ピリオド

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 赤い風船が、青空にゆらゆらと漂っている。耳をつんざく、甲高い泣き声に、サンダルフォンは誰に命じられたわけでもないのに、仕方なく、翼を広げて、手を伸ばし、揺れる紐を手に取ると路地裏に降り立った。それから、何食わぬ顔で表の大通りを歩きながら、片隅で、母親に宥められている子どもを見つける。私の風船!! と泣きじゃくりながらも、必死に主張する子どもの肩を叩く。振り向いた子どもは顔を真っ赤にして、目も鼻も、ぐずぐずに溶けだしそうな顔だった。その顔に笑いそうになるのを耐えながら、ふくふくとした手をとり、手首に風船の紐を結びつける。
「もう、手放すんじゃないぞ」
 ぽかんとした間の抜けた顔は、結びつけられた紐の先を見てぱあと輝く。先ほどまで泣いていたのが嘘のように、ころりとご機嫌に、おにいちゃんありがとう!! と言うや否や、母親の制止の言葉が聞こえていないようで、浮かれたまま、走って行ってしまった。あの調子では、また風船を空に飛ばしてしまうのではないかと、ちらりと不安が過るも、そこまではサンダルフォンの知ったことではない。母親がため息をついて、サンダルフォンに申し訳なさそうに声を掛ける。
「ごめんなさいね、あの子ったら……」
「……俺が、勝手にしたことだ。それより追いかけた方が良いんじゃないのか」
「ええ、そうね。本当に、ありがとう」
 まちなさい!! 先ほどまで、淑やかにサンダルフォンに接していた様子からは考えられないような、鋭く響く声に目をしぱしぱと、しばたたかせて、サンダルフォンはくるりと背を向けた。母親とは大変な生き物らしい。騎空団に所属する幼い団員たちの保護者を思い出して、少しは労わろう、珈琲程度なら淹れてやっても良いという、サンダルフォンにとって出来る限りの最大の労りを考えながら、行き先もなく彷徨う。
 自室でゆっくりと、珈琲の研究をしようという予定は、昼間からどんちゃん騒ぎを始めた連中の所為で、露散した。巻き込まれて、さして美味しいとも思えないアルコールを飲まされて、騒ぎを聞きつけた者にいっしょくたに叱られるのも、もうこりごりだ。自分は悪くないと言っても一緒に飲んだのなら同罪です!! とにべもなく、罰として洗濯当番をさせられたことは根に持っている。サンダルフォンは根に持つ天司だ。洗濯は、嫌いではないとはいえ、少々どころではなく、大いに不満を抱きながら責任をもってやりきったけれど。それ以来、彼らの騒ぎには巻き込まれるものかと逃げ回っている。
 こつりとヒールを鳴らす音も、浮かれた、祭りの喧騒に掻き消える。愉快に、陽気に、不安も悩みも何もかも、つまらないことは明日の自分に投げ出した人たちが練り歩く。喧騒は嫌いだ。なのに、釣られるように、サンダルフォンの口角もわずかに上がっていた。
「サンダルフォン!!」
 名前を呼ばれて、思わず心臓が跳ね、一瞬で警戒体勢に入る。それほど、切羽詰まった声だった。サンダルフォンの姿を確認するなり、ルシフェルは、サンダルフォンにも分かるほどに安堵し、胸を撫で下ろしている。どうして団長の依頼に同行したルシフェルがいるのだろうかと、緊急事態か、何かあったのかと案じる。
「なにかあったのか? 団長は?」
「団長たちには、何もないよ。依頼を終えて、帰還している。きみが、飛んでいる様子が見えた。何かあったのではないかと思ったら、きみを探していた」
 思わず言葉を失い、これは本当に"あの"ルシフェルなのかと疑ってしまう。あのルシフェルでないなら、これはどのルシフェルなのかと、現実逃避を始めたサンダルフォンを、ルシフェルが気遣わしく見ている。揺れている蒼穹に、サンダルフォンもややあって応じる。
「いや……。何でもない」
「そうか、あまり人の多いところでは、羽を使ってはいけないよ」
「……悪かった」
 軽率な行動に違いはない。確かに、もっと効率的な手段があったはずだと、今更になって頭が回りだす。後悔をしだしたサンダルフォンの頭に、ルシフェルがくしゃりと触れる。緩やかな癖毛を指先で絡めて、撫でる。子ども扱いをするなと、その手を不満気に払いのけるも、ルシフェルは気に留めた風でもない。ちくり、とサンダルフォンのささやかな良心が痛むだけだ。
「理由があったのだろう?」
「大したことじゃない。ただ、次は……ないかもしれないけど、あるならもう少し考える」
 わざわざ言うのも憚れる。言ったところで、褒めてほしいと言っているようで、恥ずかしい。サンダルフォンは別に、感謝をされたいだとか、褒められたいからだとかで、風船を追いかけたのではない。ただ、可哀想だと思ったから、追いかけただけだ。自分のために、飛んだのだ。
 黙り込んだサンダルフォンが梃子でも口を割らないことを、ルシフェルは知っている。詰問すれば開くかもしれないが、それでは意味がない。サンダルフォンが、ルシフェルのことを選んで、話しかけてほしい。気まずい雰囲気を打ち壊すように、向かいの通りの出店の主人が声を掛ける。立ち止まっている二人が目についたらしい。
「サンダルフォン、あれはなんだろうか」
「あれは……おい、手を引く必要はないだろう」
「この人込みでは、逸れてしまうだろう」
 茫然としたまま、引っ張られるように手を引かれるサンダルフォンは、片手でフードを深く被る。鏡を見なくても、自分がどのような顔をしているのか分かってしまう。ルシフェルのすぐ後ろを追いかける足取りは、不思議と軽い。
「あんたは目立つから、何処にいても見つけられそうだ」
「そうだろうか? 私はきみのほうが見つけやすいと思うが……」
 誰もかれも、祭りに浮かれているから。誰も見ていないからと、手を握り返した。

2018/06/07
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