ピリオド

  • since 12/06/19
 待ち合わせ場所の駅前は、祝日とだけあって人で溢れている。待ち合わせをしているらしく、しきりに携帯端末を見てはきょろりと周囲を見渡している姿が目についた。自分も同じように思われているのだろうと思いながら、サンダルフォンは携帯端末に表示される時間を確認して、画面を消した。待ち合わせの時間には余裕がある。忘れ物もなにもない。なのに、焦りが、不安が、晴れることはない。ざわざわとした、気持ちの悪い胸騒ぎが治まらない。
「待たせてしまっただろうか」
 声を掛けられて、サンダルフォンは上げかけた悲鳴を飲みこむ。
「いや、さっき着いたところだった。俺が、早く来すぎただけだ」
 駆け寄ってきたのだろう、少しだけ、息を乱したその人は、サンダルフォンの不安を見抜いてしまう。心配を、かけたくないという気持ちと、弱さを、みせたくないという自尊心がサンダルフォンの背中を押した。なんでもないように言えば、そうかと安堵したようだった。顔を合わせるのは二か月ぶりになる。学生であるサンダルフォンとは違い、社会人であるルシフェルは出張で国外を行き来して、忙しい。浮気をしているのかもしれない、なんて馬鹿げた心配をしたことはない。サンダルフォンに対して、ルシフェルは誠実で、真摯だった。だからこそ、サンダルフォンは息苦しさを覚える。ルシフェルのことを信頼している。尊敬をしている。だからこそ、サンダルフォンは情けなくなる。俺はこの人に何も返せない。サンダルフォンを、じわり、じわりと沈めさせる劣等感。見返りを求める関係ではないと分かっていても、与えられてばかりでいて、自分はただの負担にしかなっていない。サンダルフォンは、つい、考えてしまう。もしも、もしも自分が──「っ!」
 ぐるぐると、不毛なことを考えていたサンダルフォンの手を、強い力が握りしめる。痛みに、思わず呻いたサンダルフォンに、すまないと申しわけ無さそうに言う声に、力は無かった。
「ルシフェル?」
 どうかしたのか、と言いかけた言葉は空気に溶けていく。はっはと荒い息遣いも、熱に浮かされた瞳も、擦り切れる理性を抑えることに、必死になっている姿も、サンダルフォンは知らない。サンダルフォンの知らない、ルシフェルの姿に、戸惑いながら、けれど、他人事のように、あーあ、とゲームオーバー画面を見ているような気分で、サンダルフォンはルシフェルの手を、そっと、剥がす。縋るような手は、簡単に、離れて行った。
「具合が悪いなら、今日はやめておこう」
「平気だよ」
「そんな状態で、平気なもんか。タクシーを拾ってくる」
 瞼の裏が、熱い。目の奥が、痛い。
「……すまない」
「別にどうってことないさ」
 分かっていたことだ。
 考えていたことだ。
 知っていたことだ。
 ルシフェルがアルファであり、サンダルフォンがベータである限り、いつか、訪れる日がくると、毎日、脅えていた。不安で、押しつぶされそうになっていた。とうとう、その日になってしまっただけ。
 振り向く。目が合うことはない。ルシフェルは壁にもたれて、目を閉じて、静かに、熱に耐えている。鼻の奥が、ツンとした。まだ、泣くな。



 チチチと、囀りが耳朶をうつ。
「…………あさ、か」
 通学途中の、子どもたちの甲高い声が聞こえる。天井を見上げていた視線を壁に掛けた時計に移した。八時を過ぎている。サンダルフォンも、登校の支度をしないと、授業に間に合わない。出席を重視する教授の授業だ。急がないと、と思うのに、体が重く、言うことを聞かない。真面目に授業に出てきた今までを無駄にするつもりかと責める声に耳を塞ぐ。罪悪感が湧かないわけではない。それ以上に、何もかもが、どうでもよかった。
 昨日、ルシフェルをタクシーに押し込んで、帰ってから一睡もできず、ぼんやりと天井を見上げて、気付けば朝を迎えていた。
(運命、か)
 アルファとオメガの中でも、特別に、惹かれあう関係だという。昨日の、ルシフェルの様子は「あてられた」ものだった。けれど、数の少ないアルファとはいえあれだけ人の多い場所で、ルシフェル以外にその様子を見せた人間はいなかった。だったら、よほど、相性の良いオメガが近くにいたのだろう。交友関係が広いとは言い難いサンダルフォンに、オメガの知り合いがいる訳ではない。眉唾物の、都市伝説だ。
(あの人の運命の相手はどんな人なのだろう)
 もはや、自分には関係の無いことだ。関係の無い人だ。考える必要なんてない、自分の首を絞めることはない。けれど、考えてしまう。ちりちりと焦げ付くような恋をしていた。嫌われるのが怖かった。幻滅されることを恐れて気を張った。与えられてばかりで返すことができないなら、せめて重荷にはなりたくなくて、ただ、連絡を待つようになった。声が聴きたいと思うことを、欲深いことだと自身を咎めたサンダルフォンを、ルシフェルは知らない。
 自分とは、正反対なのだろうか。それとも、似ているのだろうか。
(似ているのは、嫌だな)
 それなら、サンダルフォンは代替品だったということになる。だったら、いっそ、真逆であってほしい。正反対ならいいのに。そう思って、考えて、どうして、自分はベータなのだろうかと、考えてしまう。オメガなら、そもそも、女性であったなら。視界がぼやける。
 気力がごっそりと抜け落ちてしまった。身体を動かしていたものが、全部、どこかへ抜けていってしまって、ここにあるのは人の形をした抜け殻だ。手足を動かすことも面倒で、何もかもがどうでもいい。考えることも気持ちが悪い。あの場所でなければと考えたって、もう終わったことだ。何を考えたって、行きつく先は、終わりでしかない。行き止まりの恋だった。未来なんて無かった。最初から、分かり切っていたことだ。ただ、それだけ。よくある話じゃないか。ありふれた終わりじゃないか。自分を納得させる、言い聞かせる。目を閉じる。眠っていなかったから、深いところに、意識が落ちて行く。いっそ全て夢だったらいい。この世界の全てが、出会いが、恋をしたことが、夢物語であったなら、良かったのに。



