ピリオド

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 所長室には部屋の主ひとりであった。一瞬ばかり、違和感を覚えたベリアルはそういえば天司長が帰還していたんだったかと思い出す。命じられた視察という名のスカウトを終わらせたベリアルは、カリカリとペン先を走らせる音を耳にしながら、ふと声を掛けた。
「ファーさんって不能」と言いかけたベリアルの顔面すれすれの真横にペンが飛んだ。鋭利なペン先を、おっとと言いながらベリアルは壁に突き刺さりかねんところを難なくキャッチする。投げてきたのは当然ながら目の前で書類を裁いていた御方である。ベリアルがペンをキャッチしたことに不満に、すっかり不機嫌な創造主であった。
「いやあ、勿論わかってるさ。ファーさんのファーさんは御立派で元気だってことを俺はちゃあんと、知ってるよ。だけどさぁ、サンディがねえ……」
 言いながらベリアルは勿体つける。言って良いものか、なんて思わせぶりに続きを誤魔化してみせた。
 サンディ──サンダルフォン。その名前を出されると、ルシファーが不機嫌どころか、なぜアレの名前を出すのかと怪訝な顔をしてしまう。サンダルフォンといえば、天司長ルシフェルにより作られ、研究所責任者であるルシファーによって存在を秘匿された天司である。といってもルシフェルの溺愛により半ば公然とした状態で研究所内では存在を認識されている。そんなサンダルフォンはどういうわけかルシファーのお気に入りとしても認識をされている。
 ルシフェルが研究所に帰還をする頻度は増えたといっても、結局は天司長としての責務を優先するために、顔を見せるだけということも多々ある。「いってらっしゃいませ」と笑みで見送ったあと、ぽつんと一人のサンダルフォンを見かけてはルシファーはいても経ってもいられなくなって、サンダルフォンに声を掛けて自らの仕事を手伝わせた。──この時点で気に掛けているに他ならないというのに、頑なに認めない創造主にベリアルはちょっとだけ真剣に、「マジか……」とそりゃあルシフェルもああだわと納得をしたのだ。なんせサンダルフォンの役割を考えればルシファーが気に掛けるのは「廃棄」か「計画の捨て駒として利用できるか」である。だというのにどちらも抜け落ちているようにそわそわと気に掛けているのだ。
 ルシファーはただ、しょぼくれた顔よりも、未だ、戸惑っている顔の方がマシであると思っただけである。その時点で普段の思考回路とはずいぶんと剥離しているのだが本人は無自覚であり、ルシファーに対してわざわざ普段では考えられない振る舞いだと申し上げる麾下も居らず、ベリアルに至っては面白半分で観察をしているだけであった。
 そんなことを何十何百と重ねていくうちに、サンダルフォンはアレで単純であり、優しさに不慣れでほだされやすいから、ルシファーさまは気遣ってくれているのかと思うようになり、それまでの苦手意識を和らげていた。そうなると困惑や戸惑いなんて表情よりもルシフェルと共にいるときのように、穏やかな表情を浮かべるようになって、今度はルシファーがほだされる。なんだ、こいつ。結構可愛いな。なんて思うようになったときには既にサンダルフォンという沼に引きずりこまれているのだ。手遅れであった。ルシファーの研究者として合理性を求めた思考回路において重大なバグが生じた。サンダルフォンという天司として存在する意味である役割を果たすこともなく、計画においても無価値な存在を廃棄するという選択は掻き消えていた。
 こうして、サンダルフォンはルシファーのお気に入りとなっていた。
 サンダルフォンの創造主であり最もサンダルフォンを溺愛しているルシフェルとしては、この状況は面白くないのではないかとベリアルは思っていたのだが、ルシフェルときたら友と安寧と慈しんでいる存在の仲が良いなら私も嬉しいと心底に喜んでいる様子でちっとも妬みだとか嫉みだとかを感じていないのだから、けっと詰まらなくなる。ちょっとした修羅場を期待していたのだ。なんせ研究所ときたら大変に詰まらない平穏で退屈な毎日である。ルシファーの終末計画もまだまだ実行には遠い。そんな時にサンダルフォンと話をするチャンスに恵まれた。独占欲の激しいルシファーが最高評議会の呼び出しを受けてサンダルフォンが一人になったのだ。
 ルシファーから何かを言われたのか、サンダルフォンは警戒なのか、不安なのか余所余所しく、ベリアルから距離を取る。そんな取って食ったりしないさと思いながらふと、場を和ませるような、ちょっとした揶揄いとベリアル流の冗句を口にした。
「昨夜はお楽しみだったかい?」
「は?」
 それは照れ隠しではなかった。サンダルフォンは本当に、理解できておらず、意味が分からないで聞き返していたのだ。ベリアルは箱入りだしなあとちょっとだけ呆れながらも説明をすれば、今度は怪訝にベリアルを心配したように言うのだ。
