ピリオド

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 ベリアルは、苦い気持ちになりながら、差しだされたネームを読み終えた。どうだろうか、と感想を求める男との付き合いは、不本意ながらも長い。ベリアルが知る限り、認めたくはないが、奇妙な腐れ縁が続くルシフェルという男は、鬼才と呼ぶに相応しい才覚がある。書いた本人が欠落しているかのような、人間の醜さや愚かしさを書かされたら並び立つものはいない。そして同時に頭もよいものだから、難解なトリックを用いたミステリーは本来の読者層と離れた世代にも評価されている。殆どはグループ活動としての作品発表であるが、ルシフェルのみは、原作者、原案者として個人で活動もしている。
「少女漫画はまだ手を付けたことがなかったからね。君の忌憚のない意見を聞かせてほしい」
「……文句なく、面白いと思うよ」
 ベリアルは青年漫画を担当している。担当外のジャンルも一通りは触れていた。その中でも、少女漫画として、文句ない内容であった。
「会議で掛け合っても百パーセント通るさ……だけど、君は少女漫画は描かないって思ってたんだけど。どういう心境の変化だい?」
 問いかければ、ルシフェルは「ふふふ」と笑うものだから、ベリアルはぶつぶつと鳥肌を立ててしまう。肌を摩る。
「この年にして、情けないやら恥ずかしいやら、初めて恋というものをしてね」
 ベリアルは、瞠目する。あのルシフェルが、照れている。あの、朴念仁がはずかしがっている。こいつにも、そんな感情があったのかとベリアルは感心してしまう。
「なんだ、じゃあこれは君の体験談っていうのかい?」
「いや、残念ながら」
「なら妄想か。なるほど。童貞らしい表現にも納得がいくよ」
 ベリアルは嫌味混じりに軽口をたたくが、重要なことを思い出して眉間に皺を寄せた。
 ルシフェルはあくまでも、原作者であり原案者である。実際に原画を担当するのは、ルシフェルの兄であるルシファーと、そして長兄であるルシオであった。中でもルシファーが厄介である。
「会議で通ったとしても、ファーさんを納得させることができるのかい? 俺もそこまでは面倒を見切れない」
 ルシファーは職人気質だ。気分にむらがある。つい先日、月刊誌の連載を終えたばかりである中で、新たな連載を描くだけの気力があるのか、ベリアルには判断しがたい。ベリアルの心配や懸念を他所にルシフェルはあっさりと首肯した。
「問題はない。ルシファーから許可は得ている」
「ほんとうに? あのファーさんが?」
 とてもではないが、ルシファーが嬉々として作画するような内容とは思えない。ルシファーが楽しく創作している分野はどうにも血生臭く、人間関係が腐ったような作品である。とてもではないが、甘酸っぱい恋愛事情なんて微塵にも興味を抱くことはない。だが、弟には甘いルシファーであるから、渋々と許可をしたのかとも思ってしまった。しかし、ルシフェルがいそいそと取り出したボイスレコーダーが再生をするやり取りに言葉をなくす。
「荷物が届いていた」
「あぁ」
「新作を書こうとおもう」
「そうか」
「食事の用意をする」
「わかった」
「次は恋愛ものにしようと思うがいいか」
「いいんじゃないか」
 これはただの誘導尋問みたいなもんじゃないかと思ったが、目的のためなら手段と方法を選ばないのだと思い知らされ、ルシファーとルシフェルは顔だけが似ている訳じゃないのだと、兄弟の血を感じざるを得なかった。
「ルシファーは、自分の言葉には責任を持つ」
 そんなダメ押しみたいに言われても──……。ベリアルはルシフェル相手だとどうにも調子が崩れるから、本来ならば打ち合わせの相手は学生時代から崇拝してやまないルシファーが良いのだか、ルシファーはといえば、徹夜明けで眠っているからわざわざ起こすことも出来ない。まだ、ルシオでないだけマシだと自身に言い聞かせて、社内会議の日程を伝えた。ルシフェルとは一方的に相容れないと思っているが、しがない会社務めとして、担当編集者として、一番に意思疎通が出来るのがルシフェルであることが、悔しく、認めたくない。



 前方にその姿を認識した瞬間、運命の鐘が鳴り響いた。
