ピリオド

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 ぽたりと滴り落ちる感覚。じんわりと汗ばんだ体が一瞬だけひやりとする。その時、サンダルフォンは朦朧とした意識のなか「この御方も汗をかくのか」と思ったのだ。「サンダルフォン」と熱っぽい声が呼びかける音が耳朶に蘇る。その音を思い出すと、背筋がぞわりと震える。触れられる感覚を、思い出す。溜め込んだ熱が苦しくて、それから、きっとだらしなく溶け切った顔を晒していた。それが嫌で顔を背けると咎めるみたいにキスが降る。啄むように優しく降る口づけから逃れる術を、サンダルフォンは知らないでいた。
 寝る前に寝台で沈むとき、ふと思い出す。そして、赤面をする。行為に対する羞恥なのか、当然みたいに受け容れていた自分に対してなのか、あるいはすべてまるっとなのか、もだもだと行く先の分からない感情がサンダルフォンの中であふれ出して寝台の上でごろごろともんどりうつしかない。
 サンダルフォンは知らなかったのだ。疑問にも抱くことは無かった。その行為は特別なのだと、気付くこともなかった。
 枕に顔を押しつけて叫びだしたくなる衝動を抑えつける。寝台の上でごろごろと暴れるだけ暴れてサンダルフォンは少しだけ落ち着きを取り戻した頃に思うのだ。
──そもそも、ルシフェルさまは行為の意味を知っていたのだろうか……。
 進化を司るだけあって、なのか知的好奇心が旺盛な御方である。
 今となっては確認することは出来ない疑問であるのだ。だというのに奇跡と偶然が重なってルシフェルは隣で珈琲を飲んでいる。
 首に傷跡があるわけでもなく、記憶が欠けることもなく、ただ天司長の力がないだけであるルシフェルは、サンダルフォンが乗るならばと特異点率いる騎空団に加わった。「私はもう天司長ではない」というけれど、その存在感は圧倒的であったから特異点や青の少女を除けばおっかなびっくりと接している。
 サンダルフォンは夢心地で、現実なのか自身の妄想なのか分からないほどに混乱をしていた。夢であったならば、幻覚であったならば覚めてほしくはないと思う程の幸福が、現実であると認識したときには幸福以上の戸惑いを覚えたのだ。いっそ夢や幻覚、妄想の類であるならばと認識しているときのほうがルシフェルに対して素直に接することが出来たくらいである。現実だと思い知らされると、どのように接していたのか、サンダルフォンは思い出せず、それが自身ですら呆れるくらいに他所他所しく映る。ルシフェルはただ、微笑を浮かべてその様子を見ているだけだった。
 甲板の掃除当番をしていたルリアと団長に、サンダルフォンは取り置きしていたクッキーを差し出す。バニラとココアのアイスクッキーを美味しいと頬張る姿は嫌いではない。もぐもぐとクッキーを食べていたルリアがちょっとだけ声を潜める。
「ルシフェルさん、また見てますね」とルリアがサンダルフォンに声を掛けた。その手には砂糖と牛乳たっぷりの珈琲牛乳が握られている。サンダルフォンはそうだなと言いながら視線をさ迷わせる。特異点はルリアと同じく甘さだけで珈琲の要素が掻き消えた珈琲牛乳で口にしかけた言葉を流し込んだ。
 サンダルフォンはルシフェルを避けていた。
 どういった話をすれば良いのか分からず、そして託された天司長としての務めも果たしきれていない現状、会わす顔が無い。それは都合の良い言い訳である。自身でも分かっていた。傲慢ではなく、御優しいルシフェルさまのことだ。サンダルフォンを責め立てることはない。わかり切っている。ただ、サンダルフォンがルシフェルを前にすると湧き上がる感情でいっぱいいっぱいになって、そして行為の意味を口にしなければと思うものの、恥ずかしさで口籠ってしまって、逃げ出してしまう。
 サンダルフォンは自室で項垂れる。
 こんこんと懐かしいノック音が響いた。サンダルフォンは無意識に「今開けます」と声を掛けて扉に駆け寄る。一瞬のうちに2000年の時は消え去り、その意識は研究所に戻っていた。扉を開ければ、ルシフェルが困ったような、怒ったような混ぜこぜの顔で、立っている。ああ、やってしまったなとサンダルフォンは思い返す。だって、自分の部屋を訪れる人はルシフェル以外にいないのだ。それに、扉をノックする音は聞き分けられる。間違えるはずがない。けれどルシフェルは理由にはなっていない、確認をしなさいというのだ。そのやり取りを何度繰り返したのか、分からない。そして思い出す。ここは研究所ではない。ここは、騎空艇だ。
「ルシフェルさま! あ……」
 意識が連れ戻される。
 ルシフェルはとりなすように、苦笑を零していた。
「珈琲を淹れたのだが、どうだろうか」
 気まずい気持ちはある。けれど態々淹れて持ち寄ってくれたものを断ることも、サンダルフォンには出来ない。サンダルフォンはどうぞ、と部屋に招いた。
