ピリオド

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 瞼の裏に差し込む陽射しに、観念をする。微睡みから目覚めた脳が確認するのは、変わらない一室だった。吊り下げられた観葉植物。無機質な漆喰の壁を彩る鮮やかな標本。一人では広すぎるテーブル。向かいには、使用者のいない椅子が配置されている。
 ルシフェルは目を伏せる。
 優しすぎる、悪夢である。
 天司長ではないルシフェルは、ただの命として、生きていた。特異点が率いる騎空団の一員として、騎空艇に乗り旅をする。掃除も、調理も、洗濯も、ルシフェルにとっては知識としては覚えがある。空の世界の営みを観察し続けた故に意味は理解していた。けれども、実際に体験をしたことはなかった。天司長ではない、それどころか天司ですらないルシフェルは、エーテルを利用して風を巻き起こすことも出来ず、温度を調整することも出来ない。自分は、何もできないのだということを突き付けられる。ルシフェルに悲しみはなかった。ただ驚いていた。そんなルシフェル以上に物言いたげであったのは、サンダルフォンであった。あの場所には、サンダルフォンがいた。そのことを思い出して、ルシフェルは口元に笑みを浮かべる。
 騎空艇の一室で喫茶室を開いていたサンダルフォンの手伝いをしていた。かつてはルシフェルだけが飲むことができたコーヒーであった。そのコーヒーが、当たり前のように振る舞われることに、何とも言えない淋しさのような口惜しさのようなものが込み上がった。けれど、楽しそうに、活き活きと「このブレンドだったら酸味や苦味が控えめで飲みやすいと思うのですが」と試行錯誤をしているサンダルフォンを見れば嬉しさが込み上がった。
 それは全て、ルシフェルが願い焦がれた世界であった。
 なんて、残酷な夢であったのだろうと、ルシフェルは自嘲を浮かべ、苦笑を零す。
 あり得ない世界であるからこその、願いであった。
 研究所の在りし日の思い出を再生するのではない。行き止まりであるはずであった未来を描く自分に、嫌気が差した。待ち続けると決意した。何時になるのか分からない日にサンダルフォンを出迎えると覚悟していた。早く会いたいという気持ちと、その再会がサンダルフォンが空の世界から消え去ることであると理解していた故に、遠くあって欲しいという願いが複雑に絡み合っていた。だというのに──「ルシフェルさまっ!」慌てて呼びかけられた声に、顔を上げる。
 肩を上下して、忙しなく呼吸を栗化している姿は、本来この場には存在しないはずである。けれど、ルシフェルが夢にまで描き、求めた姿であった。
 天司長としての最後の務めを果たすには、まだ早すぎる──……。
「どうしてここに?」戸惑いながら問いかけていた。
「もちろん、迎えに来たんです」幾らか呼吸を整えたサンダルフォンは、静かに、笑みを浮かべながら言った。
 サンダルフォンの言葉の意味が、ルシフェルには理解できずにいた。ルシフェルには、帰る場所がない。どこに帰るというのか、分からない。けれども、迎えに来たというサンダルフォンにその言葉を掛けることができないでいた。真実を、口にすることができない。それは昔からの、履き違えてきたルシフェルの優しさであった。迷うルシフェルに、サンダルフォンは笑みを向ける。
「さあ帰りましょう、ルシフェルさま」
 差し伸べられた手に、ルシフェルはおそるおそると、手を伸ばす。触れた。暖かく、細い指先。瞬間。視界が眩んだ。
 目を覚ましたルシフェルの視界に映ったのは、見知った天井であった。エンジンの音が鈍く、遠く、聞こえる。全身で、僅かな振動を感じる。騎空艇の、与えられた部屋であった。現状を確認する。ルシフェルは寝台の上で横たわっている。手元が温かい。そちらに視線を向けた。サンダルフォンはベッドの端に突っ伏していて、その手が、ルシフェルの手を握っている。静かな微笑を零す。サンダルフォンが身じろいだ。
「二人共、お帰り」
 声が掛けられる。様子を見に来ていた団長であった。
「ただいま、団長……ルシフェルさま?」
「また迷惑をかけてしまった」
 苦い物を噛んだように、端正な顔を僅かに歪めるルシフェルに、サンダルフォンは面食らう。ぎょっとしたようにルシフェルを見つめた。団長はお邪魔虫になるであろう気配を察して退室していた。
「迷惑だなんて思っていませんよ」
「だが、こうも頻繁となると面倒だろう」
 奇跡のように復活を果たしたルシフェルは、魂が器に定着をしていないのか、頻繁に抜け落ちる。そして抜け落ちた精神が行き着く先というのが、かつてルシフェルとサンダルフォンが蟠りを解き「いってきます」と飛び立ち「いってらっしゃい」と淋しさをひたかくして見送った場所である。
 易々と行き来できる場所ではない。危険が付き纏う。それでも、サンダルフォンはルシフェルの残滓を辿り、幾度もその場所に出向いていた。天司であっても、生者であるサンダンルフォンにとっては負荷のかかる行為である。そのことを承知であるルシフェルは、自分の所為でという怒りが後悔として押し寄せていた。サンダルフォンは恐々と、声を掛ける。
「迷惑、ですか?」
「そんなことはない」
 即答をする。迷惑だなんて、感じたことはない。ルシフェルは弱々しく眉を下げた。負担になることが申しわけなくて、居た堪れない。格好悪い。情けない。意地っ張りな感情で、押しつぶされる。
 サンダルフォンは強張っていた顔を緩めた。
 ルシフェルが望んだ姿とはかけ離れていると、自覚がある。悪質な喜びである。喜んではならない。これは、サンダルフォンの我儘なのだ。ルシフェルに生きてほしいと願うこと、ルシフェルと共に生きたいと焦がれること。そのために道理を捻じ曲げた。天司長としての力を、私用している。
「ルシフェルさまと一緒に生きたいっていう、おれの、我儘なんです」
 ルシフェルは苦い気持ちで、とうとう、観念してしまう。仕方なさそうな顔をするルシフェルにサンダルフォンは申し訳なさそうな笑みを作って、浮かべた。サンダルフォンは、ルシフェルが自分の我儘に弱いことを、知っていた。ルシフェルもまた、それを承知であった。空の世界で生きるには、強かさも必要不可欠であることを、進化を司っていたルシフェルは痛感した。

Title:約30の嘘
2021/10/16
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