ピリオド

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 浮気をされて、別れた。
 久々に会うことになって、虫の知らせのようなざわざわとした違和感があった。サンダルフォンはこのざわめきに覚えがあった、知らないふりをして、待ち合わせ場所に赴いた。待ち合わせ場所には既に男がいた。恋人である。仕事が忙しいということで、会うのは久々だった。待ち合わせの時間よりも前だったが待たせたかのかと慌てると、早く着き過ぎだのだと言われる。その表情に、覚悟を決めた。喫茶店は肌寒いくらいに冷房が効いていた。珈琲を注文して、待っている間。切り出された。すまないと、申し訳なさそうに言う男に対して嫌悪感だとか、怒りだとか憎悪だとかいう感情は、一切湧くことはなかった。「──わかった。お幸せに」と告げた別れの言葉に、一切の恨み妬みはなかった。心から、思ったのだ。
 男は項垂れて、仕方なさそうに、笑って言った。
「やっぱり、きみは私のことを欲しいわけではないんだね」
 その瞬間に、サンダルフォンは加害者になっていた。男は去っていった。サンダルフォンは喫茶店の一席で独り、呆然としていた。お待ちどおさまですと注文した珈琲は水気が多く、味が殆どしなかった。
 からんとグラスの中で氷が割れた。汗をかいたグラスを手に取り、飲み干す。きんと冷たい癖、喉を焼くように熱い。呆れた様子の顔見知りのマスターが水を差しだす。サンダルフォンはまだまだ飲み足りない気分だった。
「お代わり」
「ほどほどにしなさいね」
 呆れたマスターがカクテルを差し出す。アルコール度数が低いとはいえ、既に6杯を飲み終えている。そのうえ、サンダルフォンはアルコールに強くはない。つんと吊り上がった眦はとろりと溶けて、頬を紅潮させすっかり出来上がっている。別れ話をした喫茶店を出てから、そのまま馴染みのバーへと顔を出してから延々とカクテルと時折マスターが気を利かせて紛れ込ませる水を交互に呑んでいた。
「まったく男運悪いわね」
「べつに悪い人じゃないんだ」
「浮気をされたのに?」
「浮気、なのはこっちかもしれないし」
 サンダルフォンは差し出されたカクテルをまたぐっと飲み干した。マスターはすっかり呆れている。サンダルフォンも、呆れていた。何より、誰より自分に対してだった。
 浮気をされた被害者、なのだろう。同時に、男に捨てられた可哀想な女なのだろう。けれど、サンダルフォンはそのどちらにもなり切れていないのだ。
 被害者だというけれど傷ついていない──いつだって傷ついているのは浮気をした男である。あるいは女である。
 捨てられたというのに悲しくはない──いつだって哀しんでいるのは捨てた男である。もしくは女である。
 一時は自分は男性に対して好意を抱けないのかと同性とも付き合ってみたが、結果は同じであった。
 好意を抱かれるのは嬉しく思うのだ。だけど、サンダルフォンは同じものをかえす事が出来ない。何もないのだ。申し訳なさだけで、その申し訳なさを好意で上書きをして返している。けれど、いつだって見破られる。そして、いつだって結果は同じなのだ。
 サンダルフォンは飲み干したグラスをカウンターに置くと、項垂れ、突っ伏した。冷たいカウンター机が気持ちよかった。
「今度こそと思ったんだけどな」
 穏やかな、年上の男性だった。職場で知り合った。サンダルフォンのことを、大事にしてくれた。年下だからといって甘やかすわけでもない。かといって子ども扱いというわけでもない。何より、趣味が合った。珈琲が好きだというサンダルフォンを馬鹿にするわけでもなく、一緒に喫茶店巡りをしてくれた。彼と過ごす時間は穏やかで落ち着いた。だけど、それだけだった。サンダルフォンは彼が与えてくれる好意と同じものを抱けなかった。好ましくは思える。それだけだった。それだけは、分かる。サンダルフォンは知っている。それは愛ではなかった。燃えるような、焦がれるような、すべてを壊して滅ぼしたくなるような情熱的で退廃的な、愛ではなかった。それを、見透かされた。
 浮気をされて、当然だと思った。
 捨てられて、仕方ないと思った。
 だってサンダルフォンは追い縋る程の執着を持っていなかった。
「いっしょう、ひとりなんだ」
「もうまだ若いのに、何を言っているの」
「だっていっつもこうだ。いっつもすてられる」
 筋骨隆々とした男性だと認識しているのにマスターの柔らかな女性口調に違和感を抱くことがない。寧ろ寄り添ってくれるその性質が有難くあり、サンダルフォンはぽつりぽつりと弱音を零す。誰に言うわけでもなく、言える相手もおらずにしまいこんでいた嘆きだった。
 キイと扉が開いた。マスターが「いらっしゃいませ、あら」と声を掛けているのをサンダルフォンは突っ伏したまま聞いていた。マスターの反応を察するに、常連であるらしい。けれど、その声にサンダルフォンは覚えはない。だというのに、知っていた。どこで聞いたのだろうと、思い出そうと記憶をひっくり返すも、アルコールが入ってふわふわ過ぎて、ぼんやりとする。
──いつものを。
──わかったわ。
──ところで……彼女は大丈夫なのか?
