1時間前の黙約 明日の待ち合わせは10時。 その日は黄瀬が一日オフだと言うから好きに決めればいいと言ったのに、互いに何時でもいいと言い合った結果結局黒子が提示した時間。 ただ少しだけ、黄瀬がそれを拒んでくれるのを期待していた。 互いに何時でもいいと言っていたのだから提示された時間に異論を唱えるはずもないのだけれど。 そう思うのにどうして黒子は黄瀬に拒否を期待したのか自分自身いまいちわからないでいた。 * ベッドにもたれ掛かりながら黒子の部屋には数少ない雑誌をパラパラと捲る。開き癖のついたページに行き着くと、黒子が手を止めるまでもなく前髪を忙しく舞い上げていた風圧はやんだ。 目に入ってくるのは見慣れた男の見慣れない姿。 普段は無造作に輝くやわらかな金髪、しかしこの薄い紙の上に存在している彼の金髪はワックスで無造作を作り出そうとしている。それにひどく違和感を感じる自分はおかしいのだろうか。 普段の彼は他の生徒のように髪を別段弄っているわけでもなく制服も概ね規定通りの着こなしだ。 自分を無理に格好よく見せようとする工夫は彼には必要ないのかもしれない。 金髪とピアスだけは教師たちからも再三の注意を受けているようだが改善の見通しはないと本人が言っていた。 そう、だから、雑誌の中の「黄瀬涼太」はどうにも無理に格好よく見せようとしているみたいでなにか違和感がある。 モデルという職業は格好よく見せなければならないとはわかるのだけれど、率直に言ってしまえば彼にその、「加工」の必要はないと思うのだ。 不特定多数の読者に流し目を向ける恋人の姿を見て今更嫉妬なんかしないけれど、どれだけ眺めたところで違和感は消えない。ファッション雑誌の中の黄瀬はいつもそうだ。 バスケ雑誌の中の黄瀬に違和感なんて感じない。むしろちょっと写りが良すぎないかと思うくらいで。 小さな嘆息が薄い紙を煽ったのをきっかけにして、雑誌を閉じる。 すると同じタイミングでベッドヘッドに置いていた携帯が震えた。サブディスプレイに表示された「黄瀬涼太」の文字を見て、まるで覗いていたようだと小さく笑う。 通話ボタンを押して、すぐに聞こえてきたのは当たり前といえば当たり前なのだがついさっきまで二次元に存在していた男の声だった。 『もしもし、黒子っち?』 「はい、確認しなくても僕の携帯には僕しか出ませんから」 『そうなんスけど…それで知らない男の声とか聞こえてきたりした日には俺泣くから』 「そんなのはこっちの台詞です」 男、というのがまた複雑。 黄瀬との関係を考えたら仕方ないことなのだけれど、黒子が黄瀬に関して男の心配をしたことはかつてない。 『心配いらないっスよ、俺生涯黒子っち一筋って決めてるから!』 「それはどうも、で、何か用ですか?」 『冷たい!けどそんなとこも好き!』 「黄瀬くんがドMなのはわかりました、用事を言ってください」 ひどいなあ、と呟く笑い混じりの声が場違いに甘ったるい。 黒子の、黄瀬を謗る言葉はいつも彼の耳には優しく溶ける。 『んー…ごめん、実は用事とかは特にないんスけど、声聞きたくて…』 わずかにトーンの下がった、背筋が蕩けるような声が耳をくすぐった。 けれどその言葉にドキドキしているなんて死んでも気付かれたくないという意地でつい突っぱねてしまう。 「…明日、会うじゃないですか」 『そうなんスけど、なんていうか、明日まで待てなくて…。ごめんね、黒子っちそういうの、鬱陶しいっスよね』 「…明日、10時ですよ」 『え?うん、10時…』 「遅れないでくださいね、絶対」 『遅れないよ、黒子っちとの待ち合わせに遅れたことないでしょ』 「…そうですね、じゃあ、また明日」 『うん、10時に…。』 しつこいくらいに10時10時と確認をし合って、通話が途切れるのを待つ。 