ピリオド

  • since 12/06/19
 教育機関を卒業してから数か月が立つ。念願であったバリスタの仕事にも、余裕はないものの慣れて来たように感じていた。サンダルフォンは閉店作業と仕込みのためにすっかり暗くなった夜道を、不気味に思いながら足早に駆ける。
 引っ越し先である地域の治安の悪さについて、ぎりぎりまで悩んだ。知り合いからは誰一人として良い顔はされなかったし、付き合いの長い学生時代の先輩からは一緒に暮らさないかという提案もあったくらいである。お互いに恋愛感情はないとはいえ、流石に異性であるから苦笑して、断ったもののサンダルフォンはくすぐったさを覚えた。
 それでも、その心配を無視したかのように選んだ地域は治安の悪さを除けば快適な暮らしを送れている。時折、近くで抗争があるようでパトカーや救急車が出動する事態が頻繁であることを除けば、平和である。
 防犯のために街灯を増やしたというのは数年前のことだ。しかし、維持するだけの予算がないのか不明であるが、灯りはチカチカと、より一層に夜道を不気味に照らしていた。
 怖がりではないものの、気味が悪い。それから、また近くで事故なのか事件であるのかが起こったようで、出動したらしい甲高いサイレンの音が響き渡る。音の大きさから、そこまで遠くではないようだった。サンダルフォンはなんだか胸騒ぎのようなものを覚えて、アパートまで、小走りになっていた。
 夜中で涼しい。とはいえ、じわりと汗ばむ季節に加えて、緊張感も相俟ってサンダルフォンの額には汗が噴き出ていて、首筋にはじっとりとした汗が伝っていた。
 サンダルフォンが住んでいるアパートは二階層の鉄筋コンクリート造りだった。その中でも二階で南向きに窓がある角部屋が、サンダルフォンの城である。
 玄関エントランスなんてものはなく、雨曝しになってペンキが剥げた錆だらけのむき出しの階段を上り、はっと、息を詰めた。
「先輩、じゃない……?」
 二階の奥。サンダルフォンの部屋の前に、人が座りこんでいた。玄関を背にして、苦し気な様子であった。サンダルフォンの独り言に反応をしたように、薄く目が開かれる。しかし焦点が合っていない様子で、視線が交わることはない。
「早く、かぎをあけろ」
 サンダルフォンは何を言っているのだろうと戸惑う。見知らぬ相手で、しかも、何やら訳ありのような人物である。
「……おい」
 男の声は焦ったような、苛立ちが込められていた。睨みつけられて、びくりとしたサンダルフォンであったが、直ぐに男は視線を別に向けていることに気づく。そして不意にかくりと、意識を飛ばしてしまった。
(薬、か?)
 治安が悪いとだけあって、非合法な薬が日常的に取引されている。この地域に引っ越してからはサンダルフォンにとっても珍しいものではかった。それでも、自身が巻き込まれることがなかっただけあって、他人事であった。
 サンダルフォンは男を見る。銀髪に、一瞬開かれた目は濁っていたものの蒼かった。何よりその容姿は、サンダルフォンが敬愛する先輩によく似ている。一瞬、先輩かと思ったものの言葉や雰囲気は先輩とは真逆であった。何より先輩は、薬だとかいうものを嫌悪している。数日前に会ったばかりの先輩は変わらない様子であったから、他人の空似である。だからこそ、サンダルフォンは男を放っておけない。敬愛してやまない先輩を夜中に放り出すことなんて出来るはずもなく、同じ顔をしている男に同様の仕打ちをすることなんてとでもではないが出来ない。見知らぬ男である。けれども、とサンダルフォンは熟考に熟考を重ねて、男ずるずると部屋に引き入れた。眠っている状態に加えて異性であるから当然軽々と抱えることは出来ない。ずるずると引き摺りこんだ男は、それでも目を覚ます気配は一向にない。
 どうにか、部屋に入れて、自身のベットに放り投げるように寝かせることに成功したサンダルフォンは汗を拭った。男は無茶な体勢でないからか、先ほどに較べたら安らかな寝顔である。
