ピリオド

  • since 12/06/19
 物心というべきか、自我というものが芽生えたのは人に較べれば随分と遅くであったと振り返る。十歳になる手前になって、自分のことを初めて認識をした。それまで、体と心はちぐはぐで、自分の肉体を見下ろしているかのような、自分の心を客観視しているかのような不安定の塊であった。両親には、特に母親には随分と心配をかけたと思う。けれども、そんな状態が嘘のように、心と体が一致した。初めて人間として自覚をした。長らくそんな状態であった子どもに、両親はやっと安心を見出したかのようだった。それまで殆ど付きっ切りで育児と家事に追われていた母は、本来はバリバリのキャリアウーマンであったらしく、再び働きに出て行った。しっかりと話し合ってのことである。ただ、子供ながらに無理をさせていたのだなと申し訳ない気持ちを覚えたことは、打ち明けていない。あるいはやっと解放できたのではないかと思ってしまったのは、罪悪感からだった。
 自我が希薄であったことは産まれながらの気質であったのか、それとも──……幼い頃の出来事が原因であるのか、はっきりしない。ただ、両親の過保護はその出来事が起因なのだろうと察していた。
 幼い頃に、行方不明になった。幼すぎる上に、当時は自我も物心というものも曖昧であったから記憶にない。
 父方の田舎に夏休みだからと連れていってもらった。親戚が集まっていて、賑やかな雰囲気の中、一瞬、目を離した隙にいなくなっていたという。車のイラストの描かれたティーシャツに、半ズボンだった。履いてきた靴は家にあり、また、誰かの靴がなくなったという形跡もない。人の出入りがあったとはいえ、知らない人間がいれば気づくというのに、誰も見ていない。もしかしたら、出歩いて、田んぼに落ちたのではないか、畑にいるのではないかと、あちこちを、とうとう近隣の山にまで捜索隊が足を踏み入れたというのに、手がかりの一つも見つからないでいた。そんな中、いなくなった当時のままの姿で見つかったのは真冬のことだった。田舎で、祖父母の家の庭に、ひょっこりと現れたのだという。法事の度に話題に上がる。
「本当に覚えてないの?」と心配しながらも、野次馬根性が隠せていない口調で問われることにもすっかり慣れていた。
「覚えてない」
 答えるたびに痛ましいものを見るかのように、憐憫の視線が注がれることには辟易としてしまう。だが、全く、何も思い出せないでいる。
 見つかった直後は、カウンセラーに掛かりながら、誘拐という線で捜査が続けられたものの当事者が何も覚えていないうえに、身も、心も健康そのものであったし「悪戯」をされた形跡も微塵もなかった。両親は、これ以上子どもに負担を与えたくないということと、無事に帰ってきてくれたからと被害は取り下げた。それらも全て、伝え聞いた話だった。
 ふとした拍子に何かを思い出すのだろうかと、怖いもの見たさのような気持ちであったが、思い出す気配は今のところ、微塵もない。
 地元では本人が気にせずとも、行方不明になったという事が話題になっていた。こそこそと、何も悪いことをしていないというのに噂され、辛かったねと訳知り顔で同情を寄せられることにうんざりとして、進学を期に、地元を離れた。親元を離れた学生生活というのは自由で開放的になるかと思えば、ただ居住地が変わっただけのことだった。開放的に過ごすには、あまりにも生真面目な性質過ぎた。一人暮らしや、学生生活にも慣れだして余裕がうまれたある日のことである。
「あの、どこかで会ったこと、ありますか?」口にしてから、品のないナンパの常套句のようだと、恥ずかしくなった。しかも、声を掛けたのは美麗とはいえ同性である。ぱちぱちと長い睫毛を瞬かせた青年は、苦笑いを浮かべて言った。
「記憶違いでなければ、初めてあったと思う」
 真摯に、申し訳なさそうに言った先輩は、特に親しく、そして思い違いでなければ可愛がってくれている。先輩は時折、面白そうに出会ったときのことを懐古するものだから、その度居た堪れなさと羞恥で「忘れてください」と消え入りそうな声で言うしかない。記憶力の良さは身をもって知っていながらの懇願であった。その時だけ、先輩は何も言わず綺麗な笑みをにっこりと浮かべるのだ。
「……もしかしたら、兄かも知れないな」
「お兄さんがいるんですか?」
「ああ、年が離れているが似ているとよく言われる」
 そう言って紹介された先輩の兄とは、相性が良くなかった。確かに、先輩とそっくりであったことは認める、顔を合わせた瞬間にどうやら互いにだろうが、苦手意識を抱いた。先輩は苦笑して「似た顔はいくらでもある」と慰めるような言葉をかけてくるものだから、そうですねと言うしかない。ただ内心では「貴方達のような顔がそこかしこにあってたまるか!」と思っていた。
