ピリオド

  • since 12/06/19
 カーテンの隙間から、僅かな光が差し込む。眩しさに、ぼんやりとして、肌寒さに、目を覚ました。カーテンを閉めようと、寝台の上部に位置する窓に手を伸ばす。隣で眠っているサンダルフォンが、暖を求めるように、すり寄って来た。意識がある時には、照れて、二人きりでも、触れ合うことは少ない。珍しいことだ、離れがたいと思いながら、ルシフェルはサンダルフォンの綿毛のような癖毛を指先に絡めて、何度も何度も、躊躇いながらやっと体を起こした。サンダルフォンはむずがるようにしていたが、やがて猫のように背中を丸めて、また、すうすうと穏やかな寝息を立てる。ルシフェルが寝台から降りて、身支度を終えても、起きる気配はなかった。仕方のないことだ。昨夜のことを思い出して、階下へ向かった。
 薄暗い部屋のカーテンを開け、朝露が煌めき、目を細める。
「良い天気だな」とひとりごちると、玄関へと向かった。玄関を出れば、朝の湿った香りを感じる。ポストから、新聞を取り、リビングで読む。暫くすると、ルシフェルの耳が震える。家の前を、子供が数人通って行った。はしゃいでいる声に、つい、なごんでしまう。
 新聞を読み終えるとルシフェルはキッチンへと向かい、湯を沸かす。
 戸棚からマグカップを二つ、取り出した。

「おはよう、サンダルフォン」
 声を掛けられたサンダルフォンは、しょぼしょぼと数度、瞬きを繰り返すも、まだ夢心地であった。──体が、どうしてだかひどく重怠い。具体的に言えば、腰がひどい。それから、肌寒い。どうして、自分は寝間着を脱いでいるのだろうか。うつらうつらとしながら、ぼんやりと考え込むサンダルフォンであったが、抑えつけようとしてついうっかり、漏れたようなくぐもった笑い声に、思い出す。そういえば、昨夜。ハっと、頭が覚めた。体を起こせば、鈍い腰の原因が声を掛ける。
「おはよう、サンダルフォン」
 二回目の言葉を口にしたルシフェルは寝台に腰掛けると、マグカップを差し出した。中身は珈琲である。芳ばしい香りがたちこめる。普段の朝は、サンダルフォンが淹れる。サンダルフォンの方が早起きだったのだ。けれども触れ合った翌日は、こうして、ルシフェルが淹れる。サンダルフォンは気恥ずかしく、おずおずと、受け取った。
「おはようございます、ルシフェル、さま」
 声はがらがらに枯れていて、それからどうしても抜けきらない敬称に、ルシフェルは微苦笑を漏らした。サンダルフォンは、羞恥に、俯いた。

