ピリオド

  • since 12/06/19
 歴代最年少で、とある文学賞を受賞したルシフェルは今や新作を出せば売れるヒットメイカーである。そんなルシフェルのお気に入りがサンダルフォンという俳優であることは、世間では常識のように知れ渡っている。処女作から、最新作まで。映像化された作品においてサンダルフォンは必ず出演している。監督や脚本家が変わっても、サンダルフォンだけは、ルシフェルからの直接指名がされる。サンダルフォンは、なぜルシフェルに気に入られているのか、わからない。
 撮影の際や、打ち合わせに、何度か顔を合わせたことがある。サンダルフォンは幼い頃から役者をしているだけあって、美しいと言われる顔たちを見慣れている。それでも、ルシフェルは、とびっきりに美しい顔立ちをしていて、なぜ作家なのだろうと思ってしまう。加えて、人を惹きつける。口にすることはないが、勿体ないと、思ってしまう。それ以上に、なぜ、ルシフェルが自分を指名するのか、わからないでいた。
 とある撮影終わりに、サンダルフォンの成人祝いを兼ねた身内だけのパーティーにルシフェルが現れた。サンダルフォンはぎょっとした。周囲はそりゃ当然という雰囲気であった。ルシフェルは感慨深そうに、サンダルフォンが産まれた年のワインを持参していた。
「実はね、子役時代なのだけれどきみのことをテレビで見た事があるんだ」
 サンダルフォンという本日の主役をそっちのけで、どんちゃんさわぎをする大人を尻目にルシフェルは秘密を打ち明けるように、こっそりと、耳打ちをした。サンダルフォンは目をぱちくりとさせる。子役時代。サンダルフォンは、確かに芸歴だけならばそこそこに長い。なんせ、生まれて数か月の頃、ベビー用品の広告が初仕事である。今でも実家には、広告が大事にラミネート加工されて保管されている。むず痒い気持ちになる。それから、細々と活動は続けていたものの、大きな仕事はなかった。所属していた芸能事務所のなかでも、舞台部門に所属していた。舞台でも、大きな役はない。テレビに出たといっても、サンダルフォンの記憶にある限りでは何度かエキストラとして、名前どころかセリフも無い、カットに入っていれば御の字という仕事があった。そのことを、いっているのだろうか。ルシフェルは微苦笑を浮かべて、ワインを口にする。大人の仕草だなと、サンダルフォンはその仕草をつい、勉強してしまう。成人をしたといっても、サンダルフォンの容姿はまだまだ若い。今、オファーが来ている役どころも学生ばかりである。おそらく、あと十数年は、学生の役ばかりなのだろうとマネージャーとも冗談めかして、話していた。業界では、仕方のないこととはいえ、イメージが優先される。サンダルフォンの今のイメージを作り出したのは、他でもない、誰でもない、今、目の前にいるルシフェルに、他ならない。
「テレビでって……でも、エキストラだったでしょう?」
「そうだった。役名も、セリフも無い。けれども、私には主役以上に、輝いて見えた。それこそきっと、私はあの日から、きみに恋をしているんだ」
「……口説かれています?」
「口説かれてくれるのかい?」
 サンダルフォンは困ってしまう。ルシフェルは何を考えているのか分からない様子で、ワインを口にして笑みを浮かべている。口にした言葉とは裏腹な、清廉な微笑にサンダルフォンは戸惑い、ルシフェルに倣うようにワインを口にした。酸っぱくて、苦い、眉間に皺が寄るが分かる。隣では、ルシフェルが可笑しそうに、清廉さの薄れた苦笑を浮かべている。なんだか悔しくて、ワインをもう一口、飲んだ。やはり、まだ、美味しさは分からない。

 不満気なサンダルフォンを隣にルシフェルは満足な気分であると同時に、虚しさを覚えていた。サンダルフォンを世間に認知させたのは、ルシフェルの作品であると傲慢ながらも事実であるから、胸を張って言える。