 すれ違いざま、「おはようございます」と声を掛けられる。祝福するかのように、ぽっぽと鳩が青空の中を飛び立っていた。ルシフェルは、彼女に何を返したのか分からない。気がつけばゴミステーションの前に突っ立っていた。彼女の姿はすでにない。鳩もいない。ゴミを狙うカラスが遠くからこちらを見ているだけだけだった。ルシフェルは溜息を零し、そそくさとコンテナの中にゴミ袋を入れると蓋をしめて、鍵をかける。
 その日、ルシフェルは恋というものを身をもって知った。
 何をしていても、彼女の姿が過ってしまう。
 何をしていても、彼女の事を考えてしまう。
 何をしていても、彼女の事が気になってしまう。
 名前も知らない彼女であるが、通学時間と学校だけは知っていた。ゴミ収集の日が待ち遠しくなった。偶然を装って出歩いてみようかと思ったが、不審に思われるのではないかと躊躇い、止めた。彼女が身につけている制服から、学校を特定したが、もしやストーカーなのではないかと自身が怖くなった。何より──……学生である。ルシフェルは甘酸っぱい気持ちから一転して苦々しくてたまらなくなる。ルシフェルが学生であったのは十年近く前のことだ。もしも自分が学生であったならばと想像しても、残念ながら学生時代に思い出深く印象に残っている出来事はなかった。彼女と同級生であったならばと想像もつかない。
 彼女は学生生活をどのように送っているのだろうと、つい考えてしまう。得意な教科は何だろうか。部活動に所属をしているのだろうか。恋人は、いるのだろうか。きっと、いるのだろうな。自分でさえ、好ましく感じた好人物であるのだ。いないはずがない。そう思うと堪らなく胸の奥がきゅうとしめつけられたような不快感に襲われる。
「さっさと忘れてしまえ」
「告白をしてはどうでしょうか」
 話しを聞いたルシファーとルシオは、顔を見合わせた。お互い何を言っているんだと言わんばかりの顔である。
 思いつめた顔をした末弟の姿に、何を悩んでいるんだと絡んだルシファーが、内心では心配をしていたことをルシフェルは知っている。力になれるかもしれませんからと言ったルシオが面白半分であることは察していた。
「社会人と学生という点でアウトだ。通報されるだろ」ぐさりとルシフェルの精神を抉る。
「いえいえ何を言いますか。愛において年齢も性別も関係ありません」
「世間がそれを許すかは別だろうが」ドドドドと機関銃で打ち抜かれたかのようなダメージが襲う。
 ルシファーの言葉はあまりにも正論であるから、耳に痛く、響いてしまう。
 言い合いは当人をそっちのけにしてヒートアップしていた。二人を前にしてルシフェルはダメージの回復をはかってコーヒーを啜る。慣れたものである。ルシファーとルシオの意見は基本的に合わない。それでいてどっちも頑固であり、自分の意見を曲げることはない。大抵の場合は口争いが長引いて、有耶無耶に終わる。幼い頃であれば手が出て足が出ての大喧嘩であったから、随分と落ち着いた。
「ルシフェルの初めての恋なんですよ、応援したいとは思いませんか」
「っぐぅ……」
 ちらりとルシファーはルシフェルを見る。心なしか落ち込んだ様子でコーヒーを啜っている。ちっとも、自分の言葉の所為とは思わない。
 しかし、弟の、ルシフェルのためだからこそ、世間の常識を突き付けることも重要であるのだ。
「俺は弟を犯罪者にするつもりはない」
 ルシフェルにしっかりととどめを刺しながら、ルシファーは頑なに意見を譲らないでいた。

 ヒートアップしたルシファーとルシオの争いはどういう訳だか目玉焼きの黄身をいつ潰すのかという話題で、それも互いに先に潰すが後に潰すかで決着がつかないまま朝を迎えて終わった。夜通し討論をしていた二人には感心やら呆れやらでいっぱいになる。ルシフェルは呆れながら、けれども曜日を思い出して少しだけうきうきとする。マンション下のゴミステーションながらも、彼女とすれ違うのだ。
「……?」
 ルシフェルはゴミ袋がいつもの場所にないことに違和を覚えた。
 昨日のうちに、ゴミはまとめて、地域指定の袋に入れている。臭いがあるために、ベランダに置いているその袋が、どういうわけだか、無い。嫌な予感を覚える。勢いよく室内に戻るや、ルシファーは力尽きたかのようにソファに突っ伏して眠っている。だから彼ではない。ならば必然的に、ルシオということになる。こうしてはいられない。ルシフェルは酷く焦りながら家を飛び出る。時間的に、そろそろのはずである。マンションのエレベーターはこういう時に限って、遅い。仕方なく、非常階段を転げ落ちるように降りたルシフェルは、一目散にマンション裏のゴミステーションへと向かう。そこには、やはりと言うべきかルシオがいた。しかし、状況は最悪だ。なんせ彼女がいる。しかもルシオときたら、彼女に話しかけているようだった。彼女は傍目から見ても、警戒を露にしている。ルシフェルは青ざめる。