 ちびちびと飲み終えた珈琲を片づけようと、空になったマグカップを二つ手に取ったルシフェルに、サンダルフォンは目が釘付けになり、ふと、思い出した。
 エルーンの服装は特徴的だ。男女問わず、そして季節や気候も関わらず、背中を露出している。当然ながら、ルシフェルもまた、背中の開いた衣装を身につけている。再開をして間もない頃、問いかけたことがある。その時は、秋が深まっていた時期で肌寒くなっていた。サンダルフォンは薄手であるものの、重ね着をしていたのだが、ルシフェルは厚着ではあるものの、矢張り、背中の開いた服であった。寒くないのだろうかと、心配になった。
 サンダルフォンは無自覚であるが、他者への興味は薄い。遠い昔、天司として生きていた頃に特異点に共闘を持ち掛け、騎空艇に乗り合わせ、やがて団員として身を置くようになってからも、自ら進んで、人と関わることは少なかった。その当時、団員の中には勿論エルーンがいた。彼らもやはり、サンダルフォンが生きる時代と同じく、背中が丸見えの衣装を好んでいたのだが、サンダルフォンは一度として、なぜ、だとも寒くないのだろうか、とも疑問や心配を抱くことはなかった。ただ、そういうものなのだと思っていたのだ。だというのに、ルシフェルがその姿であることには心配になった。サンダルフォンよりも数年早く生まれて、それまでエルーンとして問題なく過ごせているということは、頭から抜け落ちていた。問われたルシフェルはといえば、虚をつかれたようにしてから、少しだけ思い返す。
 当然、ルシフェルも寒さを感じることはあるが、服装に関してはそういうものであると思い込んでいたのだ。ややあってから口を開くと「考えたことが無かったが、問題はないよ」と苦笑気味に言った。寒くないのであれば構わないので、サンダルフォンはそういうものなのだろうと、深く考える事は無かった。
 今、視界に入ったルシフェルの背中には、細いミミズ腫れが幾つも重なっていた。見ていて痛々しいったらない。サンダルフォンはどうしてそんなところに怪我を、と怪訝に思ったところで、その傷は、他ならない、サンダルフォン自身が、昨夜、朦朧とした意識の中で、刻んだものであることを思い出す。赤面をして、うううと呻いた。
「サンダルフォン?」
「なんでもありません」
 くぐもった声に、ルシフェルの頭部からひょこりと突き出た三角の耳がひくりと揺れる。どうしたのだろうと思ってから、背中を見られたことを思い出す。ルシフェルにとっては、嬉しい痛みであるだけの傷である。サンダルフォンを辱めようだとか、責任を感じさせようだとか、意図して、見せつけたわけではない。
「カップを下げてくるよ」
「ありがとう、ございます。珈琲、美味しかったです」
「そうか……良かった」
 素知らぬ振りをして、それだけを言うと、部屋を出る。なんだか、胸の内がカッカッと熱くなっていた。
 ルシフェルが部屋から出て行ったあと、取り残されたサンダルフォンは寝台の上で羞恥に思う存分に悶えると、もそりと起き上がる。それから、のそのそと着替える。暑さが和らぎ涼しくなってきた。寒さが得意ではないサンダルフォンは少しだけ、厚手の服を出している。丈は勿論、長袖だ。カットソーに黒いパンツを身につけ、部屋を出る。腰の痛みは鈍いものの、支障はない。──しかし、何時まで経っても、慣れない。ルシフェルさまはどうして平気なのだろうか。その程度の行為なのだろうか。と不安に駆られる。けれど、行為の最中、告げられる言葉や、触れた熱は真実であるから、想いを疑うことはしない。たぶん、きっと、あの御方の心臓は鋼鉄なのだろう。サンダルフォンは、そう思っている。あるいは、ちょっと、ずれた感覚をなさっている。
 サンダルフォンが理解できないタイミングで、照れることがある。サンダルフォンは、つい、つられてしまうけれど、そのタイミングは未だ、分かることができない。
 部屋を出て、ゆっくりと階段を下りて、リビングを覗く。ルシフェルは出かける用意をしていた。ひくりと耳が反応をして、顔をあげれば、視線が交わる。サンダルフォンは気恥ずかしさが残るものの、努めて平静に、声を掛けた。
「どこに出かけるんですか?」
「今朝の分で、珈琲がそろそろ無くなったようだから。それから、洗剤も買い足しておきたいんだ」
「あ!」とサンダルフォンは声を上げる。買わなければ、と思いながら忙しく、つい忘れていたのだ。
「俺も行きます。……あと、今日は肌寒いですし、」ともごもごと言いながら羽織り物をすすめる。別に寒くないのだが、と思ったルシフェルであったが、えっとでも、と言いながら珍しく引く様子のないサンダルフォンに、そういえばと背中の状態を思い出す。サンダルフォンの耳は仄かに色付いていた。
「そうだな、何か羽織って行こう」
 サンダルフォンはあからさまにほっと、安堵の息を吐き出した。

 市場まで歩いている間に、そういえばアレが足りない、これが少しになっていたと話をしていれば、必要な品はそこそこの数になっていた。

 昼前の時間帯で、市場は賑わっていた。サンダルフォンは無意識で、ルシフェルの傍に寄った。サンダルフォンは人込みが得意ではなく、酔いやすい。匂いや、致し方ないとはいえ、触れることが、苦手だった。ルシフェルは、サンダルフォンが顔を強張らせていることに気づくと、ゆっくりと歩きながら、人込みを抜けて、人通りの疎らな通りに入る。やがて行きつけの、年老いた女主人が営む雑貨屋に入る。
 日用品から、他所の島の名産まで取り揃えている店は怪し気ながらも気前が良い。商品がとにかく多く、ルシフェルよりも小柄なサンダルフォンを前にして、店に入る。並んで入るのは、商品を倒してしまいそうで、怖かった。
「久しぶりだね……おや」と女主人は顔の良い異種族の二人組を見て、瞬きを繰り返すと、にやにやと含み笑いを浮かべる。不気味で、居心地の悪い視線にサンダルフォンは苛立ちよりも、狼狽えてしまう。ルシフェルはにやけ顔の意図に気づき、言わないでくれという意味を込めて唇に人差し指を添えた。心得たとばかりに女主人はごほんとワザとらしい咳ばらいをする。サンダルフォンは訝しみながら、女主人を見ると、ルシフェルを振り返った。ルシフェルは「なんだい?」と穏やかに問う。サンダルフォンは腑に落ちないものの、「いえ」と女主人に向きなおした。納得しきれていないまま、女主人から商品を購入する。にやけた調子のまま袋に詰め込んだ女主人は、そういえばとごそごそと何かを取り出した。
「これは新作なんだよ。隣の島ではもう冬らしくてね……どうだい?」と言って鈍い色をしたストールを差し出す。よく見れば裾には刺繍が施されている。
 季節の変わり目とだけあって、衣装を取り扱う店では新作が出始めている。ただ、ストールならば家にあるし、毎年買い換えるものでもない。今のものも、気に入っている。そもそも多種多様な雑貨を取り扱うといっても、雑貨屋でわざわざ買い求める必要はない。と、サンダルフォンが断る前に、
「そうだな……白は?」
「あるよ」と言って広げられる。ルシフェルはストールをよく見てから、うん、と頷き満足したように、
「なら、それも」と言った。
「すぐに使うかい?」
「ああ」
 サンダルフォンは、二人の会話についていけず、置いてけぼりであった。そんなサンダルフォンにルシフェルは笑みを向ける。女主人は、お熱いこと。と言ってから、ストールのタグを切った。