 子役から、一時学業優先のために活動を休止していたサンダルフォンが、活動を再開すると知るなり、ルシフェルは自らの作品を映画化する企画を進めた。それまで、何があっても拒否をしていた企画の第一条件は、サンダルフォンの起用であった。そしてその配役までも指定をした。配役に関して難色を示されたときには、脚本を書き換えてまでも、サンダルフォンの起用に躍起になっていた。ルシフェルの熱意を知らぬサンダルフォンは、復帰早々に、思いもよらぬチャンスを得てしまっていた。それは、喜ばしいと思えるものではない。サンダルフォンは自分を客観的に評価していた。
 ルシフェルは、知らない人なんていないのではないかと言われるほどの有名な作家である。そんな人の、映像作品、それもルシフェルはこれまで映像化をすべて断ってきたのだから、初めての映像化である。そんな、名誉ある、注目される作品に、自分が携われると、喜ぶことが、サンダルフォンには出来ないでいた。荷が重すぎる。有名俳優や話題のアイドルが出演者として並ぶ中、サンダルフォンの名前がぽつんと不自然で、悪質な、コラージュに思えた。居た堪れなさと羞恥で、芸能活動を再開したことを後悔した。それは、今でも続いている。サンダルフォンは、引退するつもりであったのだ。元々、芸能活動に興味はなかった。目立ちたいだとか、憧れのひとがいる、だなんていう情熱もなかったのだ。それでも、芸防活動再開なんてことをしたのは口さがない言い方をしてしまえば自由に遊ぶ金欲しさであった。舞台に立つことも、エキストラも、幼いサンダルフォンにとっては簡単なことであったし、それだけで報酬を得ることができる。もっとも、年齢が上がるにつれて舞台もエキストラも、苛烈な抽選が繰り広げられるものだから、早々に退所を考えているところであった。その程度に、未練はない。
 元々、両親の意向で事務所に所属をしていた。生まれたとき、体が弱かったのだ。なにか、思い出を作ってあげたいという両親の願いにより、事務所に所属をして、細々と赤ちゃんモデルとしての仕事をしていた。そのうちに、年齢が上がるにつれて体も丈夫になって、本来の目的はすっかり達成されていた。あとは、サンダルフォンの気持ち次第であったのだ。そんな中での、ルシフェルの指名であり、そこから数年の付き合いになる。
「次の作品なのだけれど──」
「もうきまっているんですか?」
「まだ発表段階ではないけれどね。ぜひ、きみにも出演してほしいんだ」
 ルシフェルは断わられるわけがない、というように言葉を掛ける。サンダルフォンは曖昧な微笑を浮かべるしかない。
 ルシフェルの作品は、決して詰まらないわけではない。ただ、サンダルフォンに宛がわれる役はいつだって、同じ路線だった。主人公の相棒。純真で、無垢。爽やかな青年といった具合。勿論、作中の役割は違うものの、テイストは変わらない。それが、最近、なんだか詰まらない。

 曖昧に濁して、飲み会は解散した。まだ飲み足りないという知人は二次会へ、サンダルフォンはひとり、自宅へ。ルシフェルは二次会に参加することなく、帰ったようだった。
 タクシーに乗り込んだサンダルフォンは、一息ついた。運転手に行き先を告げる。真夜中。街灯が通り過ぎていく。繁華街を抜けて、そろそろ自宅のあるマンションにつく。サンダルフォンはぼんやりと考える。
「このままで、いいのだろうか」
 成人をして、考えが変わった。
 サンダルフォンと言う役者は、決して、良い役者ではない。演技は、下手ではない。けれども、上手でもない。ルシフェルの作品にはベテランの俳優が多数出演している。その中に放り込まれると、違和感を与えるほどに、浮いている。その様は、見る人が見れば、どころではない。誰が見ても、明らかなのだ。
──なぜ、サンダルフォンが起用されるのか。
──どうせ、枕でしょう?
