ピリオド

  • since 12/06/19
 出会ってから5年、付き合ってからは3年が経つ恋人がいる。生まれて初めて出来た恋人だ。

 学生時代のアルバイト先である喫茶店の常連客だった。近くにオフィス街があるものの、奥まった場所に位置する昔ながらの喫茶店の常連客は得てして、高齢である。そんな中で、若く美しい青年であるルシフェルは目を惹いた。ルシフェルが訪れるのは決まって正午を過ぎて暫く経った頃である。常連客はもう少し後になってから、そしてランチを利用する客もいなくなってからという時間に現れることに気づいた。
「ごちそうさま、美味しかったよ」
 そう言って、ルシフェルはいつだって、どこか名残惜しむように帰っていく。言葉を掛けられて、何だか淋しいような、不思議な気持ちになっていた。老齢に差し掛かるマスターは砂糖を噛んだかのような顔で、呆れていた。
 その頃には、ルシフェルの事をただの常連客とは思っていなかった。けれども、何かが足りない。そんな宙ぶらりんな感情を、持て余していた。転機があったのは、就職のためにアルバイトを辞めることになってからだった。もう、ルシフェルとは出会わないだろうと思っていた。自分の人生に、こんな少女漫画のような、淡い感情を伴う出来事が起こるとは思わないでいた。すっかり、自覚していた。ルシフェルのことを憎からず、思っている。けれども、ルシフェルとどうこう、というロマンスを求めてはいなかった。想像もしていなかった。
 ルシフェルに向ける一番近い感情は、アイドルに向けるような、崇拝に近いものだ。そもそもルシフェルとは喫茶店の常連客とバイトスタッフという関係が無かったら、出会うことすら、無かったのだ。友人曰くは「それが運命なんでしょ」らしいが、曖昧な苦笑を浮かべてしまう。きっと、この関係が限界なのだと身の引き際は弁えている。

 自分が喫茶店からいなくなっても、何も変わらないのだ。
 マスターはマスターのままであるし、最初はもしかしたらバイトスタッフいなくなったことで業務がままならなくなるかもしれないが、何時かは慣れる。可愛がってくれる常連客達も、最初は淋しく思ってくれるかもしれないし、「どうしているのかしら」と話題にあげてくれるかもしれない。けれども暫く経てば、忘れ去ってしまうだろう。だから、言うまでもない。自分がいなくても、ルシフェルにとっては喫茶店が通い慣れた店であることに、代わりは無い。
 最後の出勤の際にも顔を合わせたが、何も言わなかった。自分以上にやきもきとしているマスターが可笑しかった。結局それきりのはずであったのに、ルシフェルとの縁は不思議に続いている。

 内定を貰った会社が、吸収合併された。合併先である、本社となった大企業にはルシフェルが務めていることを知っていたから、奇妙なものだなと、他人事のように思っていた。それでも、本社務めとは天と地ほどの差があるし、何より、勤め先は地方に位置する。出会うことはないだろうと思っていたというのに、ルシフェルが、末端社員の把握するところではないらしい様々な条件のなかで、本社から派遣されたのだ。偶然と片付けるには、ちょっとだけ、怖くなった。けれども、ルシフェルに対して嫌悪感があるわけではない。業務内容は改善されたし、何より、住み慣れた場所でもない地方で、知り合いがいない中で、立場はあれども、見知った人との再会は、少なからずサンダルフォンにとっては嬉しい出来事であったのだ。ルシフェルも同様であったのかは、知るところではない。それでも、喫茶店で顔を合わせていたときよりも距離が縮まったのは確かであった。

 懐かしい、といっても互いに数か月程度前のことであるのだが、喫茶店の話題で盛り上がった際に、うっかりと言った具合に「きみがいなくなって淋しかった」と言われてから、意識をせざるを得なくなった。どういう意味なのかと、聞く勇気はなかった。勘違いだったら、恥ずかしくて死んでしまう。これからも上司と部下として、顔を合わせないといけないのに、居た堪れない。何も問いかけることができず、ただ、ぼんやりと流されるように、休日に二人で会うようになってから、付き合うようになった。だから、ルシフェルの淋しかったは、そういう意味であったのだと、思っている。

 恋人という立場になってからも、ルシフェルは出来過ぎた人である。決して惚気ではない。なにをしてもスマートにこなしてしまうから、恋人としての立場が無くなってしまう。そもそもどうして自分のことを好きなのだろうか、とも考えてしまう。もしも異性として自分と向き合うならば、決して選ばない。なんせ、女性らしくない。それでもルシフェルは可愛いと、素敵だと言い聞かせるように囁くのだ。安心させるための、嘘ではない。ルシフェルは真摯で、誠実だ。これは、惚気である。