 地元を離れて、行方不明事件を知らない土地であるからなのか、ついうっかりと忘れそうになってしまう。その度、実家に顔を出して、親戚と会うたびに話題にされるから、思い出す。もうすっかり、飽きてしまっていた。この親戚はどうしてこんなつまらない話を繰り返すのかと思って、呆れてしまう。人の失敗を茶化すようで、だんだんと気分が悪くなって、その内に親戚を避けるように両親と会うだけになっていた。
「もっと早く、こうするべきだったか」
 人付き合いが悪いと言われそうであるが、精神衛生のためにやむを得ない。怒られるかと思えばそういった音沙汰はない。あっけないものであった。持て余すようになった時間でアルバイトを始めたり、それまで家と学校の往復だけであった生活で、近場を散策するようになった。学生らしさを満喫していた。古びた映画館を見つけた。上映ラインナップも古く、黴臭い。小さな町の映画館である。学校終わりに、アルバイトの時間まで妙に余っていたから、挑戦してみようと入ってみた。
 古い映画を観る。
 フィルムが劣化しているのか、画像が乱れる。その癖、登場人物の小物の出来は見事であった。CGでも使っているのかのような火や氷といったエフェクトは思わず見入る。子ども向けかと思っていたファンタジー映画に、すっかりのめり込んでいた。騎空士や騎空艇など、大昔に会ったと言われているロストテクノロジーを、まるで見て来たかのように表現をしている。こんな名作をどうして知らなかったのだろうと不思議になる。そして既視感を覚えていた。登場人物に、覚えがある。授業で顔をあわせる名前を知らない同級生。通学路ですれ違う学生たち。彼らを認識するたびえも言われぬ哀愁めいたものを抱いていた。だからといって、声を掛けることはしなかった。なんせ、変人である。先輩には声を掛けた癖に、寸前となって躊躇ったのだ。
「あ、」
 スクリーンを見上げて、思わず声が漏れた。幸いなことに、観客は他にいないために迷惑にはなっていない。ほっとする。
──先輩、ではない。
 よく似ているが、違う。親戚に役者でもいたのかもしれない。
 奇妙な感情が湧き上がる。むかつきなのか、苛立ちなのか、悲しいのか、懐かしいのか、分からない。その男をみていると、どうしようもない気持ちでいっぱいになるのが、気持ち悪い。
 上映が終ったのは丁度良い時間であった。アルバイト先の喫茶店まで、歩いて15分程。立ち上がり、映画館を後にする。映画のタイトルを確認しようとして、抜け落ちていた。
 勘違いと片付けるには生々しく、息苦しさを覚える既視感に苛まれていた。先輩と交わす言葉、先輩の兄の視線、アルバイト先の常連客──上げだしたらきりがない。その中で唯一、欠けていた。先輩かと思っていた。だけど、違うと確信していた。アイツは先輩じゃない、あの御方じゃない。──……あの御方? 当たり前だと、呆れてしまう。あの御方とアイツは別人だ。何もかも、違う。アイツ? 知っているのに、思い出せないもどかしさに口惜しくなる。泥濘を歩くかのようなもどかしさが苛立たしい。
 親戚から離れて、地元から離れて落ち着いたかと思えば、真逆であった。寧ろ、思いださなければという強迫観念めいたものが追い詰めて来る。頭の中、思い出が滅茶苦茶に、破茶滅茶につなぎだされる。覚えがない記憶を作り出している。経験のない出来事を見知っている。気持ち悪いのに、馴染んでいく。それがさらに不気味だった。
 精神に引きずられたのか体調を崩しがちになり、すっかり、学校を休むようになった。そんな状態であるからアルバイトも辞めた。心地のよい喫茶店であったが、致し方なかった。店長からは体調がよくなったら復帰すれば良いと言葉をかけてくれた。高齢の夫妻の言葉はお世辞だったのかもしれないが、嬉しかった。
 先輩や同級生から連絡がある。体調はどうなのかと心配する言葉は申し訳なくていっぱいて、ノートなら任せておいてという言葉は頼もしいったらない。
 学生用のアパートで一日を過ごしている。調子が良いときには学校に行くように努めているが、それも稀だった。両親には連絡をした。帰って来たらという言葉もあったが、もう少しだけ一人でいたかった。
 冷たい布団が心地よい。
 もう、何が本当なのか、わからなくなっていた。