 なんて、巷では囁かれていることを、サンダルフォンは知っている。
 枕なんて、したことないのにと怒りが湧いた。だが、それ以上に、言われても仕方ないと思う程のお粗末な役者であることも、理解していた。
 ルシフェルに気に入られていることは、役者として、有難いことなのだ。オーディションの合否を気に掛けることなく、安定したスケジュールが組まれることは、役者にとって恵まれている。だというのに、不遜にもサンダルフォンは、抗いたくなる。押しつけられたレッテルを、剥がしてやりたくなる。
 マンションの前についたサンダルフォンは、オートロックを解除する。エレベーターで自宅フロアまで上がり、部屋に入ると、どさりと倒れ込む。アルコールが回ったのか、気持ちが悪くなった。あるいは、元より乗り物に弱い体質である。その二つがサンダルフォンの体内にて、最悪な化学反応を、起したようだった。口元を抑える。気分が悪いものの、込み上がるものはない。サンダルフォンはゆっくりと呼吸を繰り返してから、立ち上がり、壁にもたれるようにしてキッチンへと向かうと、コップに水を注ぐと飲み干した。冷たさが心地よい。すっきりとした気分になる。
「あまり、飲まないほうが良いだろう」と強く、自戒する。
 吐き気も収まり、ソファに座る。そして、ローテーブルに広げていた封筒を手に取った。事務所に送られたものである。送り主は、以前、ルシフェルの作品で監督を務めていた男だ。中身を見て、少しだけ、驚いた。オーディションの案内だった。なぜ、自分にと疑問に思ってしまう。あの演技を見ていたはずだ。監督は、眉間に皺を寄せていた。なのに、なぜと不思議でならない。それも、よりにもよってというべきか、原作は、ベリアルである。
 ベリアルというのは、ルシフェルと同期の作家である。ルシフェルとの関係はライバル、というようなものではない。作風が、あまりにも異なっている。比較をされることもない。ルシフェルが大衆向けの、万人受けする作品に対して、ベリアルの作品はとことん人を選ぶ。実体験なのかと思わせるほどのリアリティ溢れる残酷描写や陰惨な情景に、はまるひとはとことんはまる、アンダーグラウンドな作風である。はまらない人は、とことんはまらない。サンダルフォンは、後者である。ベリアルの作品は手に取ったものの、最後まで読み切ることができなかった。精神的に、苦しくなって、断念せざるをえなかった。文章だけで、ここまでの嫌悪感を与えるのは、一種の才能であると、サンダルフォンは感じた。だというのに、サンダルフォンはオーディションを受けていた。

 厳正な審査により勝ち得た役柄に、サンダルフォンは顔を引きつりながらも、高揚とした気持ちであった。多分、ここが、役者としての分かれ目になる。どこか、予感めいたものを感じた。
 手にした台本は、初めて出演したときの台本よりも重みも、輝きも違った気がする。
 台本を読み込み、吐き気を抑える。
 この作品は、はたして日の目を見ることができるのか、規制が掛けられるのではないかと、不安になる。陰惨な、作品である。
 陰鬱な作品に対して、その作者であるベリアルは軽薄な青年だった。撮影現場を見学しに来たベリアルはサンダルフォンを見るなり、「ルシフェルのお気に入りだろ?」とのたまう。サンダルフォンはむっとした。
「ああ、そうだ! 言っておくけど、きみがルシフェルのお気に入りだからって選ばれたわけじゃないよ? そこは勘違いしないでくれ。あの監督はそこまで依怙贔屓じゃないからね」ベリアルのいう監督は、難しい顔をして撮影したばかりのシーンを見返している。
 完成した作品は、年齢制限が設けられるほどに過激で、劇場での公開を見送られる問題作だった。その作品内で、見事に、サンダルフォンは演じ切って見せた。その姿を、ルシフェルは試写会で見た。
 大画面を見上げ、ほぞをかんだ。
 サンダルフォンの役柄は、それまでになかったものだった。残酷。残虐。冷酷。陰湿。悪辣。凄惨。極悪非道な悪人。救いの欠片もない極悪人を、見事に、演じ切ってみせた。
 見ているだけで、鳥肌立った。怪演。凄まじく、引き込まれる。恐怖を感じる。知らないサンダルフォンが、そこにいた。ルシフェルはただ、拳を握りしめて、目につけつけていた。
