「おかえりなさい」と久々に出した声はかすれていた。
「……起こしたか」
サンダルフォンはゆるりと首を振れば、ルシファーはむっとしたように柳眉を寄せた。いつまでたってもルシファーの機敏が理解できないサンダルフォンは、困惑と戸惑いを浮かべて見上げるしかできない。
サンダルフォンが寝台から身体を起こす。といっても上体だけがやっとだった。背中に枕を置いて、体を起こしたサンダルフォンをルシファーは見下ろす。
「体調に変化は」
「かわりません」
良い事なのか、悪い事なのか分からない現状維持だった。
元々地獄に落ちる予定のなかった清廉かつ無垢な魂であるサンダルフォンにとって、地獄という空間はあまりにも相性が悪かった。淡水魚は海水では生きていけない。だというのにルシファーはその道理を無理でこじ開けてしまった。ルシファーにはそれだけの権利があったのだ。そのルシファーにしても、一部分とはいえ環境を変えたというのにサンダルフォンが地獄に適応化できないことは予想外であった。
サンダルフォンが暮らすことの一室だけは地獄のなかでも飛び切りに澄んでいる。それこそ下級の悪魔が入室すれば一瞬で雲散霧消するほどに清らかであるのだ。そ
「土産だ」
投げ出された花束に、サンダルフォンは「わぁ」と声をあげてしまう。すうと吸い込めば、白い花からは甘い香りがした。ほんの少しだけ、サンダルフォンの顔色に生気が戻る。
「ありがとうございます……きれい……それに、良い香り……」
目を瞑り白い花に顔をうずめたサンダルフォンの言葉にルシファーは優しい笑みを浮かべていたのを、サンダルフォンは知らない。
「何かあれば外には麾下をつけている」
「……うん」
淋しいと言いそうになったのを耐えて、サンダルフォンはルシファーを見送った。言っても困らせるだけだということを、サンダルフォンは知っている。
そう言って去ってしまうルシファーに、サンダルフォンは今日も問いかけることが出来なかったなと一人残された部屋で、自身の情けなさにやる背なさを感じてしまう。
花を抱きしめたサンダルフォンは、体がほんの少し楽になったのを感じると同時に、少しだけ心に余裕が生まれる。
地獄という地において時間という概念は曖昧だ。この地において常にグロッキーで寝た切りなサンダルフォンであるから、寝て起きてを数えたところで意味はなかった。だけど、短くはない時間を過ごしている。
人間であった頃のことは鮮明に思い出すことができる。敬愛してやまない養父のことを忘れずにいられることは、ひとりぼっちで過ごすしか出来ない現状においてサンダルフォンが唯一、安心を得られる手段だった。
──お父様は、元気だろうか。
引き取ってもらった恩を返しきることは出来なかった。娘として振る舞えなかった。結局、最期まで男のような──とてもではないが淑女らしい振る舞いではなかった。養父はサンダルフォンらしいと言って咎めなかった。だけど周囲は良い顔をしなかった。どうにか頑張ったけれど、結局はこのままだ。何より、裏切ってしまった。
ルシファーに言われたことは正しい。
「お前の自己満足だ」
自己満足以外の、何物でもない。心優しい養父のことだから、きっとサンダルフォンの決断を、選択を嘆くだろう。自分はそんなことを望んではいなかったと怒るかもしれない。終ぞ、彼に怒られたことはなかったことをふと思い出す。養父はサンダルフォンが悪いことをすれば、悲しんだ。
最期に見たのは血みどろの養父だった。
嫌だと、思った。死んでほしくないと、こんなところで死ぬ人ではないと、サンダルフォンは思ったのだ。だから死神であるルシファーと取引をしたのだ。迎えに来たというルシファーに「この人は連れて行かないで」と頼み込んで、ルシファーは呆れた様子だったがふと考えた素振りをみせると、持ちかけてきたのだ。
「お前は天国逝きだったが……地獄に落ちるならば良いだろう」
そして交わされた契約により、サンダルフォンは死んだ。
