ピリオド

  • since 12/06/19
 消毒液の匂いが充満した空間は、それだけで非日常を感じさせる。機械音声が番号を読み上げている。ゆっくりと、明確な発音のあとに数個の席を置いた場所でのっそりと立ち上がる気配があった。
 サンダルフォンは手元の番号を確認すれば、呼び出しまでまだ少し時間がかかるようだった。飲み物でも買ってこようかと隣でシャンと背筋を伸ばしている姿に声を掛けようとした。ところで、「こんにちは、ルシフェルさん」と声が割り込む。サンダルフォンは言葉を呑みこんだ。
 声の主は、はきはきと若々しい看護師である。ルシフェルはこんにちは、と返した。サンダルフォンは小さく頭を下げる。にこりと笑みが向けられた。労わるような表情は覚えがあり、同時に途方もなく無意識な悪意はサンダルフォンの柔らかな心臓をぐさぐさと刺しとおす。その場から離れたくなる。
「今日はお孫さんといっしょなんですね」と看護師がにこにこ顔でいう。
 活舌良く大きな声は、アナウンスや呼び出し待ちで人々がごった返す中だというのにサンダルフォンの耳朶には鮮明に響いた。ひゅっと喉が柔らかに締め付けられたような息苦しさ。隣ではルシフェルが不機嫌に眉をひそめる。サンダルフォンは不機嫌よりも、悲しくなっていた。嫌味ではない。ただ見たままのことを口にしたに過ぎない。世間話。その程度。その雰囲気に違います、とサンダルフォンは言えなかった。
 疚しさではない。ちらりも恥ずかしいことではない。ただただ、遣る瀬無い。
 サンダルフォンが「はい」と応える前に「いいえ」とルシフェルがきっぱりと否定をしていた。看護師が何かを言う前に、
「彼は私の恋人です」と言い切る。看護師がぎょっと目を丸くしてから、サンダルフォンとルシフェルを見比べた。サンダルフォンは居心地悪くなって膝の上においていた手をもぞり、とさせる。サンダルフォンを安心させるように、ルシフェルが手に触れた。すっかり細く骨ばり、かさかさと乾いている。揃いの指輪が輝いていた。
 看護師は謝ろうとしたのか、それともお節介であったのか、何かを言おうとしたが丁度、番号が読み上げられる。
「呼ばれましたね」とサンダルフォンが声を掛ければルシフェルはそうかと抑揚に頷いた。サンダルフォンはルシフェルを支えるようにして立ち上がると、看護師に会釈をしてその隣を過ぎ去る。
 定期健診だった。
 問診と前回の検査と合わせて医者からは「異常ありません、健康そのものです」と太鼓判を貰う。サンダルフォンはほっと胸をなでおろした。気を付けるとしたら……と医者の言葉をしっかりと記憶する。
 診察室を出ると、先ほどの看護師が遠巻きに見ていた。探り入れるような視線は慣れているとはいえ気分が良いものではない。ルシフェルが眉間に皺を寄せているから、サンダルフォンは大丈夫だというように笑って見せた。
 支払いと次回の予約をする。
 それから病院を後にして、車を走らせる。ルシフェルはサンダルフォンの運転する姿を見ながら、うとうとと微睡みに身を委ねていた。サンダルフォンはすっかり静まり返った車内で、ミラー越しにルシフェルの姿を見る。安心しきった姿がたまらなく愛しくて、そして、眠る姿に切ない気持ちが、込み上がる。
 20分程車を走らせると閑静な住宅街、と表現される通りに入る。居並ぶ家々はどこも風格がある。サンダルフォンは一つの家の前に静かに車を停めた。
「着きましたよ」と声をかけてから、肩を小さく揺する。ルシフェルはぼんやりとした様子であったが、「ああ、眠っていたのか。すまない」と謝った。車から降りようとして、一瞬だけよろけたルシフェルにひやりと肝を冷やす。心臓の早鐘が煩い。掌に汗が噴き出た。「大丈夫だよ、問題はないよ」とルシフェルがいうものの、サンダルフォンは自身の顔が青ざめているのが分かってしまう。
 リビングに辿り着くと、ルシフェルはすっかり疲れた様子でソファに座り目を瞑ると小さく、細い息を吐き出した。
