ピリオド

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 その世界は暖かなもので包まれていた。常春のような安穏が続いている。誰もが夢見る楽園が見事に形作られているのだ。あの男らしい世界である。サンダルフォンはだからこそ好きになれないのだろうと憂鬱になって、溜息を呑みこんだ。
 好きに過ごして良いのですよと男は朗らかに言った。サンダルフォンは引き攣る笑みで首肯したものの、そう言った気分になることができず、目を覚ました部屋で一日を過ごしている。部屋には大きな窓があり、そこから見える景色だけで、ここがサンダルフォンの暮らしていた現世ではないのだということを、まざまざと思い知らされる。何より──繰り返している引き籠った生活の中で、サンダルフォンは空腹も乾きも感じなくなっていた。必要としない肉体に作り変えられていた。呆然と、もう自分はあの世界には戻れないのだと、実感してしまう。
「サンちゃん」
 呼びかけられて恐々と振り向いた。笑みをたたえた男の姿に、憂鬱も何もかもが吹き飛んで、恐怖だけが置き残される。
「髪をすいていただけませんか」と櫛を差し出されたサンダルフォンは、静かに首肯した。震える手で、長くつやつやさらさらとした髪に櫛をいれる。櫛をいれる必要などないほどにの手触りは、触れていると認識をしていなければ空気のように軽い。足元まで広がる髪を丁寧に整える。整える、という必要も、ないのだろうけれど命じられたサンダルフォンは否定することは出来ない。終わったころには、額に汗がにじんでいた。
「ありがとうございます」掛けられた声に、サンダルフォンは胸をなでおろした。麗しい男の姿をとった預言者は、労わるように微笑を向けた。
「つぎは私がしましょう」
「おそれおおいことです」
「遠慮することはありません。さあ、いらっしゃい」サンダルフォンの意思など、そこには不要であるとでもいうように男が言葉をかける。サンダルフォンはひどく、逃げ出したくなる気持ちを押し殺して、言われたままに男の手が髪に触れるのを許すしかない。
 男のものとは異なる髪質である。確かめるように、観察されるように触れられる。サンダルフォンはその手がおそろしい魔獣の頭を容易く握りつぶすことを知っているから、生きた心地を覚えない。緊張と不安が体が支配する。脳までもが心臓に鳴ったかのようにぐらぐらと揺れて、気持ちが悪くなる。サンダルフォンはただ、黙って男がはやく満足することを願うしかない。
 男よりも短く、肩にもつかない長さの髪の一房をすくわた。唇をおとされる。サンダルフォンは思い切り悲鳴を上げたくなるのを耐え忍ぶ。
「あなたに主の加護がありますように」
 サンダルフォンは、主なんてものが心底嫌いでたまらない。
 誰かに自らの運命を委ねるだなんてばかばかしいったらない。神の言葉なんてものに振り回されるのも沢山だ。預言なんてものに縋り付いている人をみると薄ら寒いものを感じる。──何よりも、サンダルフォンから人の尊厳を奪い去った存在であるのだから、好意的に思う事なんて出来やしない。
 サンダルフォンはただの村娘だった。山の恩恵を享受しながら暮らす村で生まれ育ち、都会への憧れをそこそこに持つ村の娘だった。日々の暮らしに満足はなかったが、大きな不満はなかった。明日も明後日も、一年後も村で暮らしているのだと疑うこともしなかった。それが考えたこともない、夢に見たこともない神嫁としての自分の姿である。
 男は創造神によって作り出された一柱である。本来の名前は別にあり、サンダルフォンにルシオと呼ぶことを強いている。ルシオ曰く、人が呼んではならない名であるらしい。──そのルシオに、サンダルフォンは気に入られた。一目惚れしたなどと、のたまった。神は気紛れで強引であるから、ただの村娘でしかないサンダルフォンの意思なんてお構いなしに連れ去られ、現世と切り離された常世での暮らしが強制された。サンダルフォンが戸惑っていようと、暗にルシオを拒否しようとも、一方的なルシオの愛は注がれる。一度だけ、逃げ出したことがある。ルシオという存在が、神という存在への恐怖が極限に達した。生きて帰ることなんて考える事も出来ず、ただルシオという存在から逃げ出したくて神殿から逃げ去った。けれども、現状のサンダルフォンが神殿で過ごしているように、見つかり、捕まった。かくれんぼをしているかのように優雅に、「見つけましたよ、サンちゃん」などと声を掛けられた。そのまま神殿へと逆戻りをした。ルシオにとって、サンダルフォンの決死の逃亡は、子供のお遊び程度でしかなかった。そしてルシオはサンダルフォンを罰することもなく、手枷をつけることもない。以前と変わらない生活であった。
 この生活は、穏やかだ。優しい。災害もなく、飢えも乾きもない。病気もない。怪我もしない。けれども、サンダルフォンは村が恋しくなる。山が愛しくなる。不便ばかりで不満足な生活に、戻りたい。飢えも乾きも忘れてしまったサンダルフォンは、もう戻れる場所なんて無くなっていることに気づきながらも、現世を捨て去ることができずにいる。

Title:エナメル
2021/10/06
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