 騎空艇で旅をするなんて妄想がまるで現実で体験したことのように、艇内の間取りから、ルール、臭い、風の強弱までもが鮮明に蘇る。天司なんて、お伽噺だ。だというのに、空の飛び方を覚えている。シリアスかとおもえば、ツッコミどころしかない思い出ばかりだった。サメ人間だとか、原稿だとか、全くもって記憶にない。思い出すと、ぐったりとするのに、笑ってしまう。アイツはよく笑っていた。穏やかな雰囲気のくせ、妙に強情だった。あの御方とよく似た容貌だから、つい、不快に思って、八つ当たりのように接していた自分によくもまあ……。思い出すと、悲しくなる。交わした言葉を思い出せるのに、それが誰であったのかだけが、抜け落ちていた。

 それは遠い日に、置いてきた記憶である。田舎の古い家で遊んでいたはずだった。だというのに、顔を上げ、周囲を見渡す。何もない空間が無為に広がっている。前後左右もわからない空間に、声が響いた。
「サンちゃん……」呼びかける声に、覚えがある。常の穏やかさなんて嘘のように、しょぼくれて、情けない声。ちょっとだけ、永く、共に過ごした男の声だった。
 この肉体の名前には「サンちゃん」なんて掠りもしていないのに、それが自身を指すことなのだと理解している。ふざけた呼び名をやめろと繰り返しても、一向に諦める気配はなかった。言っても無駄なのだと諦めてしまったのは、遠い過去である。
「ごめんなさいサンちゃん」
 謝罪を繰り返しても、顔をあげない。それが殊更に不安を煽る。やはり、怒っている。けれども、怒られても、呆れられても、その姿を見たときにどうしても、もう一度と思ってしまったのだ。
 預言者として作られ、空の世界を観測し続けてきて、空の世界に交わり、生きて来たなかで、ただ一人、もう一度会いたいと思ってしまったのだ。──特異点や、蒼の少女を思い出すことはある。旅の仲間たちとの賑やかな記憶を胸に秘めている。けれども。その中で、唯一だった。彼の事を思い出すたびに、孤独なのだと実感をする。呆れるような声も、仕方なさそうにたしなめる声も、何もない。
「……怒ってますか」
「怒ってない。ただ、もう少しやり方があったんじゃないか」
 ルシオに呼びこまれて、時空の狭間に迷い込んでから記憶がよみがえった。この男は自分がいなくてもすぐに忘れるだろうと思っていたために、ここまでするのかと驚きはあった。
「怒ってるじゃないですかぁ」
「怒ってないっていってるだろ。寧ろ、呆れてる」
 サンダルフォンが言えばルシオはぐすりと鼻を鳴らした。幼い体なのだから、あまり力を加えないで欲しいと、サンダルフォンはなすがまま、ルシオに抱き着かれている。両ひざをついて縋るような男を、サンダルフォンはこの絵面は酷いなと思ってしまう。耽美絵師であった団員であれば、何か、興奮をする材料であるかもしれない。彼女の徹夜作業に付き合わされてコーヒーを差し入れることがあり、話す機会は多かったものの、生憎とサンダルフォンにはその知識は理解できなかった。
「サンちゃんがいなくなって、虚しくて……」
 鳴き声のようにサンちゃんと呼ばないで欲しいと内心で思った。それからルシオの言葉に、呆れて、つい、笑ってしまう。
「なんだ、きみ……淋しかったのか?」
 サンダルフォンが言えば、ルシオは顔を上げる。サンダルフォンを見詰め、淋しい?と繰り返してから、またくしゃりと顔を歪めて、サンダルフォンの肩に額を押しつけた。サンダルフォンは長年連れ添った男だから、仕方なく、つい甘やかすようにその背を撫でた。肩口がしっとりと濡れているような感覚は気持ち悪かったが、不快ではなく、そして罰なのだろうと甘んじて、受け入れた。
「酷いです、どうしてそんなものを」
「俺に言うな」
「だってサンちゃんがいないから、私は淋しいんですよ」
「きみ無茶苦茶だぞ」
 まるで子供じゃないかと呆れてしまうサンダルフォンに、ルシオはひどいひどいと繰り返す。
「俺はもう、人間だからきみと一緒にいられない」
 真実を告げればこれ以上ないくらいの力で、抱きしめられる。殺す気なのかと一瞬思ってしまった。
「……だけど、もしも俺がきみの事を思い出したら、もう一度お前と生きるよ」
 こんな形じゃなくて自力で、だ。持ち掛けたサンダルフォンに、ルシオは名残惜しむように抱きしめる力を緩めた。
「ほんとうに?」
「ああ」
「こんどは、一緒に生きてくれますか」
「きみが淋しくない限りはね」
「……ふふ」
 ルシオは嬉しくてたまらないといった笑みを浮かべた。その目元や鼻はサンダルフォンの肩に押しつけた所為で赤くなっているが、それを差し引きしても美麗と表現される笑みであった。
「約束ですからね」
 その約束をサンダルフォンが思い出せないのは、防御本能なのかもしれない。


Title:約30の嘘
2021/10/19
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