kuroko | ナノ
 
 

黄瀬は苛立ちを感じるよりも動揺するばかりで、怒りなんて抱いていないのだろう。 
怒ってくれたほうが突き放してしまえるのに、彼は自分の感情すらコントロールできない黒子の願う通りになんてならなくて。 

「…好きなんです。黄瀬くんが…だから、」 

「わかんねえよ!黒子っちの言ってることなんて、わかんない…!!何で好きだなんて言うんだよ、そんなことなら嫌いになったって言われた方がマシだ…!!」 

こんな風に感情をあらわにして、好きなものは好きだと、嫌なものは嫌だと言える、 
泣きながら黒子の肩に額を押し付ける彼をやっぱり好きだと思う。 
そしてその好きな人を、その人のために別れる覚悟までした人を、これだけ傷付ける自分が、悲しませることしかできない自分が、大嫌いだと思った。 

「すいません…でも、嘘でも嫌いだなんて、言えないんです…」 

それがどれだけ残酷なことかわかっていて、好きだと告げた。 
これが、黄瀬を傷付ける最後の言葉だからと言い訳をして。 

黒子にはわからない。 
これ以外の方法が、これ以上の選択が。

「何だよそれ…なら何で別れるなんて、」 

「それしかないから。黄瀬くんから、これ以上何かを奪わないで済む方法が、これ以外わからない…」 

「っ!!」 

まだ黒子の肩に額を押し付けたまま涙も引かない彼の肩を力任せに押し除けた。黒子の力ではふらつかせることしか敵わないけれど、それでもとにかく身体が離れればよかった。 
もう、触れていることすら許されない気がしたから。 

「…何言ってんだ、お前。」 

「!」 

ベンチに座ったまま黙って二人のやり取りを傍観していた青峰が言葉を失った黄瀬の代わりに口を開く。 

「意味わかんねえよ。好きだから別れる?んなもんありえねえだろが」 

「…それは」 

青峰にはわからない。 
しかしそう言う前に青峰は彼自身の言い分を並べ立て、黒子に言葉を紡がせない。 

「今日の試合でテツが黄瀬を嫌いになったっつうなら仕方ねえかもしれねえけどな」 

「っ、…違います!」 

あの試合のどこをどう見たら自分のために闘う彼を嫌いになどなれるだろう。 

「なら別れなくていいだろ。オレも認めるっつってんだから」 

「青峰くんには、感謝してます。でも…それとこれとは関係ないんです」 

青峰が黄瀬を認めると言ったのは素直に嬉しい。 
でも、二人には悪いが青峰が黄瀬を認めようがなかろうが、今の黒子には関係ないのだ。 
黒子の気持ちは変わらない。 
――変わるとしたら、それは、黄瀬の黒子への執着が醒めた時。 
即ち黄瀬が、黒子の為に何かを捨てることをやめた時。 

それは同時に、黄瀬から黒子に別れを告げる時でもあるのだけれど。 

しかし青峰は 

「関係ねえことあるか。あの試合でお前は別れるって決めたんだろ。」 

「けど、」 

「ごちゃごちゃうるせえな。今お前言ったろ?黄瀬が好きだって。なら別れんじゃねえ、んでオレも認めてやる。それでいいだろ。」 

「よくない。好きだから、それじゃ駄目なんです。」 

好きだから。その言葉にいまだ涙をボタボタと落としながら立ち尽くす黄瀬がふと顔を上げ、その視線の先で自分を見つめる黒子が泣きそうに顔を歪めているのを見て、赤く充血した瞳を見開いた。 

何故黒子が泣くの、とでも言うように。

「…僕は、黄瀬くんに何もあげられない…」 

「?」 

「?どういう、意味…」 

黄瀬から目を逸らした黒子に尚も彼は視線を注ぎ続け、ある種狂気のようなものすら感じるそのまっすぐな視線は懇願と執着を孕んで黒子の足をその場に繋ぎ留める。 
想う人に想われて、それなのにその立場から逃げ出そうとする自分は贅沢だと、罰当たりだと非難されるかもしれない。 
黄瀬自身にも非難されてしまうかもしれない。 
そう思って、しかし 
――違う。 
そうすぐに否定した。 
彼は、決して黒子を貶めるようなことは言わないから。 
いっそ罵詈雑言を浴びせてくれたほうが楽なのに、何でも笑って許してくれてしまうから。 