「……ダ…フォン、サンダルフォンッ!」
 肩を揺さぶられて、ぼやけた視界のなかで、切羽詰まったルシフェルの姿を認識する。ふわふわとした頭はそれ以上のことを考えられない。どうして、俺の部屋に、ルシフェルがいるのだろう。今は何時だろう。虚ろに未だ夢心地な、現実に戻り切っていないサンダルフォンだったが、ゼリー飲料を口に突っ込まれて、脳にエネルギーが行きわたると眠りに落ちる寸前のことを思い出す。ひとり、きまずくなり、取り繕うように、気まずさから逃げるように、チカチカと着信通知を発する携帯端末を手に取った。充電切れ寸前で、慌ててケーブルを挿し込む。間に合ったようだった。タップすれば着信の多さに慄いた。数件は学友からのもので、授業を欠席したことを心配していた。病欠だと、教授に伝えてくれているようだ。基より真面目に授業を受けていたサンダルフォンのことを、教授も気に掛けていたらしい。ペナルティとしてレポートが課せられるものの、すぐに単位取得に支障が出る様子はないようで、眠る前はどうでもいいと思っていたことなのに、矢張り、安堵をする。
 他は全てルシフェルからの通知だった。間隔が段々と短くなっている通知に、心配をかけてしまった、迷惑をかけてしまったと罪悪感が湧き上がる。
「鍵を使わせてもらったよ」
 合鍵が初めて使われたようだった。すっかり、忘れていた存在だった。ルシフェルのことを、部屋に入れたくないわけではなかった。単純に、立地の関係で、会うときは外か、彼の部屋だった。仕事帰りに態々来てくれたのだろう、スーツ姿のルシフェルと、庶民らしい学生の部屋が不釣り合いで、サンダルフォンは申し訳ない気持ちになってしまう。
 ゼリー飲料を飲み切ると体のべたつきが気になった。眠ってから、三日が経っているのだから仕方がないことだった。みっともない姿を晒しているという、羞恥が今になって襲う。
「……風呂に入るから」
「ああ、」
 何か言いかけていたのに気づいていた。知らないふりをした。
 べたついた体を洗う。熱いくらいのシャワーを浴びれば、頭がすっきりとした。何も、うじうじと悩む必要はないことだ。丁度いいじゃないか。鍵を返してもらって、そのまま、終わろう。大丈夫だ、言える。別れられる。決意がゆらぐことのないように、湯気で曇った鏡越しの自分に、言い聞かせる。
 ただ、最後の最後まで、迷惑をかけることしかできなかった自分が、負担でしかない自分が情けなくて少しだけ、涙が零れてしまった。