「何を、しているんだ」
「おや」
 咄嗟に、考えも無く、割り込んだルシフェルは彼女を背に庇う。ルシオは悪びれた様子もなく、残念そうであった。
「サンちゃん、また話しましょうね」
 凝りもせずに話しかけるルシオを、ルシフェルは自分が酷い、嫉妬なのか怒りなのか曖昧なごちゃまぜの形相で睨みつけている自覚があった。ルシオは肩をすくめて去って行った。その足取りが軽やかであったのが、憎らしい。だがいなくなったことに、ルシフェルはほっとした。だから、一瞬だけ、背に庇っている彼女のことが頭から抜け落ちていた。
「あの」
 凛とした声に、びくりと震えた。おそるおそると振り向けば、居心地悪そうな彼女がつっ立っている。申し訳なさでいっぱいになった。
「兄が迷惑をかけたね。本当に申し訳ない」
「いえ……あの、いつも、すれ違ってる方、ですよね?」
 恐る恐ると確認をする彼女に、ルシフェルは認識をされていたんだなと嬉しさをかみ殺して首肯した。彼女はほっと安心をした様子を見せる。もしかしたら、ルシオは自分と装って彼女に話しかけたのではないかと、ルシフェルは嫌な予感を覚えて、訊ねた。彼女は、恐々と首肯したから、頭が痛くなった。いつもは間違えられることを嫌がるくせに、こういったことになると乗り気になる。どうにか間に合って良かった、誤解を招かずに済んで良かったと、心底に安堵を覚えた。
「兄にはきつく、言っておくから」
 だから、どうかまたこの道を使ってくれと秘めながら声を掛ける。彼女は苦笑しながら大丈夫ですからと言うだけだった。
「時間を取らせてすまなかったね、いってらっしゃい」と言ってから、流石に気持ち悪かっただろうかと心配になる。つい、自分も調子に乗っていた。彼女は目をぱちくりとさせてから照れくさそうに、「いってきます」とスカートを翻した。



「私、キューピッドの素質があるかもしれません」
「通報されなかった彼女の優しさに感謝しては?」
「むしろ通報されるべきだったろ」
「どうして二人とも辛辣なんしょうか……」
 さっぱり納得いかなさそうなルシオであった。けれども、言葉にはしないものの、ルシオのお陰というのは不満ではあるが彼女と言葉を交わす機会は増えた。朝のすれ違いに今まではおはようございますと言うだけであったのだが、世間話をする程度には親しくなり、彼女の口から名前を知った。ついうっかりと、ルシオが言うものだから「サンちゃん」と口走ったルシフェルに「サンダルフォンです」と笑いながら言われたのだ。ぐっと、距離が縮まった気がした。他人から、知り合い程度には。
「しかし、おまえよくもまあ、こんな話を思いつくな」
 ルシフェルの文章でのネームを原稿に起こしながらルシファーが感心するような、呆れるように言う。恥ずかしくなる程の青春恋愛漫画の企画は無事に会議を通過して、連載が決定した。初めての恋愛漫画である。今までの作品でもスパイス程度には恋愛要素はあったものの、どれも血生臭いものであった。一転して初めての恋愛ものであるが会議での評判は中々であった。ルシファーは当初こそ絶対に描かないと頑なであったが、件のボイスレコーダーを再生すれば仕方なさそうに原稿と向き合うしかなかった。そんなこと言ってないだとか、誘導だとか、言わないあたり潔いのか、ルシフェルに対して甘いのか、分からない。
「んー……」
 ルシファーが書きあげた原稿の背景を書き込んでいたルシオの手が止まる。
「どうかしたのか?」
「いや、最近の学校て私たちと同じつくりで良い物なんですか?」
「十年そこらで変わるか?」
「でも教材だって今やデジタルらしいですよ」
「そうなのか?」
 三人は顔を見合わせる。年子である彼らの学生時代は十年前になる。その時代は、まあまあ荒れていたと記憶している。現在は、分からない。ルシフェルが卒業したのは中々の名門学校であるのだが、それでも中々に荒れていた。ルシフェルも思わずぎょっとしたのだが、学校内を自転車で走り抜ける生徒は見た事が無かった。ちなみにルシファーであった。なんでも頭髪に関するあれこれで鬱憤が溜まっていたらしい。閑話休題。