「僕は…黄瀬くんから、何かを奪いたいわけじゃない…」 

「奪うって何?ねえ、黒子っちが俺から何奪ったって言うの?」 

俺はいつも貰ってばっかりだよ、と。そんなことさえ言ってしまえるほど、 


彼は麻痺している。 


「…っ」 

そして、彼をそうさせたのは紛れも無く黒子だ。 

黒子の痛々しいものを見る目に何かを感じ取ったのか、ただの直感であったのか、それとも 

その時、理性の箍が外れただけだったのか。 

床に座り込み放心していた黄瀬は唐突に立ち上がるとドアを背にして立っていた黒子をそこに、ドアが軋むほどの力で押し付けた。 

ダンッ「!?」 
黄瀬の突拍子もない行動に青峰が目を丸くする。 

日々鍛え上げられた男の力強さで力任せに硬い扉に身体を押し付けられて 
合宿で酷使した身体が軋んだ。 

その痛みに顔を歪めても 
瞳に昏い炎をちらつかせた黄瀬はどこか陶然とした表情で頭ひとつ分低い位置にある黒子の顔を見下ろし、 
肩口に顔を埋めてくる。 

「え…?黄瀬く…いっ!?」 

まるで所有の証でも刻むかのように、歯を立てられ噛み付かれた。 
きっとこれは独占欲の顕れだ。柔らかい皮膚に黄瀬の少し尖った犬歯が食い込み、破れるのがわかる。生温かい液体が首筋を伝い、それを弾力のある舌が舐めとる。 
黄瀬から与えられた甘美な痛みに酔っている自分が怖かった。 
黄瀬がこうして、黒子を逃がさないために黒子自身を傷付けて、忘れられない疵を与えて、恐怖や暴力で束縛してくれるならいい。 
彼のものであると、この身に刻んでくれるなら。 

「っおい黄瀬!!何してんだ…っ」 

黒子がゆるやかに首を振ると、青峰は黄瀬を止めようと伸ばした腕を寸前で止めた。しかしその表情は苦いもので、いいのかと目で問い掛けているようだ。 

「…痛い?くろこっち」 

「痛くない…痛くないです、黄瀬くんに比べたらこんなの…」 

傷口から滲むのは、痛みではなく熱。それは微かに快楽すら含んだ、淫靡な熱だ。 
まだ止まらない涙が傷口に染み、じわじわとその熱さに身体を侵されていく感覚。 
自らの血と彼の涙と唾液が混ざり合って肌の上を滑っていくのが不快だった。 

「…ねえ、抱いてもいい?黒子っちの中に、俺の突っ込んでめちゃくちゃにしてもいい?黒子っちの中に出して、奥まで注ぎ込んで…黒子っちは俺だけのものだってわからせて。」 

「黄瀬くん…それは、」 

駄目、そう言いかけて、口を塞がれた。 
青峰が居ることなどお構いなしに口づけは深くなり、熱い舌に口腔を蹂躙される。目の前で色素の薄い髪が揺れ、さらさらと頬を擽った。 
その優しい感触とは裏腹に口腔を犯す黄瀬の動きは凶暴で容赦がない。 

そのくせやっぱり、黒子を見詰める飴色の瞳は何よりも黒子を想う気持ちで溢れて強い光を放ち、 
黒子を射る。 

黄瀬がいくら黒子に甘くても、逆らえない時というのは、ある。 

今、黄瀬の瞳には黒子しか映っていない。 

ただひたすらに黒子を逃がすまいとする獣じみた行動は一種病的ですらある、執着からくるものだ。 
今、再び「別れる」と口にしたら本当に青峰の居るこの場で犯されるかもしれない。 