 同年代に較べると健康だと医者からも評価されている。自身でも不調を感じることはなく、血圧などの数値も正常値である。定期的な健康診断や人間ドックに怠ることはない。しかし、老いはどうしようもなかった。
 最近では、眠る時間が長くなった。
 不意に、まどろむ時間が増えている。
 目を覚ます。その度にサンダルフォンが一瞬泣き出しそうな顔をしてからほっとした表情を浮かべている。その胸中は、穏やかではない。このまま眠ったまま、もう目覚めないのではないかと不安と心配でいっぱいになる。
 何事もなく、このまま時間を重ねていけば、先にさよならをするのはルシフェルである。自然の摂理として、当然の順番であるのだ。その順番は不幸が起きないかぎり、覆ることはない。
 ルシフェルとサンダルフォンには、およそ50年の隔たりがある。
 並んでいれば祖父と孫、あるいは親子。もしくはヘルパーと利用者と思われる。それが、仕方のないことだと分かっていながら、否定をするのはルシフェルの意地であった。
 老いぼれの耄碌だとか呆けたのかとか、騙されているのだとか言われても、それだけはルシフェルは譲ることができない。
 
 サンダルフォンと再会をしたのは、5年前のことである。既に高齢と括られる年齢であったルシフェルであったが、サンダルフォンを捜し続けていた。そのための資金繰りの心算であった会社経営は、どういう訳か規模が拡大していき、世界経済にも影響を及ぼす巨大企業になっていた。引退をするにも後進が見つからずに、徒に時間ばかりが過ぎ去っていく中で、講演会を開いて欲しいと招かれた大学にサンダルフォンがいたのだ。
 一目その姿を認識して、ルシフェルはサンダルフォンが、サンダルフォンはルシフェルが、求めていたその人であると理解をした。言葉は不要だった。
 講演は大盛況に終わるなか、ルシフェルが声を掛けたのはサンダルフォンだけである。そのほかには目もくれない。天司である頃からの無自覚の、悪癖である。サンダルフォンは悪癖なんて知らないものだから、この人の優しさは変わらないのだと安堵していた。
「ルシフェルさまはすっかり有名人ですね」とサンダルフォンが言った。
「有難い事なのだろうが……」
「でも、そのお陰で見つけることができました。ちょっと、大変でしたけどね」
 サンダルフォンは苦笑してみせた。
 有名人であるルシフェルと少しでも御近づきになろうと、躍起になっていたのは教授だけではなく、当然就職という進路を考えている学生も同じであったのだ。サンダルフォンはどうにか案内係の一人として、ポジションをゲットした。
 ルシフェルが贔屓している個人経営の小さなレストランの個室で、二人、再会を喜び合ってから、5年が経つ。
 その間に、ルシフェルは臆病になった。
 サンダルフォンは記憶にある姿よりも、大人になっている。当然だった。ルシフェルが作ったサンダルフォンは年若い姿をしていた。その姿よりも年を経ている。その分だけ艶やかな色を感じた。その色に焦がれている。ルシフェルだけではない。勘違いではない。サンダルフォンは、魅力的になっていく。対して、ルシフェルは衰えるばかりであった。
 年齢を理由に、経営者という立場を退き、相談役を辞した。ルシフェルにはなんの肩書きもない。ただの孤独な老人でしかない。
「長い間、お疲れさまでした」サンダルフォンは労わるような微笑とも苦笑ともつかない表情を浮かべながら、花束を手渡した。
 節目の度に、使われているレストランには思い出ばかりが詰まっている。サンダルフォンとの再会も、サンダルフォンの卒業祝いや就職祝いも全てこの場であった。
「ルシフェルさまにこの言葉を掛けるだなんて、思いもしなかったな」
「そう、だな。明確な区切りがあると、戸惑ってしまう」
「……これからはどう過ごされるご予定なんですか?」