「まだ濡れているよ」
 仕方なさそうに笑ったルシフェルが、サンダルフォンが制止をする前に、肩に掛けていたタオルを手に取る。ぽたぽたと垂れていた水滴を拭いとられる。止めてほしい、優しくしないでほしい。言いたいのに、言えなくなってしまう。決心が揺らいでしまう。
 学生向けの狭いワンルーム。ベッドとローテーブルとカラーボックスがあるだけで、部屋はいっぱいだった。どうしても、距離が近くなる。静かな蒼穹は、何もかもを見透かしているように思えてしまって、視線から逃げるように、サンダルフォンは俯いてしまう。むき出しのフローリングと、裸足の足が、惨めに映った。
「ずっと眠っていたのかい?」
「そう、みたいだな」
「そうか……。電話をしても、メールをしても、返事がないから、心配になってね。もっと、早く駆け付ければよかった。すまない、サンダルフォン」
「いや、あんたは何も悪くないだろ」
 俺がかってに、何もかもを投げ出して、死んでしまってもいいとすら思って、眠っていただけだ。このまま、心臓が、役目を果たしてしまえばいいのにと思って、眠っていた。何もかも、全てが無かったことになってしまえば良かったのにと願って、眠っていた。口にしたら、心配をかけてしまうから、余計な罪悪感を与えてしまうから、胸に秘めた。態々、口にする必要はない。そんなことよりも、言わなければならないことがある。口の中が乾き、舌が縺れそうになる。
「ルシフェル」
「なんだい?」
 優しい声を、掛けないでほしい。
「ずっと、言いたいことがあったんだ」
 捨てないで、置いて行かないでと、縋りたくなるから。
「別れてくれ」
 タオル越しの手が、ぴたりと止まる。心臓が早鐘を打つ。みっともなく、足が震えている。膝をつきそうになる。握りしめた手が、じっとりと汗ばむ。言ってしまった。言ってやった。後悔が押し寄せる。違う、後悔なんてしていない。後悔をすることはない。これが、正しい在り方なのだから、間違ってなんかいない。
「……なぜ?」
 聞いた事の無い、冷やりとした声に、恐怖で、竦みそうになる。叱られる子どものように、情けなく、震えそうになる声で応える。大丈夫だ、考えたことを、用意した言葉をそのまま告げればいい。それだけで、終わる。
「あんたといると、疲れる」
 望む姿で映りたかった。
「あんたといると、息が詰まる」
 それでも一緒にいたかった。
「あんたが、嫌いだ」
 あなたが好き。
「あんたと、付き合うのが、嫌になった」
 全部、嘘。



 所在なく、さ迷っていた両手の指を絡め合わせる。
(自分勝手だと、失望して、憎んで、嫌いになって)
 祈る。願う。
「サンダルフォン」
 名前を呼ばれても、顔を上げることが出来ない。罵られるのだろう、呆れられるのだろう。散々、与えられて、何も返すことが出来ない。返したものなんて、迷惑と心配だけ。手のかかる面倒くさい人間だと自負している。どうして、付き合ってしまったのだろう。好きになってしまったのだろう。
「サンダルフォン、嘘を吐くことはない」
「嘘なんかじゃない」
「サンダルフォン」
 名前を呼ばれた。咎めるように。ただ、それだけで、決意が揺らぐ。絡めた指が力なく解ける。
 きっと、この人は神様だ。だから、なんでも、御見通しで、醜い執着も、薄汚れた思慕も、わかっている。知っていた、気付かれていた。優しい人だから、憐れんでくれていた。ただ、それだけで良かったのに。どうして、願ってしまったのだろう。望んでしまったのだろう。自分の貪欲さに嫌気がさす。
「……俺はあなたといても、何も、返せない」
「そんなもの、望んでなんかいない、私は、「わかってる!」
 ヒステリックに、叫んだ。感情を、抑えられない。こんなことを、言うつもりは無かったのに、止められない。
「わかってる! あなたは何も望まない! 知ってたさ、わかってたさ! だったら、俺はどうすればいい!? どうしたら良かったんだ!? あなたに、あなたと……」
 一緒にいられる? 対等でいられる? 認められる? 必要とされる?
 醜い姿を、隠すように、顔を両手で覆った。祈りじゃない。これは、懺悔だ。サンダルフォンの中で燻っていた劣等感が曝け出される。隠してきた醜さ、目を逸らし続けてきた、感情が溢れだす。
──お前がどうしてその人の隣にいるの。
 いつだって誰から直接言われなくても、そう思われてきて、自覚していた。どうしてなんてサンダルフォンも分からない。けれど、分かっていることはある。きっと、恋だけでは、好きだけでは駄目だった。それだけでは、一緒に居られない。もしも、オメガとして生まれてきたのなら、この人の子どもを産めたのだろうか。確立は低くても、ゼロではない。この身体では、この運命では出来なかったことが、出来たのかもしれない。女性であったなら、繋ぎとめられたのだろうか。無意味に考えてしまう。
「俺は、あなたの運命じゃない」
 息を呑む音がした。呆れられただろう、馬鹿げたことを言いだしたと、理解が出来ないだろう。理解出来なくていい。されてなくていい。



「誰かに決められた運命なんて、私はいらない」
 抱きしめられる。呼吸を忘れてしまう力強い腕は、サンダルフォンを離さない。逃がさない。
「そんなもので、君を失うくらいなら」
 首筋にかかる髪が払われる。やめてくれ! 拒絶は、ルシフェルのスーツに吸いこまれ、不明瞭な音にしかならない。
 ルシフェルの歯が付き立てられる。
 噛み付かれている。そのまま食べられてしまうように。
 なんて、無意味なことをしているのだろう。無意味なことを、させているのだろう。抵抗に、スーツを引っ掻いていた手から、力が抜けた。縋ることも出来ないまま、ぷらりと垂れ下がる両腕。
 こんなことを望んでいたんじゃない! 幸福なんて無い、あるのは絶望。

 そっと、離される。よたりと、ふらついたサンダルフォンは、力なく、フローリングにへたりこむ。支えようとしたルシフェルがサンダルフォンの腕を半端に引き上げた。その腕にも、気付かない。茫然としたサンダルフォンの眦から零れ落ちて、頬を伝い、唇に触れたものは潮の味がした。ああ! この海に溺れて、死んでしまいたい!

2019/01/12
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