 ルシオに言われてルシファーとルシフェルは思わず唸ってしまう。
 とことん、リアリティを追及しているわけではないものの気になってしまう。従兄弟や知り合いに、学生がいるわけでもない。
「……ここは担当の力を借りましょうか」そう言うなりルシオはペンを投げだして携帯を手に取る。ぽちぽちと怪しげに操作をして、携帯を耳に当てる。ルシオの携帯は少し前の機種であり、簡単な基本機能しか搭載されていない。機械音痴にはこれで十分だとルシファーが選んだものだった。
 ルシフェルとルシファーに相談することなく、ルシオはにこやかに話しを進めている。
「はい、お願いします」といって、やっと二人を見る。
 ルシファーは呆れて溜息を零すしかなかったし、ルシフェルは苦笑するしかなかった。

「俺は行かん」と人嫌いのルシファーが留守番をして、背景担当のルシオと原作担当のルシフェルが取材のため、学校見学に行くことになった。取材に関してルシオは積極的だ。これまでも、資料が足りないといって、一人、取材と称して旅行に出ることが度々あった。
「どこの学校か聞いてなかったな」
「──学校です」といったルシオに、ルシフェルは思わず言葉を失った。そんなルシフェルに、ルシオは笑みをたたえて言った。
「偶然ですよ」
「そう、か」
 狙ったのではないかと思ってしまった。なんせサンダルフォンが在籍する学校である。本当だろうか、と怪しむ気持ちがあった。
「作品内容に関しては先方は了承しています。また、先生方に関しては取材のためということで伏せています」
 外せない用事があるために、担当であるベリアルに変わって同行したのはベリアルの部下であるオリヴィエだった。カジュアルなスーツを来たルシオとルシフェルをみたオリヴィエは、二人ともサラリーマンとは思えないし、似合わないなと思った。学校に着くなり事務室に向かうとオリヴィエは持参した菓子折りを手渡してにこやかに対応していた。事務員から許可証のネームプレートを渡される。ネックタイプのそれを首にかけた。
 ルシオとルシフェルがネームプレートを首にかけると、違和感しかない。
 焦げ茶色の髪色をしたショートカットの事務員は案内をしますねと立ち上がる。
 授業中であるらしく、構内は静かだった。体育の授業をしているのか、時折賑やかな声が聞える。なつかしさに取材をつい、忘れそうになったルシフェルにルシオが声をかけた。
「私たちが学生のときとはやはり、随分と違いますね」
 首肯せざるを得ない。そして、取材をして良かったとしみじみに思う。一部の表現を書き直さなければならないだろう。
「そろそろ授業が終わる時間ですね。どうしますか? 生徒の様子を見られるようなら、学食の方にも案内しますが。学校設備に関することでしたら、事務室のほうでご説明できますが……」
 ルシフェルが学校設備に関することが気になったのだが、それより早くにルシオが「学食に行きたいです」というものだから、仕方ない。ルシフェルにルシオの手綱は握れない。オリヴィエはとうに放棄していた。問題を起さないようにと見ているだけである。
 食堂は賑わっていたものの、部外者であるルシフェルたちを遠目から見ている。その中でルシフェルはちらりとだけ、見覚えのある姿を見かけた。飛び跳ねた焦げ茶色の髪の間から、紅い目がぎょっとこちらを見ていた。ルシフェルがそちらに視線を送った途端、人込みに消えてしまった。
「見かけましたか?」こっそりと耳打ちされる。ルシフェルはやっぱり、そういう意図だったんじゃないかと呆れながら、注文をしたランチセットを食べ進めた。ルシオはそんなルシフェルに不満そうにしながら、資料用にとカメラに収めた画像をチェックしている。
 昼食をとりながら、生徒たちの会話に耳を傾ける。あの先生がとか、授業の内容をはなす声もあれば、動画についてのことを話している。改めて世代の違いを突き付けられてしまった。

「連載、楽しみにしていますね」
 彼女はどうやら少女漫画が好きらしく、取材の合間に口にしていた。オリヴィエとはその話題で話があったようで、ルシフェルとルシオは置いてけぼりで、盛り上がっていた。
 結婚をしているらしく、夫と義弟はルシフェルたちが以前に連載をしていたミステリー漫画を好んでいたらしい。サイン会やSNSをしていないため、面と向かって言われたことはなかった。正体を打ち明けてはいないものの、なんだか嬉しく、気恥ずかしくなった。