 かつての別れを思い出し、息苦しさを拭うようにサンダルフォンが努めて明るく声を掛けた。
 ルシフェルは十余年も時間が無いのに対してサンダルフォンには未来がある。近い未来、ルシフェルはサンダルフォンの隣にいない。それが、ルシフェルにとって何よりも許し難くあった。サンダルフォンの隣にいる自分以外のすべてが、許せなくなる。そこは本来、私の居場所なのだと世界に宣言したくなる。
 ルシフェルはサンダルフォンを見詰める。
 大人びたといっても、顔つきは変わらない。愛らしく、そして信頼を預けられている目に語り掛ける。
「これからは、ただの命として、君と共に生きたいと思っている」
 サンダルフォンが顔を強張らせる。
 今際の言葉を、忘れることはない。気が遠くなる歳月を生きて、そして人として生まれても魂に刻まれているのだ。だからこそ、胸が張り裂けそうなほどに痛み、息を忘れる。カナンの神殿での、記憶が呼び起こされた。
「最期まで共にあってほしい」
「一緒に、いっては、ならないのですか?」
 サンダルフォンが泣き笑いを浮かべる。
 サンダルフォンもまた、覚悟をしていた。近い将来に訪れるルシフェルとのさようならから、目をそむけることができないでいた。その時、サンダルフォンはルシフェルと共にあろうと、さようならをするつもりであったのだ。
 天司としての役割もなければ、空の世界を見守るという使命もない。
 ただの命でしかない。
 ルシフェルに殉ずるならばサンダルフォンにとっての本望だった。この世界に思い残すことなんて、何一つない。
「……もっと遅くに産まれていたなら、良かったのだろうと後悔をする」
「俺はもっと早くに産まれていたかった。あなたと同じ時間を生きたかった」
 サンダルフォンはすっかり泣いていた。
「きみの美しい人生の十年を、私に貰えないか」
「全部は、いりませんか?」
「本当は欲しいのだけどね」
 ルシフェルは苦笑して言った。

 夕飯を終えて、風呂に入りさて眠ろうかとベッドに入ったルシフェルはふと三年前のことを、昨日のように思い出した。
 サンダルフォンが共に暮らすようになってから三年が経つ。穏やかに、平穏な暮らしを送りながらもルシフェルは己の中に醜い、嫉妬に狂った存在を許していた。許す以外に、何もできない。
 サンダルフォンは日々美しくなる。贔屓目ではない。声を掛けられている光景を何度も目にする。その度、ルシフェルは酷い嫉妬を覚える。サンダルフォンは、私ものだと口にする。その度に哀れむような眼を向けられる。心底、老いた身体が憎々しくなる。何より、残された時間に虚しさを覚える。あるいは、サンダルフォンを哀れな老人にすり寄る極悪人の如く扱われる。怒り心頭に、震える。サンダルフォンは困ったように仕方ないですよと言うだけである。
 自分たちが如何に真剣であろうとも、周囲にはその真剣さを理解されない。どれほどの熱量があったとしても、ただの茶番として、面白おかしくネタにされるにすぎない。
 ルシフェルは二人だけで生きて行けたら、どれだけ良いだろうと夢想する。
 二人だけであれば、サンダルフォンに不埒な視線が向けられることはない。老人を強請る極悪人と揶揄することもない。口さがない世間からの批判にさらされることはない。老いらくの恋と馬鹿にされることはない。いい年をして、情けない恥を知れと知ったかぶって糾弾されることはない。詮無いことを、考える。
「電気を消しますね」
 隣で、もぞもぞと動く気配のあとに、ぴっと小さな電子音がなる。頭上の照明が落ちた。足元だけが仄かに明るい。慣れてしまえば、隣の表情も、よくわかる。
 年老いた身体を疎ましく思っている癖、ここぞという時だけ狡猾に、主張する。どうせあと数年もすれば私はいなくなる。捨てるならいっそ1つで良いだろうとキングサイズのベッドを1つ買った。並んで眠りたかった。ただの、我儘。いつになっても男としてのどうしようもない、欲望だった。サンダルフォンは参った様子で、仕方なさそうにしていた。