「っ、黄瀬!やめろ!!!」 

抵抗しようにも黄瀬に本気で押し付けられていてできなかった黒子の状況を察したのか、青峰が彼の肩を引くと、黄瀬はいとも簡単に黒子から手を離した。 

しかし瞬間黄瀬がその端整な顔を微かに歪める。 

「っ…」 

「おい本気かよ、お前!?何もそこまで…」 

「青峰っち…だって、黒子っちが、別れるって…だから別れられないようにするんスよ…?」 

「!?お前…」 

「俺は黒子っちがいなきゃ生きていけない。だから黒子っちも、俺がいなきゃ生きていけないようにするんス。」 

厭に澄んだ目で青峰を見やって、その理屈に呆然とする青峰の手からするりと逃れるとすぐに黒子に向き直ってまだ血が滲み熱を孕んだ傷痕を指先で触れるか触れないかぎりぎりの距離を保って辿る。 
その瞳は労るような色を湛え、自ら付けた傷痕を悔いているのか、指先の温度すら感じられない接触はもどかしかった。 

「ごめんね、でも…これくらいしないと痕残らないと思うから。」 

違う、後悔ではない、 
反省だ。 

申し訳ないとは思っても、しなきゃよかった、とはきっと彼は思っていない。 
その証拠に、 

「もう少し、かな…」 

そう呟いて、血を流す傷口に再び噛み付いた。 

「っ…ぁ、ぐ」 

さすがに、まだ治癒も始まっていない傷口を抉られた痛みは鋭く、歯を食いしばっても耐え難い苦痛だった。 

耳元でぐちゅ、と嫌な音がする。 
一瞬後に襲った既視感。 

そして、首筋に押し付けられた唇の熱さと、目の前の身体から仄かに感じる体温、男の匂いですぐさまそれに思い至った。 

ああ――セックスの音だ 

生々しい感覚を覚えて背筋に震えが走り、首筋に舌を這わせている男を求めている自分の浅ましさに頭痛がする。 

「黄瀬くん…も、やめ…っ」 

「駄目だよ、離れられないようにするんだから。黒子っちが俺なしじゃ生きていけないようにするんだよ。」 

この身体に俺を覚え込ませる。 
そんなことをしなくても、もう十分だ。この身体は黄瀬なしでは生きていけない。そんなことは承知の上で、それでも離れる覚悟をした。 

「無理ですよ…黄瀬くん、正気になってください…」 

「本気で正気っスよ。…だから、ねえ別れるなんて言わないでよ」 

微かに震えた語尾。 
晒された肌に感じた水滴。 
最後の言葉は、きっと黄瀬の心からの叫びだ。 
涙と共に零れ落ちた剥き出しの本心。 
黒子には、痛いほどの。 

「きせ、くん…黄瀬くん…黄瀬くん…っ」 

どうすればいいのかわからなかった。 
病的なほどの愛を捧げてくる彼を前に、強固だったはずの意志が揺らぎ、ただ名前を呼ぶことしかできなかった。 
目の前のこの身体に、腕を回してもいいのか。 


「テツ、もう諦めろよ。」 


僅かな逡巡の間、大きな溜息と共に吐き出された青峰の言葉。 
それは今黒子が最も欲しかった言葉であり、最も聞きたくなかった言葉でもあった。 

黒子の傾いだ意志を、完全に打ち崩す言葉。 

――ああ、もう駄目だ。 

苦笑した青峰に、諦めろ、と言われて、黒子の中で何かが音を立てて崩れた。 
それはきっと、黒子のためにも黄瀬のためにも、 
崩されてはいけなかった、何としても貫き通さなければならなかったもの。 
正体はわからないけれど、そう確信できるだけの『理性』は残っていた。 