 片手に買ったばかりの日用品は入った袋を持つルシフェルと共に、店を出る。それから、ルシフェルにストールを巻かれる。サンダルフォンは眉を下げて、
「そんなに寒くありませんよ?」
「いや、うん」
 歯切れ悪いルシフェルを、サンダルフォンは不思議に、見上げた。ルシフェルは鈍感なサンダルフォンがたまらなく愛しくて仕方なかったのだが、誤魔化しは逆効果であることを、学習している。仕方なく、店内で狼狽えられては可哀想だからと曖昧に濁した理由を口にする。
「きみと同じだ」
 どういう意味なのだろうかと、サンダルフォンは一瞬理解が出来なかったが。
「あ」と気づくと。顔を真っ赤にしてから、巻かれたばかりのストールにおずおずと触れた。急激に、首筋のひりつきを、思い出した。


 ストールに触れながら、ルシフェルの隣を歩く。
「俺が持ちます」と言ったものの、ルシフェルはサンダルフォンに持たさることがない。だから、両手が淋しく、心許ない。次は俺が持とう。と決意をしていたサンダルフォンは、覚えのある通りに差し掛かったところで、思い出す。少しだけ顔色を明るくさせて、ルシフェルに声を掛けた。
「この先を曲がったところにパン屋があるでしょう?」
「ああ。食パンが美味しいところだね。買って帰ろうか」
「いいですね! あ、そうじゃなくて……そこのパン屋、看板犬がいるじゃないですか。茶色の……」
「焼きたてのパン色、だったかな?」
 二人で顔を合わせて笑い合う。
「そうです。あの子、ついこの間子犬を産んだんですよ。とっても小さくて、可愛くて!」
「それは、」
 目出度いことだ。と言いかけたルシフェルは、しまったと思い直し、口をつぐんだ。
 サンダルフォンは、子犬のことを思い出していた。ころころと転がっては母親に咥えられて移動させられていた。穏やかな店主夫妻は、里親を探していた。もしかしたら、既に貰われてしまっているかもしれないが、まだいるのなら、少し、大きくなっているのだろうか。果たして10日そこらで成長するのか分からないものの、もしいたら、今日は撫でてみたいと思う。
 先日、その存在が転がっていたとき両手が塞がっていて、足元のふわふわを堪能することができなかったのだ。興味深そうに、サンダルフォンの足下で転がっていた子犬であったが、母犬に咥えられて隔離されてしまっていた。
 ルシフェルさまも、気に入って下さると良いのだがと、自分がとても癒されたものであるから、少しだけ期待してしまう。記憶にある限り、犬はお嫌いではなかったはずだ。
 パン屋は営業中であるらしく、時間もあってか店の外まで焼きたての芳ばしい香りを漂わせていた。看板犬と、そして子犬もいた。しかし、サンダルフォンが期待していた出迎えは無かった。
 キャンキャンと吠える声は歓迎ではなく、威嚇に近いものだ。しかし、吠え声といっても、子犬であるから可愛さや恐ろしさはイマイチ、感じられない。
「どうしたんだろう?」
 サンダルフォンはショック、というよりも疑問をぽつりと呟いた。