 サンダルフォンの部屋は他の団員の部屋と変わらない。ただ持ち物の多くは珈琲に特化しており、そのほとんどは空き室を改装した喫茶室にあるものだから、騎空団に加入してから
それなりの歳月を経ているものの部屋に物は少ない。だから散らかるということはないというのに、サンダルフォンは汚くはないよなと招いてから心配になる。
 ルシフェルは物珍しそうにサンダルフォンの部屋を見てから、きまずそうにしているサンダルフォンに視線を落とした。それからカップを差し出す。カップからは湯気が立ちこめている。珈琲の芳ばしい香りに、サンダルフォンは知らず、強張っていた表情を和らげる。
 書き物をするための机と椅子、それからチェストと寝台だけの部屋である。サンダルフォンは自分が寝台に座ればよいだろうと思ったのだが、気付けばルシフェルは隣に座っている。肩を並べられたらといつかの夏の夜、海辺で思ったものの、頭から抜け落ちていた。
 二人分の重みに、寝台がギシと鈍い音を立てた。
──嫌でも思い出してしまう。
 何も知らない、思い出していないと装って、手渡された珈琲を口にすれば気が緩んでしまう。やはり、この珈琲が好きだ。ルシフェルが淹れてくれた珈琲が、たまらなく好きだ。ふいに視線を感じて顔を上げた。
──これは、ダメだ。
 熱っぽい視線には覚えがある。否が応でも、再びかつての安寧と慈しまれていた何も知らずルシフェルの優しさに追い縋っていた過去に連れ戻される。けれど、とどまる。
「だめ、ですよ」
 サンダルフォンの声は一瞬、上擦り、震えた。ルシフェルは何も言わないまま、なぜというように首を傾げる。
「アレは、あの行為は、ダメなんです」
 ルシフェルの澄んだ蒼を見つめることがおそろしくなって、サンダルフォンは逃げるようにカップに視線を落とした。半分ほど残っている珈琲が頼りなく、揺れた。
「きみは、不快であったのか」
「不快ではないのですけれど……」
「ならば何が問題だと?」
「そういう問題ではないのです」
「ならばどういった問題が?」
「だって、あの行為は、……その、」
 尻すぼみになる。気恥ずかしく、気まずい。ルシフェルは言葉の続きを待っている。促すこともなく、呆れた様子でもない。サンダルフォンは意を決するしか、ない。
「繁殖行動の、模倣でしょう?」
 言ってしまったと、サンダルフォンは消え入りたくなる。サンダルフォンの言葉を耳にしたルシフェルはきょとん、としてから、耳まで真っ赤なサンダルフォンを見て、ついというようにふき出す。サンダルフォンは情けない顔で、恨むような、責めるような視線でルシフェルを見上げた。それほどまでに追い詰めていたのかと、ルシフェルは「すまない」とちっとも心の籠っていない言葉を掛ける。それでも耐え切れないといったように、抑え切れない様子でくぐもった笑い声が漏れていた。サンダルフォンは何が可笑しいのだろうと、不安に戸惑いルシフェルを見上げるしかない。
「きみはどうやら、誤解をしている」
「誤解、ですか」
「確かにあの行為は一般的には繁殖のために用いるものであるが、そもそも私たちはそういった摂理から離れた存在だ。あの行為で繁殖をすることはない」
「ですから、無意味でしょう」
「無意味ではないよ」
 何を言っているのだろうと首を傾げるサンダルフォンは稚い。この子はどこまでも無垢なのだとルシフェルは思い知らされる。そして同時に無垢であるサンダルフォンに触れたのは私だけなのだと、確信を得る。
「繁殖以外にも意味がある。愛を確かめる行為だ。サンダルフォン、これは私の伝達ミスだ。きみに伝えきれていなかった──私は、きみを愛している」
 愛している。
 口にされた言葉が耳朶に触れる。そして脳内で繰り返された。ややあってから呑みこむ。他人事のように、そうかルシフェルさまはきみを愛しているのか。と理解する。そして愛されている幸せなきみは、誰のことだろうかと羨む。きみ。今この場にいる、愛を囁かれているきみ。それは、二人きりであるこの場において、今、慈しむように見つめられている自分に他ならない。サンダルフォンに、他ならない。
 ぽん、と弾けるようにサンダルフォンの顔が真っ赤に染め上がる。わなわなと口を震わせて、何かを口にしようとして噤んで俯いた。
 ルシフェルはサンダルフォンが手にしていたカップを取り上げる。縋っていたカップがなくなって、サンダルフォンは狼狽えるも、伸びた手を振り払うことが出来ない。ルシフェルさまと、咎めるように待って欲しいと願って呼びかけた声は、裏腹に熱がこもっていた。
 寝台がぎしりと軋んだ。

Title:エナメル
2021/08/24
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