 ルシファーのお気に入りであり、そして私室にすら招かれていることは周知されていた。無臭である天司のサンダルフォンからは薬品の臭いがする。そしてその薬品の臭いと全く同じローブを羽織っているのはルシファーである。もうこれで察しない方がはずかしいくらいにイチャイチャを見せつけられている。けれど誰もそれを口にしない。ならばいい機会じゃないかと口にしたのがベリアルである。
 説明をするうちにサンダルフォンときたらいよいよ不審な表情を浮かべる。
「セックス?……性行為なんて必要ないだろ。俺たちは天司で、繁殖も出来ないんだから。ルシファーさまは無駄を嫌うだろ」
 ベリアルはおやおやおや……と口角が上がるのを感じた。
「ええとそれはつまり……きみとファーさんは清く正しい、性行為なんてしたことのない関係だっていうことかい?」
「当然だろ」
 何を言っているんだかとベリアルこそが可笑しいと言わんばかりのサンダルフォンにベリアルはもう辛抱堪らんとふき出して腹を抱えて笑い転げる。げらげらと笑う声は分厚い扉越しにも廊下に響き、偶然廊下を通ることになった下位の天司や研究者はぞっとした気持ちになりながら気配を押し殺して立ち去っていた。
 そんなことがあったのだから、ベリアルとしては心酔してやまないルシファーのためにとひと肌脱ごうと思った次第である。──すべてまるっと面白おかしく退屈しのぎに茶化そうとしているわけではないのだ。
 ベリアルの言葉にルシファーは苦い虫を噛んだかのような苦悶を浮かべる。
 創造主であるからこそベリアルの真意は透けて見える。鬱陶しいったらない。不愉快である。
「……暇なら──」命令をすればベリアルはうんざりとした顔で肩をすくめて部屋を出る。ほんの少しだけ胸がすいたような気持ちで、手元の書類に目を通す。
 性欲が無いわけではない。生理現象でしかないと放置をしていればいつの間にか消え去っていたものだ。研究に集中をすれば忘れていた。だというのに、もやもやと残りつづけている。原因は分かっている。サンダルフォンである。ルシファーが有用性だとか実益だとかを除いて可愛がっている存在である。なんせ自らが作ったわけでもないというのに、ルシファーさまとすっかり信頼しきった様子で声を掛けてくる姿は、媚び諂った、あるいは戦々恐々とした震えた声音で呼びかけられることが多いルシファーにとっては新鮮であったし、悪くはない気持ちだった。
 関わるものといえばルシファーかルシフェルといった具合で完結をする世界で生きているサンダルフォンは世間知らずといえば聞こえは良いが無知である。普段のルシファーならばその無知につけ込むか、あるいは馬鹿にして世界の真実なんてものを押し付けるのだが、サンダルフォンに関してはそのままで、綺麗なままで、とすら思ってしまうのだ。なにより、ルシファーを躊躇させるのは「ルシファーさま」とすっかり警戒心を無くして無防備を晒す姿の呼びかけを永遠に失われる危険性である。
 寝室に呼びだしたのは、まあ、そういうつもりであったのだ。ルシファーなりに努めて優しく触れるつもりであったというのに、本当に眠るだけで終わってしまった。
 寝具が乱れることなく寝間着のままであった。そういった雰囲気にさせない、サンダルフォンなりの処世術なのかと疑ったが、サンダルフォンにはその意図はない。傷一つない柔肌を指先でなぞれば擽ったそうに声をくぐもらせてはっとしたように「検査ですか?」と口にされた。呆気に取られて思わず首肯した。なぜ首肯したのかわからない。真夜中にする意味も理由もない。検査を終えたときには夜は明けようとしていた。部屋に戻すこともなく、二人狭くはないものの広くもないベッドで隣り合って、数時間だけ微睡んだ。
 ルシファーが目を覚ませば隣には寝息を立てるサンダルフォンがいた。サンダルフォンは初めて、睡眠行動をとったようだった。
「眠るって、不思議な感覚ですね」
 寝起きでぼんやりとしながら感想を口にしたサンダルフォンに「まあ、初めては初めてか」と納得をしてみせる。
 知らないならば教えれば良いのだと思って性教育をしたところで「人の営み」とサンダルフォンの中でカテゴライズされている。自身がその対象であるとは思ってもいない。
 サンダルフォンにとって夜はルシファーの部屋で眠る、という行為が日常の一部となって、ルシファーはすっかり、生殺しである。
 まったくお手上げであった。
 どうして俺が悩まなければならんのだという強気とは裏腹に、裏切られたと絶望をして怯え切った表情のサンダルフォンを想像すれば、強硬手段はとれない。命令なんてもっての外である。
 書類の文字列を視線でなぞるだけで、いつまでたっても解決策が浮かぶことが無い。難題である。
 浮かび上がる案を否定してと繰り返すうちにこつんこつんというヒール音が耳朶に触れた。耳聡く、我ながらと口元に苦笑を浮かべて、書類に目を通すふりをする。暫くした後、ノック音が響いた。
「入れ」と声をかける。
「ルシファーさま、戻りました」とサンダルフォンが顔をのぞかせた。目が合うなり、にこりと笑みが向けられる。今は、サンダルフォンの戻る場所であることに満足をするしかないようだった。
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