ピリオド

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「サンダルフォン、私は、君のことを恋しく、思っているようだ」

 珈琲を、飲んでいた。向かい合って、ぽつぽつと、とりとめない言葉を囁き合うだけの時間。気まずさと、懐かしさと一緒に、珈琲が喉を通っていく。ルシフェルの言葉に加えて、酸味の強い後味に、サンダルフォンはむせた。珍しいことに、トラブルに首を突っ込むことのないまま、空の旅を続けている騎空挺からは、あちらこちらから団員たちの声がする。弾むような笑い声や、誰かがやらかしたらしい、喧々とした怒声。そんな声が、遠くから聞こえた。

「ありがとうございます」

 何かを言わなければ、返事をしなければ失礼だと、真っ白な頭でどうにか絞り出した当たり触りのない言葉。サンダルフォンの目からは、ルシフェルは平然としているように思えた。サンダルフォンの言葉に、気分を害した様子はない。受け容れたとも、拒絶したとも言えない宙ぶらりんな答えに、不快を示してはいない。だからこそ、居た堪れなさを覚えてしまって、サンダルフォンはカップの中をゆらゆらと漂う珈琲の水面に視線を落とした。揺らめくサンダルフォンは、情けない顔を晒している。こんな顔を、ルシフェル様に晒しているのかと思うと、自分自身が許せなくなる。自分に対する怒りで、目の奥が、カっと、燃えるように、熱くなった。

 俯いたサンダルフォンを静かに見つめながら、ルシフェルは、何か、間違えたのだろうかと自分の言葉に不安を覚える。抱いた想いを告げた。想い続けていた好意を告げた。ルシフェルがサンダルフォンに抱く感情に、心を占める感情に、名前を付けるとするならば、それは慕情だ。愛しく、恋しく。憎悪を向けられても、嫌悪を向けられても、手放すことの出来ない唯一の存在。天司長として、罰することが出来ず、感情に名付ける事が出来ず、持て余して、そんな甘さは結局、サンダルフォンを傷付けることしか出来なかった。

「御代わりを淹れましょうか?」
「お願いするよ」

 空になっていたカップに、サンダルフォンが珈琲を注いだ。芳ばしい香りが立ち込める。それが、区切りとなる。ルシフェルが再び、思慕を告げることなく、サンダルフォンが応えることはない。二千年前と変わらない光景。天司長と役割の無い、今では役割を終えた天司という関係だけが、二人を結びつける。何も言われないことに、サンダルフォンは心底、安堵していた。

 天司長であるルシフェルが、思慕の情を抱くだなんて、決してありえない。絶対に、ありえないと、サンダルフォンは確信している。サンダルフォンの知る『思慕』は醜い嫉妬と、気が狂うほどの執着で出来ている。そんな、おそろしい、おぞましい感情を、ルシフェルが抱くだなんて、ルシフェルの勘違いに他ならない。それか、誰かに吹き込まれたのだ。ルシフェルは、からかわれているに違いない。そしてその間違いを、誰も指摘しないままサンダルフォンに告げてしまったのだ。

 ルシフェルがサンダルフォンに向けているのは、憐憫だ。憐憫と、思慕を勘違いするだなんてとサンダルフォンはちょっとだけ、可笑しくなってしまったけれど、それを間違いだと指摘することは出来ない。なぜ、間違いなのだと、言えるのかと、問われれば、サンダルフォンは何も言えなくなる。二千年前から知っていたからだと、言えるはずもない。二千年以上前から、あなたに抱き続けた醜い感情なのだと、身の内を巣食い続ける恥をさらすことは、出来ない。



 一人で珈琲を口にする。今になっては、珍しい光景となっていた。いつもは向かい合って珈琲を飲んでいるルシフェルは、特異点に連れられて、任務に同行している。ゆらゆらと湯気が昇っていく。彷徨う湯気を視線で追いかけながら、思考を整理するため、言葉にした。