 サンダルフォンは、本当は、嫌だった。並んで眠るのが当たり前になるのが、いつか、将来に、一人で眠るたびに、あなたがいないことを思い知らされるのが、恐ろしかった。だけど、ルシフェルがそれを主張してしまうと、言えない。ずるいとしか、言えなかった。
 サンダルフォンは何度か枕の位置を整えると、おさまりの良い場所を見つけたように眠る姿勢に入った。サンダルフォンが眠るには、まだ、早い。いつもルシフェルの寝息が聞こえるまで、起きている。サンダルフォンの足に、かさりとルシフェルの足が触れた。冷たく、乾燥をしている。痛くはないだろうか、保湿用のクリームはあっただろうかと、場所を思い出しながら視線を感じて、そちらをむく。ルシフェルが起きていた。少しだけ、驚く。いつも、電気が消えるとすっと眠る。その眠りに落ちる様子が、怖いくらいだった。
「ひどいことを言うよ、サンダルフォン」とルシフェルは言葉とは裏腹に穏やかに言う。サンダルフォンは目をぱちぱちとさせてから、怖がって見せる。
「なんですか? ……こわいなぁ」口にしてみて、わざとらしさにサンダルフォンは笑ってしまって、ルシフェルはふふふと笑った。さて本題と言うように、ルシフェルが口を開いた。
「私が死んでも、誰とも添い遂げないと約束をしてくれ」
 サンダルフォンは目を丸くしてルシフェルを見れば、ルシフェルは真剣そのものであった。揶揄いでもなければ、冗談でもない。サンダルフォンはどうしてそんなことを言うのか分からないでいた。
「どうして、そんな──……」
 ルシフェルは矢張り困らせたと口にしてから申し訳なく思う。けれども、口にして約束をしたかった。安心を得たかった。自分本位。サンダルフォンに孤独を押し付ける。老人を言い訳にしてばかり。これは、ルシフェルがずるいだけだ。サンダルフォンを独り占めしたいルシフェルの我儘だ。
 きょとりとしている視線がおそろしくなったルシフェルに耳朶に柔らかな声が響く。
「──……当たり前のことを?」
 サンダルフォンは困ったように続けた。
 当然のことすぎて、困ってしまう。
 必然すぎて、反応が出来ない。
 サンダルフォンは今までルシフェル以外に想いを募らせたこともなければ、焦がれたこともない。それこそ、ルシフェルが許さないから、約束をしたから後を追わないだけである。もしも約束もなく口にもしなければ、サンダルフォンは後を追う。
 それほどまでに、ルシフェルの存在は当たり前であり生きる意味であるのだ。
「そう、か」
 ルシフェルは自分で言っておきながら、あっさりと受け入れるサンダルフォンに毒気を抜かれる。そして、心配になる。
「良いのかい?」
「良いも何も……それ以外となると、俺、嫌ですよ。ルシフェルさま以外に触れられるのも、何もかも。名前を呼ばれるのも、ルシフェルさまだけがいいんですから」
 サンダルフォンはあっけらかんと言って見せる。ルシフェルを安心させようというつもりもなく、ただの、本心である。
「それよりも」
 サンダルフォンは声を張り詰めた。
「二度と、死んだらなんてこと、言わないでくださいね」
 その声は先ほどの気丈っぷりが嘘のようにひどく、落ち込んでいた。
「すまない、サンダルフォン」
 ルシフェルはサンダルフォンをそっと抱き寄せる。サンダルフォンはルシフェルの肩口に額を押し当てた。しっとりと、肩が濡れる。嗚咽。しゃくりあげる声。人でなしにも程がある。愛しい人が泣いている姿に、優越感を抱いている。慰めながら、惜しまれていることが心地よい。サンダルフォンは永遠に自分のものだと確信を得る。けれど、サンダルフォンを抱き寄せる皺枯れた手も頼りない腕も、もどかしかった。

Title:エナメル
2021/08/31
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