▽ 9-5
side R
なまえが倒れたあの日から、風見には彼女の様子を見にいくときはよっぽどの事がない限りなまえに気取られないようにしてほしいと頼んだ。
風見の存在を通して俺を思い出して欲しくなかった。そうでもしなければ、きっと彼女は前に進めないから。
それでも週に何度かは風見からなまえについての報告を受けていた。こんなストーカー紛いの我儘に、付き合ってくれる部下の優しさに頭が上がらない思いがした。
この日もいつも通り、書類の山と睨み合っていると机の上に置いていた携帯が震えた。そこに表示されていたのは風見の名前。
「何かあったのか?」
『それが実は・・・・・・』
言いにくそうに口篭る彼、良くない報告でもあるのだろうか。
キーボードを叩いていた手を止め、ふぅと椅子の背もたれにもたれた。
『今駅前なんですが、みょうじさんが沖矢昴と一緒にいて・・・』
「っ、何だと?」
『っ!知り合いだった様子はないので、偶然だと思うのですが・・・っ』
声を荒らげた俺に風見が慌てて付け足す。
赤信号の横断歩道に突っ込もうとしていた彼女を沖矢昴が助け、そのまま二人で食事に向かった。
文字にすればたったそれだけの事。
風見はその状況をどうすべきか考えあぐねた結果、俺に電話をかけてきたんだろう。
たしかに彼女には前に進んで欲しいとは願った。けれどあの男が相手だと思うと、無意識に携帯を握る手に力が入る。この前の一件があったとはいえ、あの男は不確定な要素が多すぎる。
別に何があったわけでもない。
ただ助けてくれた礼で食事に行っただけだろう。
頭ではそう思うのに、腹の底から込み上げる黒いドロドロとした何かはおさまってはくれない。
『降谷さん?』
電話の向こうで俺の名前を呼ぶ風見の声にはっとする。
風見だって暇じゃない。このままなまえとあの男を見張らせる訳にもいかない。
「店の名前だけ教えてくれ。お前は自分の仕事に戻っていい。いつもすまないな」
『っ、いえ!店は駅前にある・・・』
風見から聞いた店の名前を机の上に置いてあったメモに控えると、電話を切り書類の山に向き合った。
できることなら今すぐにそこに行きたかった。
けれどやらなければいけないことを投げ出して行けるわけもない。もどかしい気持ちを抱えながら、ギリっと奥歯を噛み締める。
キーボードを叩く音だけが辺りに響いた。
*
ようやく片付け終えた書類の山。
俺は駅前のパーキングに車を停めると、そのまま走って風見に聞いた店へと向かった。
っ、何処にいるんだ?!
辺りを見回すと、タクシー乗り場の近くですらりと背の高いあの男の後ろ姿を見つけた。
そしてそんな奴の前には俯くなまえの姿。
泣いてる・・・のか?
遠目に見えるなまえの姿。それが泣いているように見えて、彼らに近づく。
沖矢昴が左手をなまえの方に伸ばし、その頬に触れた。
「・・・っ・・・!!」
触るな。
なまえに触れる奴の手を今すぐ掴みたかった。
けれどそこで冷静なもう一人の自分が耳元で囁く。
これはお前が望んだ結果だろう、と。
相手が沖矢昴だから。
そんなのは言い訳でしかなかった。
俺以外の前で涙を流すなまえの姿なんて見たくない。他の男なんて頼らないで欲しい。俺だけを見ていて欲しい・・・・・・。
一度は捨てたはずの願いが性懲りもなく込み上げてくる。
そんなことを考えていると、沖矢昴に肩を抱かれたなまえがそのまま奴に腕を引かれタクシーに乗り込もうとする。
「・・・っ、はぁ、何をしているんですか」
「・・・・・・っ・・・・・・、!!」
気が付くと俺は、なまえの腕を掴んでいた。
久しぶりに見た彼女の姿。
あの日よりやつれた彼女の大きな瞳からボロボロと溢れる涙の粒。
その姿に頭にカッと血が上る。
「おや、あなたはたしかこの前の・・・・・」
「彼女に何をしたんですか」
すっとぼけた様子の目の前の男に腹が立って仕方がなかった。なまえを泣かせることだけは許せない。
「・・・・・・っ、違うの。私が酔っただけで沖矢さんは助けてくれて・・・っ・・・」
「なまえは黙ってろ」
「っ!」
“沖矢さん”
奴のことをそう呼びながら庇うなまえにも苛立ちが隠せない。
頭と感情が上手くリンクしない。ここで彼女の前に出たところで今の俺は何も言える立場じゃない。
けれどこのままタクシーに乗り込もうとする二人を黙って見ていることもできなかった。
「お連れの方が来たなら安心ですね。私はこれで失礼します」
人当たりのいい笑顔を浮かべた沖矢昴は、そう言い残すとタクシーに乗り込む。閉まったドア、走り出すタクシー。
残されたのは俺となまえの二人。
「・・・・・・何で来たの・・・?」
両目いっぱいに涙を溜めたなまえと視線が交わる。
「零が前に進めって言ったんでしょ?だったら私の事なんて放っておけばいいじゃん!」
「っ、あの男だけは駄目だ!あいつが関わるなら放ってはおけない」
「意味わかんない・・・。私がどこで誰と何をしてても零には関係ないでしょ!」
酒が入っているせいもあるんだろう。感情的に叫ぶなまえに、俺も口調が荒くなる。
関係ない。
たしかにそうかもしれない。他人になることを望んだのは俺だ。
「・・・・・・っ・・・中途半端に優しくしないで・・・っ」
縋るように俺の腕を掴みながら、嗚咽を漏らすその姿に胸の奥が締め付けられた。
なぁ、景。
お前ならこうして泣くなまえの涙を止めることができたのか?
俺が望んだのはなまえが笑っていられる未来、それだけだったんだ。
だけどどうだろう。
目の前の彼女は笑顔とは程遠かった。
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