一つの出来事
どこからともなく、声が聞こえる。彼女は真っ暗な空間をキョロキョロと見渡すが気配はないし、どこかに姿があるわけでもない。一歩踏み出すと、足元はユラユラと波を立てており、更に自分が何処にいるのかわからなくなる。
でも、この光景は、見覚えがある。
彼が、消えていった、あの暗闇の……
「ぁっ……!」
何かを考えようとすると、唐突に頭痛が走った。目を瞑り思わず頭を押さえた。最初はぼんやりとした痛みだけだったが、それは段々痛みを増していく。そのうち、膝をつきうずくまるほどの激痛が彼女に襲い掛かっていた。
「い、や……!だ、れ……か、!」
いつの間にか、声は消えていて。それでも、助けを求めずにはいられなかった。
「ッ……だ、……ぅぁ……!」
(……、……!)
「あた、まの……中、に……!だ、れ……!?」
その、音は聞こえてくるものではなかった。頭の中に直接響いて……まるで、誰かが語りかけてくるみたいで。彼女は薄っすらと目を開く。
目の前には、黒い靄でできた何かの生物が、広がっており、形成されていない、瞳のようななにかを彼女に向けていた。
人間なのか、はたまた獣なのか……理解し難いモノが、そこにはいた。
*
ビキ、と身体が硬直している。額にはじっとりと嫌な汗で前髪が張り付いていて気持ち悪い。呼吸も些か乱れている。
何か、夢を見ていたような気もする、だけど、内容は覚えていない。
ゆっくりと布団をどかし、上半身を持ち上げ辺りを見渡す。窓の外はまだ暗く、日は昇っていないらしい。自分が眠ってから、そこまで時間は経っていないのだろう。彼女は前髪を掻き上げながらベッドから抜け出し上着を羽織る。そして部屋を出た。
なるべく足音を立てないように歩き、自販機で何か買おうと思い立ち止まる。上着のポケットに入っていたお金を入れ、適当にボタンを押す。缶を開けようとグッと力を入れるが、その手が震えていることに今更気付き、自分自身驚く。
どうして自分はこんなに震えている?何に……"怯えている"__?
ギリ、と奥歯を噛み締め力を入れると変な風に力が入ったのだろうか、彼女の手元から缶が落下する。それは鈍い音を立てて床へと転がり、彼女の足にぶつかった。
だが、そんなこと気にもしなかった。自分の両手をただ見つめて訳の分からない恐怖に困惑する。
「おい……どうした?」
「ッ……!?」
今まで人の気配なんてしなかった。彼女は酷く驚きビクリと身体を揺らす。
「ギル……な、なんでもないよ?ちょっと……目が、覚めちゃって」
あはは、と乾いた笑いが口から零れる。今、きっと自分は酷い顔をしているだろう。容易に想像できた。彼女は足元に落ちた缶を拾いながら、ギルバートにどうしたの?と短く尋ねる。
「別に、少し喉が乾いたから……隊長、ほんとに大丈夫か?顔色悪いけど……」
「うん、大丈夫。あ……ごめん、開けて……くれる?力、入らなくて……」
おずおずと缶を差し出しながらユキは言う。ギルバートはそれを無言で受け取り、意図も容易く開ける。
「……ほら」
「ん、ありがと」
「……なんか、無理してねぇか?」
「そんなことないよ。大丈夫……まだ、死ねない、から」
後半の方は小声で呟いたために、ギルバートの耳に届くことはなかった。それに対し彼はそうか、と言って自分も自販機で飲み物を買う。近くにあった長椅子へと二人は腰を下ろして、暫し無言で液体を喉に流し込んでいた。その間も、ユキは手の震えが止まらなかった。
沈黙を破ったのは、ギルバートだった。
「なぁ、隊長」
「ん?」
「……なんかあったら、遠慮なく言えよ?」
「……ありがと、ギル」
それだけ言い残すと、彼は立ち上がりおやすみ、と短く伝える。彼女もおやすみ、と返して後姿を見送る。ブラッド区画に、一つの息遣い。彼女は暫く壁を見詰めていたが、液体を一気に流し込んで、空き缶をゴミ箱へと放り投げると、自室へと戻っていった。
いつの間にか、恐怖はどこかへと消え去っていた。
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