」 

「?」 

「オレの尻尾触ってくっから…」 

悪魔の弱点というけれど、実のところ単に燐が尻尾を触られることに弱いだけではないだろうかと度々思う。 

それにしても殴ったのはやりすぎだったかとさすがの燐でも反省している。しかも加減を間違えて冗談では済まされない力で殴り倒してしまった。とても友人との戯れと言い訳できるレベルではなく、気まずさから逃げ出す間際に見た志摩の頬は赤く腫れていた。 

「…尻尾、ね…」 

「?」 

燐よりも難しい顔をして口を噤んだ雪男は何事かを考え込んだ後すっくと立ち上がって、眼鏡を押し上げる。 

「そんなに気になるなら謝ればいいじゃない。」 

ね?ととてつもなく胡散臭い笑みを浮かべて燐の手を引く雪男は何か怒っているみたいだ。やっぱり教師でもある雪男にしてみれば燐もただの問題児というだけなのだろうか。 
手を出した方が悪い、なんて聞き飽きているけれど。 

「ほら行くよ兄さん」 

手首を掴む力は存外強く、雪男のわけのわからない怒りに燐は戸惑いながらも志摩の住む寮に向かうのだろう雪男に大人しく従った。 



ピンポーン 

志摩の住まいは聖十字学園学生寮の新館だった。燐と雪男が住む寮とは雲泥の差だ。 

使った形跡のないインターフォンを雪男に促されて押してみると、まるで学生寮のものとは思えない所帯じみた音が室内で鳴るのがドア越しに聞こえた。 
すぐさま足音がこちらに向かってきて、心の準備をする暇もなくドアが開く。 

「はいはー…い…?え?奥村くん?…と、奥村先生まで…お揃いでどうしはったんですか?」 

昨日の今日どころかさっきの今でよくも思い至らないものだと志摩の能天気さには燐でも呆れるばかりだが、謝りにきたのだからそれだけは果たさねば、と不服さを押し止めて謝罪の言葉を考えていた、のに。 

「志摩くーん?どうしたの、お客さん?」 

「!うわっ、いや…っ、あの、ちゃいますよ!?これは別に…!」 

奥から志摩の名前を呼んだのは、確かに女の子の声だった。極めつけに 

「あっ、奥村くん!」 

ひょこっと顔を出した少女は燐の後ろ、傍観を決め込んでいた雪男の姿を見つけて黄色い声を上げた。その声に、次々と二人の少女が顔を出す。 

「!…っ、んだよ…」 

折角謝りにきたっていうのに、志摩はあんな程度のこと歯牙にもかけないということか。謝りになんてくるんじゃなかった。 
気にする必要なんかなかった。 
あの懊悩はなんだったんだと、怒りさえ湧く。 

「…っ邪魔して悪かったな!」 

「ちょっと兄さん、謝りにきたんでしょ?」 

「ふざけんなっ、こんな奴に謝るほどオレは安くねえ!」 

何なんだ、なんでオレはこんなに腹立ててんだ。何に、なにがそんなに気に触ったのか自分でもわからない。 

「ちょっ、…奥村くん?」 

「うるせえ!お前なんか不能で死ね!」 

「はいぃ!?」 

行き場を失った怒りのまま走り出そうとして、しかしそれは叶わなかった。 
志摩ではない。雪男の手が、燐の手首に食い込む。 

「!離せっ」 

「兄さん、ちゃんと言いなよ…」 

「教師面してんじゃ…!」 

「してない。兄さんが泣きそうだから言ってるんだ。」 

いつになく真剣な顔で正面から見つめられて、自覚さえできていなかったことを告げられて、目を逸らした。 
雪男の顔も、志摩の顔も、今見たらきっと雪男の言う通り涙が出てしまうとわかった。 