──悔しい、苦しい。
 それは、己の不甲斐無さであった。サンダルフォンから、引き出したかった。残虐さも、悪辣も、ルシフェルの手で。
 けれど、なかったのだ。ルシフェルにとって、サンダルフォンは、清らかで、無垢で、正しい存在であったのだ。その中に、一欠片も、負の側面は感じられなかったのだ。
 敗北を、叩きつけられた。
「──彼、思った以上に化けたね。いや、ほんとうに、予想外だったよ」真剣に口にしたのは、原作者であるベリアルだった。
「そうだな」
 ルシフェルは何でもない風にいいながら、視線が、画面に向けられていた。
 返り血を浴びたサンダルフォンが台詞を口にしている。人を、小ばかにした笑い。サンダルフォンに見下され、拳を握りしめた。掌に爪が、ささった。

 サンダルフォンは、ルシフェルと専属契約をしているわけではない。だから、契約違反ではない。だというのに、サンダルフォンはルシフェルを裏切ってしまったかのような罪悪感と、それから、同時に清々しい気持ちで、いっぱいになっていた。やってやったぞ、と誰かに言いふらしたくなるような誇らしさ。満足感。けれども、言い知れぬ不安が、付きまとう。
 作品は、サンダルフォンの怪演が話題を呼んだ。その過激な内容ながらも、特集を組まれるようになると劇場への問い合わせが増えて、公開する劇場が徐々にと増えて行った。
 改めて、サンダルフォンは評価をされた。それまでの清純で穏やかを絵に描いたような好青年から一転した役柄は、サンダルフォンのイメージをすっかり、覆した。
 サンダルフォンとしては、嬉しいだけな気もちではない。正当な評価を有難く思いながらも、残虐で残酷な役柄は演じていて、ひどく、心を消耗するものだった。本質は、サンダルフォン自身は認めないものの、ルシフェルが描く、純真で無垢なものであるのだ。けれども評価されるのは、求められるのは残酷なイメージである。ベリアルの作品を切っ掛けにして、サンダルフォンのもとにオファーが来るようになった。その役柄は、どれも、似たり寄ったりな、いわば、狂った役柄である。苦笑を零す。刑事シリーズの犯人役や、実は裏で手を引いていた黒幕、なんてものを演じた。
 ルシフェル原作の作品での指名も、変わらないままであった。サンダルフォンは、不思議に思った。なんせ、彼がいうような役柄とは正反対のイメージが付きまとっている。世間のイメージとしては、サンダルフォンは極悪人であるのだ。
 サンダルフォンは撮影が総て完了した現場を後にして、事務所へと向かう。
 話し合いは、難航していた。

 ルシフェルは報道を見て、呆然と、珈琲を片手に立ち尽くしていた。あけ放っていた窓からは、小鳥のさえずりが聞こえるものの、意識だけは遠く、飛んでいた。
 サンダルフォンが、無期限の活動休止を発表した。
 理由は──心身の不調のため。
 あちこちの作品に引っ張りだこになっていたサンダルフォンが、体調を崩すことは目に見えていたのだ。ルシフェルは、途方もない消失感を抱きながら、ソファに凭れ掛かる。手にしていた珈琲の存在を思い出したときには、すっかり、冷え切っていた。
 頭が真っ白になるものの、体にしみついたルーティーンはそのままであったように、気付けば机に向かっていた。そして、文章が出来上がっていた。無意識のそれは、ルシフェルの内面をそのままに文章化されている。苦いものが込み上がる。それでも、ルシフェルの戸惑いも苦悩も、喪失感も無視をして、締め切りというものは迫って来るのだ。気分が乗らない。何も思いつかない。今までの作家活動の中で、初めての感覚であった。これは、所謂スランプというもの、なのかもしれない。今まで、書けないということがなかったルシフェルにとっては、ただただ、戸惑いしかなかった。
 ルシフェルは、行き当たりばったりなわけではない。数本のストックは用意をしている。連載に関しては既に出来上がっている状態である。だから、焦ることはない。今のルシフェルの気がかりは、サンダルフォンだった。
