ピリオド

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「サンダルフォン、きみもおいで。このテラスからは海が良く見えるんだ。君は海が好きだろう? それに今日は良い月夜だ……こんな月夜はあの日のことを思い出すよ。数年前だったかな、公務で航海に出ていたんだ。目的は和平条約の締結だった。長年、冷戦状態でお互いにいつ仕掛けようか、と伺っているような状態だったんだ。──うん、今でこそ友好国であるけれどそれもここ数年での変化なんだ。その帰りの航路でのことだった。サンダルフォンは船に乗ったことはあるかい? そうか、ないのか。君は馬車でも酔ってしまうくらいに乗り物に弱いからね、きっと船の揺らぎは耐え難いものだろうね。私が乗っていたのは、公務用の船だけあって、一般的な船に較べたら丈夫で、起用している操舵士や船員も優秀だった。それでも常に、一定の揺れはあったのだが、時化となると別の話だ。とても、比べ物にならない。屈強な船員たちが立っていられずに転がっていくんだ。他人事みたいに言っているかい? 私も、転がっていたよ。そして海に放り投げられた。ポシャン、とね。見上げれば、呑みこむように、暗がりが広がっていた。真冬の海に投げ出された衝撃で、意識は朦朧としていた。ああ、私は死ぬのだろうなと思ったよ。大丈夫、ほら。サンダルフォン。私は生きているだろう? うん、助かったからね。沈みゆく私を、誰かが引き揚げてくれたんだ。くらくらとする頭で、ぼやける視界で、私はね、人魚を見たんだ。嘘だと思うかい? それとも、頭が可笑しくなったのでも?……すまない、意地悪をいうつもりはないんだ。ああ、サンダルフォン。そんなに首を振っては取れてしまう。だけど、ありがとう。君ならきっと、信じてくれると思ったんだ。海に面した国とだけあって、人魚にまつわる伝承は伝え聞いていた。歌で魅了して人間を海に引きずり込む怪物だとか、その血肉には不老不死の効果がある、だとか、ね。私も幼い頃に乳母が寝物語として聞かせてくれたことを覚えていた。だけど、子どもながらにいるわけがない。そんなもの見間違いだろう、と思っていたんだ。……これはね、誰にも言っていないことなのだけれど、私は人魚に助けられたんだ。うん、人魚は実在した。それもおそろしい怪物なんかではない。見ず知らずの私を助けてくれるような、心根の優しい存在だ。私はね、初めて知ったのだけれど、海で暮らす生物にとって、人間の温度というのは酷く熱いものらしい。そんな生き物を、人魚が自分の身も省みずに助けてくれたんだ。あの子の体に火傷の痕が刻まれているのをぼんやりとした意識で見た。気づいたときには夜が明けて、砂浜で倒れていた私を事件を聞きつけた騎士たちに救助された。私を一番に見つけた騎士に聞いたんだ。私を見つけたとき、誰かいなかったのかと。それに対して、誰もいなかったといった。私があなたを助けたのです、とも。その言葉に嘘はないのだろうけれど、真実でもない。なんせ、私にとっての命の恩人は、あの極寒の海のなか、自らが焼け爛れても、私を抱きしめて泳いでくれたあの人魚なんだ。──それから私はもしかしたらと期待を込めて、城を抜け出しては浜辺を捜索していたんだ。あの時の人魚が近くにいるかもしれない、と思っていてね。そんな中できみを見つけた。驚いたよ。春先とはいえ、まだまだ寒い時期で、それも明け方に波打ち際で倒れていたのだから。君は傷だらけで、あちこちに火傷のあとがあって……。船が難破したという報告もなかったからね……言いたくないことならば、言わなくていい。だけど私は今、きみとこうして話すことができてうれしいということだけは知っていて欲しい。うん? 確かに、君は声が出ないが、表情豊かで素直だからね。言葉よりも雄弁だ。君と過ごす時間は何よりも心安らかに過ごせる。実はね、きみを助け出したとき父上には酷く咎められた。暗殺者であったらどうするのか、と言われたが私はきみは絶対に違うと確信していたんだ。なんせ君は本当に何も知らない、赤子のようだったからね。歩くことも、食事も何もかもが分からないでいたんだから。声も出せない、文字もかけない。演技ではないかと言うものもいたが、きみは本当に、何も知らなかったからね。恥ずかしがることはない。今の君は、知らなかったことを恥ずかしいと思うほどに、学んでいるのだから。きみが何者であっても、私にとっては、サンダルフォンという存在であることに変わりはないんだ。サンダルフォン。私のサンダルフォン。きみが何を隠していても、私は咎めることはないよ。だけど、私はきみが傷つくことや、いなくなってしまうことは、酷く、悲しい。……これはね、王家にだけ伝わっているお伽噺だ。何十代も前に私と同じく海に落ちた王子がいたんだ。その王子もまた、人魚に助けられた。人魚は王子に一目惚れをして、会いたいがために、足を得るために美しい歌声を失ったというのに、王子は人魚のことをすっかり忘れて、自分を助けたという貴族の女と結婚をしたんだ。失意の人魚は、歌声も尾びれも失って、果てには泡になって消えてしまった。どうしてこの話が伝わっているのか、と気になるのかい? うん、まだ続きがあってね。この人魚に魔法をかけたという海の魔女が現れたんだ。海の魔女は慈悲深くてね、人魚を哀れに思ったのだろう。人魚の声を王子に託したんだ。その声を聞いて、王子は自分を助けてくれたのは人魚であること。そして、その人魚は今までも自分の近くにいてくれていたこと……もはや、この世には存在しないことを知ったんだ。王子の絶望は、どれほどだろうね。自分を助けたと言った貴族の女を、信じて、愛して、妻にして、そして本当の恩人である人魚をすっかり忘れて過ごしていたんだ。私はね、この王子のようにはなりたくない。私を助けてくれた人魚を失いたくない。──ところで、サンダルフォン。きみの呪いを解くのはどうすれば良いのだろうか。常套手段としては……愛する者の口づけといったところだと思っているのだが?」
──勿論私は君を愛しているから条件としては問題ないのだが、どうだろうか。と言って、全てお見通しなルシフェルに対して、サンダルフォンは顔を真っ赤にして、口をまごつかせた。

Title:エナメル
2021/09/22
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