喫茶店内部は外観で想像していたよりも、小さかった。あるいは、ルシフェルが平均よりも背が高いために小さく感じた。
カウンター席とボックス席とカウントするべきなのか、テーブルと椅子のセットが2つ、窓に沿って設置されていた。
昼を過ぎた時間ということもあったのか、元々客が少ないのかは定かではないが、客はいなかった。
「いらっしゃいませ」
若い声だと思った。何処か、驚いた雰囲気が察せられた。もしかしたら、準備中だったのだろうかと、心配になったが、
「お好きな席にお掛けください」
と続けて言われて安心をする。
お好きな席と言われて、ルシフェルは迷ってからカウンターの端に座った。それから、隣のカウンター席との間に設置されていたメニューを手に取る。
昔ながらのメニュー内容の中、ルシフェルはブレンドを注文した。
店主は、注文を確認すると、少し時間がかかりますがよろしいですかと言うので、ルシフェルは了承をした。
注文に時間がかかるといっていた理由は、注文をしてから豆を挽くためであったらしい。ごりごりと豆が惹かれる音と、同時に喫茶店内を香ばしい薫りが包む。
「お待たせしました」
と店主が言葉を添えて珈琲が運ばれる。ちっとも、待ったという感覚はなく、あっというまにすら感じた。寧ろ、あの音と香りの空間は心安らいだ気持ちになっていたから惜しむ気持ちすらあった。
「ありがとう」
言ってから、口にした瞬間に、郷愁にも似た胸が締め付けられるような切なさと同時に、安らぎを見出したような気持ちで、ルシフェルは驚いていた。こくりと飲み干して、ざわざわと忙しない心を落ち着かせるように息を吐き出す。それから、そっと視線をカウンターの奥に向ける。喫茶店を営む若い男性。それまでの視界は、擦りガラスで遮られていたのではないかと思う程に、今では、くっきりと認識できる。なぜ一目で認識できなかったのかと口惜しさと情けなさが一瞬にして沸き起こり、ルシフェルを苛んだ。
「口に合いませんでしたか?」
黙りこんで、顔色が悪くなったルシフェルに声が掛けられる。
「いや、とても、美味しいよ」
「ならば、良いのですけれど……」
若い店主は納得しきれていない様子で、勘違いでなければ淋しそうですらありながらも、言葉を受け入れる。その仕草もまた、懐かしいものであった。
ルシフェルは途端に、中庭に意識が逆行する。変化の乏しい研究所は、いつからか、ルシフェルの戻るべき場所であった。帰るべき場所であった。そこには、サンダルフォンがいた。天司長という立場も、麾下という立場もない。役割がないサンダルフォンの前では、ルシフェルはなにものでもなかった。ただの、ルシフェルでいられたのだ。結局それは、ルシフェルにとっての独り善がりな、甘えでしかなくて、サンダルフォンの心を傷付けた上で成り立つ関係でしか、なかったのだが。
「……いつから喫茶店を?」
「俺が引き継いだのは4年程前ですが、祖父の時代になるともっと前からです」
「そう、だったのか……いや、この通りは通勤で使用しているのだが、喫茶店があることを知ったのは今日が初めてだったんだ」
「ああ……」
ルシフェルが言い訳するみたいに言えば、そりゃそうだとでもいうような曖昧な首肯に少しだけ苦い笑いを浮かべた。
「祖父が店を開いたときは、商店街といった街並みだったんですけど、開発とかで他の店が無くなったみたいで。ここは取り残されたというか、祖父も意地になったというか」
なんともアグレッシブな内容であったからルシフェルは目を丸くして、同じ様な苦笑を浮かべてしまう。そして青年を見る。4年間。ルシフェルは何も知らないまま、この通りを通勤にと使用していた。どうして立ち止まることをしなかったのか、通りの風景に目をやらなかったのかと、悔やんだ。
「あの、本当に、大丈夫ですか?」
「っすまない。大丈夫だ」
──君は案ずることは無いよ。
口に仕掛けて、のみこんだ。代わりに、言葉を紡いだ。
「……4年間、勿体ないことをしたなと思ってね。こんなに美味しい珈琲が飲めることを知らなかったなんて」
ルシフェルが言えば、店主は面食らったように瞬いてから、笑みを零した。
「4年前はこんな風に淹れられませんでしたから、今で良かったかもしれませんよ?」
「そんなことはないさ。寧ろ4年の成長を感じ取れたかもしれない」
「畏れ多いです」
軽口に、ルシフェルはたまらない気持になる。
ルシフェルには、天司としての記憶を、彼が有しているのか確認をする術はなかった。有していたうえで、何も知らないふりをしているのか、あるいはルシフェルであることに気付いていないのか。はたまた、記憶がないのか。けれどもそれらは全て、どうだってよかった。ルシフェルの前に、サンダルフォンがいる。それだけで、ルシフェルは満たされた気持ちになったのだ。ただ、欲を言えば、サンダルフォンを独り占めたいという気持ちはある。今の立場で、倫理観であれば犯罪になるために思うだけに留めておく。
別にかまをかけるつもりではなかった。ただ、会話が心地よく、珈琲が美味しいから、つい、口が滑ってしまっただけである。
「君には初めて会ったような気がしないな」
それまで和やかであった雰囲気が凍ったのは、ルシフェルの気の所為ではない。幾ら人の感情の機微に疎いと言われるルシフェルですら、感じったのだ。
「……気に入って下さってなによりです」
にこりと張り付けた笑みには、苦い記憶が呼び起こされる。自らの役割についての悩んでいたサンダルフォンを、慰めるように言葉をかけては返された笑みと同じであった。
ああ、きみはサンダルフォンであるのだなと、ルシフェルは納得をして、ならば遠慮をする必要はないなと笑みを向けた。サンダルフォンは引き攣ったような笑みを浮かべてから、御用がありましたらお声かけくださいとカウンターの奥に、もたつく脚を必死で動かして引っ込んでしまった。ルシフェルは声を掛けようとしたが、止めて置く。メニューを手に取る。営業時間が書かれている。休みの日を確認する。ただ、ルシフェルの毎日のルーティーンに、喫茶店が加わっただけである。