ピリオド

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 持て余している時間を費やした珈琲の研究は、新たな発見をする度に、サンダルフォンの胸にびゅうびゅうとすき間風を運んだ。すき間風を浴び続けて開いた穴はすっかり広がって、何をしても寒々しい。美味しいと言ってくれたと舞い上がり喜ぶ度に、やがて一人冷静になると慰めでしかないのだとサンダルフォンを惨めな気持ちにさせた。否と過った考えを否定する。そのような御方ではない、不敬だと自らを律する。けれども、サンダルフォンを取り巻く日々は変わらず、サンダルフォンの立場は宙ぶらりんで、どこにも居場所を見出すことは出来なかった。そんな折に、自らの役割を知ったのだ。

──天司長のスペア。

 サンダルフォンは自分でも不思議なほどに、無機質で冷徹な声がサンダルフォンを愛玩か廃棄かと揶揄い混じりに問いかける言葉を、冷静に受け止めていた。怒りも戸惑いも無かった。悲しみもなかった。ただ、ああそうなのかと受け入れていた。役に立てない。それもそうだなと同意を示す。天司長ルシフェルは完璧だ。そんな存在が失われるだなんて、それこそ世界の滅亡だ。スペアなんて意味がない。ただそれだけがサンダルフォンにとっての事実だった。
 ぼんやりと耳にした言葉を反芻する。そのうちに彼等は場所を変えた。一人きり、立ち尽くす。もしかすると、冷徹な声の主はその意図はなくとも、聞き耳を立てていた存在に気付いていたのかもしれない。人気が無い場所とはいえ、天司長のスペアなどという機密内容を、誰が通らぬか分からぬ場所で口にすることは無い。そして、それを言うならば役割について問いかけた主は、冷静ではなかった。本来気付いて当然であるべきサンダルフォンの存在に、気付くことがないことこそが、何よりの証左だった。
 それから、サンダルフォンはぼんやりとしていたが、何時までも立ち尽くしているわけにもいかない。力が抜けたように、おぼつかない足取りで与えられた部屋へと戻った。
 作られてから多くの時間を過ごしている部屋は、何時まで経っても、余所余所しい。珈琲を入れるための器材だけが違和感を放っている。それを目にすればと思っていても、ぼうっとするだけで、何時まで経っても、感情が湧き上がることはない。悲しいとか、苦しいとか、悔しいとか。どこかに置き去りにされたようだった。あるいは、役割を認識した途端に消え去ったのかもしれない。スペアにそのような感情は不要であるのだろう。そして、天司長にはない感情なのだろう。
 それからも、何食わぬ顔で、サンダルフォンとルシフェルは中庭での逢瀬を続けている。どういう意図なのだろうかと、中庭に現れるルシフェルにサンダルフォンは疑問を抱いた。ルシフェルはサンダルフォンの役割を知っている。役に立つことはない。無意味な存在でしかない。だけれど、ルシフェルは中庭に現れる。変わらぬ様子で、素知らぬ顔をして姿を見せる。サンダルフォンはその姿を見るたびに、ただただどうして、と不思議に思うのだ。果たして天司長にとって無価値な存在に時間を意味はあるのだろうか。その疑問を口にすることがサンダルフォンには出来なかった。こわいのだろうか。今更なこと。理解はしても、言葉が喉につっかえた。
 ルシフェルはサンダルフォンをじっと見つめる。サンダルフォンは視線に気付いていない様子で、珈琲を淹れることに集中していた。その姿は、ルシフェルがよく知る姿である。変わらぬ姿は、ルシフェルの安らぎだった。
 いつからか、サンダルフォンは役割について問うことがなくなっていた。その言葉をかけられる度にルシフェルは遣る瀬無い気持ちを抱いた。天司長と麾下であることを突き付けられる。その事実をルシフェルは見て見ぬふりをしていた。そのことすらも、思い出させる。どうしてだか、サンダルフォンに対してルシフェルは天司長らしく振る舞えない。
 作られたばかりの頃、サンダルフォンはその存在を秘匿されていたために何も知らない研究員に逃げ出したのかと勘違いされ、研究実験に巻き込まれることが幾度かあった。サンダルフォンは疑問を抱かずに受け入れる。その度にルシフェルはらしくもなく、焦燥感に駆られた。不安でたまらなくなった。行動の優先順位が変化した。サンダルフォンにもしもがあればと居てもたってもいられなくなり、数度、研究室を破壊する事件を起こした。存在したはずの研究室がぽっかりと無くなっている現場に立ち尽くすルシファーを他所に、ルシフェルはといえばサンダルフォンが無事であることに安堵した。良かったと零された音を拾いながらも、サンダルフォンはきょとりとするばかりで、ますます私が守らなければとルシフェルを決意させた。そんなことが繰り返されたものだから、サンダルフォンは天司長ルシフェルのお気に入りなのだと静かに周知され、そして行動は制限された。
 役割が無いことに劣等感を抱いていることはルシフェルも薄々と感じ取っていた。感情に疎くはあれども鈍くはない。それも、安寧と呼び、慈しむ存在が相手であるから尚の事である。窮屈な思いをしないようにと制限された行動範囲を増やすために、中庭を立入禁止区域に指定して人払いをした。気分が晴れればとルシフェルが好む数少ない一つである珈琲を与えた。
 全てはサンダルフォンのため。けれども、それが建前であることを、ルシファーだけが知っている。
 喜ぶ顔が見たいというのは、ルシフェルの欲望。嬉しいと言う声が聴きたいのはルシフェルのエゴ。ルシフェル本人が認識していない感情を、向けられるサンダルフォンが持て余している感情を、天司長が抱くことはあってはならない感情を、ルシファーだけが忌々しく、理解している。

「変わりはないだろうか」
「何も──ありませんよ」
「そうか、良かった」

 何が良かったのだろうか。サンダルフォンには分からない。役割を知る前からの問答である。役割を、知ってからも続いている。ルシフェルは、サンダルフォンが役割を知っていることを知らないでいる。まさか知るはずもない。

「廃棄されていなくて良かった、ということでしょうか」

 とは、流石に口にできない。嫌味を言いたいわけではない。傷つけたいわけではない。そもそも傷つくことはないのだろうけれど。自分がこの御方を傷付けることなんて、万が一、億が一にもあり得ないことだけれど。──きっと挨拶の一部のようなものなのだろうとサンダルフォンは結論付ける。ルシフェルの心配を、サンダルフォンは理解しない。理解できない。思ってもいない。思い至らない。
 出来上がった珈琲を差し出す。珈琲の研究はしていない。気力もなければ、意味もない。何度も入れた珈琲は皮わない味だ。変化の無い存在だ。
 有難うと言ってから、サンダルフォンの淹れた珈琲をルシフェルは警戒せずに口にする。美味しいよと言って小さな笑みを浮かべる。笑みを向けられると、根付いたかのようにサンダルフォンの口角も上がった。当たり前の日常。日常だった。それが、遠く感じた。ああ自分が遠い場所に立っているのだとサンダルフォンは気づく。役割を知った。知ってしまった。役に立てない。役に立つことはありえない。そういうことなのだ。だから、ルシファーはあそこで口にしたのだ。ルシフェルに答えたのではない。サンダルフォンに知らしめたのだ。

──お前の居場所はそこじゃない。

 頬が冷たい。
 視界が滲む。
 ぎょっとした顔で、名前を呼び掛ける声が鼓膜を打つ。
 感情が、追いついた。

Title:約30の嘘
2022/07/04
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