 警察か救急にでも連絡をいれるべきなのだろうが、どうにも訳がありそうな状態であるしサンダルフォンにとっても巻き込まれることは御免である。サンダルフォンは万が一にと、通帳や貴重品を隠して、それからシャワーを浴びた。眠っている男がいつ起きるか分からない現状で危険と意識しつつも、汗をかいて不快であったのだ。サンダルフォンがシャワーを終えても、男は眠ったままであった。そのうちに、サンダルフォンはうつらうつらと始める。緊張感が薄らいでいた。
 目を覚ましたのは、昼を過ぎていた。ぼうっとしてから、はっと男の状態を見ようとすればベッドは、もぬけの殻であった。部屋のあちこちを見ても、男の気配はない。夢だったのかと思う程に男の形跡は無くなっていた。
 サンダルフォンはなんだったのだろうと思いながら、ソファで眠ったためにあちこち固くなった体をほぐした。
 恩を売りたかったわけではない。なんなら、自分勝手なだけだ。けれどもそもそもどうして自分の家の前にわざわざいたのか。しかも二階に。考え出したら疑問は尽きない。サンダルフォンは数日の間は、警戒するように生活をしていたものの、だんだんと男を助けたということも忘れて暮らしていた。すっかり忘れたある日のことである。その日も、閉店作業を終えた帰りであるため、日が暮れていた。それでも、以前のように帰り道は薄気味悪くはなかった。予算が降りたのか、街灯が整備されていた。
 明日は休みであるから、サンダルフォンの足取りは軽い。カンカンカンとアパートの階段を上ったサンダルフォンは、ぎょっとする。
「帰って来たか」と偉そうに口にした男を見て、記憶がフラッシュバックする。といっても、たった数日前のことである。
「待ちくたびれた。早くあけろ」
 のたまう男に、サンダルフォンはむっとするも、何をされるか分からないために言いなりになる。鞄には、防犯用のブザーがある。トカゲなのかドラゴンなのかよくわからないキャラクターのマスコット人形を模したそれは、先輩からの贈り物であった。キャラクターグッズを持ち歩く性格ではないのだが、心配を隠そうともしない先輩の様子に、通勤用の鞄につけている。普段は鞄の内側に入れているマスコット人形を、男に分からないように鞄を持つ振りをして、握りしめる。
 震える手で、鍵を取り出し、開錠をした。
「……お前、危機感は大丈夫か」
「アンタが言ったんじゃないか!!」とは、流石に言えず、理不尽な小言をサンダルフォンは眉間に皺を寄せて聞き入れていた。
 それが出会いであり、きっかけであった。
 ルシファーと名乗った男について、サンダルフォンは詳しく知らない。サンダルフォンの帰りを只管、扉の前で待っている姿に、つい合鍵を渡そうかと思ったが、ルシファーは頑なに拒んだ。ならば来るときに連絡をと言っても、連絡先を交換していない。ただ唐突に不定期に訪れるルシファーを、サンダルフォンは無視することができないでいた。
 当初こそ、ルシファーは匿ってくれた、というのはルシファーの認識でありサンダルフォンにとってはその認識はないのだが、礼だと言って札束を渡されかけたのだが、固辞をした。なんとなく、手を付けたらいけない類の金銭であることを察知したのだ。ルシファーは不快そうに眉間に皺を寄せたが、分かったと引き下がった。その際に出したコーヒーは飲まれることがなかった。それから数日後に訪れたルシファーは大きな宝石を差し出した。何カラットなのか分からない大きさである。宝石に詳しくないサンダルフォンでも、震える大きさであった。「売るなり好きにしろ」と言うルシファーにサンダルフォンは固辞した。矢張り手を出してはいけないと危険信号が発せられていた。ルシファーは不満気だった。その日もコーヒーを口にすることはなかった。