しかし一向にツーツー、という電子音は聞こえてこない。 「…あれ、切らないんですか」 『えっ、く、黒子っち切ってよ…!』 「黄瀬くんから掛けてきたんだから君が切るべきです」 『なにそれっ!だって…、切りたくない…』 「じゃあこちらから切ります」 『わー待って待って!!』 電話の向こうからガシャンッという耳障りな音が聞こえた。それから痛っ、と小さな悲鳴。 「何してるんですか、どっちなんです」 『うぇっ、あっ、ちょっ、今機材蹴っ飛ばしちゃって…!』 「…今どこにいるんですか?」 『え?スタジオ』 「………また明日、10時にっ!」 『えっ!?ちょっ、くろ…っ』 ブツッ 慌てて引き留める黄瀬の声も無視して躊躇なく電源ボタンを押した。 今頃彼はツーツー、と無機質に響く電子音を聞いて呆然としていることだろう。 ―なんで仕事中に掛けてくるんだ。 仕事を疎かにするなと言いたいのではない。彼はああ見えてしっかりとプライドを持ってモデルの仕事をしているから、仕事を疎かにすることはないと知っている。 ―――それが問題なのだ。 仕事をきっちりとこなして、こなした上にこうして黒子のことも気に掛けてくれるから。 明日のオフたった一日を作るために彼は仕事を詰めに詰めたのだろうと想像するのは難くない。厳しい練習の後のハードスケジュールがどれだけの負担か、それがわからないほど馬鹿でもなければ無情でもなかった。 数秒の後、携帯を閉じる。 携帯が再び鳴ることはなかったところを見ると、黒子が通話を切った理由が彼にもわかったのだろう。 携帯を再びベッドヘッドに置いて、目覚まし時計を手に取る。 アラームを8時に設定して、ベッドに潜り込んだ。もう12時を過ぎている。 黄瀬が家に帰って眠りにつくことができるのは何時になるだろうと心配もしながら明日を思って瞼を閉じた。 * 8時に起きて、待ち合わせのファストフード店まで20分の余裕を持って家を出るとしても女の子じゃあるまいし外出の用意に1時間もかかるはずはない。 用意を終えて、家を出たのは8時40分だった。 ゆっくり歩いて着くのは9時頃かな、と思いを巡らせて待ち合わせ場所を目指す。 いなくていいのだ。 待ち合わせは元から10時なのだからいなくて当たり前。 彼はいつも黒子より先に来ているから、10時ぴったりに来ることはないにしても30分以上待つことは覚悟の上だ。 というよりは、彼を待つために1時間も余裕を持って家を出たと言った方が正しい。 ―――そのはずだったのに。 「!…え、黒子っち?」 「!…なんで?待ち合わせ、10時って…」 庶民的なファストフード店にはおおよそ不似合いな男前。 昨日から散々その顔を眺めた覚えのある目の前の男は、確かに黄瀬涼太その人だ。 蜂蜜色の瞳が驚きに見開かれ、ポカンとしている顔さえその造作の良さから間抜けには到底見えない。 「黒子っちこそ、なんで?まだ9時っスよ?」 「それは、だって…っ」 早く会いたくて。 黄瀬が来るのを待っていたくて。 彼なら、それを喜んでくれると思ったから。 言えずに押し黙ると、不意に抱きしめられた。 「!…っ、ちょ…外で…!」 「うれしい」 「!あの…」 「すっげえうれしい、うれしくて死にそう」 「なに、言ってるんですか…」 震える声でそう言い重ねる黄瀬になにも言えなくなる。 黒子がこんなに早く来た理由なんて、黄瀬にはお見通しなんだろう。 「実はね、黒子っちに10時でいいですか、って言われたときそんな遅いのかって、思ったんスよ。」 「!…っそれならそうと、言ってくれれば」 「カッコ悪いじゃないスか、すっごいがっついてるみたいで」 困ったように柳眉を寄せて苦笑する黄瀬の頬はわずかに赤かった。 