──やけ酒で落ちたところよ。
──そうか……
──それにしても久しぶりね。
──ああ、向こうでの仕事が終わって戻って来た。
 マスターと、誰かの話をサンダルフォンはぼんやりと聞いていた。落ち着く声だった。その声を聞くと、胸の奥底から感情が湧き出る。憶えていた。知っている。思い出す。これだ、と納得をする。それは愛しさだった。いてもたってもいられなくなって、名前を呼びかけたくなる。その人ためにすべてを差し出したくなって、そして、その人だけで良いのだと信じて止まない。盲目的な小さな世界から、飛び立っても、世界を見ても、広げても、変わることのなかった、唯一無二の愛である。
 顔をあげる。マスターが気分はどう、と声を掛けてくれているのを理解していながら、サンダルフォンは知らないはずの男に目を奪われていた。
 やはり、記憶にない男である。これだけ美しい人であったら、忘れるはずがない。だというのに、サンダルフォンはその人を知っていた。優しくて誰よりも残酷な人だ。それでいて、どうしても、憎むことが出来なかった人だ。
「……どうかしたのかい?」
 男は穏やかに問いかける。サンダルフォンは首を振る。その拍子に、ほろりと眦から零れて頬を伝っていた。泣いていた。理由は分からない。飲み過ぎたのかもしれない。酔っているのだろうか。サンダルフォンは戸惑いながら、マスターが差し出すナプキンで涙をふき取る。困ったことに、涙はとまることを忘れたように溢れている。
「気分が悪いのかい?」
「ちがうんです」
 おかしい。こんなはずじゃなかった。この人に会うときは、笑っていなければならないのに。なのにサンダルフォンの心は歓喜に充ちていた。心配をしてくれたことが、嬉しくて、たまらない。自分を、サンダルフォンを見てくれることがたまらない。それだけで、サンダルフォンでいられる。世界で、生きていられる。生きていることが、許される。本来なら、許されない。けれどこの人が許してしまうから、生きていられた。なのに、分からない。忘れたくなかった。知っている。なのに覚えていない。それが、悔しくてどこにぶつけて良いのか分からない怒りが沸き起こる。
 感情がごうごうと、嵐のように吹き荒れていた。サンダルフォンは訳の分からなさに戸惑っている。男も戸惑っていた。
 見覚えのない女性だ。恐らく、仕事のために海外へ行っていた間にこの店の常連となったのだろう。マスターが親し気に世話を焼いている。その姿に違和を覚えた。それどころか、女性の姿が、ルシフェルにとっては不思議でならなかった。シックなワンピースを着ている。似合っていないわけじゃない。けれど、彼は自分が見立てた鎧をまとっていた。敏捷性を失わないようにと見立てた軽鎧──鎧? 自分で考えておきながら思わず、はっとする。なぜ鎧なんてと、ファンタジーでもあるまいしと思いながらもルシフェルには否定することが出来なかった。ぼんやりと描くことしか出来ない。輪郭も朧気だった。
 会った記憶がないのに覚えのある彼女に、ルシフェルは泣いて欲しくなかった。笑っていてほしかった。帰る場所であったのだ。それだけで、ルシフェルは安寧を得ていた。
「名前を、」
 ルシフェルは声を掛けていた。声を上げることもなく、ただ涙を止めようとしている彼女が顔をあげる。その拍子にまた涙がこぼれていた。場にそぐわない言葉を掛けようとしていると自覚がったのに、止められなかった。
「名前を聞いてもよいだろうか」
「サンダルフォン」
 マスターが何か言いたげに止めようとしたところ、サンダルフォンが名乗る。サンダルフォン。ルシフェルが繰り返す。ああ、やはり覚えている。知っている。なのに、思い出せない。ただ名前を呼ぶだけで、こんなにも胸が躍るというのに、こんなにも心が温かくなるというのに、どうしても、思い出せない。
「あなたは?」
「ルシフェル」
 ルシフェル、さま。とサンダルフォンが言った。ルシフェルは苦笑する。
「私はもう、さまと付けられる立場ではないよ」
 言ってきながらはてと、ルシフェルもサンダルフォンも顔を見合わせた。さま、と付けられたことに違和感を覚えていなかった。きっとその立場であったなら、何も思わず当たり前と思っていた。戸惑う。その立場とはなんだ。戸惑いながらも不快ではないことが不思議であった。
「おかしなことを言うかもしれないけれど、君とは初めて会った気がしない」
「俺も、そう思います。ずっと昔に会ったように思うんです」
 サンダルフォンは口にしてから「俺」なんて一人称に驚いた。男みたいだ。一度として使ったことがない一人称はするりと、口に馴染んだ。ルシフェルは当然みたいに突っ込んだりはしない。訝しがることはない。だって彼女は、サンダルフォンは「俺」と言うのだ。
 置いてけぼりのマスターが「もうなんなのよ」と声をかけても説明が出来ずに、二人は笑うしかなかった。それは、新たに始まる出会いに相応しい、素晴らしい夜のことだった。

Title:誰花
2021/08/13
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