「んなわけねえだろ」 

「奥村くん…?ほんとに泣いてはるの?」 

言葉と同時に後ろ手にドアを閉めた気配がして、何故か雪男の姿も見えなくなる。引き入れられたのか、気を利かせたのかはわからないけれど。 

「んなわけねえだろっ!」 

カッとなって振り仰いだ志摩の顔はやっぱり赤く腫れていて、それを見た瞬間怒りなんか吹っ飛んでしまった。 

「!ごめん…っ、殴って、ごめん…」 

ぼろっ、と不意に落ちた水滴が何なのか理解するより前に、志摩の洋服の袖口が燐の目元を優しく拭った。 

「そんなこと気にしてはったん?」 

困ったような笑み。 
燐の黒髪を腫れ物のように撫でる男っぽい手。 
いつでも優しげに見える特徴的なたれ目の目尻は仄朱く染まっていて、また少し涙が滲んだ。 

「そんなことってなんだよ…」 

「だって俺が悪いやん」 

「ちが…っう、ことも、ない…けど」 

尻窄みになった台詞を、志摩が小さく笑う。 

「ぱたぱたしてんのが可愛かってん。それ触られると痛いん?やったらほんまごめんな」 

「痛く、は、ねえけど…」 

ぞくぞくする、なんて。 
言えるわけない。 

「ほんならよかった。もうせえへんし、許してくれはる?」 

「っ、殴ったのはオレだろ!許されんのもオレだ!」 

うまくすげ替えられたような気がして、そうはいくかと噛み付けば志摩は本当にそのつもりだったらしい、小さく肩を竦めた。 

「…っ、でもオレは許さねえからな」 

「へ?」 

「女連れ込みやがって…」 

呟き混じりに数センチ上の志摩の顔を睨みつけると目一杯に見開いた瞳と視線が交わって、予想とは違う表情に今度は燐の方が驚く番だった。 
何か変なことをいったろうか。 

「??」 

「………なあ、奥村くん。」 

「?おう」 

「今の、期待してもええってことなんかな?」 

手の平で顔半分を覆ってしまった志摩の表情は見えないけれどピンク色の髪の隙間から覗く耳朶は赤く、眼には疑いにも言葉通りの期待にも思える色が垣間見える。 

「何が?」 

「俺が女の子とおったら嫌なんやろ?許さへんって、そういうことやんな?」 

「…うん?」 

「……奥村くん、俺のこと好きなん?」 

「!はあっ?!なんだよそれ!男だろ!」 

急に何言い出すんだわけわからんこいつ、と志摩の頭を疑ったところではたと気付く。 
確かに、燐の中に嫉妬が広がったのは事実だ。それが嫉妬だとはわかっても、なんで嫉妬しているのか何に嫉妬しているのか誰に嫉妬しているのかもわからなくて思考を放棄しただけで解決したわけじゃない。その答えを突然目の前にはい、と提示されて、惑ってしまった。 

「そんなことわかってますよ。でも俺は奥村くんのこと好きやし…」 

「…は?」 

「…気付いてなかったんですか。よくある好きな子いじめるっちゅう心理やないですか」 

尻尾を触るのが? 
というか一体どこの小学生心理だ。 
しかし内心を占めるのは呆れ半分と、 
もう半分にはごまかしきれない幸福感が膨らんで。 
これが好きってことなら随分と嫌なものだ、あの苛々が恋情だなんて。 

「好き…、志摩を?」 

「いや、まあ…わかりゃしませんよ?ただ、あまりにも……」 

言いにくそうに口を閉ざした志摩をじろりと一瞥する。 

「…なんだよ、言えよ」 

「……俺を意識してはるから」 

ふざけんな!と怒鳴ろうとした口を強引に塞がれて、呆然としている内にそれは離れていった。 

「っ…ちょっと不便やなあ、八重歯」 

切ってもうた、と確かに血の滲んだ口腔を指で示しながらよくも飄々と言ってくれる。だいたい八重歯じゃねえ、という悪態は音にならず、口内に残る微かな血の味が生々しく舌に絡み付くのが果てしない羞恥を煽った。 