「先生方に伝えておきますね」
 オリヴィエが対応をして、取材は終わった。
「取材はどうでしたか?」
「やはり私たちが学生であった頃よりも変わっている」
「窓ガラスも割れてませんでしたし生徒たちも制服はしっかりと着ていましたね。それに授業時間内に暴れる生徒もいませんでしたし……」
「先生って私の二個上ですよね」
「ええ、そうですよ」
 オリヴィエは納得しきれていない顔で、「そうですか」と言うと車を発進させた。



「だから言っただろう、さっさと忘れろと」
 取材して以来、すっかり世代格差──ジェネレーションギャップを突き付けられたルシフェルに、ルシファーは鬱陶しく思いながらも、慰める。
 道ばたですれ違うだけ、世間話をするだけの関係であれば、今まで感じたことはなかった。サンダルフォンは制服を着ているものの、落ち着いた雰囲気だった。だからついうっかりと、忘れそうになる。けれども学生たちのなかで、同級生と一緒に食堂にいた彼女は、どこからどうみても、女子学生であったのだ。
「まあ、おまえにしてはよくやったんじゃないか。これで現実を見れるだろ」
「私はそんなつもり、微塵も無かったのですが……」
 ルシオが心底申し訳なさそうな顔をする。ルシフェルは分かっている、というように首を振った。
 向かい合わせた机で原稿を書き換えてから早三日になる。とてもではないが、身だしなみを気遣う余裕もなく、部屋は散らかり放題であり、ルシフェルにとって待ち遠しいはずのゴミ回収の曜日もなにもない。
 取材内容に合わせて変更をした原稿を、担当であるベリアルがチェックをして、ルシファーがさらに書き込みをふやしたために、余裕のあった締め切りが嘘のように迫って来ていた。
「今は手を動かせ、何も考えるな」
 ルシファーの叱責が飛び交う。時間が迫るにつれてコーヒーを飲む量が増えていく。ピンポンとチャイムが鳴るが、誰も出ることはない。それでも、何度もピンポンとならされるものだから、ルシファーが苛々しはじめる。仕方なく立ち上がり、インターホンに出たのはルシフェルだった。モニターに人影がうつる。にこやかに、口が開かれた。
「差し入れでーす、進捗どうですか!」
「差し入れ置いてとっとと失せろ」答えたのはルシファーである。
「ひどくない?」
 ルシフェルは苦笑しながら、少し待っていてくれと断って玄関に出る。
 鬼気迫る状況下に現れたベリアルは散らかり放題な作業場のキッチンで、エコバッグからタッパーを取り出した。ルシファーがペンを置いた。
 ベリアルが差し入れに持ち込んでくる家庭料理は中々に美味しい。当初はベリアルの手作りかと疑うルシファーであったが、ベリアルが否定した。ならば誰が作っているのだろうかと差し入れの度に毎度、疑問に思うのだが、差し入れがされる状況というのは鬼気迫るものがあるので無駄話をしている余裕はなかった。本来ならば誰が作ったものか分からないものなんて口にしないのだが、あまりの疲労に危機感は失われていた。ルシオは黙々と食べて、ルシファーですらお代わりをしているのだ。
「ごちそうさま──……美味しかったと伝えてくれ」
 ルシフェルの言葉にベリアルは「わかった」と応える。その顔は苦い虫を噛んだかのよう歪んでいた。


「──サンディ、ほらリリス先生の最新作」
 帰宅をしたベリアルは渋々と、ソファに寝そべっていたサンダルフォンに袋を差し出す。まだ、一般流通はしていない出来上がったばかりの月刊誌最新号である。そして最新作である。ベリアルが担当している覆面作家であるリリスの、初めての恋愛漫画である。
 サンダルフォンの頬がバラ色に染まると、見た事の無い満面の笑みを浮かべ袋を手に取った。なんだかおもしろくない。姿勢を正して慎重に袋から本を取り出したサンダルフォンの目はキラキラとしていた。
 月刊誌であるために中々の分厚さがある。リリスの最新作は、記念すべき巻頭カラー、そして最初のページであった。サンダルフォンは嬉々としてじっくりと読み進める。