 サンダルフォンは、研究所にいたころから、小動物に好かれやすかった。
 実験室から逃走をしてきた小型の星晶獣や、野生の小鳥には中庭でルシフェルを待っていたとき、随分とすり寄られた。中庭で突っ伏して眠っていた時には、いつのまにかあちこちが毛だらけになっていたし、貢物のように花や木の実が置かれていた。ルシフェルは、驚いた様子であったが、サンダルフォンはまたか、と思っていた。なんせ私室の窓枠には、いつも、小鳥が集まってくるくらいである。
 愛らしい、と呑気に思っていたものはやがて、廃れてやさぐれ、捨て鉢になった時には、同情や憐みであったのだろうと、不快に思っていた。時を経て、かつてのようにとはいかないまでも、落ちつきと冷静さを取り戻して騎空艇に身を寄せるようになったときでも、鳥や猫に好かれるのだから、これは同情や憐みなんてものではないのだろうと、受け入れていた。
 帆先の掃除をしていれば、集まって来た小鳥が囀るのに合わせて小さく歌った。
「言葉が分かるの?」
 欄干にもたれ、頬杖をついた特異点が声を掛ける。
「わかるものか。第一、こいつらは星晶獣でもないぞ?」
「だって一緒に歌ってるから」
「集まる時はたいてい、構ってほしい時だ。ほら、俺は掃除の続きがあるんだ。さっさと行け」
 小鳥たちは、サンダルフォンにすり寄ると言葉を聞き入れたみたいに飛び去って行った。「やっぱり、通じ合ってるじゃん」と呟いた特異点は、掃除をさぼっていたことをリーシャに咎められていた。サンダルフォンは全くと思いながら帆先の掃除をしたのは、随分と遠い記憶である。
 それは天司であるからなのかと思っていたのだが、ただの人間である現代においても、変わらない性質である。天司であることや、天司長という立場だとかは関係がないようだった。ルシフェルに問いかけても、そのようなことはなかったよと、不思議そうに言われる。サンダルフォンの、体質であるようだった。
 サンダルフォンは動物に好かれやすい。だから、何もしていない状況で威嚇をされるということは初めてだった。
「すまない、サンダルフォン」
「どうしてルシフェルさまが謝るんですか?」

 ルシフェルは、言うか言うまいか、悩んだ。
 エルーンとして生まれたルシフェルの耳と尾は、真っ白である。ともすれば、犬だと思われがちであり、サンダルフォンも犬なのだろうと思っているが、実際には狼をルーツとしている。カルムのような暗殺を生業としていたわけではない。極寒の地において、集団での狩猟を得意としていた。時代が進むにつれて狩猟は不要となり、それでもその生き方しか知らないでいたから、滅びつつある一族のなか、祖先のような真っ白い髪と耳、そして尾をもつルシフェルは酷く、大切に育てられてきた。傍目からは過保護に、窮屈に育てられたルシフェルはそろそろ頃合いかと、家を飛び出て、引き寄せられるように町へと降り立つと、サンダルフォンを見つけ出したのだ。真冬で、灰色の空からはちらちらと雪が降っていた。ルシフェルは薄着で、呆然と立ち尽くしていた。サンダルフォンは驚いていたが、ルシフェルはもっと、驚いていた。まさか、本当にいるとは、思わなかったのだ。サンダルフォンという確信はなかった。ただ、いてもたってもいられなくなったのだ。以来、二人で暮らしている。狭いコミュニティで暮らしていたルシフェルであったがそれは、元天司長という長年の役割で培われた、あるいは備えられていたカリスマ性ともいうべきリーターシップを発揮して、何事も無く社会コミュニティにも溶け込んでいた。
 すっかり故郷の存在も、自らのルーツも忘れていたが、怯えている子犬を見て、思い出す。仕方のないことであった。
 総てのエルーンが、動物に対して刺激を与えるわけではない。ただ、ルシフェルが宿す狼としての所以は、先祖返りも相俟って、産まれたばかりの子犬にとっては計り知れないストレスとなっているのだろう。脅威として、産まれて僅かであっても、本能的に威嚇をしているのだ。ここで、母犬に隠れないあたり、この子犬たちは番犬に向いているなと、ルシフェルはキャンキャンと鳴いている子犬を見て困りながらも冷静に思っていた。

 ルシフェルに慣れている母犬は、子犬を宥めている。それでも子犬は鳴くのをやめないから、異変を感じたパン屋の夫妻が顔をのぞかせた。
「どうしたのかしら、いつもは鳴かないのに」と不思議そうにしている姿を見てから、立ち去る。
「悪いことをしてしまったね」
「ルシフェルさまは何もしてないでしょう? パンは、また今度にしましょう。それにしても、機嫌が悪かったのでしょうか?」
「そういう日もあるさ。さて、次はどうしようか」
 サンダルフォンはそういえばと、空腹を感じ取る。起きてからというもの、食事を摂っていない。太陽は真上で輝いでいる。昼時だ。まだまだ、一日は、長い。

Title:約30の嘘
2021/09/18
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