 ルシフェルに応えたいと、努力をした。いつもはパンツスタイルで出掛けるところを、勇気を出してスカートを選んだ。本当は、スカートは苦手だった。それでも、雑誌を読んで研究をして、一般的な嗜好として、折角のデートなのだからと、それに出かけるときは殆ど屋内で過ごしているから、問題ないだろうと臨んだ。待ち合わせ場所に現れたルシフェルは、恰好を見るなり、一瞬だけ、顔を曇らせた。失敗したと思った。
「そのままの君を好ましくおもっているから、無理をすることはないよ」
 ルシフェルは、女性らしさを求めていないようだった。
 ほっとしたのを、気付かれてくすりと笑われた。顔から火が出るかと思って、俯いた。
 別に、無理をしたつもりはなかった。ルシフェルの言葉にほっとすればよいのか迷った

 喫茶店に通っていた頃から、ルシフェルはブラックコーヒーを好んでいた。けれども、喫茶店に勤めていながら、コーヒーそのものが苦手だった。コーヒーよりも紅茶のほうが好ましく思っていたが、そこはルシフェルに合わせた。ただし、ミルクと砂糖を入れなければ飲めないでいた。どぼどぼと下品な量を入れるわけではない。一般的な範囲である。それでも、ルシフェルがショックを受けたような顔をしたから、無理矢理に、ブラックで飲むようにした。矢張り苦くて、美味しいとは思えなかった。だけど、ルシフェルは嬉しそうにしていた。その姿が見たくて、いつしか、ブラックコーヒーを飲めるようになっていた。

 女にしては高い身長がコンプレックスだった。ルシフェルの方が背が高いとはいえ、昔からの劣等感で、選ぶ靴というのは殆どヒールの無い、あるいは誤差程度の高さである。パンツスタイルと合わせると、女性らしさはないなと鏡に映る自分の姿を見るたびに呆れていた。だけどルシフェルがきっと似合うと言って選ぶのはヒールの高い、それも限定的に言えばブーツだった。昔に言った言葉と違うじゃない! と否定することは出来なかった。
 確かに女性らしいデザインではないものの、そのヒールの高さを誤差と呼ぶには無理がある。
 試しに履いてみればすっきりとしたデザインで、悪くはなかった。スタイルも、良く見える。ルシフェルは嬉しそうに「似合うよ」と言う。心の奥底では、もやもやとしたものが湧いていた。だけど、ルシフェルに失望されることが、嫌われることが怖くて、その靴を履くようになった。ルシフェルは満足そうに、喜んでいる。だから、悪くない。そう、思い込むことにした。

 そんなことが積み重なっていた。
 ルシフェルは、否定を口にしない。ただ、似合うといって、差しだすだけだ。選んでいるのは自分自身だ。それでも、どこかで違和感を覚えていた。鈍くはない。好意に対しては自己肯定感の低さから否定的であはあるものの、己に向けられる感情に関しては、客観的にも聡い。だからこそ、気付いてしまった。
「サンダルフォン」
 ルシフェルに呼びかけられるたびに、どきどきとしていたのが嘘のように、冷えていくのが分かった。呼びかける声音は、恥ずかしく思う程に甘い。けれども、自分に向けられていないことに、気付いてしまった。サンダルフォンという名前で、呼びかけられているのに、自分を通して、誰かを見ている。気づいたときには合点がいった。

 女性らしくない服装も、ブラックコーヒーも、ブーツも上げだしたらきりがない。細かな所では口調や髪型爪の長さ。似合っているのは、ルシフェルが求めている、誰かだった。

 自分が誰かになっていく。その感覚は、恐ろしい。段々と自分自身が消えていくのだ。大事にしていたものに思い入れを感じなくなる。ブラックコーヒーを好むようになる。女性らしい口調を、時折忘れる。選び取るものは、好みじゃなかった。段々と、私が塗り替えられていく、私が消えていく──……サンダルフォンはぼんやりとシンクを流れる水を眺める。

 洗い終えたカップは二つである。ルシフェルと、サンダルフォンのものである。カップを買ったときのことを思い出していた。付き合いだしてから暫く経った頃の事だ。お互いの家を行き来することにも慣れだした時期である。たった、数年前のことだというのに随分と昔のことのように思ってしまう。百年、千年に較べたら些細な時間であるというのに、苦笑するサンダルフォンはじんわりと頭の中心が熱を持ったように感じた。体の先が冷えていく感覚を覚える。無意識に、息を詰めて、シンクに凭れ掛かっていた。
「気分が悪いのかい?」
 声を掛けられて、詰めていた息を吐き出す。サンダルフォンは何をしていたのか、自分でも分からなかった。咄嗟に何も言えないサンダルフォンを、ルシフェルが心配そうに見つめる。けれども、心配することはなにもない。
「いえ、少しぼんやりしていただけです」
 サンダルフォンが言えば、ルシフェルは納得しきれていない様子で、心配そうにしたままである。その心配を向けられることに、ほの暗い歓喜を覚えてしまうが、その感情を直隠した。俺はなんて幸せ者なのだろうと、改めて思ってしまう。そして、なにか忘れているような、気持ちの悪い感覚があったが、きっとどうでもよいことであると、思い出すこともなく、とある女は世界から消えて行った。

Title:sprinklamp,
2021/10/04
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