 編集者としては、読者の生の反応というのは新鮮で、参考になるものだ。しかし一個人としては、気が気でない。内容が、少女漫画であるからなのか分からない。ただ今までの作品と比べたらサンダルフォンの反応はどうにもむず痒い。──血生臭い流血沙汰の推理ものや、命と金を賭けた極限のギャンブルに頬を染める女子というのは何か、患っているのかもしれないが、ベリアルとしてはむしろそっちの方がまだ精神的には安心できた。だってサンダルフォンときたら、うきうきと読み進めているのだ。可愛がってきた姪っ子の少女らしい一面に、伯父としては気が気でない。幼い頃であれば、可愛いなと思えていたのだが今のサンダルフォンといえば十代の中頃である。可愛らしい制服を着てキャッキャとスクールライフを満喫しているのだ。それも、共学である。ベリアルは心配になる。大丈夫なのか。その年の男は頭の中がピンクでいっぱいだ。女子をみてはニヤニヤとあらぬ妄想をするのだ。手が振れただけで発情するような年頃である。心配をするベリアルにサンダルフォンは酷く冷徹な、失望したかのような視線を向けた。思春期って難しいなとベリアルは頭を抱えた。
 じっくりと漫画を読むサンダルフォンの横顔を見る。贔屓目ながら、可愛く、そして最近では綺麗になった。矢張り、恋をしているのだろうか。だって今まで恋愛漫画とか全く興味なかったもんな。いや、リリスの最新作だからにしても……悶々とするベリアルを他所にじっくりと最新作を満喫したサンダルフォンは続きの展開を待ち遠しく思いながら雑誌を閉じた。他の作品には目もくれない。追々、読みはするものの、ひとまずはリリス先生の最新作であった。
「面白かった、すごく、きゅんきゅんする……」
「伝えておくよ」
 にこやかに感想を聞きながらも、ベリアルは姪っ子の少女らしい一面が衝撃だった。幼い頃はベリアルのことを、年が近いためにお兄ちゃんと呼んでいた少女が、少女漫画にときめいているのだ。
「好きな人でも出来た?」
 冷静に、普段通りに問いかけながら内心では気が気でない。サンダルフォンは読了後の余韻からぱちりと目を瞬かせた。ベリアルの予想としては「何を言ってるんだ」と馬鹿にするみたいに言い返すことを、期待していた。だというのに、サンダルフォンは唇を尖らせて、視線をさ迷わせる。消え入りそうな声で「ベリアルには、関係ないだろ」と言うだけである。それだけで、十分に確信をしてしまう。動揺をひた隠す。ベリアルの中で、サンダルフォンはまだまだ、小さな女の子であった。
 ベリアルが出版社勤めとなってから暫くして兄が国外に転勤となった。サンダルフォンの繊細で、変化を受け入れがたい性質をしっている兄に頼まれて、ベリアルは一緒に暮らし始めた。ベリアルは可愛がっていたとはいえ、サンダルフォンにとっては幼い頃にあって以来の叔父である。記憶にない。一方的に、親し気に振舞うベリアルに対してストレスを感じたサンダルフォンはよく体調を崩した。その関係が改善したのが、ベリアルが担当している覆面作家グループであるリリスである。
 サンプルを確認しようと持ち帰った漫画を、なんとなく薦めてみればサンダルフォンはすっかりはまっていた。それをきっかけにして、会話が増えたのである。だからベリアルはルシフェル、ルシファー、ルシオになんとなく、恩を感じていた。とはいえ、それとこれとは別問題である。
「差し入れ美味しかったって言ってたよ」
「ほんとか!?」
 最初にルシフェルたちに差し入れとして渡したのは、実はベリアル用の夜食であった。会社に泊まり込むこともあって、多めに作られていた。しかし、疲れがピークに達してる三人組はツッコミを放棄してしまうのだから、ベリアルは手作り感満載のそれを差し出したのだ。流石に、と思いきや「お前の手作りか」と聞かれたものを咄嗟に素直に、否定をすれば、三人は黙々と食べ進めた。極めつけのように完食された。それ以来気に入ったらしい。サンダルフォンの手作り以外の、既製品だったり、手作り風の総菜はすぐにばれてしまう。それからというもの、差し入れに関してはサンダルフォンに依頼していた。勿論、お小遣として幾らかを渡している。サンダルフォンとしては、リリス先生に褒められるだけで遣り甲斐があるらしい。
 嬉しそうに、目をキラキラとさせるサンダルフォンに、ベリアルは絶対にリリスの正体を打ち明けるものかと決意した。ベリアルの知らぬところでルシフェルとサンダルフォンがエンカウントしていることを、まだ、知らない。それどころか、サンダルフォンとルシフェルが、双方、初めての恋に身悶えしているだなんて、想像にすら、出来ないでいる。

2021/10/23
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