「っぁにすんだ…!」 

「あは、顔真っ赤。かわええなあ、奥村くん」 

からかい混じりの言葉を紡ぐ唇がゆったりと弧を描き口の端に付着した血を舐め取る仕種が厭に扇情的で、それだから、近付いてくる唇を避けることも、抵抗することもできなかっただけで。あまつさえ縋るように志摩の服の胸元を握り締めたことにそれ以外の理由なんてない。 

ぜんぶ、ぜんぶ志摩のせいだ。 

「っふ、…ん」 

ちゅ、ちゅと聞くに堪えないリップ音が志摩と燐の間から漏れる。耳を塞ごうにも、案外がっしりとした志摩の身体に抱き込まれていてはそれもままならない。
頭が真っ白にでもなればいいものを、鼻で息はできてしまうしじわじわと背筋を這うそれは我を失うほど強烈なものでもない。理性を保ったまま、志摩の視線を感じながらの深い口づけはどうしようもなく恥ずかしかった。 

「は、ぁ…っ」 

「…っは…、俺のこと、好きやんな?」 

「っすきじゃねえ」 

「…ふうん、奥村くんはただの友達とちゅうするんや。坊ともできんねや。ふうん?」 

「!ずりいぞお前…!」 

「何が?俺は言うたやんか、奥村くんのこと好きやって。せやからちゅうしたんよ?したら奥村くんとろーんとしてはるからああこれはもう和姦かなと…」 

「わか…っ!キスしたくらいで何がだ…っ」 

涼しい顔してやっぱりこいつは正真正銘のドスケベだ、と改めて認識してみたところで志摩には自覚があるのだ。 

「純情やと思てたけど、意外とえっちぃんや…」 

「!志摩にだけは言われたくねえっ!」 

「ごもっとも」 

あっははは、と自他共に認めるオープンスケベは明るく笑う。 

「…もう、女の子ナンパしたり部屋呼んだりせえへん、口説くのも部屋連れ込むんも奥村くんだけやから」 

「口説かれねえし、誰が連れ込まれてやるかっつんだ。」 

「じゃあ奥村くんが口説いてくれるん?俺のこと」 

そんな期待微塵もしていないという口調でよく言う。 
キスの最中に見えた切羽詰まったような顔は結構すきだったのに、と思う分余計に今の余裕が腹立たしい。その苛立ちとももどかしさともつかない感情を持て余して、ふと湧いた悪戯心から余裕の笑みを浮かべた志摩に噛み付かんばかりのキスを仕掛けた。 

「!!?」 

やられてばかりは性に合わない。志摩の食えない笑みを崩すことができればいい。期待していない、という期待を最高の形で裏切ってやればいい。 

「…口説いてやるよ。」 

「!……………っ……う、わ…!も、何なん…!?ほんっま、奥村くんだけはわからん…っ!」 

掴んだ胸倉を解放すると同時にずるずると座り込んだ志摩は首までを髪色にも劣らない鮮やかな色に染め、途方に暮れた様子で 

「……降参」 

とだけ呟いた。 
人肌の感触が残る唇を指でなぞると、心の臓が一度ずくん、と小さく疼く。 

「志摩ってやらかいな。」 

「……………はい!?」 

「ふちびる」 

己の唇をむにむにと摘んだりこねたりしてみたけれど、それと三度重なったはずの志摩の唇は随分と柔らかかったような気がする。すると志摩の表情に、照れにも思える困ったような色が浮かんだ。けれど、その苦笑さえも今はどこか甘さを含んでいて。 

「―――――――……… 

奥村くんの唇は甘かったわ」 


呟いた声音は蜜より甘く、紡がれた言葉は燐の身体を鼓膜からじわりと犯した。





Fin




――――― 
志摩燐がすきすぎる…だのに京都弁がわからない志摩くんがわからない燐がわからない志摩燐がわからない