だから、サンダルフォンはルシファーに感謝をしているし恩神だと思っている。サンダルフォンは想像していた地獄というのは血なまぐさく、どこからともなく悲鳴が聞こえてくるような赤黒い世界だった。しかしサンダルフォンが堕ちた地獄は多少の息苦しさは覚えるものの、想像とは反して優しい世界だ。それでも地獄で、この部屋はルシファーの屋敷の一室であるから安全なのだという。窓からはいつだって爽やかな青と風にそよぐ木々の緑がうつる。本当に地獄なのかと不思議に思う程に穏やかだ。何より、分かり辛いとはいえ無理を持ちこんで困らせた相手に対して、地獄の主であり神であるルシファーは優しい。まさか、すべてルシファーの企みだなんて露とも思っていない。
部屋を出たルシファーは扉に術を施す。地獄の主たるルシファーの気配を隠すことのない術式には、寧ろルシファーのものだと知ってちょっかいをかけんとするものを駆逐する役割がある。無論、その程度の輩に破られるようなものではない。倍返しどころか手を掛けんとしたものは漏れなく後悔をする代物である。
──またやってるよ。なんてルシファーの行動を見ていた麾下は思ったものの口が裂けても言えやしない。ルシファーは麾下の思考なんてその辺の埃と変わらない認識であり、彼にとっての本意は部屋で花束を抱えていた彼女だけである。
顔色が以前に比べたら少しだけ良くなっていたなと、ルシファーは爛れた掌を摩りながら思い浮かべた。生気で溢れた花は、地獄の主たるルシファーの身を焦がす。それでも求めて止まない。
元より死ぬ運命だったのはサンダルフォンである。あの場に居合わせた、養父だという男はしぶとい。だというのに勘違いをして神であるルシファーに契約を持ちかけたのだ。その無謀さは、永く生きたルシファーにとって愉快ですらあった。
死にかけどころか、死ぬ運命しか取り残されていない命だというのに請うのだ。自分ではない。血も繋がっていない男の命を──その姿があまりにも愉快でならず、なにより眩しくてたまらず、ルシファーは手を伸ばしてしまった。
疑うことを知らないサンダルフォンは、その手を取った。
地獄の主とはいえ、生者の死後に関してルシファーは与することが出来ない。ルシファーが与するのは地獄に送られたものの管理と、死に纏わることだ。だからこその契約を取り付けたのだ。魂を地獄にと結び付けた。本来は地獄に落ちることのない魂であったがゆえに、地獄に馴染むことがないのは、ルシファーの予想外であったがそれでもサンダルフォンの魂は腐ることなく無垢なまま眩しいままに、あり続ける。あるいはすべてを知ったならば恨み憎み、腐り地獄に相応しくなるのかもしれない。
「嘘つき!」
信頼しきった瞳が憎悪に歪み、粛々と居心地悪そうな言葉を紡ぐ声が、ルシファーを糾弾する。絶望に落ちて、自分の言動全てに後悔を覚える。その瞬間を、ちらりと想像すればルシファーはほんの少しだけ楽しい気分になった。とはいえ、ルシファーとの契約だ。神との契約だ。覆すことは出来ないいしサンダルフォンの魂は地獄にあり続けるしかない。
アレは俺のものなのだとルシファーは堪らない気持ちになる。
広大な屋敷の外では赤黒い空と、それからどこからともなく悲鳴が聞こえた。全てサンダルフォンの部屋からは見られない。そのようにルシファーが施したのだ。サンダルフォンの部屋の窓からは青い空と豊かな緑しか映ることはない。いっそ本来の姿を見せてやったらと思いながら、どうして自分がそんな施しをしているのか、永く生きていても、分からなかった。
あれを絶望させたいと思いながら、あのままであり続けてほしいと思ってしまう。ただ養父とはいえ、いつまでもサンダルフォンの心に残り続けている男が邪魔でしかたない。あの男の存在によってサンダルフォンを手に入れたのだとはいえいい加減に、と思ってしまうのはルシファーが同族嫌悪してやまない神の傲慢さしからしむるところだった。