「…そんなの、今更、」 「手厳しいなあ相変わらず…たまには余裕見せたかったんスよ」 「そんなのいらない、余裕なんかなくていいです。そんなの、雑誌の中だけにして…」 見慣れない、違和感の正体。 それはきっと髪とか化粧とか服装ばかりの話ではない。 大人びた表情の彼はどこか遠かった。 笑顔の質さえ違う、余裕たっぷりに微笑む黄瀬の姿は黒子の知らない顔をしていた。 破り捨てたくなるほどに。 違和感の正体はきっとそれだ。 「雑誌?」 「…雑誌の中の黄瀬くんは嫌いだから」 「ヒドッ!それは酷いっスよ、ちゃんと仕事してるのにー…」 「だから、です。あんなの黄瀬くんじゃない」 「!…なんだ、そういうことっスか。よかった」 そう言いながら安堵したように笑う彼がわからなかった。立派に仕事している姿を嫌いと言われて、彼は平気なのか。 「だってそりゃ違うよ、黒子っちの前の俺なんてカッコ悪いばっかじゃないスか」 「…」 「うーん恋人としてそこは否定してほしかった…」 「すみません」 「黒子っちはほんと正直だよね、だいすき」 「!急になにを…っ」 「あはは、ごめんね、でも本気」 そんなことわかってる。 わかってるから困るのに。 まるで気にした風もなく彼は続ける。 「でもだからこそ、黒子っちは10時でいいんだなって思うと、」 ちょっと寂しかった そう言って言葉通りに寂しく笑う。 急に話を戻されて驚いた。 ――違う。 僕は黄瀬くんがもっと早く会おう、って言ってくれるのを待ってた。 でも黄瀬くんはただわかった、と言うだけで僕は勝手にも少し落胆した。 期待ばかりして。 「ごめんなさい、違うんです…僕は、僕も、黄瀬くんともっと、早く…会いたかった…」 「!…」 「黄瀬くんがそう言ってくれないかって…そればっかり…」 「…じゃあ、お互い様っスね。…それに結局さ、1時間も早く会えたじゃないスか」 ね?と微笑みながら示す彼の腕時計はたった今9時を指したところだった。 待ち合わせは10時。 早く早くと気が急いて相手が来ないのも承知で待ち合わせの1時間も前に二人揃って来てしまうなんて馬鹿みたいだと思った。 なんてうれしいことだろうかと。 「約束、まったく意味なかったっスね」 「そうですね、昨日あれだけ10時10時って言い聞かせてたのに…」 「あ、それ、黒子っちがあんまり言うもんだから釘刺されてんのかなって」 「…言わないと、早く来てしまいそうで」 結局その暗示さえも意味を成さなかったのだけれど。 「あは、意味なかったスねそれも」 「ええ、でもいいです。…早く来てよかった」 そう微笑むと、彼はなんだかよくわからないかおをした。 くすぐったそうな、でも少し泣きそうな。 「ダメだ、死にそう…」 「は?」 「うれしくてなんかもう…、…たまんない…」 「そうですか」 「うん」 だから助けて、と。 あまりにも苦しげな声音で囁かれて、胸の奥がきゅうっと引き絞られるように痛んだ。 痛みとは違うのかもしれないけれど、感覚にするなら痛覚に一番近いような。 「いやです」 「黒子っちってば…容赦ないんだから…」 「僕だって堪らない」 「じゃあお互い様っスね」 すると突然、黄瀬が被っていた帽子を目深にかぶせられた。 前が見えなくなった瞬間にふっと唇を掠めていった柔らかな感触。 身体の隅々まで手入れの行き届いた彼の唇は黒子とは違っていつも乾燥とは無縁だ。 彼が何をしたのか気付いて呆然としている間に、視界を覆っていた帽子はもう黄瀬の頭に乗っていた。 「……」 「奪っちゃった」 わざとらしく舌を出す彼を怒る気になれなかったのに深い理由はない。 そう言い聞かせながら頬を熱くすると、黄瀬はまたひどくうれしそうに笑った。 (9時に会おう) Fin ――――――― 待ち合わせ時間まで待てなくて1時間前にそろっちゃうとかわいいなって(黄瀬はデフォルト) |