「なぜ、あんな言葉を口にされたのだろう」

 サンダルフォンの心を苛む、思考を占める言葉。ルシフェルの考えることなんて、サンダルフォンには分からない。理解が出来ない、追いつかない。とはいえ、軽率に行動をする御方ではない。いつだって、深い考えがある。だから、サンダルフォンなりに、その考えを読もうとした。そして、一つ、導かれる。

「……俺を、試そうとしている?」

 二度も、裏切った。試されても、仕方のないことばかりを繰り返してきた。自分で、口にしておきながら、首を、見えない何かで絞めつけられたような、息苦しさを覚える。あの時、口にした言葉は、正解だったのだろうかと、不安が押し寄せる。あの時、ルシフェル様は失望をされたのではないかと、よく、思い出そうとするけれど、何もわからない。思い出せない。ソーサーとカップを支える手が、知れず、震えた。カチカチとぶつかる音に、テーブルに置こうとしても、自分の身体だというのに思ったとおりに動かない。零れた珈琲が手に触れる。思わず、カップを落とした。ガシャン。割れた音に、やっと震えが止まる。

 何をしているのだろう……。バカバカしい……。今更な事だ。考えたところで、無意味だ。過去に戻れはしない。このカップだって、戻りはしない。

 素手で触れた欠片のふちで、指先からぽたぽたと血が流れていく。じんとした痛みに、何をしているのだろうと、何度目かのため息を吐き出す。怪我の功名、というべきか、冷静になった。今更な事じゃないか。信頼なんてありえない。信用なんて、もってのほか。

 呑気な鳥がぴろぴろと鳴いている。

 欠片を集めて、それを要らなくなった紙に包んだ。指先の治療をしていないため、紙にところどころ血が掠めているのが、どこか気味が悪い。包み終えてから気付いた。それから床を雑巾で拭いてしまえば、それで終わりだ。力仕事でもないし、怪我だって、魔物との戦闘に比べれば大したものではないのに、どっと疲れた気がする。何もする気が起きない。サンダルフォンは椅子に座ると、目を閉じる。深いところまで、落ちて行く。



「サンダルフォン?」

 特異点の引き受けた依頼は簡単なものだった。言うなれば、おつかいと討伐だ。サンダルフォンが聞けば眉を寄せて、わざわざルシフェルさまが? と小言が始まりそうな内容だ(勿論、小言をぶつけられるのは任務を選んだ特異点)そんな依頼でもルシフェルは引き受けてしまう。騎空団に身を寄せる一員であるから。けれど、なにより、今まで見ていることしかできなかった空の世界に触れることが楽しい。人に触れて学ぶことが嬉しい。

 帰還したのは日が落ちて、随分と経ってからだった。

 ノックをしても返事の無いサンダルフォンを訝しんだルシフェルは、断りを入れて、そっと扉を開ける。部屋は昼間、珈琲を飲んでいたときと変わらない様子だった。開いた窓から、夜風が舞い込みカーテンを揺らしている。サンダルフォンは椅子に座った姿で、眠っていた。夜風に晒されてどれだけ経ったのか、何時からこの体勢なのか、ルシフェルがおそるおそると触れた肌はぞっと冷たい。余程、深い眠りについているのか、ルシフェルが触れてもサンダルフォンは起きる気配はなく、あどけなく、小さな寝息を立てていた。

「好きだよ、サンダルフォン」

 名前を付けてしまった感情は、捨てることも閉じ込めることもできずに燻っていた。胸の内で秘めることが出来なくなって、告げた言葉は否定されることはないが受け入れられることもなかった。行き場の無い感情を、ルシフェルは持て余している。

「恋しく思う気持ちとは、ままならないのだね」

 寝息を立てる唇は、冷たかった。



 まつ毛がふるふると揺れてから、朝焼けの眼がぼうっと空を見つめる。まだ、微睡の中を彷徨っていた。現実と、夢の狭間でぼんやりとしている。数度、瞬きを繰り返そうとしていた目は、とろりと溶けるように再び閉じられていった。
 暖かいものが、触れた気がした。

2018/09/07
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