 礼だと言って差し出されるものは一般庶民でしがないバリスタであるサンダルフォンにとってはどれも高級品であったり、一生をかけてもお目に掛かれない代物であった。
「お前は何なら受け取るんだ」
「何もいらないです!」
 そう言ったサンダルフォンをルシファーは未知の存在と出会ったかのような顔で見ていた。
 ルシファーの存在は、サンダルフォンにとって当たり前になっていた。部屋の前の人影にぎょっとすることも、興味深そうに、物珍しそうに部屋を見ている姿に緊張することもなくなった程度に、受け入れていた。なぜあの日倒れていたのかと気になる点はあるものの、問いかけたらルシファーは二度と現れないような気がしたのだ。
 先輩とは血縁関係でもあるのかと問いかけたいが、出来ないでいる。
 先輩やルシファーとよく似た容姿の俳優が有名だった。同じ容姿の人間は世界には3人はいると、サンダルフォンは思い込むことにした。
 ルシファーが部屋を訪れるようになったからといって、サンダルフォンの暮らしに変化はない。部屋には元より、+1人用の生活用具が備えられていた。
「別れたのか?」
 当たり前の使用をしていたルシファーが思い出したように口にした。胡乱な顔を向ければ、ルシファーは冷笑を浮かべた。
「分かってて、言ってるだろ」
 不貞腐れるようにサンダルフォンが言えば、ルシファーは肩を震わせた。
 出会ってから既に1年が経っていた。ルシファーはサンダルフォンに対して元よりなかった遠慮が無くなり、用意をされたコーヒーを口にするようになっていた。警戒しても無駄な相手という認識になったようだった。サンダルフォンもまた、ルシファーに対しての緊張感を抱くことはなくなっていた。
 二人なりの、穏やかな雰囲気の中、ガチャリと開錠される音が響いた。ルシファーの眉間に皺が寄り、咄嗟に武器になり得るだろうとマグカップを手にする。対してサンダルフォンはきょとりとした顔であった。
「来るときは連絡してくれって言ってるだろ?」
「悪いサンディ、誰か来てた?……ってファーさんじゃん」
「なぜおまえがここにいる」
「いやこっちの台詞なんだけど」
「二人は知り合いなのか?」
「それもこっちの台詞なんだけど」
 ベリアルは普段の軽薄な笑みも有耶無耶な困惑を浮かべて、ルシファーとサンダルフォンを見比べる。とりあえず、ルシファーは武器にするつもりで手にしているマグカップはベリアルが選んだものであるのだが、言わぬが花であるのだろうと理解した。
「サンディ、おみやげ。冷蔵物だから」
「わかった。コーヒーでいいな?」
「うん」と言って、キッチンへと向かったサンダルフォンとは逆に、ベリアルはルシファーとは反対に座る。向き合う形になり、ベリアルは降参とでもいうように溜息を零した。
「妹だよ」
「……似てないな」
「半分しか血、繋がってないからね」
 いいながらベリアルは机に肘をついて、頬杖を突く。
 ルシファーを敬愛どころか心酔し崇拝しているベリアルが、聞かれなかったからとはいえ隠してきた妹の存在。──ベリアルが前妻との間に生まれた連れ子であったのに対して、サンダルフォンは、事実婚状態であるものの後妻との間に生まれた。異母兄妹である。一緒に暮らしたのは数年程度であるが、ベリアルにとってサンダルフォンはとっておきの宝物であった。後に同居が解消されるとベリアルは父親に、サンダルフォンは当然のように母親に引き取られた。
 同居が解消された原因は、父親の暴力だった。そもそもベリアルの実母は暴力から逃げるためにいなくなった。サンダルフォンの母も、暴力を振るわれて、逃げ出したのだ。その際にサンダルフォンは連れていかれた。「おにいちゃんは?」と不思議そうなサンダルフォンをベリアルは苦笑して見送った。それからはサンダルフォンにとってベリアルの存在は十年近く空白であった。母親に聞こうにも、それは同時に父の暴力を思い出させることになるから問うことも出来ずにいた。兄はどうしているのだろうかと心配と、自分だけがあの地獄から逃げ出してきたのだという罪悪感が、サンダルフォンの胸にはあった。そんなサンダルフォンの心情なんて知ったこっちゃないと、ベリアルがひょっこりと姿を見せたのは、サンダルフォンが引っ越してきてからだった。