お互いにとっての『最善の選択』は、とんでもない力業で無理矢理に奪われた。 

二つしかなかった選択肢。 

黒子が選んだものは、もう既に選び取っていたのに黄瀬はそれを黒子の手から奪い取って「そっちを選ぶのは許さない」と捨ててしまった。 


「テツは頑固だけど、面倒臭がりだからな。 
――もうめんどくさくなってんじゃねえの?」 

だから流されちまえよ、 
諦めちまえ。 

無責任にもそんなことを言って黒子を惑わせる青峰は、もう今の状態の黄瀬に慣れたらしい。 

というより、青峰自身に害があるわけではないからか。 

「それにこんな、お前に異常な執着してる奴が 
移り気なんかするわけねえだろ。」 

それはもういい、と、一概には言えなかった。 
彼に異常な執着を向けられて、安堵している部分がある。 

けれど、どうすればいいのだ。 

別れるという意志が揺らいだのは事実。 
そしてもうその選択肢は残っていない。 

しかし、黄瀬にこれ以上何かを捨てさせることはしたくないのもまた本心で。自分の価値を見出だせないのも事実で――。 

しかし、そんな思案は黄瀬のたった一言で霧散した。 


「俺が黒子っちのために何かを捨てるのが嫌なら、 
黒子っちも俺のためにその分捨ててよ。」 

勝手だ。 

と、笑った。 

黄瀬が失ったものを黒子にも失えと言う、その身勝手さに。 

自分達が別れれば、二人共何も失わなくて済むのに。 
そう考えていた自分は、 
もしかしたら黄瀬を失うことを考えていなかったのかもしれない。 

考えていたつもりだったけれど、実際お互いを失って耐えられないのはきっと黒子も同じだ。 
実際、黄瀬が了承するはずがないと、どこかで傲慢にも思っていたのかもしれない。 
黄瀬を試していたのかもしれない。 

結局、元を正せばやっぱり黒子の不安が起因していたのかと――… 


こんな簡単なことだった。 
黄瀬が黒子のために何かを捨てるのなら、黒子も黄瀬のために何かを捨てる。
彼の言うことは全く以って単純だった。 
それ故に、黒子には気付けなかったこと。 
深く考えすぎてしまうのは黒子の悪い癖だ。 


きっとこれは最善の選択ではないだろうと、理解した上で選んでしまう自分達は相当、お互いに依存しあって、執着しあっている。 
病んでいるのは黄瀬ばかりではない。 

――黄瀬が、今日失ったものは大きい。
なら、自分もそれ相応のモノを失うべきだ。 

そうすれば、何を捨てても何を失っても黄瀬だけは失わないのだから。 

黄瀬の一言でそんなことを考え、やけに空いた気分で自分に覆いかぶさる彼の背中に腕を回した。 

「…そうですね…もう、めんどくさいです…。」 

「なら、諦めて?一生俺のものでいてよ。」 

黒子が失わなければいけないもの。 
それは――、『光』だ。 
それだけのものを犠牲にして黄瀬は黒子を選んだ。 

なら黒子も、それ相応のものを犠牲にして、目の前の一度は失うはずだった愛しい人を選ぼう。 

光を失えば影はなくなる。それがわからないはずもない。 
けれど、黄瀬自身もまた 
まばゆい光を放つ『キセキ』だ。 
黄瀬を失わない限り黒子は存在し続けられる。 

「…黄瀬くんも、一生僕のものでいてくれますか…」 

結構な覚悟が必要だったその問いに彼は、 

「うん」 

いとも簡単に、見蕩れる程優しい、愛しくて仕方ないという笑顔で頷いた。 

その答えに、心底安堵した。 

「…黄瀬くんが、好きです。だから…」

「一緒にいようね。」 

つい数分前と同じような言葉の先を黄瀬が継いだ。 
それを否定する言葉は出なかった。 
ドアの前で抱き合う二人を呆れたような目で見ている青峰は出るに出られずベンチに座ったまま苦笑している。彼には謝罪と感謝と、少しだけの恨めしさも感じたけれど。 

「もう、別れるなんて言わないでね。」

「…はい」 

彼が黒子に執着を感じる限り。 
彼が黒子のために何かを切り捨てていく限り。 

お互いにお互いしか失うものがなくなった時まで、黄瀬の元に居てもいいのだ、と。 

彼が聞いたらまた混乱を招くだろう言葉は心の裡に秘めたままそう思って、涙を堪えて笑った。