 サンダルフォンとの関係は、原作者と、俳優でしかない。そのサンダルフォンが俳優を辞めてしまうとなると、もはや、ただの他人でしかないのだ。今は、休止であるものの、サンダルフォンの状態は、いつ、引退と言いだしても、可笑しくはない。今までも、そういった役者を見て来た。ルシフェルは、ただ、途方に暮れていた。

 活動休止を発表したサンダルフォンは肩の荷が下りた気持ちで、のびのびと、暮らしていた。休止直前までは、そこそこに番組に出演していたものの、サンダルフォンはそこまで芸能人オーラというものを纏っていない。眼鏡をかけていれば、大抵、気付かれないものだ。それに、昨今では他人に関してそこまで注視する者は少ない。サンダルフォンは運ばれてきた珈琲を手に取り啜る。ほろ苦さが口に広がると、安心感を覚える。
 窓際の席に通されたのは、そこがすっかり、サンダルフォンの定位置であるからだった。役者活動をしていたときには、気分が良い時、逆にあまりにも乗らない時には、この席で台本を読み込んでいた。
 その喫茶店は、サンダルフォンの秘密の、隠れ家だった。老夫婦にとって、サンダルフォンは役者ではなく、珈琲が好きな青年でしかない。孫のように、可愛がられている。こそばゆく、嬉しい。押しつけない好意が、心地よい。
 社長との話し合いを思い出すと、頭が痛くなる。丁度、売れだした頃合いであったことに加えて、サンダルフォンはルシフェルからの指名もあったから、事務所としては休んでほしくはなかったのだ。それも、殆ど、サンダルフォンの身勝手である。医師の診断もない状態であったが、サンダルフォンにとっては限界であったのだ。
 これからの予定としては、サンダルフォンはアルバイトをするつもりだ。圧倒的に人生経験が少ないことが、サンダルフォンのコンプレックスだった。接客業でも、裏方でも、なんでも、とにかく、してみたかった。役者に戻るかは、まだ、決めていない。ただ、なんとなく、戻らないような予感があった。
 窓を見ていると、ふと見覚えのある姿が通り過ぎようとしていた。印象深い、プラチナブロンド。けれど、こんな街中でなら、別人だ。そうそう、知り合いとすれ違うことはない。そう思っていたのに、視線に気づいたらしい青年が振り向いた。磁石のように、まっすぐに視線がぱちりと合った。やはり、ルシフェルであった。サンダルフォンはなんとなく、気まずさを覚える。ルシフェルは少し迷ったようにしてから、喫茶店のほうへと向かう。どうしようかと迷う隙も無く、いらっしゃいませと声が掛かった。ルシフェルが、入店をしたようだった。
「知り合いが奥にいるのだが」と言うなり、サンダルフォンの方へと向かってくる。サンダルフォンは疚しい事なんてなにもないのに、居た堪れなくなった。
「久しぶり、だね」
 前の席に座ったルシフェルが、おずおずと、様子を見るように切り出した。会ったのは、休止前、撮影の最中だった。その時には声を掛けられることもなかった。そもそもルシフェルは殆ど監督や脚本と打ち合わせをするだけであった。わざわざ役者に声を掛けることはなかったのだ。会話らしい会話というものは、成人祝いのあの日であったかもしれないと、今更になって、思い出す。
「お元気でしたか?」
「そう、だな。変わりないよ。きみは?」
「おれは、まあ……」サンダルフォンは、曖昧に誤魔化す。だって心身の不調のために活動休止と公表しているのだ。ルシフェルが吹聴するとは思っていないものの、なんとなく、素直に言えないでいた。ルシフェルはそうか、と言って運ばれてきた珈琲を口にした。口にすると、顔がほころんでいる。サンダルフォンは、嬉しくなる。本当は秘密なのだが、仕方ないという気持ちと、当然だという気持ちが、混ぜこぜになっていた。
「ここの珈琲、おれのお気に入りなんです」
「ああ、わかるな……。私も、気に入ってしまったよ」
 でしょう! と言わんばかりのサンダルフォンの笑みにルシフェルは心臓を打ち抜かれたような衝撃を受ける。得意気なサンダルフォンはやはり、極悪さも非道さの欠片もなく、純真で無垢そのものであった。ルシフェルの理想が、目の前にいるのだ。

Title:sprinklamp,
2021/09/08
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