 アパートを出て来たサンダルフォンに、声を掛けた。
 黒のパンツにドレスシャツ、それでいてサングラスをした男に一瞬だけサンダルフォンは怪訝な目を向けた。ベリアルは苦笑しながら、声を掛ける。
「久しぶり……俺の事、覚えてるかサンディ?」と言う兄をサンダルフォンは忘れるわけがなかった。
 サンダルフォンのことをサンディと呼ぶのは兄だけである。
 ベリアルは遠くから見守ってきたサンダルフォンが自分を忘れていないことを知っていたとはいえ、実際に言葉を掛けるとなると別なのだと改めて実感していた。これはヤバイ!と内心では覚えのない感情に興奮していた。何より、触れられる妹の柔らかさと香りが興奮材料であった。
 ベリアルは実際に、暴力による虐待を受けていたものの肉体的にも精神的にも被害者意識はなかった。寧ろ成長するにつれて、父親をじわじわと追い込むだけの知力を得ていた。後に父親は自殺した。追い詰めたのは、ベリアルである。証拠の無い完全殺人であった。
──俺はお前の父親も殺したんだけどな。とは、流石のベリアルも言えずにサンダルフォンと接している。それとなく父の死を伝えてみたものの、複雑な表情をするサンダルフォンには事実を言えないでいた。
 ただベリアルにとってルシファーとサンダルフォンの接触は予想外であった。どちらもベリアルのお気に入りであるものの、そのカテゴリーは異なるのだ。そもそも、ルシファーとサンダルフォンの性質上、仲良くすることは不可能であると思っていた。ルシファーは兎に角言葉が厳しい。サンダルフォンはクールを気取っているものの、末っ子体質で打たれ弱い。だと思っていたのだが、ルシファーの様子とサンダルフォンの雰囲気を観察する限り、読み間違いであったと訂正をする。以外にも相性が悪くないようだった。
 証拠にルシファーはコーヒーを口にしている。
 毒味をすり抜けて、仕込まれて以来、水しか口にしないルシファーがサンダルフォンが淹れたコーヒーを口にしているのだ。それほどまでの信頼関係を築いたようだった。全く、把握していなかった自分に呆れてしまう。
「いつからサンディのこと知ってたの?」
「聞いてどうする?」
「俺、サンディのお兄ちゃんだぜ?」
 ルシファーは仕方なさそうに出会った経緯を口にする。丁度、毒味のすり抜けのあれこれがあった時期であった。ベリアルは考え込み、覚悟したように、口を開いた。
「……ファーさんならお義兄さんって呼んでも良いよ」
「そんな関係じゃない」
「照れなくていいのに」
「何を照れる必要がある」
「だって二人で部屋にいるんでしょ?」
「……誰もかれもがお前のような脳味噌と下半身が直結してると思うな」
 呆れるルシファーにベリアルは口を尖らせる。
「まあ、ファーさんなら信頼できるけどさ……あんまりこっちに巻き込まないでね」
「お前が兄の時点で手遅れだろう」
「それは違いない!!」
 ケラケラと笑う声がリビングから響いた。サンダルフォンは、ルシファーとベリアルの関係性が分からないまでも、楽し気な雰囲気に嬉しさ半分と、取られてしまったかのような淋しさが浮かんでいた。
(取られたって……なんだ?)
 自分で思ってから気まずくなる。兄に対するものなのか、それとも……と考えを振り払う。この関係を続けるのに、不要な言葉が浮かび上がったのを知らないふりをした。

Title:誰花
2021/10/13
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